第2話 静かなる決断
夜会の喧騒が嘘のように静まり返った王都の公爵家私邸の一室は、重苦しい沈黙と、ロドルフ公爵の怒りに満ちた声で支配されていた。ミレーヌは、冷え切った暖炉の前にただ立ち尽くしている。室内に漂うのは、昨夜の華やかな香水の残り香ではなく、焦げ付くような父の苛立ちと、母の冷たい視線が織りなす重い空気だった。
「ミレーヌ! 一体、どういうことだ!」
ロドルフ公爵の顔は、先ほどの夜会での羞恥と、激しい怒りで真っ赤に染まっていた。その隣では、アリアンヌ公爵夫人が扇子で口元を覆いながら、哀れみと深い失望の眼差しをミレーヌに送っている。
「せっかくの王家との縁談を、お前は台無しにした! このグラッセ公爵家の面目を、よりにもよって大勢の貴族の面前で潰したのだぞ!」
公爵の声は、怒りというよりも、もはや絶望に近かった。それは、彼女の存在そのものを否定する響きを持っていた。
「お前がどれだけこの公爵家のために尽くすべきか、理解しておらぬのか!」
アリアンヌ夫人は、公爵の言葉を聞き、せき止められた感情が溢れ出した。彼女は悲鳴のような声を上げ、喉の奥から絞り出すような嗚咽を漏らし、悲嘆にくれる。
「我々がどれほどの苦労をして、どれほどの根回しをして、この縁談をまとめたか、分かっているのか! これで、グラッセ公爵家は安泰だと、安堵した私の気持ちを踏みにじりおって!」
ロドルフ公爵の言葉は、最初からミレーヌの耳には全く届かなかった。彼らの顔は、怒り、悲嘆、あるいは羞恥で歪んでいる。だが、ミレーヌの視界では、それらの感情は意味を持たない記号に過ぎなかった。彼らの喚き声は、遠くで響く鐘の音のように、ひどく無機質に聞こえた。
ミレーヌはふと思った。ちょうど一年前のこの日、前世の記憶を思い出したのだ。最初は混乱したが、徐々に幅下香織としての記憶がミレーヌの精神を蝕んでいった。
今ではミレーヌという人格は私の中には存在しない、私は幅下香織だ。目の前で怒る男は父ではない。泣いている女は母ではない。
「今頃、他の貴族どもは我が公爵家を、お前を、笑いものにしてるに違いない! 愚かな女だと! この家の恥だと!」
――怒鳴り散らす父の声。幼い香織の頬を打つ乾いた音。
「お前は本当に出来が悪い! なぜ、こんな簡単なこともできない!」
ロドルフの罵声が、前世の記憶を呼び起こす。どれだけ抗っても届かなかった自分の声。そして、何も理解しようとせず暴力のみ奮う父親。
(あの頃と、何も変わっていない。)
――面倒臭そうに目を逸らした教師の顔。
「周りにも、幅下さんのことを誤解している子がいたのかもしれないね」
アリアンヌの蔑みの視線が、中学生の頃のいじめっ子の嘲笑と、そして、助けを求めた教師の無関心な言葉とオーバーラップする。
「幅下さんも、もう少し周りに合わせる努力が必要だったんじゃないかな」
誰も、私の苦しみを理解しようとしなかった。誰も、私の能力を正しく評価しようとしなかった。
――所詮、女の提案なんて、机上の空論。
そして、公爵が家名と縁談の破綻を嘆く声は、前世で汗水流して作り上げた企画書を上司が突き返えす、あの瞬間の記憶を呼び覚ます。
「幅下さんの案は頭でっかちすぎるんだよ。現場ってのは、人間関係、それに、まあ、男の世界だからね」
輸送コストを二割削減する、画期的な改善案。データは全て裏付けられていた。それでも、「男じゃないから」「現場を知らない」という、理解不能な理由で切り捨てられた。あの時の無力感と、湧き上がるような憤り。
彼らは、能力のない人間が、ただ己の感情や、くだらない常識にしがみつき、本質を見ようとしない無能者だった。あの会社も、あの世界も、そして今、私の目の前で喚くこの男と女も、何一つ変わらない。
ミレーヌの脳裏に、前世の全てが走馬灯のように駆け巡った。虐げられ、見下され、理不尽に能力を否定され続けてきた人生。どんなに努力しても、報われることはなかった。
(お前たちは、再び奈落へ突き落された私を、容赦なく鞭打つのか)
彼女の瞳は、感情を完全に失ったかのように、どこまでも冷たい輝きを放っていた。
「聞いているのかミレーヌ!」
ロドルフの声が、鼓膜を劈く。その声に、彼女はゆっくりと眼前に立つ男を見上げた。
この場所も、この人間たちも、ミレーヌが望む世界を築く上で、ただの不要な障害物でしかない。
ミレーヌの心の中で、静かに、そして明確に決定を下す。
(やはりこの二人は、邪魔だな。排除する)
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