第86話 密会
父からの密書をセリアは自室で一読したあと、普段の優雅な動作とは裏腹に、苛立たしげに投げ捨てた。そこには、王軍が予想以上に苦戦し、ミレーヌにはまったく損害が出ていないという、彼女にとって最も不愉快な事実が書かれていた。彼女は、溜息をついて、言葉を発した。
「もう担ぐ意味もないかもね」
老執事のアルビンは、主人自ら描いた計画を彼女は、再度修正しようとしていることを悟った。
「そうでございますか。おやりになりますか?」
「取り合えず隠しておこうかしら」
アルビンの問いかけに対して、ニヤリと笑ったセリア。彼女は言葉を続けた。
「でも、その前に、やらないといけないことがあるの」
その日の夜、エドワードは日中のストレスと屈辱を洗い流すかのように、セリアの体を激しく求めた。彼は、摂政としての重責とミレーヌへの怒りから来る苦悩を、彼女の肉体に溺れることで忘れようとしていた。
情事が終わったあと、エドワードは満足感と疲労からセリアの胸に抱かれていた。セリアは、そんな彼を指先で優しく撫でながら、冷徹に言葉を発した。
「殿下、戦いはどうのでしょうか?」
「うむ、そろそろ勝報が届くころだとは思うのだが……」
エドワードは、根拠のない楽観論を口にしたが、その声には、届かない勝報への不安が滲んでいた。セリアは、その不安を見逃さなかった。彼女の計画は、この純粋な不安を利用して進められる。
「実は、耳を疑うような噂でございますが、一部の貴族たちは士気が低いと聞きました」
「……」
彼はその言葉を聞き、絶句した。自分が熱意を込めて演説し、正義を説いたにもかかわらず、なぜ兵士の士気が低いのか、彼の純粋な頭脳では結びつかない。家令は集まった兵士は計画よりも少ないが少数精鋭を選りすぐった結果だと聞いていたが……。
「そこで殿下自らが、本軍に赴き、再び兵士たちを鼓舞することが、不可欠だと思いますが……」
「そうだな、私が自ら出向いて、再度、鼓舞しないとな」
その翌々日の午前、王太子は護衛の近衛を連れて馬車で出発した。片道四日間、現地での滞在を含めて十日間程度の外出である。
その日の午後、オレリアン・モラン将軍が執事のアルビンに連れられ、ある部屋の前に立った。将軍は、摂政の妻である王太子妃に呼び出されたことに、期待と戸惑いを覚えていた。アルビンの指示で立ち止まった部屋は、王宮の中でも特に静かで、秘密の雰囲気が漂う一室だった。
「お待ちです」
扉を開けると、セリアがいた。彼女はナイトドレス姿だったが、その背筋は伸び、まるで謁見の間にいるかのような威厳を放っていた。モラン将軍は、彼女の予想外の美しさと権威的な佇まいに、一瞬言葉を失った。
「お待ちしてました」
セリアは、将軍の緊張を解くことなく、優雅な笑みで彼を迎え入れた。
「どういうことでしょうか?」
「あなたを一目見た時から、気になっていたの。それに……」
「それに?」
「あなたは、今回のミレーヌ討伐令が、王太子様の個人的な感情から来ていることをご存知ね。この国の運命を、あの方の感情的な怒りに委ねて良いのかしら」
セリアは、モラン将軍に近づき、彼の分厚い胸甲に触れるかというほどの距離で立ち止まった。将軍の目は、彼女の冷たい瞳と、そして胸元に触れる彼女の指先に釘付けになる。この王宮で、これほど挑発的な視線を向けられたことはなかった。
「私は知っています。王宮で真にこの軍を動かせるのは、あの方ではなく、あなただということを。殿下は、その実力を正しく評価できない」
セリアはモラン将軍の胸に手を添え、そして、その指先が彼の胸から顔に徐々に上がっていった。彼女の指先は、将軍の甲冑の冷たさとは対照的に、熱を帯びていた。
「私についてきて。私はこの国を、力と知恵が正当に報われる国にする。私は、あなたにこの国の軍のすべてを任せたいの……私を満足させてくれるのは、あなただけでしょう?」
セリアは、将軍の顔に両手を添え、自らの胸を密着させた。彼女が囁く秘密の共犯関係と、その唇からこぼれる未来の約束が、モラン将軍の頭を麻痺させた。彼は、自分のキャリアと名誉のすべてが、この美しい女性の秘密と欲望に結びついたことを知った。
二人の密かな情事の間、部屋の外にはアルビンが立っていた。
「あと四人か……」
アルビンは静かに呟いた。明日以降、残るアイヤゴン将軍や王家の家臣たちをこの部屋に招き入れる必要がある。彼女が、王国のすべてを奪うという強大な欲望のため、自身の美貌と肉体という究極の武器を躊躇なく使う非情さ。そして、その行為に微塵も痛みを感じていない主人の姿を見て、彼は深い溜息をつくしかなかった。
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