第8話 押し問答
ジャックが忠誠を誓った日から一か月後、公爵家私邸の一室で、ミレーヌは机に広げた書類を睨みつけていた。レベッカとジャックという二人の手駒を手に入れた今、彼女の次の標的は、この世では両親となるあの夫婦だ。二人を排除し、公爵家を完全に掌握する。それが、彼女の覇道における次の段階だった。
殺害そのものは、彼女にとってはたやすい。だが、自身の犯行だと露見すれば元も子もない。ましてや二人同時となれば、疑惑の目はミレーヌに向かうだろう。あくまで自然死に見せかけなければならない。毒物か、事故死か……。連日のように考えるが、有効な案がなかなか見つからない。
ミレーヌは、苛立ちを覚える。頭脳明晰な彼女にとって、思考が停滞することは何よりも忌まわしい。小さくテーブルの鈴を鳴らすと、すぐにレベッカが入室する。
「お嬢様、何の御用でしょうか?」
「馬車の手配をして。そうね、一時間後なら大丈夫かしら?」
ミレーヌは、視線を壁際に置かれた、金細工と宝石で飾られた豪華な置き時計へと向けた。内部で揺れる振り子が、静かに、しかし絶え間なく揺れている。
「問題ございません。どちらに行かれるのでしょうか?」
「領都の視察よ。ここにいてもいい考えがまとまらないわ」
ミレーヌは馬車に乗り込んだ。きらびやかな装飾を施された馬車は、緩やかに動き出す。車窓から流れていく領都内の街並みをぼんやりと眺めながら、ミレーヌは思考の淵へと沈んでいく。
(やはり手駒が足りないか)
夫婦殺害、そしてその後の覇道を考えると、もっと多くの「駒」が必要だろう。暗殺の知識、諜報、あるいは技術。それはどこで見つけるべきか。彼女の思考は、さらなる深みへと加速していく。
しばらくして、御者がおそるおそる声をかけた。
「お嬢様、この先は領都外になりますが、いかがしましょうか?」
「もういいわ。屋敷に戻って」
来た道を引き返す。公爵家私邸の門の手前で、馬車が停止した。外がにわかに騒々しい。馬車の窓が、微かに振動している。
「何事?」
「は、はい、何やら衛兵と誰かが揉めているみたいでして。すぐにどかしますね」
御者が慌てて馬車を降りていく。ミレーヌは、わずかに開いた窓の隙間から、その様子を目で追った。男の怒鳴り声が耳に届く。
「だから、公爵様のお約束を事前に取って伺ったんですよ!」
「そのような事は聞いていないので、通すわけにはいかない。そもそも公爵様がオマエ如きの商人とお会いになると思っているのか?」
「そんな、ほら、家令様の署名が入った手紙も受け取ってるんですよ!」
(家令の署名?)
ミレーヌの脳裏に、公爵家の腐敗した内情がよぎる。家令が賄賂を受け取り、偽の約束をするなど、あり得る話だ。
「ちょっと、見せてみろ。これは偽物だな。家令様の署名はこれではない」
「え……あの野郎、仲介頼んだのに偽物掴ませたのか! 旦那なんとかなりませんかね?」
ミレーヌは、ただ黙ってその様子を見つめる。普通の商人なら、すぐに諦めるか、土下座するものだ。しかし、この男は不屈の精神を見せている。
「なんともならん! 私達は、お前の事情など構っている暇はない。さっさと帰れ!」
衛兵の声は冷たく、男の背中を押そうとする。その時、男は衛兵達の動きをわずかにいなし、次の言葉を放とうとしていた。彼の目には、まだ諦めの色がなかった。
ミレーヌは、馬車の窓を完全に開ける。冷たい秋の風が、彼女の頬を撫でた。
「まちなさい!」
ミレーヌの凛とした声が、公爵家の門にいる者全員に響いた。
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