第1話 婚約破棄
煌びやかなシャンデリアが、夜会に集う貴族たちの豪華な装いを照らし出す。そのまばゆい光は、会場の隅々まで行き渡り、宝石や金糸が織りなすドレスを一層輝かせた。甘く濃厚な香水の匂いが空気中に満ち、楽団の奏でる優雅な音楽が、人々のおしゃべりとグラスの触れ合う音に溶け込んでいる。
大広間の中心に立つミレーヌ・グラッセは、ひとり、その喧騒から切り離されたかのように、静かに佇んでいた。プラチナブロンドの髪はシャンデリアの光を反射し、アイスブルーの瞳は感情を一切映さず、雪のように白い陶器のような肌は、近寄りがたい氷のような美しさを際立たせていた。
今日という日は、十六歳になったばかりの彼女の人生における重要な節目の一つである。公爵令嬢として完璧な淑女教育を受け、カッツー王国、王太子エドワード殿下の婚約者として務めを果たしてきた。王妃となるための歴史や経済、そして礼儀作法を徹底的に叩き込まれ、その努力の全ては、隣に立つ王太子との婚約を公の場で披露するためだったのだ。彼女の努力は、誰もが認めるところだ。
この一年間の周到な準備が実を結び、新たな生活の盤石な土台が築かれる微かな期待が胸に灯りかけた、その時だった。
「ミレーヌ・グラッセ嬢!」
凛とした、しかし冷たいエドワード殿下の声が、大広間に響き渡る。その瞬間、会場中の視線が、一点に集中した。誰もが息を呑んで見つめるのは、金色の髪が燭台の光を反射し、彫刻のような端正な顔立ちをした王太子エドワード殿下だった。
「この場で言うのは心苦しいが、私はミレーヌ嬢との婚約を破棄する」
会場がざわめきに包まれる。王族の婚約破棄という異例の事態に、誰もが息を呑んだ。その不穏な空気を無視したエドワードは、一人の女性に近づき、腕に抱き寄せる。伯爵令嬢のセリア。最近、殿下が溺愛していると噂の女性だった。その行動を見た出席者からざわつきが生まれ始めた。
「ミレーヌ嬢は、王妃教育で優秀な成績を収めたと聞く。だが、私の心を満たすのは彼女ではない。セリアこそが、私の運命の女性だ」
殿下の甘く蕩けるような言葉に、セリアは顔を赤らめて微笑む。ミレーヌは、その光景をただ冷静に見つめていた。
すると、背後から、ミレーヌの父、ロドルフ公爵が慌てて前に進み出た。
「エドワード殿下、そ、それは真でございましょうか!」
「ロドルフ公よ、私が嘘を言うとお思いか?」
「いえ、そんなことは毛頭思っておりません。ただ、国王陛下は何と......」
「父上の許可は既に取っている。それでも、この決定に異を唱えるのか?」
「め、滅相もございません」
「セリアは、聡明かつ清楚な女性だ。そして王家の血筋を受け継ぐジュイノー侯爵家の令嬢でもある。ミレーヌのように、人形のような目をしたものを妃にする気は失せたのだ」
「……失礼いたしました」
公爵は、王太子に深々と頭を下げながら、その背後で、ミレーヌに「何があったんだ?」と語りかけるような強い視線を送った。母アリアンヌもまた、悲痛な表情でミレーヌを睨みつける。彼女の目には、悲しみに似た失望の感情が宿っていた。
ミレーヌは、殿下やセリア、そして両親の顔を、まるで絵画を見るかのように見つめていた。
その表情に、悲しみや悔しさといった感情は一切なかった。あったのは、無機質で冷たい、深い絶望だけだった。
(ああ、そうか。この世界も私の存在そのものを否定するのか。
前世と違い、希望ある世界と思った私が馬鹿だった。
それなら、私もまた、この世界に同じ苦痛を与えよう。
お前たちが必死になって築き守ってきたもの全てを、私の手で確実に、破壊しよう。
この愚かな世界で安住する全ての者よ、この日を後悔するがいい)
ミレーヌは、この王子の発言を境に、この世界に宣戦布告した。
彼女の狂気の覇道が、静かに幕を開けた。
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