55 エーギル支部のギルド長
「──そういや、登って来る途中でカモシカを見掛けたんだが」
「えっ」
冬の間の井戸メンテナンスの報酬を受け取りつつ、ハンスがふと呟くと、エリーが軽く目を見張った。
「それって…」
「何か知ってるか?」
ハンスの問いにエリーは視線を彷徨わせ──数秒後、がっくりと肩を落とした。
「…あー…そうね。言い忘れてたわ」
「うん?」
「そのカモシカ、多分──」
その時、ギルドの奥からトコトコと妙な足音がした。
そして、
「おーい、今帰ったぞい。エーギル支部のマスコット様のご帰還じゃ!」
「あっ」
「…へ?」
《うわ》
奥へと続く廊下からひょこっと顔をのぞかせたのは、茶色掛かった明るい灰色の毛皮に短い角が特徴の──どこからどう見ても、カモシカだった。
ただし、得意気に鼻を鳴らし、胸を張ってギルドの奥から現れるジジくさい口調の生き物を『カモシカ』と呼んで良いのなら、だが。
「…………エーギル支部のマスコット?」
キリっとポーズを決めるカモシカ(仮)を指差して、ハンスがエリーに曰く言い難い視線を向けると、エリーはサッと目を逸らした。
待つことしばし。
「……名乗るのは自由よね」
「…なあ、本当にそう思ってるか?」
重ねた問いに、エリーは答えない。
モクレンがポンとハンスの側頭部を叩いた。
《突っ込んでやるなよ、ハンス。こういうのは『ああそうですか』って流しとくのが大人ってもんだぜ》
「限度があるだろ」
《……あー、うん、まあそういう説もある…》
ハンスがぼそりと応じると、モクレンもごにょごにょと目を逸らした。
「なんじゃ、不躾に。それがこの可愛い可愛い生き物に向ける視線か?」
微妙な空気をようやく悟ったカモシカ(仮)が、鼻面にシワを寄せて抗議する。ハンスは渋面全開で応じた。
「可愛いと主張するなら、まずその全身泥だらけかつ埃まみれでごわっごわの毛皮を何とかしろ」
「ぬっ」
カモシカ(仮)は、なぜか大変汚かった。一応本来の毛色も見えてはいるが、元がどんなに可愛くても、泥まみれのボロ雑巾と変わらない質感の被毛では説得力がない。
それに、
「あとあんた、滅茶苦茶臭いぞ。どこの肥溜め泳いで来たんだよ」
「…なんと!?」
カモシカ(仮)が目を見開いて、自分の身体を嗅ぎ始めた。動いた拍子に強烈な臭いがさらに広がり、エリーとハンスとモクレンはじり、と後退る。
冗談抜きで臭い。何故カモシカ(仮)自身が認識していないのか、不思議でならない。
「うーむ、うーむ……ええい、ちょいと待っとれ!」
カモシカ(仮)はその場で一頻り足踏みし、改めて首を回して自分の状態を確認した後、ばっと身を翻してギルドの奥へ消えた。バタン、と音がしたところを見るに、出て行ったようだ。
「…………で、どうすんだこれ」
残されたのは、泥まみれの足跡と大量の臭い泥の塊。
絶望的なハンスの呟きに、答える者は居なかった。
「いやースマンスマン。身繕いをすっかり忘れておった」
ハンスとエリーとモクレンが仕方なく手分けして床を掃除し終えた後、程なくして戻って来たカモシカ(仮)は、人間の姿になっていた。
「5ヶ月も獣やっとると、ついつい感覚が『そっち』に引っ張られてしもうてな」
《普通の獣だったら逆にあそこまで汚くならねぇと思うぞ》
言い訳がましく笑うカモシカだったらしい人物に、モクレンが辛辣に突っ込む。
言いよるのう、と頭を掻くその人物は、口調に見合った白髪交じりの老人だった。
ただし普通のヒューマンとは違い、耳は頭の上の方に、カモシカと同じ形状のものがついていて、そのすぐ近くに短い角が生えている。
顔も面長で、瞳孔は横に長い独特の形状。人間ではあるが、獣──カモシカの特徴が色濃く反映されている。
西大陸の南方に多く住まう、獣人族。しかも先程、完全にカモシカの姿をとっていたということは──
「…あんた、『純化者』か」
「おお、よく知っとるな」
ハンスが呟くと、老人は嬉しそうに破顔した。
獣人族の中には、稀に獣の姿に変身できる者が居る。
その始祖と同じ能力を持つ者を、獣人族は敬意をこめて『純化者』と呼ぶ。
話には聞いたことはあるが、ハンスも実際に純化者に会うのは初めてだ。
「わしはカモシカの獣人、エセルバートじゃ。一応、ここのギルド長なんぞやっとるが、まあ気楽に『エセじい』とでも呼んでくれ」
「!」
《おう! 俺は下エーギル村のケットシーのモクレンだ。よろしくな、エセじい》
爆弾発言にハンスがギョッとして固まる一方、モクレンは気さくに名乗る。
《『エセじい』って、偽物のじーさんって意味に取られたりしないか?》
「ほほ、こんな見た目じゃがまだまだ若い者には負けんでな。偽物はむしろ誉め言葉じゃわい」
モクレンが差し出した右前脚をふにふにと握ってにこやかに握手する老人──エセルバートを、ハンスは若干引いた目で見詰めた。
「……マスコットがギルド長…いや、ギルド長がマスコットを自称する支部…か…」
「深く考えちゃダメよハンス」
エリーが遠い目をして呟く。
「一応、これでも、現役時代は凄腕の魔法使いで、書類仕事もすっごい出来る人なんだから。……秋から冬にかけて半年近く居なくなるけど」
「ダメだろそれ」
最後の情報で全てが台無しである。それで仕事が回るのだからある意味すごいが。
(…実はすごいのはエリーだったりしてな)
実際、ギルド長不在の間、この支部の仕事は全てエリー一人でさばいているので、その予想もあながち間違いではない。
「いや、これはこれで重要な仕事でなあ」
エリーとハンスの何とも言えない会話を、エセルバートは笑って受け流した。見ようによっては大変厄介な年の功である。
「──それはそうと、お主がハンスじゃな?」
エセルバートがふっと笑みを薄くし、ハンスを見上げた。途端に空気が引き締まり、ハンスも自然と姿勢を正す。
「5ヶ月ほど前にユグドラ支部よりこちらへ参りました、上級冒険者のハンスと申します。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません、ギルド長」
「ああ、よいよい」
口調を整えて名乗ると、エセルバートは苦笑いしながら手を横に振った。
「不在にしとったわしが悪いんじゃ、気にするでない。それから、堅っ苦しいのは苦手での。敬語なんぞ要らん要らん。鳥肌が立つでの、ホレ」
《いや、毛深すぎて全っ然分かんねぇけど》
「ほっほっほっ」
腕まくりをしたら、いかにもカモシカっぽい剛毛がびっしりと生えていた。これではモクレンの指摘通り、鳥肌が立っているかどうかなど分かりようがない。
「なかなかツッコミのキレがいいのうモクレン。じゃが、エーギル支部のマスコットの座は譲らんぞ?」
《いやいやいや、そこは素直にケットシーに譲ろうぜ? カモシカより絶対人気あるもんな。だってケットシーだし》
「むむ、草食獣の朴訥とした魅力が分からんとは嘆かわしい」
眉を顰めたエセルバートは、むむむと唸り──再度カモシカの姿になった。
「見よ、このつぶらな瞳に慎ましげな足取り! 上目遣いなんかした日には世の婦女子が気絶すること請け合いじゃ!」
《なんの、だったらこっちは必殺、『モフっても良いんですよ?』だ!》
エセルバートが明らかに狙った角度でポーズを決めると、すかさずモクレンがテーブルの上でごろりと横になり、くねくねと謎のダンスを踊って腹毛をアピールする。
エセルバートが愕然とした。
「なんと、初手からそんな禁断のポーズを…!? くう、ならばこちらはこうじゃ!」
「オイ、一体どういう流れだ」
ハンスが半眼で突っ込んだところで、ギルドの扉が開く。
「おはようございます──ってハンスさんとモクレン!? え、カモシカ!?」
ドアを開けた状態で大きく目を見開いたのは一瞬。
動揺を振り払ったリンは、即座にナイフを構えた。
「獲物ですね! 解体だったら手伝いますよハンスさん!」
一方、
《むっ、やるなエセじい! じゃあこれでどうだ! 立ち上がって『ちょーだい』アピール!》
「ぬおっ!? こ、これはなかなか…!」
「カモシカが喋った!?」
後足で立ち上がって上目遣いで小首を傾げるケットシーと何やらダメージを受けるカモシカ、そしてナイフを構えたまま驚くリン。そっと天を仰ぐエリー。
あまりにもカオスな光景に、ハンスは叫んだ。
「お前ら自由すぎだ!!」




