74 素材集め
秋に初めて来た時と同じように木箱を背負い、新芽がそこここに顔を出し始めた森の中を進むこと数分。ハンスの周囲に、濃い霧の塊が漂い始めた。
(道は間違ってないはずだよな)
世界樹の広場にハンス一人で向かうのは、今回が初めてだ。
山歩きにはそれなりに慣れたつもりではあるが、季節の移ろいと共に様相を変える森は、慣れ親しんだはずの人間もうっかりすると迷子になる。
慎重に道を確認し、ハンスは目の前に立ち込める霧の中に突入した。
たった数歩進んだだけで霧が濃くなり、前も後ろも分からなくなる。進もうとした方角を見失わないよう、足運びに細心の注意を払いながら、さらに進む。
「──管理人ハンス、通行を申請する!」
少し強張った声が濃い霧の中に吸い込まれ、次の瞬間、ハンスは森の中の広場に立っていた。
(オレ一人でも通してくれたか…)
間違いなく、世界樹とエリク草の広場だ。
心底ホッとしながら一歩踏み出す。
アブラムシの被害を乗り越えた世界樹の枝は改めて新芽を伸ばし、冬の間は地面にへばりつくようにして寒さと雪に耐えていたエリク草も葉を持ち上げ、春の日差しを浴びている。
ハンスはその光景をぐるりと見渡し──その場にがばっと平身低頭した。
正座をして上体を前に倒し、両手と額を地面につく、いわゆる『土下座』の姿勢である。
「──頼む! 世界樹の葉とエリク草を、上エーギル村の連中を助けるために使わせてくれ!」
ザワッと世界樹の枝がざわめいた。
上エーギル村に水の魔石の鉱山があること。そこで働く人々が濃い水の魔素にさらされ続けて健康を害していること。そして今日、4人の鉱夫が倒れ、回復させるには上級回復薬が必要だと言われたこと。さらにトレドの半身のことまで、ハンスは額を地面につけたまま説明する。
「…世界樹もエリク草も、王立研究院からの預かりものだってことは分かってる。けど、見なかったことにするなんて出来ねぇ。オレにとっては、上エーギル村の連中も、『昔馴染み』で『仲間』なんだ」
20年もの間、村を留守にしていたハンスには、上エーギル村と下エーギル村の確執も、本質的なところは理解できない。
それでも──いや、だからこそ、目の前で苦しむ顔見知りを見捨てられないし、目の前にある『命を救う手段』に縋らずにはいられない。
『世界樹が自主的に落とした枝葉は、王立研究院に提出を命じられている『収穫物』にはあたらない』とポールは言った。ましてや契約書に名前のないハンスが、偶然、世界樹の落とした枝葉を拾うだけなら、文句のつけようがないだろうと。
無理がある理屈だというのは分かっている。だが、そんな屁理屈を並べてハンスを送り出してくれた両親の思いを無駄にしたくない。
どうしたら世界樹が自主的に落とした枝葉を回収できるか──ここに来るまでの道中、考えに考え、ハンスが出した結論は『世界樹に正直に話す』だった。
人の言うことを理解して、あまつさえ『からかう』『絡む』などという高等技能を発揮する存在である。自主的に枝葉を落としてもらう必要があるのだから、下手な行動を取るより正直に話した方が良い。
拒否されても、何度でも食い下がろう──そう思ってハンスがきつく目を閉じ、もう一度開くと、
「……へ?」
目の前、地面すれすれに、世界樹の枝があった。
そして、
──ベシッ!!
「痛っで!?」
鞭のようにしなった枝がハンスの額を勢いよく引っ叩く。
強烈な一撃に、ハンスは仰け反ってその場に転がった。
が、そこは曲がりなりにも上級冒険者。転がった勢いで体勢を立て直し、流れるように立ち上がる。
とはいえ──痛いものは痛い。
「くっそ、今日はこんなんばっかりか…!」
額を押さえて涙目で悪態を吐くハンスに、一番近い世界樹が枝を動かす。
2本の枝をハンスから見て左右対称、幹の両側に掲げ、先端をちょっと外側に開いて上下に動かす動作は、どう見ても、
「肩を竦めるな、肩を!」
ハンスが力一杯突っ込むと、世界樹たちはサワサワと枝を鳴らした。
明らかに笑われている。
バサッと、ハンスの額を強打した枝が靴の上に乗った。それを見下ろしたハンスは、思わず目を瞬く。
「…え?」
枝は地面から生えているものの一部──ではなく、枝単品だった。ハンスの二の腕ほどの長さの、瑞々しい葉つきの枝が、ハンスの靴の上に乗っていた。
慌てて枝を拾い上げて確認すると、切り口は断面が少し縮んでいて、ナイフやハサミで切り落としたのとは明らかに状況が違う。
世界樹が、自ら枝を落とした。そう理解して、ハンスは呆然と枝を握り締める。
「…いいのか?」
頼んでおいてなんだが、まさかこんなにあっという間に渡してもらえるとは思っていなかった。
ハンスが呟くと、枝がひらりと葉を動かす。
──アブラムシ退治の対価。
何故か、そんな言葉がハンスの脳裏に浮かんだ。
そうか、対価か──ハンスは不思議とすんなり納得する。
あの化け物サイズのアブラムシは口の針をぎっちり世界樹の枝に食い込ませていて、ちょっと枝が暴れたくらいでは身じろぎすらしなかった。だから、世界樹も本当に嫌だったのだろう。
「…すまない。ありがとう──でっ!?」
ハンスが頭を下げた途端、別の枝が後頭部を叩いた。
なにすんだ、と抗議しかけたハンスは、その枝と、奥の方の枝も複数、ベシベシと地面を叩いて──いや、正確には地面に生えるエリク草を指し示しているのを見て、スン…と表情を改める。
「あーうん、そうだな、さっさとエリク草も採集──んんっ、間引きしないとな」
世界樹たちが分けてくれた枝を丁寧に木箱に収めると、ハンスはシャベルを手にしゃがみ込む。
「これ…いや、こっちか」
エリク草の間引きも、主導したのは世界樹だった。
間引く株を指定し、どの位置をどんな角度で掘り返せばいいのかハンスに教える。
傍から見ればかなり異様な光景なのだが、ハンスはあくまで真面目だった。
動作はあっても言葉が伝わってくるわけではない世界樹の意思表示を正確に理解して、どんどん作業が速くなっていく。
ものの30分ほどで、ハンスはエリク草の採取──もとい、間引きを終えた。
根に付着した土を大雑把に払い、一つ一つ皮袋に入れてから世界樹の枝と同じ木箱に収める。
ここから先は時間との勝負だ。
エリク草も世界樹の枝葉も、乾燥した状態になっても使える素材ではあるが、新鮮な方が圧倒的に薬効が高い。
「ありがとよ! 後で改めて礼をさせてくれ!」
ハンスは広場に向けて深々と頭を下げる。
そうして木箱を背負い、急ぎ足で去って行くハンスの背中を、世界樹たちは静かに見守っていた。
 




