9 作業翌日のお約束
翌朝──
「ハンス、大丈夫かい?」
「…………おう」
普通の倍以上の時間を掛けて階段を下りて来たハンスは、心配するスージーに何とか頷いた。
(うぐっ)
そのわずかな動作だけで、ビキッと背中に痛みが走る。
壁に手をつき背中を丸め、膝を曲げてプルプルしている様は間抜け以外の何ものでもないが、ハンスは極めて真剣だった。
(せ、せめて座っ……座れるか…これ…?)
ありとあらゆる関節と筋肉が悲鳴を上げている。曲げるのも痛いし伸ばすのも痛い。起床してからここまでで一番辛かったのは『ベッドから立ち上がること』だった。
…と、こう表現すると何か重大な病のように思えるが──
「うおおおおお……!」
小声で気合いだか悶絶しているんだか微妙な線の呻き声を上げつつ、ハンスは何とかダイニングの椅子に座る。
腰を下ろしたら最後、次に待っているのは『立ち上がる』という苦行なのだが、ハンスは考えないようにしていた。今はそれよりも優先すべきことがあるからだ。
「朝食は食べられそうかい? 無理はしない方が──」
「大丈夫だ! 食う!」
スージーの言葉に食い気味に反応して、ハンスはまた痛みに悶絶した。スージーはますます心配そうな顔になる。
「けどハンス、その様子じゃ歩くのも一苦労だろう?」
「いや、まあ、そうだけどな。…どうせただの筋肉痛だし」
「えっ」
目を逸らしながらのハンスの呟きに、スージーがぽかんと口を開けた。
今にも『冗談だろう?』と言いそうな顔だが、悲しいかな、これが現実である。
昨日ひたすら土を耕している間に、ハンスはいわゆる『ゾーンに入った』ような状態になり、午後はひたすらノンストップで鋤を振るっていた。
あまりにも調子が良いので、『オレ、農業向いてるな…』なんて思ったりもした。
が──その精神状態に、34歳体力衰え始めのハンスの身体はついて行けていなかった。
疲労や痛みは妙なテンションで誤魔化され、自覚もないままオーバーワークを続けた結果、一晩経った今、全てがまとめて襲って来たのである。
そして、それと一緒に襲って来たものがもう一つ。
「それよりも、何か滅茶苦茶腹減ってんだ。食ったら筋肉痛もマシになる気がする」
ハンスは、自分でも驚くほど空腹だった。とにかく何か口に入れたい気分になっている。
スージーが破顔した。
「…そうかい! なら、今朝は多めに用意しようかね」
そうして食卓に出されたのは、朝の定番、ポーチドエッグ入りの野菜スープに、チーズを乗せて暖炉の火でこんがりと焼いたバゲット。
カブとニンジンのピクルスと、とっておきのベーコンを使ったベーコンエッグ。
さらに、木イチゴのジャムを添えた焼き立ての白パンと、はちみつ入りのハーブティー。
「いただきます!」
間違いなく美味しいそれを、ハンスは片っ端から食べ始めた。
野菜スープの温かさにポーチドエッグのまろやかさ。
香ばしいチーズバゲットは、そのまま食べてもスープに浸してもピクルスやベーコンエッグを乗せても、何にでも合う。
ピクルスで口をさっぱりさせてベーコンエッグを食べれば、強い塩気の中の脂の甘みが卵と合わさり、絶妙な味になった。
とどめはふんわりと柔らかく、まだ湯気を立てている白パンだ。
スージーが『特別だよ』と言って出してくれたバターを手で割った白パンにそっと乗せ、融けてしみ込んだところでまずは一口。
白パンの甘さとバターの香りを存分に楽しんだら木イチゴのジャムを追加して、バターで幾分まろやかになった甘酸っぱさを堪能する。
最後に、レモンのような爽やかな風味のある甘いハーブティーで喉を潤し──
「……はー…美味かった。ごちそうさまでした」
「はいよ、おそまつさまでした」
いつもの台詞に返事があって、ハンスが驚いて顔を上げると、隣でパンを手にしたスージーが笑っていた。
帰って来てからほぼ毎回食事を共にしているが、ハンスはまだどうにもこのシチュエーションに慣れない。少々気恥ずかしくなっていると、スージーが嬉しそうに口を開いた。
「良い食べっぷりだ。作り甲斐があるよ」
「…食欲があるのは、良いことだ」
ポールは相変わらず仏頂面だが、口元がわずかに緩んでいる。
ハンスは照れて頭を掻き──普通に頭を掻けることに気付いた。
「…あれ」
「どうかしたかい? ハンス」
「いや、何か…筋肉痛が楽になってる」
先程までは腕を上げるのも辛かったのに、今は軽々肩を回せる。痛みはまだ続いているが、動かせないほどではない。
「…これなら、今日も作業できそうだな」
はて、筋肉痛とはこんな短時間で治るものだっただろうか──ハンスは内心首を傾げつつも呟いた。
「良かったじゃないか。まだまだ若いってことだね」
スージーが笑顔で言うので、ハンスはそういうものかと納得したが。
──当然ながら、本来筋肉痛はそんなにすぐに治るものではない。
もっと言えば、厳密にはハンスが感じていたのは若者によくある『筋肉に疲労物質が溜まった時の痛み』ではなく、『酷使されすぎた筋肉と関節が炎症を起こし、関節部分には水が溜まり、筋肉は肉離れ寸前になっている時の痛み』である。
それが何故、このわずかな間で快癒したのか──その理由を、この時のハンスは知る由もなかった。
朝食を済ませると、ハンスはポールと共に畑へ向かう。
その手には、食事用のフォークを巨大化させたようなものが握られていた。
と言っても、厳密には逆である。
元々、牧草や枯れ草を集めて掬い上げるための、長い柄のついた3本から5本爪の農具が『フォーク』と呼ばれていた。食事用のフォークの方が後発だ。
…が、食事用の『フォーク』がすっかり一般大衆に定着してしまったため、今ではそれと区別するため、農具の方は『ガーデンフォーク』と呼ばれている。
そのガーデンフォーク…らしきものを、ハンスは家を出るときにポールから渡されたのだが…
(…何に使うんだ? これ…)
如何せん、ポールは説明不足だった。言葉が足りない。わりと致命的なレベルで。
とはいえハンスは、そんな父に慣れている。今説明を求めたところで碌な回答は返って来ないと割り切って、歩くこと暫し。
着いたのは、昨日と同じ畑だった。──多分。
「…………え?」
断言出来ないのは、昨日の作業終了時と全く違う光景が広がっているからである。
ハンスは目を何度か瞬き、次に目を擦り、さらに目を閉じて深呼吸してから目を開けて──やはり変わらない光景に、
「……疲れてんのかな、オレ」
あっさり理解を放棄した。
「どうした」
平然と畑に入ろうとしていたポールが振り返る。その手にはハンスに渡したのと同じ、やけに爪の部分が鋭くて真っ直ぐな『ガーデンフォークっぽいもの』が握られていた。
誤解を恐れずに言うなら、それはフォークではなく、生け花に使う『剣山』の一部を切り出して巨大化させ、身の丈ほどの長い柄を付けたような物体である。
どう見ても枯れ草を集めて運搬するのには向かなさそうだし、圧倒的に攻撃力が高そうだ。絶対に人に向けてはいけない空気を漂わせている。
ポールの背後で、草がざわりと揺れた。
「…なあオヤジ、一応確認だけどよ」
「なんだ」
「ここ昨日、枯れ草を鋤き込んだ畑だよな?」
「そうだ」
ハンスの問いに、ポールは淡々と頷く。
その足元には、膝丈ほどの、特徴的な切込みの入った葉を持つ草が生えている。
「……今日は何をするんだ?」
たっぷりの沈黙を挟んだ後、ハンスは恐る恐る訊いた。
ポールはわずかに首を傾げ、不可解そうな顔をして、
「まずは雑草を殲滅する」
──ザワッ!
ポールが答えた瞬間、足元の草が明らかに不自然な動きで揺れた。
──いや、足元の草だけではなく…畑に点々と、しかし結構な数、たった一晩で生えた特徴的な草が、波打つように一斉に揺れている。
草を抜くでも除草するでもなく、『殲滅する』。
草に対するとは思えない単語だが、この場合は正しい。何故なら、
「ちょっと待てオヤジ」
ハンスは力一杯突っ込んだ。
「これマンドラゴラじゃねーか!!」
「…それがどうした?」
「どうっ…!?」