3 両親
その後ハンスは何とか気を取り直し、仕事に戻るというジョンと別れて村の中を歩き始めた。
20年前と違うのは新しい道とその周辺だけ──とハンスは思っていたのだが、当然そんなはずはない。
子どもは大人になり、村の産業を担っているし、大人は老いを重ねている。世代交代が進んでいるのだ。
すれ違う子どもたちは知らない顔で、声を掛けて来る大人は、すぐに思い出せる相手も居れば、ジョンのように極端な成長を遂げている者も居る。
だが、少し話した後、相手は示し合わせたようにハンスにこう言った──『早くオヤジさんとおふくろさんに顔を見せてやれ』。
その言葉に背中を押され、ハンスは実家への道を辿る。足取りが重いのは、気後れしているからだ。大変に今更だが。
「……」
そうしてようやく辿り着いた実家は、昔と同じ場所に、昔と同じように建っていた。
石垣の土台はハンスの腰くらいまでの高さで、その階段を上がった先に玄関がある。
1階部分は塗り壁、2階部分は木材剥き出し。
壁は寒さに耐えられるよう分厚く、窓は両開きのガラス窓が内側に、厳寒期や嵐の時に使う鎧戸が外側につく二重構造。開口が小さく、寒さに耐えるための造りだ。
屋根は緩やかな切妻屋根で、玄関に雪が落ちて来ないようになっている。
真冬には一晩で腰くらいの高さまで雪が積もることもあるので、屋根の向きはとても大事なのだ。
記憶に違わぬはずの家は、ハンスには何故か小さく見えた。
実際、のそのそと階段を上がって行ったところで、玄関の庇の出っ張りに頭をぶつけそうになる。
14歳当時とは身長もまるで違うので当然と言えば当然なのだが、ハンスは一々ちょっとしたことに戸惑っていた。
端的に言えば──家を飛び出した手前、ものすごく入りづらいのである。
子どもか。
(…ここはシンプルに『ただいま』か? いや、20年ぶりなのにそれもどうなんだ?)
ドアノブに手を掛けたまま、ハンスは苦悩の表情を浮かべている。
半端に人生経験を積んだせいで変に色々考えてしまい、なかなか踏ん切りがつかないのだ。
ジョンが見たら『いいから早く入れよ』とその丸まった背中に蹴りを入れているところだろう。残念ながら、庭の木にとまったヤマバト以外、その姿を見ている者は居ないのだが。
クルッポー、クルルックルルックルルルル…とヤマバトのさえずりがたっぷり3回繰り返された後、ハンスは大きく息を吸い込んで手に力を籠め──
──ガン!
「でっ!?」
いきなり外に向かって開いたドアに、しこたま頭をぶつけた。
この家の扉は、頑丈さが売りの樫の木製である。それなりに硬いと定評のあるハンスの頭でも、これは痛い。
ハンスは額を押さえて後退り、階段から落ちる一歩手前でギリギリ立ち止まる。
無言で悶絶していると、
「ああ、ごめんねえ! 大丈夫かい?」
少しハスキーな、明るい声が響いた。
ハンスはびくっと肩を揺らし、そろりと視線を上げる。
ドアを開け放った姿勢でハンスに謝罪しているのは、ふくよかな壮年の女性だった。
左手に大きな籠を抱え、目尻に笑いジワの目立つ空色の瞳に気遣わし気な色を浮かべている。
ハンスと目が合うと、女性はドサッと籠を落とした。
「………ハンス? ハンスかい?」
「あー………、ただいま、おふくろ」
ガシガシと頭を掻いてハンスが応じる。何とも締まらない。
女性──ハンスの母スージーは、驚きに目を見張り、口元に手を当てて数秒固まった後、大きな足音を立ててハンスに駆け寄った。
「こっんの……バカ息子! どれだけ心配したと…! 帰って来るなら先に手紙で知らせるとかっ…部屋も片付けてないし夕飯の準備も出来てないしああもう……!!」
「い、いや、スマン、悪かったっておふくろ!」
胸倉を掴まれてがっくんがっくん揺さぶられながらハンスが叫ぶ。
(呼ばれたから帰って来たのに何でこんな扱い…!)
それは自業自得というものである。
しかし幸か不幸か、お陰でハンスの胸中にあった無駄な緊張はどこかへ吹っ飛んだ。
ハンスは改めてスージーを見遣り──いや、見下ろし、今度はその身長の低さに目を見張った。
何せハンスが家を飛び出したのは20年前、14歳の頃である。もやしだったジョンが高身長マッチョになったように、ハンスもかなり身長が伸びた。
一方スージーは、ハンスと同じオリーブグリーンの髪には白い色が目立ち、シワは増え、身長も少し縮んだ。
20年という年月は、大人にとっても相応に長い。そりゃあ老いもする。
もっとも、
「あーもう…とにかく入んなさい! ほら! さあ!」
「押すなって!」
歳を重ねたところで、スージーの勢いはそれほど衰えず──むしろ遠慮がなくなっているあたりが、スージーのスージーたる所以である。
スージーに背中を押されて家の中に入ったハンスは、玄関を通り過ぎたところで足を止めた。
寒さ対策のため、暖炉周辺以外は床も壁も天井も全て板張り。
天井には魔法道具のランプが吊り下げられ、昼間でも薄暗い室内を控えめに照らしている。
暖炉には熾火が残り、崩れた炭が乾いた音を立てた。
ソファの上に置かれたクッションのカバーの柄は昔と変わっている。
だが、家具の配置や要所に置かれたラグの色や全体の雰囲気は、ハンスが家を飛び出した当時と変わっていなかった。
外はあれだけ変わったのに──と、ハンスは驚く。まるでこの家の中だけ、時間に取り残されたようだ。
だが、その感慨も長くは続かなかった。
「ポール! ハンスが帰って来たよ!」
スージーが大きな声で呼びかけると、しばらく間を置いて、2階へ続く階段から杖をついた人影がのっそりと現れた。
ハンスは思わず息を呑む。
「オヤジ……」
「……ハンスか」
黒褐色だったはずの髪はすっかり白くなり、口元や額にシワが増えた。がっしりした体つきと常にしかめっ面の表情は昔のままだが──
(…オヤジってこんなに小さかったのか)
いつも見上げていた顔が、今は目線より下にある。
その事実に、ハンスは頭を殴られたような衝撃を受けた。
何より、姿勢よくキビキビと歩いていた父ポールが、腰を曲げて杖をついて歩いているのが信じられない。
そういえば『怪我をして寝たきりになった』と聞いていたが、歩いて大丈夫なんだろうか──ハンスがそう思い至ったところで、ポールはハンスの目の前に立ち、胡乱な目でハンスを見上げた。
「…今更、何しに帰って来た」
(………は!?)
ハンスはぽかんと口を開け、数秒後に何を言われたか理解して、顔を歪めた。
「…帰って来てくれって言ったのはそっちだろ!」
「なに?」
険悪な雰囲気になりかけたところに、スージーが慌てて割って入る。
「私がギルドに伝言を頼んだんだよ! 『父親が怪我をしてしばらく動けなくなっちまったから、収穫の手伝いをしに数日で良いから帰って来てくれると嬉しい』って!」
「……へ?」
ハンスは再び間抜けな声で呻いた。
ギルドで言われたのと、少々、いやかなり、ニュアンスが違う。
──厳密には、『収穫の手伝い』とか『数日で良いから』とか、そのあたりの単語が抜けてちょっと余分な単語が入っているだけなのだが……伝言ゲームとは恐ろしいものである。
スージーの言い分に、ポールが嫌そうな顔になった。
「…ただのぎっくり腰だ。少し養生すればじきに良くなる。収穫も間に合う。手伝いなんぞ要らん」
「へ」
「またあんたはそういうこと言って! 『ハンスが帰って来てくれて嬉しい』って、素直に言ったらどうなんだい!」
「……」
腰に手を当てて説教するスージーと、しかめっ面で目を逸らし、しかし否定はしないポール。
昔と変わらないやり取りを眺めながら、ハンスの思考は明後日の方向に飛んでいた。
(…ぎっくり腰……)
──伝言ゲームとは、げに恐ろしきものである。