第22話 公爵家の朝
翌日、侯爵家の敷地内を、ミレーヌが早朝の澄んだ空気の中を走る。まだ薄暗い空の下、お付きの警護隊員が数名、彼女の背後を追った。彼らの足音が石畳に響き、規則的な呼吸と、額に滲む汗が微かな光を反射した。
朝、詰所宿舎から出勤したばかりのフィデールは、その光景を認めると、一瞬息を呑んだ。朝日に照らされ、汗に濡れるミレーヌの姿は、彼の目に神々しいほどに映った。慌ててミレーヌの元へと駆け寄った。鍛え抜かれた彼の肉体は、長距離を走ってきたミレーヌの脇に息一つ乱さずに並び立つ。
「ミ、ミレーヌ様、いかがされたのでしょうか?」
フィデールの問いに、ミレーヌはゼェハァと荒い息を吐きながら答える。
「ハァ、ハァ、お、おはよう、フィデール。ハァ、後で頼もうと思ってたの」
「はい、何でしょうか?」
半刻ほど走り続けたミレーヌは、侯爵家の入口の前で立ち止まり、深く息を整え始めた。肩で大きく息をするその姿は、さすがに疲労を滲ませていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
フィデールは即座に声を張り上げた。その声には、彼女を案じる切実な響きがあった。
「ミレーヌ様、大丈夫ですか?おい、お前、突っ立てないでミレーヌ様に何か飲み物をお持ちしろ!」
朝からミレーヌに付き合って走っていた警護隊員は、フィデールの剣幕にビクリと肩を震わせ、慌てて走り去った。
「ハァ、ハァ、あ、ありがとう、フィデール」
ミレーヌの感謝の言葉に、フィデールは大げさに跪き、腕を胸に当てて平伏した。その瞳は、ただひたすらに主への献身と、仄かな熱を宿していた。
「いえ! 当然のことでございます! ミレーヌ様!」
その過剰な反応にも、ミレーヌはすでに慣れていた。フィデールは顔を上げ、心配そうに問う。
「それで、ミレーヌ様、早朝からなぜ敷地内を走っていらっしゃったのでしょうか? それにそのような粗末な服を来て」
すると、入れ替わるように、筆頭書記官となったレベッカの代わりにミレーヌの専属メイドとなったリサが、冷えた飲み物を持って現れた。息を整え、一気に飲み干したミレーヌは、静かにフィデールに告げる。
「フィデール、私に剣術を教えてくれない?」
「け、剣術でございますか!ミレーヌ様がそのようなことを覚えなくても、不肖フィデールが身命にかけてお守りいたします!」
フィデールの声が、甲高い驚きに裏返る。ミレーヌは淡々と彼の言葉を否定した。
「そうじゃないの、フィデール。貴方が常に私の傍に居るわけにはいかないでしょ? 仮に、寝室に刺客が侵入したら、私はその攻撃を避けたり、逃げたりできるようにしないと。そのためには、体力も必要だし、ある程度の剣術や護身術を覚えないといけないわ。できれば、毎日教えてほしいの」
フィデールは、その言葉に息を呑んだ。守られるべきか弱い令嬢が、自ら危険を想定し、己の身を守るための鍛錬を求める。それは、彼がこれまで見てきたどの貴族とも違った。彼女の瞳には、一切の弱さも迷いもなく、ただ未来を見据える揺るぎない意志が宿っていた。
(この気高くもひたむきなミレーヌ様を、私は生涯をかけてお守りする)
「ああ、ミレーヌ様はそこまでお考えだったのですね! フィデール深く感銘いたしました! ではさっそく警護隊の訓練所へ……」
前のめりになるフィデールを、リサが遠慮がちに制した。
「フィデール様、ミレーヌ様は少しお疲れの模様です。それに汗まみれとなったお着換えもしなければなりません。よろしいでしょうか? ミレーヌ様」
リサの的確な気遣いに、ミレーヌは小さく微笑んだ。
「リサ、ありがとう。じゃあ、フィデール、朝食後、執務するまでの間、教えてちょうだい」
「かしこまりました!」
◇◆◇◆
そして、朝食の時間。ミレーヌの向かいには、光を吸い込むような銀色の髪を持つ弟のシリルが座って食事をしていた。彼はミレーヌの顔をじっと見つめ、寂しそうに声を出す。
「お姉さま、毎日忙しそう……僕、お姉さまと遊びたい」
「ごめんね、シリル。お父様とお母さまが亡くなってしまって、私たち二人だけになってしまったでしょ? シリルが大きくなっても困らないように、頑張らないといけないの」
「そうだけど……」
「……わかったわ。今日のお昼の後に少し遊びましょうか?」
シリルの目が、ぱっと輝いた。
「ほんと!うれしい!」
ミレーヌはシリルの要求を飲んだ。本来ならば、当主である彼女が、彼のわがままを聞く必要はない。しかし、シリルはまだ十三歳。成人となる十八歳までには、公爵位を継ぐ可能性が出てくる。
彼が公爵位を継ぐまでに、ミレーヌの計画が全て滞りなく進めば問題はない。だが、計画の通りに進まなかったり、初期段階で王家と敵対した場合、敵に彼を利用されるのは絶対に防がなければならない。
この子供はまだ幼く、ミレーヌの言うことを何でも聞く。しかし、数年経てば、反抗的な態度を取る可能性も出てくる。その時に強硬手段に出て、彼を消し去ることも容易だ。ただし、デメリットも大きいので、これは最終手段。だからこそ、ミレーヌは今のうちに、この幼い子供の要求を飲むべきだと判断した。
彼女は、最悪の事態をも見越して、今なすべき最善の手を打っていた。
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