60 鉱夫の異変
「…リン、吊りベルト持ってるか?」
「はいっ!」
もっとちゃんとした装備を持って来るんだったと後悔しながらリンに尋ねると、すぐに目的のものが出て来た。太さも長さも十分だ。
「ありがとよ。流石だな」
「圧縮バッグは最大限活用してますから」
感心してハンスが目を向けると、リンは誇らしげに胸を張った。
その言葉に、ハンスは苦笑する。冒険者の新人研修の時、ハンスが口を酸っぱくして新人たちに言い聞かせていた言葉だ。
「──よし、まずは外に運び出すぞ」
「分かりました!」
「!?」
目を見開いたのは、様子を見守っていた鉱夫たちだ。待て、と一人が声を上げる。
「本人もちょっと疲れただけだって言ってたんだ。そのまま休ませてれば」
「ダメだ」
ハンスはきっぱりと言い放ち、鋭い目を鉱夫たちに向ける。
「この場に置いておくのは絶対にまずい。──ろくに息ができてねぇ」
「え…」
「肺に水が溜まってんのか、空気が漏れてんのか、理由は分からんが…医者に掛かった方がいい」
リンは『急に座り込んだ』と言っていた。見た感じ外傷はないので、この場で怪我をして息が吸えなくなったというのも考えにくい。
だが現実として、デニスは呼吸困難のような症状を呈している。
しかもここは、ケットシーが顔を顰める程度には水の魔素が濃い。魔素は一般的に直接人体に影響を与えることはないと言われているが、この場に置いておけるはずもなかった。
そもそも、肺に何か異常があるなら出来るだけ早く医者に連れて行くべきなのだ。
が。
「し、しかし…」
「それは本当なのか?」
ハンスの説明にも、鉱夫たちは懐疑的な視線を向ける。リンがむっと表情を険しくした。
「ああ、本当だ。ここで嘘を言ってもしょうがないだろ」
ハンスはあくまで冷静にと自分に言い聞かせながら、淡々と頷く。こっそりとリンに『待て』の合図を送るのも忘れない。
(まずは、体調不良者優先だ)
とはいえ──
「…下エーギル村の人間の言うことだしな…」
「…どうせ嘘じゃろう」
「俺たちの邪魔をしたいだけだ」
「だよなあ」
「…あ゛?」
訳の分からない理屈で嘘と断じられ、ハンスの頭の中であっさり『ブチッ』という音がした。
年齢を重ねて取り繕うのは上手くなったが、本来、我慢強い性質ではないのだ──この男は。
「──あーもう、ごちゃごちゃうるせえ!」
「!?」
「なっ!?」
「現時点で、重症者が出てんだよ! いいからさっさと道を開けろ! ついでにお前らも外に出ろ! こんな危険なんだか安全なんだか分からねぇ場所に民間人を置いておけるか!!」
怒声を上げ、ハンスは狼狽える鉱夫たちに詰め寄る。
「いいか、オレは『下エーギル村のハンス』としてここに居るんじゃねえ。『エーギル支部所属の上級冒険者』としてここに居るんだよ。冒険者には『民間人の人命優先』っつー原則があんだ。あんたらも鉱夫として働いてんなら、立場で割り切れ。一々突っ掛かってないで仲間の命を優先しろ!」
あまりの剣幕に、鉱夫たちはタジタジと後退った。全員ハンスより年上だが、完全に気圧されている。
ハンスは鼻を鳴らして、蹲ったままの男に向き直った。
「オレが背負って運ぶ。モクレン、リンの方に移れるか?」
《おーう…》
「リン、背負うの手伝ってくれ」
「はい!」
負傷者や急病人の運搬は、冒険者の新人研修の必修項目だ。
ハンスが男の腕を取って背負う形を取ると、リンが反対側の腕もハンスの肩に回し、素早く吊りベルトを掛けていく。その間、抵抗はなかった。
「きつくないですか?」
「大丈夫だ」
あっという間に男を背負い、ハンスは静かに立ち上がった。顔を上げると、まだ戸惑っている鉱夫たちと目が合う。
「あんたらも行くぞ」
「お、おう…」
「リン」
「はい! 前方の警戒は任せてください」
モクレンを肩に乗せたリンが先頭に立ち、一行は坑道を出た。
昼前の日差しが眩しい。ハンスは軽く目を細めて周囲を見渡す。
「上エーギル村には医者が居るって聞いたが」
「あ、こっちです」
リンがすぐに歩き出した。その肩からモクレンが飛び降り、ふー、と息をつく。
《やっと息ができるぜ》
「お前なんでリンからはすぐ降りるんだよ」
《だって狭いもんな》
「…」
ハンスは半眼でモクレンを見遣り──今はそれどころではないと思い直してリンを追った。
ハンスが子どもだった頃は、上エーギル村にも下エーギル村にも医師は居なかった。下エーギル村に、偏屈な老薬師が居ただけだ。その薬師も数年前に亡くなった。
上エーギル村に医師が常駐するようになったのは、魔石鉱山のお陰である。住民が増え、ここに住もうという酔狂な医師が現れたのだ。
ただし──
「トレド先生、急患です!」
リンが声を上げながら、いきなりドアを開く。
リンに続いてハンスが扉をくぐると、むわっと独特の匂いがした。
(…なんで酒臭いんだ…?)
「トレドせんせー!」
リンはズカズカと奥の部屋に入り、さらに大きな声で医師を呼ぶ。むう、と低い呻き声が聞こえた。
「あっ、居た!」
ハンスが部屋を覗き込むと、リンが奥のベッドの上掛けを思い切り引っ剥がすところだった。
「起きてください!」
上掛けが宙を舞い、あらわになったベッドの上には──誰も居ない。
「…?」
ハンスが首を傾げていると、リンは床に落ちた上掛けを拾い、バサバサと荒っぽく振りさばいた。
「ほらほら、おーきーてー!」
程なく、
「ぷぎゃっ!?」
間抜けな声とともに、小さな人影が床に落ちた。
『小さな人影』というのは、比喩でもなんでもない。ケットシーより少し大きいくらいの、文字通りの『小さな』人物だ。
「なにをするのですか、せっかく気持ちよく寝ていたというのに」
それがのっそり身を起こすと、白衣を羽織った背中に特徴的な物体──薄ら赤と青のグラデーションが入った、トンボのような形の透明な羽が生えているのが目に入った。なるほどとハンスは呟く。
「妖精族か」
 




