54 春先の山
冬の間、ハンスはひたすら除雪と井戸のメンテナンスに明け暮れた。
ハンスにとって予想外だったのは、井戸の作業に毎回モクレンがついて来たことだ。
井戸小屋の中、手押しポンプとその周辺を魔法で絶妙に温め、完全凍結した井戸パイプの中を開通させるのに一役買った。
モクレン自身は『まー滞在費ってやつだ』などと言っていたが、人間の手伝いをするとスージーが夕飯にとっておきの鶏ハムを出してくれるからだとハンスは睨んでいる。
実際、ハンスの家に滞在する他のケットシーたちも部屋の掃除や鶏の世話などを積極的に手伝い、鶏ハムに舌鼓を打っていた。
そんなこんなで、賑やかながら淡々と、季節は流れ──
雪解けがそれなりに進んだ頃、ハンスは久しぶりに上エーギル村へ向かった。
実に4ヶ月ぶりの登山である。まだ雪がかなり残り、目印の看板も心なしか薄汚れていて、うっかりすると道が分からなくなりそうだ。
(これは、登山道の点検依頼が来そうだな…)
ザクザクとシャーベット状の雪を踏みしめて、ハンスは内心で呻く。
ユグドラの街から商人たちがやって来るのは、雪解けがほぼ終わってからだと聞いている。その前に、雪に埋もれていた道に変な物が落ちていないか、風雪に晒され続けた柵や看板に破損がないか、確認しておく必要があるだろう。
ちなみに、雪に閉ざされていたら何も変わりはしないだろうと思われがちだが、そんなことはない。
例えば寒さにやられた野生動物の死体は、冬の間は雪に埋もれて見えないが、雪解けが進むと露出し、腐敗を始める。登山道にそんな物があったら気分も良くないし、肉食獣や肉食性の魔物を引き寄せるという実害もある。
なお、春に見つかるのは野生動物の死体だけではない。冬の間に行方不明になった人間──つまり遭難者も、雪解けと共に『発見される』ことが多い。
その意味でも、人間が通る場所とその周辺の確認は必須と言える。
(今年はそんなことはないと思いたいが…村以外の人間が来てたら分からないからな…)
《おっ、コケモモ! こっちにはやたら生えてんだな!》
ハンスが若干憂鬱な気分で歩いていると、肩の上から陽気な念話が響いた。
ケットシーのモクレンが当たり前の顔でハンスの肩に乗り、興味深そうに周囲を見渡している。
「あんまキョロキョロすんなよ、落ちるぞ」
もはや突っ込む気にもなれず、ハンスは淡々と忠告だけを口にする。降りろと言ったところで降りるはずもないのだ。
冬の間ハンスの家に滞在し続け、井戸メンテナンスの手伝いを続けた結果、モクレンはすっかり家に馴染んだ。
どれくらい馴染んだかというと、ハンスの冬用のコートの内側に、モクレンが入るための大きな内ポケットが付けられるくらい馴染んだ。
仕事を手伝ってくれているのに、極寒の中歩かせるのも違うだろうとスージーが気を利かせた結果である。
なお、そこにハンスの意見は反映されていない。
「…にしても、今年の冬はあっという間だったな…」
ハンスがしみじみ呟く。
そりゃあ俺たちが居たからな、とモクレンが胸を張っているが、ハンスは敢えて無視した。
…オッサンが淡々と除雪しているだけの大変地味な絵面なので諸事情により割愛──もとい、30歳も過ぎると、季節の移り変わりも早く感じるようになるのだ。他意はない。
《なー、夏になったらコケモモ収穫しようぜ。ジャム食いたい》
「人がやたら通る登山道の脇で収穫なんざ出来るわけないだろ」
《ちっ、ケチめ》
などとやり取りするモクレンは、実は上エーギル村に行くのは初めてである。
暖かくなってきたら行動範囲が広がるのは人間もケットシーも同じらしく、モクレンはエーギル支部に向かうハンスの肩に『俺も連れてけ!』と飛び乗った。ずっと行ってみたかったらしい。
実際、尻尾の先端をピクピクさせながらヒゲをピンと立て、周囲を見渡すモクレンはご機嫌そのものだ。まだそれなりに寒いが好奇心が勝るらしく、『ポケットに入れろ』とは言わない。
《おっ、カモシカが居る!》
「…うん?」
モクレンの言葉に、ハンスは首を傾げた。
視線の先を追うと、登山道からかなり離れた急斜面に茶色掛かった明るい灰色の四足獣の姿があった。
短く真っ直ぐな角に少し短い鼻面、ほぼ垂直に見える岩肌を軽々と駆ける動き。確かに、カモシカにしか見えないが──
「…エーギル山にカモシカは居ないはずなんだが」
ハンスがぼそりと呟くと、何故かカモシカがビクッと肩を揺らし、ハンスたちをじっと見た後に明後日の方へ駆け出した。
聞こえるはずのない距離だが、ハンスの言葉を理解し、警戒したような反応だ。
《どっかの山から移動してきたんじゃないか?》
モクレンは気楽に顔を洗っている。ハンスは渋面で応じた。
「カモシカはリンドブルム山にしか棲んでないはずだ。遠すぎる」
永世中立国アイラーニアの中央からほんの少し北にある霊峰、リンドブルム山は、独自の生態系で知られている。
確かに地続きではあるので他の地域に生き物が迷い込むことはあるだろうが、カモシカが歩いて移動したと考えるには無理がある距離だ。
そもそも、魔物が跋扈する山をいくつも越えてカモシカが無傷でやって来れるとは思えない。
「…つーかお前、なんで『カモシカ』なんて知ってんだよ。下エーギル村育ちのケットシーのくせに」
《ん? そんなん、お前ん家の本で見たからに決まってるだろ? 俺は勤勉なんだぜ》
ハンスが半眼で見遣ると、モクレンは得意気に胸を張った。
厳密には『暇を持て余して蔵書を読み漁った』という表現が正しいのだが、ものは言いようである。
《ま、それはそれとしてだ。早く行こうぜ。久しぶりにリンにも会いたいしな》
モクレンがハンスの肩をタシタシと叩く。
ハンスは溜息をついて、歩みを再開した。
残雪を踏み越えての登山はゆっくりながら順調に進み、いつもの5割増し程度の所要時間で無事上エーギル村に着いた。
《ここが上エーギル村かー!》
モクレンが目をキラキラさせてハンスの肩から飛び降り──石畳に着地した直後にピエッと謎の声を上げ、すぐさまハンスの肩の上に全力で舞い戻って来る。
《冷てぇ!》
「そりゃ石畳だからな」
尻尾がブワっと膨らんでいた。必死に前脚の肉球を舐めて温めようとしているが、この寒風の下では逆効果だろう。
ハンスは呆れた目でモクレンを眺め、雪の残る石畳の道を進んで冒険者ギルドエーギル支部のドアをくぐった。
「邪魔するぜ」
「あら、ハンス!」
受付カウンターに立つエリーが、パッと明るい顔になる。
「久しぶり。もう登って来れるようになったのね」
「おう。結構雪は残ってるが、一応な。一般人や子どもにはまだ危ないだろうが」
「ケットシーは平気なの?」
エリーの視線は、ハンスの肩の上のモクレンに向いている。目が合ったモクレンは、キリッとした顔で胸を張った。
《もちろん平気だぜ! なんせ可愛くて最強だからな!》
「あー、こいつは下エーギル村に棲んでるケットシーのモクレンだ。上エーギル村を見てみたいって言うんで連れて来た。ちなみに道中はずーっとオレの肩の上に乗ってて自力で登って来たわけじゃないから、こいつの言うことは信用するなよ」
「あら、そうなのね」
《なんだよ、『登るのは平気だった』ってのは嘘じゃないだろ?》
「あーはいはい。物は言いようだな」
確かに、嘘は言っていない。
ハンスがぞんざいに頷いていると、エリーが苦笑した。
「良いコンビね。──私は冒険者ギルドエーギル支部の職員をしてる、エリーよ。ハンスとは幼馴染なの。よろしくね、モクレン」
《おう! よろしくな!》
「おい待て、何だコンビって。オレはこいつと組んだ覚えはないぞ」
聞き捨てならない言葉が出て来た。ハンスが半眼で抗議すると、エリーは不思議そうな顔になる。
「そうなの? でもあなたたち、ものすごく馴染んでるわよ?」
「馴染んで…」
《まあ仕方ないよな! 諦めろよハンス。井戸ポンプのメンテナンスで協力した仲だろ?》
モクレンはひたすら楽しそうだった。




