70 トレドの秘密
「おまっ…、いきなり何すんだ!?」
ハンスが額を押さえて涙目で抗議すると、目を見開いて自分の手を見詰めていたアルビレオがハッと我に返る。
「ああいや、すまんすまん。まさかここまで強い反発が起こるとは思わなんだ」
「……ったく…」
アルビレオにも予想外だったらしいと判断して、ハンスは溜息をついて立ち上がる。
「…んで、なにか分かったか?」
その問い掛けに、アルビレオは深く頷いた。
「うむ。──ハンス、こっちに来てから、なにか生活習慣は変わったか?」
「なにかというか、ほぼ全て変わってるぞ」
「ああうむ…そうだったな…」
ユグドラの街では冒険者専業。下エーギル村では農家と兼業。朝日と共に起きて夕暮れまで農作業をする日もざらにある。
冒険者としてこなす仕事も様変わりしたし、食べるものは村の中で作られた農産物ばかりだし──
「それだ!」
ハンスが指折り数える途中、アルビレオが叫んだ。
へ、と呻いたハンスは、今自分が言ったことを反芻する。
「…食べ物、か?」
「うむ、十中八九間違いない」
アルビレオは確信を込めた表情で頷いた。
「このエーギル山系は水の魔素が豊富だからな。こういう特殊な場所で育つ植物は、魔素を溜め込みすぎないようになっている」
「えっ」
「それを摂取することによって、動物も同じ恩恵を受けられる。人間も同じだ」
特定の属性の魔素が豊富な場所に生える植物は、その魔素を溜め込まない、あるいは取り込んでも積極的に排出する性質を獲得する。
移動が出来ないため、その魔素に耐えられるよう自らの性質を変化させるのだ。
ちなみにこの性質はある程度まで伝播するので、『草食動物を食べる肉食動物』くらいまでなら影響を受ける。
「ゲルダが言った『汚染されていない』というのは、余計な魔素を取り込んでいないという意味だ。さっきも、水の魔素を額から流し込もうとしたが弾かれた。恐らく普段の食生活の中で、そういう性質のある植物──野菜を食べているのだろうよ」
その説明を聞いて、けどよ、とハンスは首を傾げた。
「オレが食べてるのはここじゃなくて、『下エーギル村の農産物』だぜ?」
「甘いなハンス。これだけ高濃度の魔素だ。坑道だけではなく、山全体に広がっているに決まっているだろう」
「あ、それウチのギルド長も言ってたわ。坑道とその周辺の魔素濃度が極端に高いのは勿論だけど、そもそも平地と比べたら全体的に濃度が高いし、もっと下の方にある洞穴とか、局所的に水の魔素が噴き出してる場所もあるって」
アルビレオの言葉をエリーが補足した。
実のところ、エーギル支部のギルド長、カモシカの獣人のエセルバートが冬季にギルドを留守にするのは、エーギル山系全体の魔素分布を調査するためである。
魔素濃度の異常な高さの原因を探り、周辺地域に悪い影響が出ていないか確認しているのだ。急峻な山岳地帯に特化した『カモシカ』の面目躍如というやつである。
なお敢えて冬季に調査しているのは、夏だと『カモシカを珍しがる人間や野生動物が邪魔だから』という極めて個人的な理由なのだが、表向きには『冬の方が魔素の流れを感知しやすいから』ということになっている。
閑話休題。
「なるほど、ウチの野菜を食べてたら水の魔素を取り込みにくくなるのか…。………ん?」
呟く途中、ハンスはあることに気付いた。
「……なあアルビレオ。人間ってのは本来、魔素の影響を受けにくいって言われてるよな?」
「うむ、そうだな」
「で、今現在、ゲルダが嫌になるくらい水の魔素が豊富な場所で働いてた上エーギル村の連中が、体調を崩してるよな?」
「うむ」
「……これ、やっぱ、水の魔素が原因なのか?」
大前提の話である。
ハンスの指摘に、アルビレオはにっこり笑って拍手した。
「よく気付いたな、ハンス」
「いやここまであからさまだったら嫌でも分かるだろ。お前やたらと匂わせてたし」
称賛が大変わざとらしい。ハンスが顔を顰めると、いやいや、とアルビレオが首を横に振った。
「知っていて黙っている者も居るからなあ。──な、トレ=ド=レント?」
「えっ」
「え!?」
ハンスはぽかんと口を開け、リンは目を見開く。
皆の視線が集中する中、トレドは凍り付いたような顔をしていた。
「……」
「…やれやれ、何も言えんか」
アルビレオが苦笑する。
「まあ、『半身』を人質に取られていたらそうするしかあるまいな」
瞬間、トレドがヒュッと息を呑んだ。無表情が崩れ、焦りと恐怖が顔を出す。
「ど、どうして…!?」
「ああなに、大したことではないさ。──その羽の色だ」
アルビレオが、トレドの背中に生える一対の羽を視線で示す。
透明感のある羽は、根元が赤で先端が青のグラデーションだ。
「妖精族は、半身と魂を繋げる。その特徴が現れるのが羽の色だ。…これは推測だが、トレ=ド=レントの本来の色は赤、半身の色が青なのではないか?」
「…」
「そして普通、妖精族の半身同士が離れ離れになることはない。──誰かが無理矢理引き離さない限りはな」
「……」
妖精族の『半身』は他種族で言うところの『配偶者』に当たるが、その意味は他種族よりはるかに重い。
半身は魂を繋げ、魔力を共有し、お互いの体質によってはその生死まで共有する。一蓮托生、あるいは文字通りの運命共同体。
誰よりも大切な『なくてはならない存在』であり、離れて暮らすなどあり得ない。それが妖精族の『半身』である。
だが今、トレドの傍らに半身の姿はない。それが意味するところは──
「大方、誰かに半身を人質に取られて、都合のいいコマとしてここに送り込まれたのだろう。上エーギル村の人々が余計なことに気付かぬように、情報を制限する壁役としてな」
アルビレオの淡々とした指摘に対して、トレドは終始無言だった。
無言のまま、トレドが自分の羽の先端を手繰り寄せ、ギュッと胸に抱く。その目に涙が浮かんでいるのを見て、リンが小さく息を呑み、キッと眦を吊り上げた。
「ちょっとアルビレオ、不躾すぎよ! 言い方ってもんがあるでしょ!」
「む? …う、うむ、すまん」
勢いに押され、アルビレオが頭を下げる。
小さく溜息をついた後、いいえ、とトレドが首を横に振った。
「…ご指摘の通りです」
リンが目を見開いた。
「え、それじゃあ…」
「…はい」
涙を拭ったトレドは、羽から手を離し、キチッと背筋を伸ばした。
「アルビレオさんの仰る通り、私は半身と引き離され、ある方面から命じられてこの村に派遣されました。…魔素中毒の存在を秘匿するように、と」
「ま、魔素中毒?」
エリーが困惑気味の表情で呟く。
「中毒なんて起こるの?」
「起こる」
アルビレオが即答した。
「本人の体質にもよるが、魔素濃度が高すぎる場所に居ると、その魔素の属性によって様々な症状が出る。冒険者でもたまにいるだろう?」
「それって魔素酔いのこと? でもあれは、魔法使い特有のやつよね?」
魔素濃度が高い場所では、たまに体調を崩す者が出る。
冒険者の間では有名だが、症状が出るのは、魔法使いなど魔力が高く魔素に敏感な人間に限定されているし、その場を離れてしばらく休めば回復する。
──というのが通説だが、
「…高濃度の魔素に、長時間、繰り返し曝されると、普通の人間にも影響が出る…?」




