47 森の中にあるもの
ナターシャとラキス商会の従業員は翌日すぐにユグドラの街にとんぼ返りし、精力的に動き始めた。
リンは下エーギル村の宿に泊まった後、ハンスと共に上エーギル村に向かい、正式にエーギル支部所属の冒険者となった。護衛依頼を安心して任せられる冒険者の登場に、エリーが諸手を挙げて喜んだのは言うまでもない。
…なおリンは、下宿先を上エーギル村の宿に定めた翌日、『上エーギル村のご飯が美味しくないんですけど!?』とハンスに盛大にクレームを入れて来た。
上エーギル村は食料をユグドラの街の商人から買い付けているため、上エーギル村で下エーギル村の食材が使われることはない。そうハンスが説明したら、リンの目から光が消えた。
あまりにも気の毒だったので、ハンスは下エーギル村で養豚と養鶏を営むガイに依頼し、ガイ特製のベーコンとハムとウィンナーを買い込んでリンにプレゼントした。ついでに『ウチで採れた野菜だ』と保存のきくさつまいもと玉ねぎを渡したら、リンは『これがご近所付き合い…』と感動していた。
──そうして、ラキス商会が下エーギル村と取引契約を結んでから、5日。
ハンスはポールに連れられて、村の外の森林地帯へ分け入った。
ポールは『お前もそろそろこちらに手を出しても良いだろう』などと思わせぶりなことを言っていたが、当然ハンスには『こちら』が何を意味するのか分からない。
(木こりの仕事…じゃあないよな…?)
ハンスが持って行くようにと言われたのは、樹木の剪定に使う刃の分厚いハサミと、背負って運ぶためのベルトがついた縦長の木箱だけ。
木材用の木の枝打ちにしては鉈も斧も持っていないし、ポールはそもそも木こりではなく農家である。わざわざ魔物の領域である森に踏み込む理由が分からない。
しかも今日は、スージーが一緒に来ていない。ポールが『今日はあちらに行く』と言ったら、『じゃ、私は家で保存食を作ってるよ』と自ら留守番を宣言した。
大体全員で作業をするものだと思っていたから、ハンスにはそれも意外だった。
ザクザクと、霜柱を踏み締める音が響く。
広葉樹はすっかり葉を落とし、針葉樹も濃い緑の葉を広げ、ひっそりと静まり返っている。
遠くで時折聞こえるカサコソという音は、リスや小鳥が秋の実りの名残りを探す音だ。
一昨日薄らと積もった雪は、昨日の昼間の暖かさで8割方融けたが、森の中には小動物の足跡がついた残雪がそこここにある。
白い息を吐きながら朝の森の中を歩くこと暫し。
「…?」
不意に視界の端に白い物が見え、ハンスは目を瞬いた。
薄暗い森の中、低い位置から差し込む朝日に照らされて、真っ白い塊状の靄が浮かんでいる。
「…霧?」
湿地帯や河岸、湖岸なら、風向きや気温の影響で霧が塊状になるのも珍しくない。
が、ここは山の中腹である。森の中にこうした霧が現れるのが奇妙に思えて、ハンスは思わず足を止めた。
「…どうした」
ポールが振り向く。
「いや、あの霧…」
「…ああ」
ハンスが指差すと、ポールはちらりとそちらを見遣り、平然と頷いた。
「ここから先は霧が濃くなる。──これを腰に括り付けろ」
「えっ」
「はぐれたら、戻れなくなる」
「…お、おう」
自分の腰に括り付けたロープの端をハンスに差し出すポールは、あくまで真顔だった。
冗談だろ──と軽口で応じようとしたハンスはごくりとつばを飲み込み、素直にロープを受け取る。
『戻れなくなる』という言葉が、妙に真に迫っていた。
(…道に迷うとか、その程度の意味、だよな…?)
腰にしっかりとロープを結びながら、ハンスは思い出す。
確か、魔法で方向感覚を狂わせる霧を発生させて、迷い込んだ生き物を一呑みにする魔物も居るとか、本で見たような。
「──では、行くぞ」
背中がゾワッとするハンスをよそに、ポールはさっさと歩き出す。ハンスも引っ張られないよう、慌てて後を追った。
周囲を漂う霧の塊はどんどん増える。しかし、ポールの歩みは止まらない。
そして──
(…って、突っ込むのかよ!)
獣道を真っ直ぐ進んだポールは、そのまま目の前の霧の塊に突入した。ボフンと霧が渦を巻き、止める間もなくハンスも霧の中に足を踏み入れる。
瞬間、音が遠くなった。
空気は変わらず冷えているはずなのに、肌感覚が不思議とやわらかい。霜柱を踏み締めている感覚はあっても、その音がしない。
視界は真っ白で、前を行くポールの姿すら完全に見えなくなっていた。
繋がっているはずのロープだけを頼りに、ハンスはひたすら前へ進む。森の木々も下草も見えず、今自分がどこに居るのか、全く分からない。
さらに一段、霧が濃くなった──ハンスがそう思った時、ポールの声が響いた。
「──管理人ポール、ならびにその息子ハンス。通行を申請する」
瞬間、嘘のように霧が晴れる。
「………へ」
気付くとハンスは、拓けた場所に立っていた。
周囲を背の高い針葉樹に囲まれた空間に、ほっそりとした背の低い木々が等間隔に立ち並んでいる。
「到着だ」
ポールがロープを外しながら呟き、ハンスはようやく我に返った。ロープを解いてポールに返しながら、周囲を見渡す。
小麦畑やさつまいも畑よりかなり狭い、森の中の広場だ。先程までの霧が嘘のように空は晴れ渡り、樹冠から降り注ぐ陽光が眩しい。
…そう、眩しい。
「……昼になってる!?」
ハンスが叫ぶと、ポールは淡々と訂正した。
「まだ昼前だ」
確かに陽光の角度的に、昼食にはまだ少し早い時間、といったところか。
しかし、
「いや、さっきまで朝だったよな!?」
ハンスは思い切り突っ込んだ。
つい先程──正確には霧に突入する前までは、低い位置からやわらかい日の光が差し込み、初冬の朝らしい光景が広がっていた。
だが、濃霧を抜けたら明らかに日は高く、霜も霜柱もどこに見えない麗らかな小春日和。霧を抜ける体感数分の間に何が起きたのか、ハンスには認識できなかった。
「…あの霧は、方向感覚も時間感覚も狂わせる」
ポールの静かな声に、ハンスはぞくりとした。
「許しがなければ霧を抜けることは出来ない」
「ゆ、ゆるし…?」
許し。つまり許可。
先程ポールは『通行を申請する』と言っていた。つまり、申請に対して許可を出す相手が居るということだ。
ざわり、木のざわめきが聞こえた。
ハッとハンスが顔を上げると、広場に等間隔に並ぶ細い木々が、風もないのにさわさわと枝葉を動かしている。
それがどうにも笑っているように見えて、ハンスは思わず後退った。
そして、気付く。
「これまさか──世界樹か!?」
世界樹。
この世界の魔素循環を司る、特別な樹木──のような見た目の『なにか』である。
世界樹は、地下を巡る魔素を吸い上げ大気中へ放出する。大気中へ放出された魔素は様々な生き物が取り込み、使い、あるいは放出して、また地下へと還って行く。
『世界』と名が付くだけあって、世界樹は文字通り世界中に点在している。が、基本的に魔法障壁で姿を隠しているため視認することは出来ず、近付くことも出来ない。
その魔法障壁を突破した者だけが世界樹に認められ、枝や葉や実を授かると言われている。
ハンスの住む永世中立国アイラーニアには、北と南に1本ずつ、世界樹がある。と言っても、ハンスは実際目にしたことはない。図鑑には載っていたし、『南の世界樹』の枝を先輩冒険者に見せてもらったことはあるが。
今、目の前にある若木は、その枝と同じ気配を纏っていた。
「…厳密には、世界樹の『枝』だ」
「…枝? 生えてるのにか?」
ポールの説明に、ハンスは首を傾げる。木は広場にずらりと並んでいて、それぞれ別々に生えているようにしか見えない。
ポールは緩く首を横に振り、淡々と説明する。
曰く、ここにあるのは全て南の世界樹の枝で、見かけ上別個体のように見えるし、実際それぞれ独立した根と幹と枝葉を持っているが、どうやら大元である世界樹本体と魔力的に繋がりがあるらしい。
そのため、若木のように見えても魔法の霧を発生させ、身を守ることが出来る。
つまり先程の霧はこの世界樹の枝が作り出したもので、ポールとハンスは枝に認められたからこそ、ここへ辿り着けた。
「…ん? じゃあ、認められなかった場合は…」
どうなるのだろうか。ハンスが首を傾げると、ポールはそっと目を逸らした。
「…どれくらいの時間でどこへ出るかは、当人次第だろう」
「……お、おう」




