万端整える
「もう跳べる——」
俊也の復帰に合わせて、仁のマネージャーとしての初仕事が始まる。
記録会のスタートラインに立つまでの数日間、二人は何を見つけるのか。
何かいい匂いがして目が覚めた。
お母さんが卵がゆをお盆に乗せ、部屋まで持ってきてくれた。卵と出汁の匂いが食欲を掻き立てる。出来立てなのが、湯気の立ち具合から見てわかる。
「おはよう。調子はどう?熱は測った?」
お盆を机の上に置いた。
「・・・おはよ。めちゃくちゃ良い匂いする」
「質問の答えになってないんだけど・・・」
お母さんはしかめっ面で俺のおでこ、鼻、耳の順で触れた。
「熱はなさそうね・・・でも一応、体温計で測っておいて」
「わかった」
「あとそこにおかゆ置いといたから食べれるなら食べちゃって」
そう言ってお母さんは部屋を出て行った。
ベッドから体を起こすと、腹から大きい音が鳴った。びっくりして、おなかに手を当てる。昨日はあまり食欲がなく、ろくなものを食べていなかった。食べたものといえば、仁からもらったゼリーだけである。”気が利くやつだ”といつも思う。
「・・・クソ腹減った」
ベッドから出て椅子に腰を掛けた。お盆の上に置いてあるスプーンを手にとる。何故か、持ち手の部分が三毛猫の子供用スプーンであった。
「・・・子どもじゃねぇっての」
ボソッとつぶやいた。
とてつもなく腹が減っていたため、すぐに平らげてしまった。
―――全然足りない
思わずお盆を持って、階段を駆け下りた。
「もう食べたの?」
お母さんは驚いた顔をしている。
「うん、めちゃくちゃ腹減ってて秒で食い終わった」
「食欲が戻って何よりだけど、熱測ったの?」
「やべっ忘れてたわ」
「もう、よそっておくからその間に測って!」
ものすごく呆れた顔をしているようで、でもどこか安心したような、そんな顔をしていた。
今日はテレビをつけていないようだ。真っ暗のテレビに映る自分を見て、口角が少し上がっているのに気が付いた。
「体温計どこだっけ!」
キッチンにいるお母さんに向かって大きい声を出した。
「あなたの部屋だよ!」
同じく大きな声がキッチンのほうから響いてきた。喫茶店の店員として働いているときと、相反する声だ。仕事モードの時になぜあんなに落ち着いた声になるのか、毎回不思議に思う。そんなことを考えながら、階段を駆け上った。
『きっつ・・・』
階段の上り下りだけでも息が上がる。もう少しでインターハイだというのに、体調を崩してしまうなんてアスリート失格だ。
「あった」
体温計は机の上に置いてあった。食べるのに夢中すぎて、存在に気付かなかった。
体温計を左脇に挟み、音が鳴るまでベットの上に座って待つ。20秒ほど経った頃に音が鳴った。
〈36.5℃〉
平熱に戻った。体温計をしまい、また階段を駆け下りた。
「熱下がった!」
俺は大きな声で叫んだ。もちろん、返ってくるのはキッチンにいるお母さんの声だと思っていた。
「よかったな」
不意に聞き覚えのある低い声がした。
「え?」
振り向くと仁がニヤニヤしながら立っていた。
「なんで?!」
驚きを隠せず大きな声を出してしまった。
「一緒に学校行くぞ」
「いや、ほんとになんで来てんの?」
「さっきからめちゃくちゃ良い匂いするんだけど」
「おい」
「あら~来てくれたの?」
そう言いながらお母さんが卵がゆを持ってきた。
「仁君も食べてく?」
「食べたいです」
「おい、なんで来たのかまだ聞いてないんだけど・・・」
「あとで話すから早く食べようぜ」
「わかったよ・・・」
なぜか仁と朝食を食べることになり、食べているときもなぜうちに寄ったのか理由は話さなかった。それにして、前よりお母さんと仲良くなっている気がする。この空間がまるで一つの家族のようにも思えた。
「俊也早くいかなきゃ遅刻するぞ」
卵がゆを食べ終わり、学校へ行く支度をした。
「遅刻しそうなのはお前がゆっくり食べてたからだろ」
「だって、おいしいんだもん」
仁は上目遣いでこちらを見てくる。
「全然かわいくないからな。くだらないことやってないでとっとと行くぞ」
「かわいくないなんて失礼な」
「事実だろ」
店の中に三人の笑い声が響いた。
「くだらないこと言ってないでさっさと行きなさい」
「行ってきます」
二人の声が重なった。
—――何を話せばいいんだ。
「仁?お前何か言いたいことがあったんじゃないのかよ」
変な話題の切り出し方になってしまった。
「ああ、そのことなんだけどさ・・・俺、お前のマネージャーになるよ」
その言葉を聞いて、歩みを止めてしまった。自分から提案したことなのに、寂しさが一番最初に心に浮かんだ。
「本当か?」
「急に立ち止まってどうした?お前が提案してくれたことだろ?」
「わるいわるい」
また、歩みを進める。
仁は少しはにかみながら話し始めた。
「俺、お前にあの提案をされたとき、心が救われたんだ」
「なんか恥ずかしいな」
「本当だよ。ほかの種目に変えようかとも思った。けど、この競技、何をするにも足を使う。だから、選手として復帰できる可能性は、0だった。部活もやめようと思った。けど、お前があの時あの提案をしてくれたおかげで、この大好きな部活をやめずに済んで、お前との夢を違う角度で叶えさせることができると思ったんだ」
恥ずかしくて顔を伏せてしまった。仁の顔はあまり見えなかったが、何かまだ隠しているようなそんな感じがした。
―――こいつは夢を諦めようとはしていなかった。なのに俺はあの雨の日、ひどいことを言ってしまった。
そう思うと、心が錆び付いていく。
―――謝らなければ。
自転車のスタンドを下ろし頭を下げた。
「まだあのケンカしたこと謝ってなかったな。ひどいことを言ってごめん。あの時ちゃんとお前の相談に乗ればよかった」
仁は笑いながら胸の前で手を横に振る。
「いいんだよ。俺もお前の立場だったら同じことを言ってた。俺のほうこそ悪かった」
会話が途切れた時、いつの間にか学校の校門の前まで来ていることに気付いた。
「自転車おいてくるわ」
「おう」
そう言って仁とは別れた。自転車を置きながらさっきの会話を思い返した。
―――顔、ちゃんと見とくんだったな。
何かを隠していると思ったのは、なんとなくだ。ようするに、勘である。気にすることもないだろう。
その後、教室へと向かい、授業が始まる。退屈な時間が長く続いた。
放課後、部活の時間である。今日は仁と一緒に部活へと向かう。
部室へと入り、部活着へと着替える。その後、ミーティングが始まった。
「今日の練習メニューはあらかじめ部長がLINEに送った内容を各自行うように。あと追加で連絡が一つ。今週末、練習試合が行われることになり、そこに全員出場したいと思う」
練習試合という単語を聞いて、場の空気が少し重くなるのを感じる。
「これは、インターハイの記念大会でもあり公認のかかった試合でもある。インターハイに出場する、仁、俊也はそこで良い結果が残せるように調節をしていこう。それじゃぁ、今日も頑張っていきましょう!解散!」
みんなが各自の練習場所へと向かっていく中、俺ら二人はその場に残った。
「監督!コーチ!お話したいことがあります」
仁が話を切り出した。
「どうした?」
監督とコーチである米山先生は『待ってました』と言わんばかりの表情をしている。
「これからについてのことなんですが・・・俺、マネージャーになろうと思います」
「え?」
その言葉を聞いた二人は、目を丸くしていた。思っていた結論とはかけ離れた回答だったのだろう。
「俺はもう走れる足じゃありません。こんな状態で試合に出ても、監督の期待にこたえられるような走りは絶対にできません。なので、インターハイは辞退させていただき、これからは、俊也のサポートをしていきたいと考えています」
仁の目には決意と信念が宿っていた。
「いや、しかし・・・・・・」
かなり困惑しているのがよくわかる。難病であっても進行が遅い病であるため、まだ走れるはずである。医者からもそういわれたと本人から聞いた。そのため、最初にマネージャーになることを言われたときはかなり驚いた。インターハイまでは部活を続けると思っていたからだ。
しかし、仁が決めたことだ。俺が否定する義理はない。そう思い、深々と頭を下げた。
「俺からもお願いします」
「監督、この二人はきっと、たくさん悩んで、二人で出した結論なのでしょう。ここは、二人を尊重してあげるべきなのではないでしょうか。それに、あなたはこの二人の夢のことも知っているでしょ」
コーチも最初は驚いた顔をしていたが、仁の話したことを擁護した。
「インターハイまでは持たないのか?最後のインターハイだし出たいとも思わないのか?」
俺も気になっていた。インターハイまでのラスト一か月くらいならまだ持つはずである。
すると、仁はうつむいてしまった。
「実は・・・なぜか病の進行が速いんです。医者からは『進行が遅い病だから続けられる』そう言われました。だけど、もううまく動かないんです。今まで気のせいだと言い聞かせてきました。何度も何度も一人で走ろうとしました。でも、一度もうまく走れなかったんです・・・走れるどころか転んでしまう。もう自分には走れる力はないんです」
仁の目には涙が浮かんでいた。もう走れないだなんて初めて聞いた。きっと朝、隠していたことはこのことだったのだろう。空気が重くなり、監督が口を開くまでかなりの時間がたったように感じる。
「そうか・・・話してくれてありがとう。お前ら二人の夢のことは俺も知っている。わかった。お前は今日から俊也のマネージャーとしてしっかりサポートしてやってくれ」
「はい!ありがとうございます!」
仁は涙ながらに深々と頭を下げた。
「それじゃ練習に入ってくれ。いろいろ、伝えてくれてありがとう」
仁と俺の声が重なる。
「はい!」
高跳びの練習をしている場所へと向かう途中に仁に気になっていることを聞いた。
「お前、まだ走れるんじゃなかったのかよ」
「いや、俺もそう思ってたよ。でも、お前のお見舞いに行った帰り、あの河川敷に行って少し走ってみたんだ。まだ、選手として活動ができるのか知りたくてね。そしたら、まったく走れなくて。もう選手としては無理だって確信した。そこで、覚悟が決まったんだ。お前をサポートするって」
仁は何かが完全に吹っ切れたような顔をしていた。
「そういうことだったのか・・・なんでもっと早く言わなかったんだよ」
こいつは大事なことを言うタイミングがいつも遅い。
「お前めちゃくちゃ悲しむと思ってな。学校が終わった後に言おうと思ったんだよ。普段から授業を集中してないお前が、さらに集中しなくなると思ってな」
どこまでもお人好しな奴だ。
「ご気遣いいただきありがとうございます」
そんな返答に仁は思わず噴き出した。
今日の練習メニューは助走の練習と空中姿勢の練習である。俺は助走が圧倒的に苦手であるため、そこを重点的に練習していく。
「助走の走るスピードは速いほうがいいのか?」
仁は走高跳はあまりやったことがないため、まずは走高跳とは何なのかを知ろうとしているらしい。
「うん、助走は速いほうがいいって言われてる。助走で得た力を、踏切によって上昇力へと変換するんだけど、短距離みたく全力疾走すればいいっていうわけじゃないんだ」
「なんで」
「速度が大きすぎると踏切で対応できなくなって『潰れる』、踏切のタイミングが合わないことが起きるんだよ」
「なるほど」
「でも俺は足が遅いから、走り方を改善して飛べればもっと記録が伸びるんだよね」
仁は得意げに言った。
「走り方なら俺の専門じゃん!」
確かに走り方をこいつに教われば助走が安定する気がする。
「仁マネージャー!俺に走りを教えてください!」
仁はドヤ顔をしながら腕を組んだ。
「よかろう」
そうして仁との助走強化練習が始まった。
「とりあえずいつも通り跳んでみて」
「わかった」
助走位置へと向かう。今回は150cmを飛んでみる。
「行くぞ」
仁は手を挙げた。
いつも通り助走を取る。最初は速く、徐々に歩幅を合わせ左足で踏み切った。空中で弧を描きポールをしっかりと越えることができた。
「どう?」
「助走は速いのが理想的なんだろ?」
「おん」
「お前、最後減速してるからダメなんじゃないか?あと全然腕が振れてないから速度が遅いんだと思うぞ」
思った以上にダメ出しを食らった。
仁は仕方ないなという顔をしている。
「とりあえず走り方の見直しをしていこう」
「ありがとう」
これからもっと記録が伸びていくのではないかと考えると、気持ちが昂った。
「いいか、まず腕はこんな感じで大きく振る」
さすがは短距離トップ選手、腕を振るだけでオーラが伝わってくる。
「注意点なんだが、腕はしっかりと曲げるんだが、後ろにぶらんとならないように、あと、手先には力は入れないように意識して、助走だけやってみろ」
仁のわかりやすいコーチングに驚きながらも、期待が大きく膨らんだ。俺は小さくうなずき、また助走位置へと向かう。
―――腕は曲げ、手先に力が入らないように、大きく、後ろにぶらんとならないように
そう意識して助走を行った。おかしい歩幅が合わない。
「歩幅が合わないんだけど」
仁はニコニコしている。
「そりゃそうだろ。少しでもスピードが速くなれば合わなくなるって。てか、吞み込み速すぎだろ」
ほめられて少し恥ずかしくなる。
「お前の教え方がうまいんだよ」
その後の時間はあっという間に過ぎていき、練習が終わった。
この二人なら、さらに記録を伸ばせる。
そう信じた瞬間、胸の奥がざわついた。何かが始まる予感だけが、確かにそこにあった。
第六話!最後まで読んでいただきありがとうございます!
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第七話の投稿は未定ですが、日付が確定次第、活動報告にて告知します。第六話についてや、今までのことについて感想がありましたら是非、感想をお待ちしております!