21 初恋の人
上エーギル村から山道をゆっくりと進み、ハンスは下エーギル村に戻って来た。
道中、ずっと下を向いていたのは山道の点検をしていたからであって、断じて憂鬱だったからではない。
無駄に柵の外側を確認したり下草刈りをしたりして時間をくったのも、村長の家に行きたくないからではない。決して。
──などと自分に言い訳している時点で、色々とお察しである。
しかし歩いていればいずれ目的地に着く。ハンスは誰の目にも明らかな重い足取りで、下エーギル村のほぼ中央にある村長の家に到着した。
他の家より一回り大きい、3階建ての建物。石垣で一段高くなったところに建っているのはハンスの家と同じで、真冬に玄関が雪で埋もれないようにという先人の知恵だ。
1階部分は近くの湿地帯の泥を使った白っぽい塗り壁、2階以上の部分は木造剥き出し。
基本の造りは他の家と同じだが、塗り壁はつるりと滑らか、木造部分もよく手入れされていて、深い飴色の木肌と明るい塗り壁のコントラストが美しい。
「…相変わらず、デカいな…」
ハンスはひとしきり家を眺めた後、溜息をついて石段を上がった。
結局あの後ハンスは、エリーに押し切られて『下エーギル村の村長への届け物』の依頼も請け負った。
預かったのは、上エーギル村村長──アーロンからの、昨日の会合に関する書類。
厳密には、会合の内容をまとめた議事録。別名『不幸の手紙』。
封もしていない革の封筒に入っていたから、エリーと2人で内容を流し見た。結果、エリーは『…これはダメだわ』と呻き、ハンスは『なくしたってことにしちゃあダメだろうか』と本気で考えた。
議事録と言うよりは、相手を扱き下ろす罵詈雑言語録とでも言うべき代物だったのだ。
議事録とは、会議や会合の発言内容を過不足なく書き留めた覚え書き。つまり書類に書かれている罵詈雑言は、その席で皆が口にした言葉である。これを月一でやっているというのだから、不毛としか言いようがない。
ちなみに会合の開催場所が上エーギル村に変わったのは、『若い方が年嵩の者に合わせるべきだ』とアーロンが主張したからだ。
村長としては新米で、上エーギル村との関係を修復したいマークが相手の要求を呑むのは仕方のないことではあるが、わざわざ相手の本拠地に出向いて毎回意味もなく扱き下ろされるというのは、どれほどのストレスになるのか。
(絶対疲れるよな…)
再会した時、ハンスが給水の魔法道具のことで礼を言ったらマークはとても嬉しそうな顔をしていた。
普段の隣村とのやりとりが『こんなの』だったら、そりゃあ礼を言われたら『村長冥利に尽きる』なんて言いたくもなるだろう。
「さて……」
ハンスは扉の前で一度深呼吸して、呼び鈴を鳴らした。他の家には呼び鈴などついていないが、村長の家は来客も多いので、街でも見るようなちゃんとした呼び鈴があるのだ。
「はーい」
扉の向こうから声がして、ビクッとハンスの肩が跳ねる。昔より少し低くなったが、柔らかな響きの女声は、間違えようがない。
「どちらさま──…」
がちゃりと扉を開けてハンスを見上げた女性が、ドアノブに手を掛けたまま固まった。
目を見開き、数秒後、
「…………ハンス?」
「あー…、久しぶり、ジェニファー」
ハンスは頭を掻きながら応じた。
ハンスの初恋の人にしてマークの妻、ジェニファー。
20年前は下ろしていた豊かな金色の髪は編み込みを入れつつ結い上げられ、澄んだラベンダー色の瞳が陽光に煌めく。40代になってなお、いやさらに磨きの掛かった、文句のつけようのない美人だ。
村の女性陣よりほんの少し上等な服、目尻に増えた笑いシワ、同じくらいだったはずなのに見下ろす形になる身長差──あの頃とは何もかも違うが、
「…ええ、久しぶり、ハンス」
嬉しそうな笑顔は、確かに昔のままだった。
「帰って来たとは聞いていたけど、すっかり大人になったのね」
「そりゃあ、20年経つからな」
褒められて浮き足立つ胸の内を理性で押し殺し、ハンスは軽い口調で応じる。初恋はとうの昔に終わっている。この動揺はただの名残りで、今の自分のものではない。
何度も自分に言い聞かせながら招かれるまま家に入り、ハンスは目を瞬いた。
「……村長の家って、こんなだったか?」
思わず呟くと、ジェニファーがちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。
「私の趣味なの。お義父さんとマークが、内装は好きにして良いって言ってくれたものだから」
ダイニングテーブルの重厚感のある天板には、繊細なレースのテーブルクロスと、花柄の刺繍が施されたテーブルセンター。それを囲む椅子にも、同じ花柄のクッションが置かれている。
昔はムートン──羊の毛皮が掛けられていたはずの革張りのソファーは、幾何学模様の柄が編み込まれたニットのカバーに覆われていた。
さらに、開口の小さい窓には花柄の染めが鮮やかな厚地のカーテン。壁際にある棚の上にも布が敷かれ、その上には可愛らしいガラス細工やニット地のぬいぐるみが並んでいる。
家具自体は変わっていないはずなのに、布や小物が足されただけで雰囲気がぐっと柔らかくなっていた。
20年前の薄暗くて格式張った──良く言えば重厚、悪く言えば無駄に威圧感のある村長宅しか知らないハンスにとっては、もはや別の家だ。
世代交代とは、ここまで変わるものなのか──半ば感嘆しながら周囲を見回し、ジェニファーが恥ずかしそうにしているのに気付いた。
ハンスは咳払いして表情を取り繕う。
「あー、良いんじゃないか? 親しみやすさが前面に出てる感じで」
「お祖父様には、『格が落ちる』と言われたのだけど…」
「今の村長に必要なのは格式より親近感だろ。下手に怖がられるよりずっと良いと思うぜ」
大体、親切心の塊みたいなマークに格式とか迫力とか威圧感を求める方が間違いだ──とは、流石に口には出さない。それくらいには、ハンスも一応大人だった。
ハンスの言葉に、ジェニファーは苦笑した。
「ありがとう。相変わらずフォローが上手ね、ハンス」
「はは、まあな」
褒められて内心思いっ切り浮足立っているが、表情は何とか取り繕う。初恋相手に動揺を見せないのは、ハンスなりの意地みたいなものだ。
「ああそうだ、これ、上エーギル村の村長からの手紙な。ギルドの依頼で持って来た」
ハンスが書類を取り出した途端、ジェニファーの表情が僅かに強張った。それを瞬時に見て取って、ハンスは言葉を繋ぐ。
「──ちなみに中身は特に意味のないモンだったから、見ないで適当にカゴにでも放り込んどけ」
「ハンス、もしかして…」
「あー、勝手に読んだのかって突っ込みはナシな。読まれて困るもんならちゃんと封しとかなきゃダメだろ、上エーギル村の頑固ジジイ──んんっ、村長が」
ハンスは早口でわざとらしく言い直す。
ジェニファーはぽかんと口を開け、数秒後、困ったような顔で笑い出した。
「…もう、ハンス。アーロンさんのことをそんな風に言っちゃダメよ」
子どもの頃と同じ、弟を叱るような目と口調だった。
(…ああ、そうか)
ハンスは不意に理解した。
ジェニファーにとってハンスは弟のようなもので、端から異性として認識されていなかった。
とても近しい距離に居た自信はある。だが、近くに居たからこそ、ハンスが望んだものから最も遠い立場にならざるを得なかったのだ。
存外、ショックは受けなかった。ただ、理解するのが遅すぎたな──と、少年だった自分に対して労りのような感情がよぎる。
そもそも、ジェニファーは7つも年上なのだ。自分がジェニファーの立場だったとして、21歳の頃に14歳の少女と恋愛関係になれるだろうか?
(ああうん、無理だな)
どう考えても妹的な扱いしか出来そうにない。少なくともハンスはそう思った。
…年下から絶大な人気を得ていることを考えると、『この朴念仁』としか言いようのない思考である。
「頑固ジジイなのは間違いないだろ。20年前の時点で相当だったけどよ。…つーか、いい加減あっちも代替わりしないのか?」
「そういう話は聞かないわ。まだまだお元気だもの」




