第25話 錬金術師
銀山の代官ボリスは、冷たい汗をにじませながら執務室を後にした。ミレーヌからのあまりにも唐突な命令に、彼の胸は困惑で満たされている。しかし、彼女からの命令は絶対。彼はかすれた声で「承知しました」とだけ返すと、足早に退室した。
ボリスを見送ったミレーヌは、傍らに控えるレベッカとフィデールに視線を向けた。
「私は、ホマンのところに行くわ。貴方たちもついてきなさい」
三人は公爵家の敷地内、その片隅にひっそりと建てられたでの研究室へと向かう。
フィデールが重い扉を押し開けた瞬間、むっとするような熱気と、鼻を刺す微かな金属臭が三人を襲った。室内には薄い煙が立ち込め、視界がぼやける。
「ホマン! いるのか! ミレーヌ様がお越しになったぞ!」
フィデールの声に、奥からけたたましい怒鳴り声が返ってきた。
「ゴホ、ゴホ、なにミレーヌ様が! はやく言わんか!」
煙の向こうで、何かが倒れるような物音がする。
「ホマン、すぐに実験をやめなさい。そして窓をあけなさい」
見かねたミレーヌが、有無を言わせぬ声で命令する。レベッカとフィデールが慌てて窓を開け放つと、外からの澄んだ空気が室内の淀んだ空気を押し流し始めた。視界が徐々にクリアになるにつれて、片目に単眼レンズを嵌めたホマンが興奮した様子でミレーヌに駆け寄るのが見える。
「おお、ようこそ! ミレーヌ様! 実はですね、素晴らしい成果が出たんですよ! おっしゃるとおり鉛を使ってみたら。ああ、なんで気が付かなったのか。私としたことが。もちろん、幾度も失敗しましたが、諦めかけた時に、突然、鉛と銀鉱石の比率がぱっと頭に浮かんだのです! 見てください。この鉛を。これが銀鉱石に対して……」
ホマンが言葉を継ごうとするのを、ミレーヌはきっぱりと遮った。
「ホマン、もういいから。鉛を使いなさいと指示したのは私でしょ?」
「あ、そうですね。つい興奮してしまい、失礼しました」
ホマンは頭を掻き、ばつが悪そうに笑った。レベッカが戸惑ったように問いかける。
「鉛が何の役にたつのでしょうか?」
ミレーヌはホマンを一瞥すると、冷静な声で答えた。
「この鉛が銀の回収率を格段に上昇させるのよ」
「そうです! この鉛です! 今までの水銀を利用した方法よりも五倍以上の回収率が見込める! 素晴らしい! なんと素晴らしい成果でしょうか!」
ホマンが再び興奮のあまり声を張り上げる。
「ホマン、少し黙って。これは灰吹き法という方法なの」
ミレーヌは、興奮冷めやらぬホマンの代わりにレベッカたちに説明を始めた。銀鉱石から銀を取り出すには、これまでは水銀を銀に溶かして水銀合金を作り、それを加熱して抽出する水銀アマルガム法がこの世界で一般的に行われている。しかし、ミレーヌがホマンに伝えたのは、大量の鉛と骨灰を銀鉱石と一緒に熱することで抽出する別の方法。
それは、ミレーヌの前世、日本で戦国時代の末期に石見銀山で導入された「南蛮灰吹き法」と呼ばれるものだった。もちろん、彼女は、科学的な専門知識を持っていない。だが、歴史の書物や物語の中で、この言葉を目にした記憶があった。いじめにより学校を休みがちだった幅下香織が、近所の図書館で興味の赴くままに本を読み漁っていた、そのとき偶然得た知識だ。まさかこの異世界で、それも銀山の生産性向上の鍵となるとは、思ってもみなかった。
その講釈を熱心に聞きながら、フィデールは恍惚とした表情でミレーヌを見つめていた。一方、レベッカは、彼女がなぜそのような知識を知っているのか、疑問に思ったが、それを口に出すことは控えた。
「しかし、ミレーヌ様。その方法ですと、大量の鉛と骨灰、あと燃料が必要になります」
レベッカが実務的な懸念を口にする。
「ええ。あとね。鉛が蒸発するから防塵マスクも必要になるわ」
「防塵マスクとはどういうものでしょうか?」
ミレーヌは、近くにあった羊皮紙と筆を取り、簡潔な絵を描きながら説明した。これがあれば、鉛蒸気の流入を完全に防ぐことはできないが、ないよりは数段ましだ。
「こんな感じね。不織布はさすがにないから、そうね……羊毛とかを使ってマスクを作れないかしら?」
「これがマスクというものですか! ハハハ、素晴らしい。こんな簡易な構造で防ぐことができるとは。考えもつきませんでした! ミレーヌ様! これは素晴らしい発明ですぞ! 見てください! この構造を!」
ホマンは目を輝かせ、子供のように無邪気に喜ぶ。
「私が描いたんじゃない。いいわ。早く構造原理を理解して、実用化しなさい」
「ハハ、忙しくなりますぞ。マスクですね。ああ、マスクは素晴らしい……」
研究室の奥に向かうホマンを見ながら、レベッカが心配そうにミレーヌに問いかけた。
「ミレーヌ様、大丈夫でしょうか?」
「すぐに開発できるとは思ってないから。アイデアを示したから、あとは彼に任せるしかないわ」
「あと、骨灰と燃料となる木は領内から取れるのでいいのですが、鉛はどうしましょうか?」
「あとでラウールに頼んでおくわ。レベッカ、忙しいところ悪いけど、鉱山の詰所の近くに今回の灰吹き法の作業場を建設して。ボリスの意見もちゃんと聞いてね」
「かしこまりました」
ミレーヌの指示は澱みない。こうしてアッシ銀山の採掘量を飛躍的に増やすための新技術が確立された。この成果が出るまでに、そう多くの月日は必要としないだろう。公爵領の未来を確信したミレーヌの脳裏に、早くも次の戦略が浮かび上がる。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
今後の励みになりますので、感想・ブックマーク・評価などで応援いただけますと幸いです。




