第一章:忘却の地で
この物語は、
もう「愛」が存在しない世界で生きる人々の話です。
人類は、進化という名の下に“感情”を手放しました。
生き延びるために、互いを理解することをやめ、
傷つかないために、優しさすら忘れた。
笑うことも、泣くことも、不必要とされる世界。
そこに暮らす少年たちは、それでも「何かが欠けている」と感じています。
それが何か、わからないまま。
ある日、彼らは出会います。
この星の奥深くに眠っていた、“母なる存在”。
それは、かつて人間を護るために生まれたもの。
そして今、人間に「危険」と呼ばれ、封じられたもの。
少女が目を覚ましたとき、
世界は何も変わらないように見えて、
ほんの少しだけ、確かに揺れ始めます。
あなたの心の奥にも、
この世界で“失ったことすら忘れてしまった何か”があるなら、
この物語は、きっとそこに触れます。
これは、感情を失った人間たちが、
愛の輪郭をなぞりなおす物語。
——こちら、翠。A班、B班、応答願います。
耳障りな砂嵐のノイズだけが、無機質な通信機に返ってくる。
翠は眉をひそめ、沈黙の中でゆっくりとチャンネルを切った。
「……またか。」
沈んだ声で呟く彼の横で、仲間の柳が銃を撃ちながら苛立ちを露わにする。
赤錆にまみれた空の下、廃墟となった都市の残骸が影を落としていた。
かつて人が「文明」と呼んだものの末路だ。
今では、ただ瓦礫と静寂が残るだけ。
「チッ……マジで何なんだよ。地面からも空からも湧いてくる。いい加減にしろっての……!」
柳は空を睨みつけ、落ちかけの衛星を見上げながら、
ライフルを撃ち込むようにして言葉を吐いた。
「柳、もう引くぞ。ここは制圧不可能だ。応援も来ない」
「分かってるって。でも、納得いかねえんだよ。人間が作ったもんに人間が殺されるってのが……なんか、負け犬みてーでさ」
そう言って肩をすくめる柳に、翠は返す言葉を見つけられなかった。
代わりに、乾いた風の中で、ほんのかすかに揺れる何かを感じ取った。
それは——光だった。
「……あれは……?」
瓦礫の隙間、土砂の裂け目から微かにのぞく、脈動する青白い光。
それは、どこか生きているかのような呼吸を感じさせる輝きだった。
「なぁ……なんか、やべーのがあるぞ?」
柳が走り寄る。翠は無意識に制止しようとした。
「待て、近づくな。下手すればまだ起動してる可能性が——」
「いやいや、これは見るしかないって。……っつーか、これ……すげぇな」
瓦礫をどけた先にあったのは、
半球状の透明な殻に包まれた“シード”と呼ばれる物体だった。
忘れ去られた時代に、“感情の記録装置”として生み出されたとも、
災厄の引き金になった“母胎”だとも噂される存在。
だが、それらはすべて古い話。
公式には“存在しない”ことになっている。
「やっぱヤバいよな、コレ。だからこそ、見なきゃだろ」
柳の目が光を映している。
それは興奮か、それとも、空白を埋めるような衝動か。
翠は一歩踏み出し、柳の前に立った。
「やめろ。こんな場所で軽率に触れるな。俺たちの任務は“感情”に関わらないことだ」
「はぁ!? “感情”って、お前、それ言ってる意味わかってんのか?もう俺ら、自分が笑った顔さえ思い出せねーんだぜ?」
柳の声は、怒りとも悲しみともつかない振動で震えていた。
けれどそれすらも、感情とは呼ばれなくなった世界だった。
「だったら触れるしかねぇじゃん。何かに、誰かにさ」
そう言いながら、柳はナイフを抜いた。
翠はとっさに腕を伸ばしたが、間に合わない。
——キィン……。
刃が、殻の表面に触れた瞬間。
音がした。音なのか、記憶なのかさえも曖昧な何かが、翠の奥に突き刺さる。
「……やめろ!!」
翠は柳を押し飛ばす。柳は地に転がり、舌打ちした。
「はぁ!? マジで何すんだよ!!」
「ふざけるな……!中に何があるかもわからないのに、なんで刃を向けるんだ……!」
「なんでもクソもあるかよ……!もう、どうだっていいだろ。どうせ俺ら、感情のひとつも持っちゃいけねぇ“物”なんだろ?」
翠は言葉を飲んだ。
否定できなかった。
その時だった。
——シードが、開いた。
それは、殻が割れたのではない。
“開いた”のだ。まるで、誰かの帰りを待っていたかのように。
中から現れたのは、少女だった。
白く透けるような肌。
所々、薄紅に染まった指先。
紅に金を混ぜたような瞳が、翠を真っ直ぐに見つめる。
——ただ、それだけだった。
彼女は何も言わず、音も立てず、翠へと歩み寄る。
その距離は、痛いほど静かだった。
翠の背中が粟立つ。なぜか、動けなかった。
呼吸が止まり、脈が乱れ、ただ目の前の存在に“焼かれる”ような感覚だけが残った。
そして——少女は翠に、口づけた。
焼ける。
内臓が煮え、骨が軋み、記憶の奥が破裂する。
そして、その一番奥から——
柔らかな手が、そっと心を撫でた。
“だいじょうぶ”
そんな言葉が、感情が、確かに聞こえた気がした。
翠はその場に崩れ落ちた。
遠くで柳が叫んでいる。
風の音と混じって聞こえない。
でも、その時。
少女は、翠にだけわかる微笑を浮かべていた。
それは、どこかで知っていた微笑み。
懐かしくて、忘れていた。
けれど、確かに——
それは、愛だった。