65 異変
坑道の魔物調査から、10日後。
農作業に一区切りついたハンスは、上エーギル村にやって来た。
《おっ、こっちにはまだ結構雪が残ってんだな》
肩の上には、当たり前の顔でモクレンが乗っている。そうだなと適当に頷いていると、これから坑道に向かうらしい鉱夫と目が合った。10日前に坑道の中で会ったうちの一人、ウォレスだ。
「…」
面と向かっての挨拶はないが、一瞬こっそり、ウォレスの右手がサムズアップの形になる。
内心吹き出しそうになりながら、ハンスも何食わぬ顔でこっそりとサムズアップを返した。モクレンも、ハンスの肩の上でひらりと1回、尻尾を振る。
鉱夫たちとは別方向、冒険者ギルドエーギル支部の方へ歩を進めると、モクレンがぼそっと呟いた。
《ちょっとしたスパイ仲間みたいだよな》
「言うなって」
今まさにハンスもそう思っていたのは秘密である。
実際、上エーギル村と下エーギル村が仲違いしている中、こっそり情報交換しようと画策しているのだから、その感想もあながち間違いではない。
上エーギル村の村長に知られたら鉱夫たちの村での立場が危うくなるので、表向きは距離を置いておこうと示し合わせているのでなおさらだ。
「おはようさん」
《よっす!》
「おはよう、ハンス、モクレン」
「おはようございます」
冒険者ギルドエーギル支部には、丁度エリーとリンが居た。
もはや定番となっているスージーからの野菜と肉加工品のお裾分けをエリーとリンに渡し、ハンスは依頼掲示板を確認する。
そしてすぐ、異変に気付いた。
「…鉱山の魔物が増えてんな」
「そうなのよ」
エリーが困り顔で頷いた。
「毎年春は魔物が増える傾向があるんだけど、今年は特にひどいわ。こういう時に限って、不良どもは役立たずだし」
グリンデルとヴァルトはここ数日、ギルドに姿を見せていない。その直前に咳をして調子が悪そうにしていたから、風邪だろう、とエリーは言う。
「ああ、季節の変わり目だからな」
「ああいうのは風邪なんか引かないと思うんだけど」
ハンスも全くもって同意だが、なかなかに辛辣である。
ハンスは改めて依頼掲示板に向き直り、とりあえず最も古い日付けの魔物討伐依頼をピックアップした。
「ま、片っ端から片付けてくしかねぇな。リン、サポートを頼めるか?」
「任せてください!」
「モクレンはここに居」
《ヤだね、行くに決まってるだろ!》
「…前回、水の魔素で吐きそうになってなかったか?」
ハンスが半眼で見遣ると、モクレンは耳を立て、キリっとした表情になった。
《昨日までの俺とは違うぜ! そんじょそこらのケットシーと一緒にするなよな!》
「あーはいはい、分かった分かった」
気合いでどうにかなるとは思えないが、ハンスは色々面倒になって投げやりに手を振った。
エリーから受注処理が終わった依頼書を受け取り、さてでは行くか、となったところで、
──バン!
勢いよく扉が開いた。
「ハンス! 助けてくれ!!」
入って来たのは、先ほどすれ違った鉱夫──ウォレスだった。外ではなるべく親しそうな雰囲気にならないようにしようという約束も忘れたように、青い顔で叫ぶ。
「坑道にベアが出た!」
「!」
「えっ!?」
エリーが目を見開いた。ベア──動物の『クマ』ではない。魔物の『ワイルドベア』の通称だ。
ハンスはリンと素早く視線を交わし、頷き合う。
「分かった! 近くまで案内できるか?」
「お、おう!」
「エリー、この件の処理は後付けで頼む!」
「わ、分かったわ!」
ハンスたちはそのまま、ギルドを飛び出した。
何事かと振り返る上エーギル村の人々の視線を浴びながら、坂を駆け上がる。
「ハ、ハンス!?」
坑道の入口には、脱出してきたらしい鉱夫たちが集まっていた。
目を見開いているのは、トムの父親──ジョゼフだ。
記憶にあるより白髪が増えてやせ細っている友人の父親に、ハンスは厳しい表情で問い掛ける。
「中に居た連中はみんな避難できたか?」
「いや、ベアから離れてた連中は出て来れたが…出口側を塞がれて、奥に逃げてった奴も居るはずだ」
その答えに、ハンスは内心歯噛みする。
つまり袋小路に追い詰められた者が、複数人居るということだ。どう考えてもまずい。
「分かった。ジョゼフのおやっさんたちは、村の連中に屋内に避難して静かにしてるよう伝えてくれ。万が一、ワイルドベアが外に出てきたら餌食になっちまう」
そんなことをさせるつもりはないが、最悪の事態も想定しなければならない。ハンスの言葉に、近くで話を聞いていた人々の顔色が変わった。ジョゼフが深く頷く。
「分かった、伝えておく」
「全員に伝え終わったら、おやっさんたちも家の中に避難してくれよ!」
頼むぜ!と念押しして、ハンスは坑道へ足を向ける。リンが当たり前の顔で横に並び、モクレンがハンスの肩の上でキュッと軽く爪を出した。
「モクレ」
《ダメって言われても勝手についてくぞ。ワイルドベアが襲ってきたら隠れるからいいだろ》
「…何言っても無駄か」
《そーいうこった》
ハンスは溜息をついて、モクレンの説得を諦めた。今はとにかく時間が惜しい。
「ウォレス、近くまででいい! 案内を頼む!」
「おう!」
ウォレスの行動にも迷いはなかった。坑道へ向かうその後を追って、ハンスたちも再度駆け出す。
少し奥に入ると、すかさずモクレンが明かりの魔法を使った。ランプを出す暇もなかったので、これはありがたい──ハンスは内心苦笑する。
(オレも焦ってるな…)
焦りも油断も禁物だ。自分に言い聞かせながらいくつもの分岐を駆け抜けていくと、ぴくっとモクレンが耳を立てた。
《ワイルドベアの気配がする…! まだ誰かを襲ってる感じじゃねーけど、多分結構デカい!》
「…!」
全員に緊張が走る。
「モクレン、ここから道案内はできるか?」
《イケるぜ!》
「よし──」
ハンスは一旦全員に立ち止まってもらい、ウォレスに声をかけた。
「案内はここまでで大丈夫だ。ウォレスも家に戻って、家族と避難してくれ」
「だ、だが」
「大丈夫だ。これでも冒険者としてはベテランなんでな」
正直、坑道の中などという限られた空間でワイルドベアの相手をするのは荷が重いが、そんなことはおくびにも出さずにハンスは自信満々な態度で言う。
「あとは、オレたちに任せておけ」
「そうですよ! 任せてください!」
《ワイルドベアなんか畑の肥やしにしてやるぜ!》
リンはハンスにならって、あえて余裕のある態度を取っているが、モクレンは半ば本気である。
実際下エーギル村では年間10頭以上のワイルドベアが土に葬られているので、あながち間違いではない──昨秋、ポールが一撃でワイルドベアを始末したのを思い出し、ハンスは無意識に腰の草刈り鎌に触れる。
「…分かった。お前らも気を付けてな…!」
ウォレスが出口に向かって駆け出したのを見届け、ハンスたちは一斉に奥へと向き直った。
「──よし。行くか!」
「はい!」
《おう!》




