第三章:夜を越えて
この世界ではもう、愛という言葉は使われない。
便利さと効率がすべてを上書きし、感情は“無駄”として扱われた。
痛みも、ぬくもりも、誰かを想う気持ちも、記憶の底へと沈められて。
けれど、完全に忘れ去ることはできなかったのかもしれない。
ある日、誰かの奥深くに触れた少女は、言葉ではなく感覚で問いかけてくる。
——本当に、それでよかったの?
この物語は、静かに喪失し続ける世界の中で、
それでもなお「つながり」を求める人々の、ほんの小さな灯の記録です。
わたしが中学生のころに出会った、とある神話体系の“人知を超えた存在たち”も、
きっと同じように、誰かに寄り添いたかったのだろうと今は思います。
この物語の中に、かつてのわたしが好きだった“さびしさ”と“やさしさ”が、
すこしでも息づいていたら嬉しいです。
世界から逃げるというのは、思っていたよりも静かなことだった。
アラートもサイレンもなかった。
彼らの姿が基地から消えても、記録はただ粛々と塗り替えられるだけ。
「存在しないこと」にされる。それが、すべてだった。
…
廃都市の縁、朽ちた高架下に身を潜め、三人は息をひそめていた。
冷えきったアスファルトの隙間から、生乾きの風が吹き抜ける。
柳は仮設バーナーで湯を沸かし、口の中で何かを噛みしめていた。
朱雀は焚き火の光を静かに見つめ、黙って膝を抱えている。
その目には、世界の音すら映っていないようだった。
「寒くない?」
翠が小さな毛布を肩にかけてやると、朱雀はゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
それはたった一言だったが、
翠は、自分の中のどこかが確かに温かくなるのを感じた。
“伝わる”ということが、こんなにも救いになるとは思わなかった。
…
「なぁ」
柳が、焚き火越しに翠に声をかけた。
「俺たち、これからどこに向かうんだ?」
「……正直、まだ決まってない。でも、彼女を守れる場所を探したい」
「守れる場所? そんなもん、あるのかよ。今のこの世界に」
「……それでも、探したい。たとえなかったとしても、“一緒にいる”ってこと自体が意味になる気がする」
柳は火に枝をくべながら、しばらく黙っていた。
「……まあ、お前がそう言うなら、俺はついてくよ。少なくとも、俺はあの子に救われた気がしてるからな」
翠は驚いたように目を見開いた。
柳はふっと笑って、視線を朱雀へと向ける。
「ほら、昔の夢……最近見るんだよ。笑ってる誰か。
ずっと忘れてたのにさ、あの子と一緒にいると、断片が戻ってくる感じがしてな」
それは、記憶というよりも、“感覚”だった。
砂の中に埋もれた小さな光が、夜の底からゆっくりと浮かび上がってくるような。
朱雀は何も言わなかった。
でも、火を見つめる彼女の横顔は、どこか満ち足りていた。
…
その夜、翠は一人で目を覚ました。
遠くで、かすかな足音が聞こえた気がした。
朱雀の姿が見えない。
立ち上がり、辺りを見回すと、彼女は高架の上に立っていた。
風に髪をなびかせ、夜の空を見つめている。
星はなかった。
その代わり、かつて衛星だったものが、かろうじて空に残る微光を放っていた。
「ここ、嫌いじゃない」
朱雀がぽつりと呟いた。
「静かで、やさしい」
翠はその隣に並び、空を見上げる。
「星があったら、もっと綺麗なんだろうな」
「……覚えてる。たぶん、星を」
朱雀はそう言って、ふっと笑った。
「でも、それが誰かの記憶かもしれない。私のじゃなくて、誰か大事だった人の」
翠の胸がきゅっと締めつけられた。
その誰かが、朱雀の中で眠っているもの——
あるいは、この世界そのものの記憶なのかもしれない。
…
「あなたたちには、見えている。
まだ、小さな“あかり”が、残ってる」
そう言った朱雀の声は、風の中で淡く消えた。
けれど確かに、その言葉は、翠の心に灯をともした。
…
朝になる前、彼らは再び歩き出す。
背後に残るのは、誰もいない都市と、かすかに冷えた火の残り香。
道の先に何があるのかは、誰にもわからない。
けれど今、彼らは“自分の意思で”進んでいる。
それだけが、かつて感情を捨てたこの世界への、小さな反抗だった。