66 坑道のワイルドベア
モクレンの案内で坑道を進むうち、ハンスたちの耳にも物音が聞こえてきた。
ザッザッザッと、地面を引っ搔くような音だ。それがマーキング──自らの縄張りを主張するために地面に爪痕を残す時の音だと気付いて、ハンスは視線を鋭くする。
ワイルドベアは魔素から直接発生する魔物だが、生態や習性は普通のクマと共通するところもある。『縄張りの主張』はその最たる例だ。
ただしワイルドベアの場合、『他個体との接触を避けるため』ではなく、『闘争相手を見付けるため』に自己主張しているという説が有力だが。
「…モクレン、そろそろ降りろ」
《おう》
ハンスが足を止めて告げると、モクレンが音もなく地面に降りた。
ワイルドベアには、ハンスとリンの存在はとっくの昔にバレているだろう。地面を引っ掻いているのは、恐らく威嚇の意味もある。
「オレが先行する。リン、ワイルドベアの背後を取って上手く注意を分散させてくれ。間合いには入るなよ」
「分かりました。ハンスさんも気を付けてください」
「おう」
リンの言葉にハンスは頷き、今度はモクレンに視線を転じる。
「モクレン、オレとリン、それぞれに明かりの魔法をつけられるか?」
今、主な光源になっているのは、モクレンが浮かべている明かりの魔法一つだけだ。坑道に置かれている魔法道具のランプの光では大雑把に『道がある』と分かるくらいで、周囲を照らすには全く光量が足りない。
こういう場所で魔物と戦う場合、光源となる大きめの明かり魔法を天井付近に打ち上げるか、冒険者の身体のどこか──大抵は頭の上に明かり魔法をくっつけるのが定番である。
『打ち上げる』のにはそれなりに繊細な制御と集中力と魔力量が要求されるため、『明かりの魔法をくっつける』方式が採用されることが多い。
それを踏まえてのハンスの提案だが、モクレンは片耳を倒して応じた。
《出来るけど…それより、出会い頭にワイルドベアの真ん前に一瞬だけ滅茶苦茶光る明かり魔法ぶち込んだ方が良くないか?》
「ん?」
ハンスは目を瞬いた。
いわゆる、目潰し──夜行性の魔物の討伐ではそれなりに使われる手だ。
確かにこの坑道は明かりがまばらで薄暗いのでやってやれないことはないが、ハンスには『ワイルドベアに』目潰しをするという発想はなかった。
「ワイルドベアって鼻が利くから、視界を奪ってもあんまり効果はないんじゃない?」
リンがもっともなことを言う。が、
「…いや、やってみるか」
ハンスはモクレンの提案に乗った。
「薄暗いが、完全に見えないってほどでもねぇからな。このくらいなら、ヤツもある程度は視覚に頼ってるだろ。瞬間的に怯ませることができれば万々歳だ」
どのみち、長期戦になったらワイルドベアの方が圧倒的に有利だ。
体力的に格上の相手には、不意打ちで短期決戦を仕掛けるしかない。
「よろしく頼むぜ、モクレン」
《おう、任せとけ!》
その後、ハンスたちは軽く打ち合わせをして、そろりと移動を開始する。
音はどんどん近くなり、程なく、曲がり角の先にワイルドベアが居る地点に到達した。
なぜ分かったのか。
──坑道に設置されたランプが光源になり、丁度曲がり角の壁面に、明らかに人間ではないモノの影が大映しになっているからだ。
相手はハンスたちに気付いているのか、動きを止めている。ハンスとリンとモクレンは一瞬視線を交わして頷き合い、直後、モクレンがダッと駆け出した。
《オラァ!!》
曲がり角の向こうで閃光が放たれる。軽く目を伏せていても視界が一瞬真っ白になるくらい強烈な光だ。
重い唸り声が上がる。
明るさが許容範囲になるや否や、ハンスとリンが駆け出すと、モクレンが駆け戻って来た。
すれ違い、ハンスは武器に手を伸ばす。
轟──!
黒い毛皮、赤い目に薄ら赤みを帯びた短い角、ハンスを軽く上回る巨躯──角を曲がった先、ワイルドベアはすぐ近くに居た。
四つ足で突進してくる魔物は、ハンスを見ているようで見ていない。ハンスは素早く横にずれ、右手で武器を振り抜いた。
ザクッと強烈な手応えと共に、草刈り鎌がワイルドベアの口の中に突き立つ。
──!!
ハンスの脇ギリギリを走り抜けたワイルドベアが仁王立ちになった。
すれ違いざま手を離した草刈り鎌は、ワイルドベアの口の中、上顎に向かって突き刺さっているが、致命傷には至っていない。
口を閉じられないのだろう。振り向くワイルドベアの口から、ぼたぼたと血混じりのよだれが落ちる。
「浅いか…!」
「ほらほら、こっち!」
ハンスが呻くと、ワイルドベアの横からリンが攻撃する。投げナイフが目元を掠め、ワイルドベアは血走った目をリンに向けた。
(よし──!)
注意が逸れた瞬間、ハンスはワイルドベアに向けて突っ込んだ。
途端、巨体が凄まじい勢いで振り返るが──それは予想済みだ。
「──っらあ!!」
ワイルドベアの腕が振り下ろされるより速く、ハンスは開きっ放しの口に長剣を突き入れた。
ビクンという痙攣と重い手応えに『やった』と半ば確信しつつも、すぐに剣を引き抜いて距離を取る。
「…」
──ズン。
巨体は剣を引き抜いた勢いで、うつ伏せに倒れた。剣を構えてしばらく警戒していたが、起き上がる様子はない。
「…やったか」
少し近付いて、赤い眼球が完全に光を失っているのを確認すると、ハンスはようやく構えを解いた。
場の空気がホッと緩み、リンが駆け寄って来る。
「ハンスさん、すごいです! ワイルドベアを瞬殺なんて!」
目がキラキラと輝いている。
驚きと憧憬が前面に出たリンの眼差しに、ハンスはちょっと後退った。
「お、おう。ありがとよ…?」
応じながら思わず首を傾げる。
はて自分はそんなにすごいことをしただろうか──ハンスの胸中には疑念が渦巻いていた。
(角の色が薄いから弱い個体だし…それでも、草刈り鎌の一撃で致命傷までいかなかったしなあ…)
角の色の濃い強力な個体を鋤の投擲一発で沈めたポールと比べると、どう考えても一段劣る。
最初にモクレンが目潰ししていたからワイルドベアの初撃を避けられたし、リンが気を逸らしてくれたから追撃を仕掛けられた。
いかにも冒険者らしい戦い方ではあるが──
…などとハンスが考えていると、曲がり角からモクレンが顔を覗かせた。ピコッと耳を立て、地面に倒れるワイルドベアを見遣る。
《倒せたみたいだな》
「おう。目潰し効いてたぜ、ありがとよ。リンも良いサポートだった」
「そ、そうですか? 良かったです!」
リンが頬を染め、嬉しそうに破顔した。
──笑顔で礼を述べるハンスは忘れていた。
ワイルドベアは極めて危険度の高い魔物であり、本来、上級冒険者といえど2人と1匹で秒殺できるような相手ではない。
明らかに、ハンスの脳内基準がおかしいのだが──残念ながら、そう指摘できる者は、この場に誰一人として居なかった。




