92 帰れぬ故郷
灰石病──原因も予防法も治療法も不明のその病は、いつしかそう呼ばれるようになった。
当初、症状が出ていたのは鉱夫だけだったが、そのうち魔石の選別などの周辺業務を行なっていた者も発症し、さらに鉱山とは直接関わりのない住民にまで広がった。
村人たちは灰石病を恐れ、発症者を差別し、遠ざけ──それでも病はなくならなかった。
リンが皮肉に笑う。
「当たり前なんですけどね。最初に鉱山で働いてた人から症状が出たのに、鉱山を閉鎖しようって誰も言い出さなかったんですから」
それも仕方のないことだろう──ハンスは頭の隅で呻く。
鉱山の閉鎖は、村の存続に関わる大問題だ。
そもそも発症のタイミングが鉱山開発が始まってからかなり後である以上、原因は鉱山だなどと、誰も思い付かない。
「あと、症状の程度とか進行度とかに個人差があって、発症しない人は本当に全く発症しなかったので、灰石病になったのは『普段の行いが悪かったからだ』──なんて言う人もいて」
「また随分と適当なことを……って、ごめんなさい」
エリーが呆れたように呻き、ハッと我に返って頭を下げる。リンが首を横に振った。
「いえ、気にしないでください。…そんな根拠のない言葉さえ、あの頃は誰も、真正面から否定できなかったんです」
灰石病になった者は、個人差はあれど徐々に症状が進行し、早ければ3年ほどで死に至った。
指先が灰色になったら、あとは症状が進むのを黙って見ているしかない。あまりにも絶望的な状況だ。
だが──
「…ある時、偶然、『村から出て行った人は灰石病の進行が止まる』ということが分かりました」
結婚して村を出たとある女性は、村を出る時点で左の指先に灰石病の症状が出ていたが、それ以上、症状が広がらず、街で普通に日常生活を送ることができていた。
その事実が知れ渡ると、そこから先はあっという間だった。
村を出れば灰石病の恐怖から逃れられる──そう知った村人たち、特に若い世代は、次々に村を出た。
ただそれも、すんなりと、というわけではない。
「…うちは、父と母が移住に賛成で、祖父母は反対でした。村を出たところで、街で仕事に就けるとは限らないので…」
「それは…そうだろうな…」
リンの家族は何度も話し合い──いや、言い争いを繰り返し、結果、祖父母は村に残り、父母とリン、そして弟の4人だけで村を出ることになった。
最も近い街は既に多くの移住者が居て、職にあぶれていた。だからリンの両親は、さらに隣の少し小さな街に定住した。
「…それで何とか、私たち家族は普通に暮らせるようになったんです」
リンはそう言うが、その表情は暗い。
腕っ節に自信があるなら冒険者になるという選択肢もあるが、村から来たごく普通の『田舎者』が街で安定した職を得るのは難しい。リンの両親も相当な苦労をしただろう。
ハンスが静かに思いを馳せていると、リンがぽつりと呟いた。
「…祖父母が亡くなったと聞いたのは、それから3年後のことでした」
その便りを受け取った時、既に祖父母の死から一ヶ月以上が経過していた。
喧嘩別れになったとはいえ、血の繋がった家族だ。リンたち家族は村に向かい──そこで変わり果てた故郷の姿を目の当たりにした。
「昔から村に住んでいた人たちは、一人も居ませんでした」
「え…」
「村に残った人たちは、みんな亡くなっていたんです」
祖父母の遺体は、既に埋葬されていた。埋葬してくれたのは最近村に移住してきたという若者で、祖父母もまた、灰石病に侵されていたと教えてくれた。
建物は半数以上が建て替えられ、坑道の入口も増え、見たこともないような巨大な櫓のような装置が稼働し、鉱石を選別する作業場も新たに作られ、村は活気に溢れていた。
だがそこに、知った顔は一人も居ない。
──リンの知る村は、もうどこにもなかったのだ。
(『私の故郷は事実上、もうない』ってのは、このことか…)
ハンスは内心で呻く。
名前だけ残っていても、それは故郷とは言えないだろう。
リンは緩く首を横に振り、話を続ける。
「…私が懸念しているのは、この村でも同じようなことが起こるんじゃないか、ってことです」
淡々とした、けれど少しだけ低くなった声が、石造りの壁に冷たく反響する。
エリーが眉を寄せた。
「同じようなことって…」
「──村の『乗っ取り』か」
背中がヒヤリとする感覚を無視して、ハンスは呟いた。
誰かがヒュッと息を呑み、アーロンが目を見開く。
「む、村の乗っ取りじゃと?」
「ああ」
ハンスは頷いて、できるだけ冷静にと自分に言い聞かせながら共通点と怪しい点を列挙していく。
王立研究院主導で発見された魔石の鉱脈。
現地住民主体で進められた鉱山開発。
特有の疾患の多発と──これは推測ではあるが、その原因が発覚しないよう裏工作されていたこと。
さらに、
「今、この村には結構な人数の移住者が居るよな? そいつら、もしかして魔石を取引する商人の紹介でこの村に来たんじゃないか?」
「あっ」
「そ、それは…」
エリーが声を上げ、アーロンが言葉に詰まる。この反応は図星だろう──ハンスは頷いて、
「…つっても、移住者自身には多分乗っ取りなんて意図はないだろ。単純に新天地を夢見て来ただけだ。…それを斡旋した連中は、分からねぇけどな」
「ねえ、待って。こんな村を乗っ取って、何の得があるの?」
エリーが片手を挙げ、周囲を視線で示した。
「自分で言うのもなんだけど、辺境の寒村よ? ここ」
「え、エリーよ……」
アーロンが眉を寄せ、泣きそうな顔になった。否定しないあたりが物悲しい。
ハンスはゴホンと咳払いして続けた。
「あー、多分だが、村そのものの価値はそれほど考慮されてない。重要なのは、ここに『生きた』魔石の鉱脈があることと、人が住める環境が最低限、整備されていることだ」
そこまで言うと、ああそういうことかい、とナターシャが納得の声を上げた。
「それなら十分な理由になるね」
「どういうことですか?」
マークが硬い表情で訊く。
「あくまで、推測の域を出ないがね」
前置きして、ナターシャはぐるりとその場の全員を見渡した。
「鉱山開発をする時、開発する側にとって一番ネックに──問題になることは何だと思う?」
「問題になること…?」
その質問にアーロンたちが首を傾げ、マークが眉を寄せながら口を開く。
「…地域住民の反対、でしょうか?」
自分の住環境か変わるとなったら、反対する者は多いだろう。ナターシャは『勿論、それもある』と頷き、アーロンたち上エーギル村からの参加者を見遣った。
「けど…この村では反対なんか起きなかったんじゃないかい?」
「あ…」
「…うむ、そうじゃな」
上エーギル村は、むしろ両手を挙げて歓迎した。かつてのリンの故郷のように。
そしてそれこそが、狙いなのだ。
「一番の問題は、鉱山の開発費用──つまり初期投資の大きさなのさ」




