53 上エーギル村の冬
その日リンは、あまりの寒さに目を覚ました。
リンが拠点として借りている、上エーギル村の小さな借家。古めかしい石造りの外観とは裏腹に、内装は結構小綺麗だ。
床と天井は板張りで、断熱性を高めるために枯れ草が練り込まれた塗り壁は明るいベージュ色、そこにさらにあめ色のシックな腰壁がぐるりと張り巡らされている。
ベッドと家具はリンの持ち物で、ちょっとアンティークっぽい雰囲気が絶妙に部屋とマッチしていた。
圧縮バッグを買い足してユグドラの街から持って来たかいがあったと、家を借りた当初、リンは自らの判断を心から褒め称えた。
とはいえ──
「……寒い」
頭から布団を被っても、寒いものは寒い。
もぞりと起きたリンは、しょぼしょぼする目を擦りながら立ち上がり、クローゼットを開けた。
いつもの装備に、ハンスの紹介で購入した羊毛の分厚いコートを羽織り、きっちりボタンを留める。
昨夜は赤々と燃えていた暖炉の火は、炭の奥にわずかばかりの赤みを残すのみとなっている。
完全に消えていないだけマシだと自分に言い聞かせて、リンは木箱を漁り、枯れ草と細い枝を熾火にくべてそっと息を吹きかけた。
程なく細い煙が上がり、パチパチと乾いた音がし始める。
枯れ草を舐めるように広がる炎にさらに枯れ枝と薪を投入し、火の勢いが安定したのを確認すると、リンはようやく一息ついた。
「…やっぱり温熱器、買うべきかしら…」
温熱器とは、火の魔石を使った暖房器具の一種である。
仕組みはコンロとほぼ同じで、火の魔石からの魔力を細い金属線に流し、熱を発生させる。暖炉と違って火を起こす必要がなく、スイッチ一つですぐに熱が放射されるため、とても便利だ。
ただし、
「……火の魔石代、馬鹿にならないのよね…」
温める対象が鍋やフライパンといった限られたサイズのものなら良いのだが、部屋全体の空気を温めるとなると、魔力の消費量が跳ね上がる。
まして、この寒さだ。手間は掛かるが暖炉で薪を燃やした方がはるかに安上がりで効率的なのは明らかだった。
「この村、魔石高いし…」
じっと火を見詰めながら、リンは眉間にしわを寄せる。
こちらに来る前、リンは村ならばユグドラの街より物価は安いのではないかと漠然と考えていたが、実際住んでみるとそんなことはなかった。
──いや、一部は確かに安い。
ハンスの幼馴染、トムの雑貨店で買った羊毛と皮のコートは、ユグドラの街で買ったら最低でも2、3倍の値段になるはずの上質な素材を使った逸品だった。
つまり、村で生産されて村の中で流通している物に関しては、びっくりするほど安いのだ。…ハンスの口利きがあったから、という面もあるが。
ところが、村の外、ユグドラの街からやって来る品は、街で買うのと同等かそれ以上の値がついている。
商人たちの中間マージンと輸送費が上乗せされているので仕方のないことではあるが、リンからすると『限度があるでしょ』と突っ込みたくなるような値段の物も、しばしばある。
野菜なんてお隣の下エーギル村から買えばいいのに、とリンは心の底から思うのだが、エリーやトムに聞いた限りでは色々と事情があるらしい。
(ちょっとした仲違いのせいで美味しい食材が食べられないとか、ホントどうかしてるわ)
リンにとって一番の問題は、そこである。
今はまだハンスに貰った食材が残っているから良いが、これから本格的に雪が降ったら外出もままならなくなるという。乾物や塩漬け食材などの保存食で過ごす日々が、もうすぐそこまで迫っている。
「──あーもう、やめやめ!」
パン、と両手で頬を叩き、リンは立ち上がった。
家に居ても仕方がない。今日はトムの雑貨店に注文していた保存食が届く日だし、ついでに何件か依頼もこなしてこよう。
そう決意して簡単に朝食を済ませたリンは、勢いよくドアを開け──
「──…」
バン!
目に飛び込んで来た光景に、咄嗟に思い切りドアを閉めた。
「…………え?」
薄暗い室内で、間の抜けた声で呻くこと暫し。
再度ドアを少しだけ開けたリンは、ビシッと音を立てて固まった。
「──」
ドアの隙間から見える、眩しい白。
見渡す限り、屋外を埋め尽くす白。
ひときわ強い風が吹き、巻き上げられた白がリンを襲った。
「いっ…!」
顔面を直撃する刺すような寒風と、物理的に痛い氷の粒。
積もっていれば柔らかい雪も、強風で吹き飛んで来れば普通に痛い──ビシビシと顔面に地吹雪を受けながら、リンはそんなことを理解する。
つまり。
「……うそでしょー!?」
たった一晩で雪に埋もれた上エーギル村の姿に、リンは悲鳴を上げた。
──保存食で過ごす日々は、『もうすぐ』ではなく、『今、目の前』にあった。
「…おはようございます!」
とにかく雑貨店に行こうと気合いを入れて家を出たリンは、地吹雪に耐え切れずに目標変更、途中にある冒険者ギルドエーギル支部に逃げ込んだ。
「おはよう──って、大丈夫? リン」
全身雪まみれのリンの姿に、今日も受付に立つエリーが軽く目を見開く。
「ええまあ…なんとか…」
『無理』という単語が喉まで出掛かったが、リンはなけなしのプライドで自制する。ハンスの幼馴染であるエリーの前で、格好悪い姿を晒したくはない。
ドアの前でパタパタと雪を払った後、リンはカウンターに歩み寄った。
「いきなり地吹雪で、びっくりしました」
「ああ、知らないと驚くわよね」
エリーは頷き、大体毎年こんな感じよ、と苦笑する。
「今頃、下エーギル村も雪で埋もれてるんじゃないかしら」
「じゃあ、ハンスさんもしばらくこっちに来れないですね…」
「そうね、多分春まで無理だと思うわ」
「えっ」
「ここまで一気に積もったら、もう春まで融け切らないだろうしね」
エリーの言葉に、リンは分かりやすく絶望の表情を浮かべた。
つい数日前にハンスから冬の間のことを頼まれたばかりだが、まさかこんなに早くいきなり厳寒期がやって来るとは思わなかったのだ。
「あー! 寒い!」
リンが打ちひしがれていると、乱暴に扉が開き、冒険者のグリンデルとヴァルトが入って来た。
2人とも雪まみれで、フード付きのマントに耳当て、マフラーに手袋とフル装備だ。マントを外してばさりと雪を振り落とす動作も慣れたもの。
マントを小脇に抱えた2人はそのまま掲示板を眺め、依頼書を手に取って初めてリンたちに目を向けた。
「お? 誰かと思えばオッサンびいきのチビじゃねーか」
「珍しく大人しかったんで気付かなかったぜ。寒さにやられたか? 嬢ちゃんよ」
エリーに依頼書を差し出しながら、視線はリンに向いている。
ニタニタと嫌な笑いと共に放たれた嫌味に、リンは一瞬言葉に詰まった。寒さと雪に辟易していたのは事実だ。
「…あんたたちには関係ないでしょ」
リンが低い声で応じると、グリンデルとヴァルトはわざとらしく首を竦めた。
「おー怖。ま、せいぜい頑張るこったな」
「その身長じゃ、雪に埋まったら完全に見えなくなりそうだけどな!」
「…」
リンの殺気が膨れ上がったところで、エリーが処理済みの書類をグリンデルの顔面に押し付けた。
「あんたたち、他人に構ってる暇があるならさっさと行きなさい。ほら」
「へいへい」
薄ら笑いを浮かべながら書類を受け取った2人は、マントを羽織ってギルドを出て行く。請け負ったのは、いつもの『鉱山の魔物討伐』の依頼だ。そのまま坑道に向かうのだろう。
そうして、ドアが閉まった後──
「…………ムカつくー!!」
リンは天に向かって吼えた。
その背後で、エリーはそっと遠い目になる。
「……先が思いやられるわね…」