第39話 公爵令嬢の練習
翌日、ミレーヌはジャックとフィデールを伴って、公爵領の地下にある牢獄へ向かう。石造りの冷たい廊下を、三人の足音が静かに響いた。ジャックが看守に指示すると、鉄格子の重い鍵が開けられる。通路を抜けた先には、拷問室と呼ばれる部屋があった。
鼻をつく血とカビの匂いが部屋に充満している。壁には、両手両足を鎖につながれた一人の男がいた。婦女を暴行したうえに殺害を幾度と繰り返した死刑囚だ。ミレーヌは銀髪を揺らし、無言で囚人を見据える。男は見知らぬ三人、特にその中にいる若い女性、ミレーヌを殊更警戒していた。
「本当におやりになるのですか?」
ジャックが静かに尋ねる。彼の声には、ミレーヌへの心配がにじんでいた。
「ミレーヌ様が手を下す必要はございません。不肖、フィデールが……」
「貴方がやったら意味ないのよ。少し黙ってなさい」
フィデールをぴしゃりと言い放つミレーヌの声は、いつもよりも冷たく、張り詰めている。その声色の違いに、ジャックはミレーヌの決意の固さを感じ取った。
「とはいえ、死刑囚を公爵家当主自ら手を下すのは異例なことですが」
ジャックが口を開いた瞬間、三人の意図を察した囚人が鎖を揺らし、騒ぎ出す。
「おい、お前ら! ここで俺を殺すつもりか!」
「お前は黙ってろ! それともすぐに死にたいか!」
フィデールが剣を抜き、囚人に剣先を向けた。その剣幕に囚人は一瞬ひるむ。
「フィデール、やめて。私がやるわ。ジャック、剣を貸して」
ジャックは無言で剣を抜き、両手でミレーヌに差し出した。グリップを握ったミレーヌは、ブレイドに映る自身の姿を見つめる。そこに映る公爵令嬢の姿は小刻みに震えていた。
(真剣は今まで何度も使ったのに、なぜ?)
今までフィデールとの練習の最中、真剣を手に取ることはあった。藁で作った練習用の人形を何度も斬った。さらに死んだ鹿、さらに猪などの動物を両断する練習もした。それなのに、震えが止まらない。
(私は、直接、手を下してないが、今まで多くの邪魔な人間を殺してきた。それなのに、人一人、殺すのを躊躇うのか……。ふっ、私らしくない。しっかりしなさい、幅下香織)
ミレーヌは心を落ち着かせ、囚人を見据えた。その瞳には決意の色が宿っている。
「じょ、冗談はよせ、お前みたいなお嬢ちゃんにできるわけないだろ」
囚人の言葉に、ミレーヌは動じることはなかった。しかし、これから行う所業が、公爵令嬢の鋼の精神を揺さぶり続けている。意を決した彼女は息を整え、未だに小刻みに揺れる剣先を、ゆっくりと囚人に向ける。
「おい、よせ、俺は無実だ! 無実なんだよ! おい、そこの旦那たち、この嬢ちゃんに言ってやれよ、俺は無実だって!」
囚人の叫び声は、ミレーヌにはただの雑音にしか聞こえなかった。彼女は囚人を「練習台の生き物」と割り切ろうとしたが、これから初めて体験することを考えると、ほんのわずかに躊躇してしまう。
(私らしくない)
ミレーヌは心を乱す声を振り払うように、囚人の胸、心臓付近に剣を突き刺した。
「ぐぎゃあああぁぁぁ……」
囚人の口から鮮血が滴り落ちる。不意に、囚人が咳き込んだ瞬間、ミレーヌの顔に鮮血が少しかかる。死にゆく囚人の悲鳴が部屋中に響き渡った。
「ぐぅふぅ……む、無実……ってい……た……」
ミレーヌの耳には、その言葉はもはや意味をなさず、ただの耳障りなノイズとして響いていた。しかし、心を揺さぶる震えは止まらない。それは、囚人の声ではなく、初めて自らの手で命を奪うことへの、本能的な拒絶反応だった。ミレーヌは、その感情を振り払うように目を閉じ、突き刺した剣を横に回転させる。囚人の人生は終焉を迎えた。絶命を確認したミレーヌは剣を一気に抜き去る。その剣からは血がしたたり落ち、拷問室の床の新たな塗装になってゆく。
公爵令嬢が囚人を剣で殺めるという、神聖な儀式とは程遠い光景を、ジャックはただ見つめる。隣のフィデールは、目に涙を溜めていた。それが、愛する主人の決意の行動に心を打たれた感涙であることは、本人にしか分からないだろう。
剣を抜いたミレーヌは荒い息をしながら、徐にジャック達の方へ振り返った。
その姿を見たジャックは確信した。その目は、剣を握る前とは全く違う目をしている。それは、底の見えない、静かな湖のような瞳だった。彼女は、血で汚れた手を見て、口の端を少しだけ歪め、うっすらと笑うような表情を見せる。まるで、自らの手で命を奪うという行為を乗り越えたかのように。その冷酷な笑みに、ジャックは背筋に冷たいものを感じた。
こうして公爵令嬢の初めての練習は終わった。彼女は以降、毎日練習を続けることを決意した。そう、人を殺すことに慣れるまでは。
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