81 上エーギル村の村長
上エーギル村の村長、アーロン。
ハンスにとっては実に20年ぶりに会う相手だ。
記憶にあるより小さく見えるのは、ハンスの身長が伸びたからだけではない。
白髪交じりだった濃紺の髪は完全に白くなり、毛量も減って、随分と額が広くなっている。背は縮んで背中も曲がっているが、ぎょろりと眼光鋭い青い目は昔のまま、シワの増えた顔の中で存在感を放っている。
「…ハンスか」
アーロンはちらりとハンスを見上げ、吐き捨てるように言った。
「村を捨てたろくでなしが、今更何しに帰って来た」
「はあ!?」
瞬間、リンが声を上げる。一瞬で殺気立った後輩を、ハンスは片手で制した。
「リン、いい。止まれ」
「で、でもハンスさん! せっかくハンスさんがみんなのために」
「分かってる分かってる。オレの代わりに怒ってくれてありがとよ」
ハンスは苦笑してリンをなだめ、アーロンに向き直った。
子どもの頃のハンスにとっては、間違いなく『怖い大人』のうちの一人。
だが今は、その眼光に怯むこともない。何故なら、
「『帰って来た』って表現するってことは、今でもまだオレのことを『上エーギル村と下エーギル村の仲間』だと思ってくれてるってことだろう?」
ハンスがニヤリと笑って指摘すると、アーロンは目を見開いた。
「な…」
「あー、なるほどね」
スージーが苦笑して、場の空気が緩む。
この程度の悪態は、ハンスにとっては嫌味にも入らない。
ハンスを見上げた一瞬、アーロンは僅かに目元を緩めていた。それは確かに、子どもの成長を喜ぶ大人の顔だった。ハンスはそれに気付いていたのだ。
「ま、オレがろくでもないガキだったのは確かだけどよ、多少はマシになったつもりだぜ? ──アーロン村長もそう思ったから、来てくれたんでしょう?」
「…強引に引っ張られて来ただけじゃ」
アーロンは仏頂面で応じた。すると、
「もう! 村長さん、頑固すぎ!」
ドアから入って来たのはトムの娘、キャルだった。
腰に手を当てて、目線の高さが自分とそれほど変わらないアーロンをキッと睨みつける。
「トレド先生だって、『必ず全員食べてください』って言ってたじゃないですか! 村長さんも聞きましたよね!?」
「むう…」
孫かひ孫くらいの年頃の少女に凄まれ、アーロンがタジタジとなって呻く。
それを見て、ハンスはぼそりと呟いた。
「…エリーそっくりだな」
「ねえハンス、今何を想像したのかしら?」
背後からそれはそれはイイ声がした。
カウンターから出て来たエリーが、ガシッとハンスの肩を掴む。
「そっくりって、何が? ねえ?」
「…せ、正義感が強いところがだよ!」
ハンスは辛うじて言葉を絞り出した。どう考えても苦し紛れの口から出任せである。
だが、
「…お前たちは、変わっとらんな」
アーロンの態度を軟化させることには成功した。
一瞬苦笑したアーロンは、深く溜息をついて緩く首を横に振る。
「…食事をいただこう。医者の言うことは聞くものじゃて」
「はいよ!」
スージーが破顔して頷いた。
そこでさらに、扉が開く。
「みなさんに行き渡ったでしょうか?」
ややフラフラとした飛行で入って来たトレドは、アーロンの姿を認めて安堵したように目を細める。
「アーロン村長、来てくださったのですね」
「…うむ」
アーロンは若干気まずそうに頷いた。
「トレ=ド=レント、ありがとよ。これで大体全員来たはず──だよな? トム」
「だと思うぜ。──あ、ヒースクリフは? もう来たか?」
ハンスの問いにトムが挙げたのは、アーロンの息子の名前だった。エリーがあれ?と首を傾げ、暫くして首を横に振る。
「来てないわ。…っていうか、最近全然姿を見ないんだけど…トム、アンタ最近どっかで見かけた?」
「…いや、見てないな」
どこか呑気な夫婦の会話に対して、アーロンの表情がサッと曇る。
「…あやつは家で寝とる。帰りに食事を持って帰りたい。構わんか?」
「え、ええ、そりゃ勿論…」
どこか違和感のある申し出に、スージーが戸惑いがちに頷いた。食べてもらえるならそれに越したことはないが、
(…寝てる? 普通に寝てるだけ…なのか? こんな時間に?)
ハンスは内心眉を顰めた。
先ほどトムが言った通り、既に日は落ち、夕食を食べてもおかしくない時間になっている。
農家では昼食の後、体力の回復を目的に短時間の昼寝をすることはよくあるが、こんな時間に寝ているというのは違和感があった。
しかし、アーロンはそれ以上何かを語ることはなく──アーロンとトムとキャルは料理を受け取り、席につく。
これで上エーギル村の住民全員に行き渡ったと言われたので、ハンスたちもそれぞれ残った料理を分け合うことにした。
「はいよ、トレド先生!」
「え、私もですか?」
「当たり前ですよ、トレド先生が一番頑張ってたんですから!」
「あんたその様子だと、あの錬金術師の先生と一緒で、昼飯も食べてないだろう? いいから食べな! いっぱいあるからね!」
トレドは当たり前の顔で配膳され、目を白黒させていたが、やがて『ありがとうございます』と泣きそうな顔で笑って食器を受け取った。
「実はすっごく食べたかったんです!」
ちゃっかりハンスの隣に座ったリンが、喜色満面でスプーンを手に取る。
まだ湯気を上げているスープを前に、ハンスも急にお腹が空いてきた。
「いただきます!」
リンの声につられるように同じ言葉を口にして、みんな一斉に食事を始める。
まずスープから味わう者、パンをちぎって口に運ぶ者、温めたミルクをそっと口に含む者──食べ方も様々だ。
ハンスはパンをスープに浸して口にする。
口の中にジュワッと広がるスープは、野菜の甘みとベーコンやハムの塩気、様々な旨味の奥にほんのりと薬草の苦みがきいていて、いつもとちょっと違うがこれはこれで美味しい。いくらでも食べられそうだ。
そして後からやって来るパンの香ばしさと甘み──夢中になるなという方が無理な話である。
たまに『美味い』という小さな呟きや感嘆の溜息を洩らしながら、誰もが基本、無言で食べ進める。
早々に食べ切ったリンがちょっと困ったように視線を彷徨わせると、スージーがすかさずスープのおかわりを渡した。自分の食事をしながら周囲にも目を配る、主婦の本領発揮である。
そうして全員が食事を終える頃には、ヒースクリフ用に取り分けた分を除いて、巨大な鍋はすっかり空になり、カゴに山盛りだったパンも影も形もパンくずすらもなくなっていた。
「ごちそうさまでした」
ハンスが呟くと、リンも満足そうな笑顔で追随する。
「ごちそうさまでした! すっごく美味しかったです!」
「ホントね。久しぶりに食べたけど、やっぱり下エーギル村の料理って最っ高に美味しいわ…」
「だな」
エリーとトムが感嘆の溜息をつくと、キャルが唇を尖らせる。
「お父さんもお母さんも、ずるい。こんなに美味しいものを食べたことがあるなんて」
「うっ」
「それはその…ね?」
娘の文句にたじろぐ夫婦の横で、アーロンが静かに肩を落とした。
「……すまぬ」
「え?」




