32 乗合馬車
翌朝早く、ハンスは装備を整え、新しい街道側の村の入り口に向かった。
この時期の日の出は遅い。まだ日の差さない薄闇の中、停留所の柱に吊るされた魔法道具のランプが煌々と光を放って存在を主張している。
吐く息は白く、空には筆をサッと走らせたような筋雲がいくつも浮かんでいた。上空の風が強い証拠だ。もういつ霜が降りてもおかしくない。
(冬が来るな…)
ユグドラの街ではそれほど意識していなかったが、この村では『冬の到来』の影響が非常に大きい。
霜が降りれば降雪もすぐ。そうなれば、村はあっという間に雪に閉ざされる。
冬籠りの準備を色々と進めてはいるが、果たして万全だろうか──『ユグドラの街に行くなら』とスージーに渡された買い物メモの感触が胸ポケットにあるのを確かめ、ハンスは歩を進めた。
ユグドラの街へ向かう乗合馬車は、既に停留所に停まっていた。トランクを抱えたりバックパックを背負ったりした商人らしき者が数人、馬車に乗り込んでいるのが見える。
御者は馬の首筋を撫でながら、馬具の接続を確認していた。ハンスよりかなり年上、ポールよりは下だろうか。
「おはようございます」
一区切りついたのを確認してから声を掛けると、御者はパッと振り向き、ハンスの格好を見て表情を綻ばせた。
「おはようございます。もしや、護衛依頼を受けてくださった冒険者の方ですか?」
「はい。冒険者ギルドエーギル支部所属、ハンスです。本日はよろしくお願いします」
これでも上級冒険者、依頼人に対してはきちんと礼を尽くすと決めている。
ハンスが依頼書を見せてから一礼すると、御者も深々と頭を下げた。
「これはご丁寧に。私は本日の乗合馬車の御者を務めます、ミハイルと申します。どうかよろしくお願いしいたします」
所作が上品で、口調も穏やか。きちんとした服装をすれば執事と名乗っても通用しそうな雰囲気だ。
だが、握手する手は節くれ立って硬く、特有の位置にタコがあった。なるほどプロの御者だな、とハンスは納得する。
「護衛ってことですが、前と後ろ、どちらについていれば?」
ハンスが訊くとミハイルは少し考える仕草をして、すぐに答えた。
「では、後方の警戒をお願いします。外で待機になってしまいますが、客車の後部にデッキがありますので、そこに乗っていただければ」
「承知しました。何かあったら伝声管、でよろしいですか?」
大型の馬車には大抵、後方と前方で連絡を取り合う手段がある。古い型だと合図を送る紐だけだが、今の一般的な箱馬車には声を伝える金属のパイプが備わっていることが多い。
ハンスが訊くと、ミハイルはにこやかに頷いた。
「はい、それでお願いします」
その後、ルートの確認など細かい打ち合わせを終え、ハンスは馬車の後部に乗り込んだ。
小さな窓から客車の中を覗くと、3列ある座席はほぼ満席だった。身なりからして全員、商人かその関係者だ。
一昔前までは、商人は自前の馬車で移動するのが一般的だった。乗合馬車では商品を運ぶ余地がなく、出先で下手に買い付けも出来ないからだ。
何より、乗り合わせた相手によっては商品目当てで命を狙われる危険もある。
だが『圧縮バッグ』という魔法道具の登場により、状況は一変した。
見た目は普通のバッグやリュックだが、その容量は見た目の数倍。さらに重量軽減効果もあり、普通なら馬車が必要になるくらいの荷物をバッグ一つで持ち運べる。
発売当初はかなりの高級品で、貴族や豪商、冒険者のトップランカーくらいしか手が出せなかった。
その後数年掛けて製法が広まって流通量が増え、さらに高性能な物も開発され、徐々に値段も下がって行った。
それでも一般人には手の届きにくい値段ではあるが、今では商人御用達、冒険者にとっても必須の道具である。
この圧縮バッグを使うと、見た目では何を持っているか判別出来なくなる。すると、盗賊や強盗に目を付けられるリスクが下がる。
荷物も減って身軽に動けるため、商人がコストの低い乗合馬車を積極的に利用するようになった、というわけだ。
(…にしたって、乗合馬車の乗客が全員そっち系ってのはなかなかないけどなあ…)
住民は本当に村から出ないらしい。ハンスがそれを実感して何とも言えない気分になっていると、村の奥から小さな影が駆けて来た。
《いやっほう!》
「おわっ!?」
影は馬車の手前で華麗に跳躍し、ハンスの顔面に腹からダイブする。
ハンスがギリギリのところでそれをキャッチして阻止すると、なんだよー、と不満気な念話が響いた。
《夢のモフ毛アタックだぞ? こういう時は心の底から感謝しながら顔面で受け止めるのがお約束だろ?》
「ンなお約束知るか!」
《ちっ》
舌打ちと共に身体を捩り、影はデッキの手摺の上に軽やかに着地する。
ハンスはそれを半眼で見詰めた。
「何しに来た、モクレン」
その胡乱な視線を受けて、クリーム色のケットシー──モクレンは、尻尾をビビビと震わせた。
《ご挨拶だな。折角(絡みに)来てやったのに》
「お前今、『折角』と『来てやった』の間に何か含みがあっただろ」
ハンスが指摘すると、モクレンはぴくっとヒゲを動かした後、とてもわざとらしい笑顔を作った。
《まーまーまー、細かいことは気にすんなよ。今日は街に行くんだろ? 俺がしっかり補佐してやるからさ》
「補佐?」
ハンスは眉を顰めた。
ユグドラはハンスが20年過ごした街、言わばホームである。そこに行くのに補佐など必要ないが──そこまで考えて、ハンスはモクレンの尻尾がピンと立っているのに気付いた。
「…お前、実は観光したいだけだな?」
ハンスが指摘した途端、モクレンはひげを震わせる。
《人聞きの悪いこと言うなよ。まあ村に住んでて、暇だなーとか、もっと面白いことないかなーとか、常日頃考えてんのは否定しねぇけどな》
「否定しろよそこは。あと、オレに同行することを『面白いこと』の括りに入れるな」
《えーいいだろ? 少なくともいつもの放牧の見張りとか農作業とかよりはワクワクするじゃんか》
「…む」
咄嗟に否定の言葉が出て来なかった。
ハンスが沈黙したところで、横から笑い混じりのミハイルの声が響く。
──ハンスさん、そろそろ出発します。よろしいですか?
見れば、伝声管の蓋が開いている。御者台に筒抜けだったことをようやく認識して、ハンスの顔に朱が昇った。
ケットシーの会話は肉声ではなく『念話』で、基本的には意図した相手以外に言葉は伝わらない。
つまり先程のやり取りにおいては、御者台のミハイルにはハンスの声しか聞こえていないことになる。『観光したいだけだな』とか『否定しろよそこは』とか、謎の一人芝居をしていた図である。
これはなかなかに──いや、大変恥ずかしい。
「ええ、大丈夫です。…ええと、すみません、実は同行者が増えまして」
何とか声音を取り繕いながら言い訳っぽい言葉を並べると、少しの間を置いて、伝声管から声が伝わって来た。
──同行の方は、ケットシーでしょうか?
《おう! 俺はケットシーのモクレン! よろしくな!》
──私は御者のミハイルと申します。道中、よろしくお願いします。
モクレンが胸を張ると、笑い混じりながら丁寧な挨拶が返って来る。今度の念話はミハイルにも聞こえたらしい。
ハンスは伝声管の蓋を閉じて、ジト目でモクレンを見下ろした。
「…全く…」
《なんだよ、文句あるか? 伝声管がフルオープンになってたのに気付かなかったのはお前だぞ》
「………」
流石にぐうの音も出ない。
カランカランと、発車を告げる御者台の鐘が鳴る。
そうして乗合馬車は、ユグドラの街に向けて出発した。




