2 帰郷
ハンスの住む永世中立国アイラーニアは、世界で最も大きい島国である。
…いや、厳密には『世界唯一の島国』だろうか。
世界の島しょ部の多くは大陸の国の領土となっていて、独立国の体裁を保っている島はこのアイラーニアくらいだ。
理由は簡単。東大陸と西大陸の間、丁度ほぼド真ん中という立地が、他国の侵攻を防いでいるのと──この国の王家のバックに、ドラゴンがついているからである。
アイラーニアのほぼ中央部、霊峰リンドブルム山に棲むドラゴンたちは、王家と盟約を結んでいる。
万が一他国と戦争になったら、ドラゴンたちが海峡を飛び越え、侵攻して来た国の首都を直接襲撃するのだ。報復にしても理不尽極まりない。
実際100年ほど前、西大陸北東部に位置する『帝国』が無謀にも大船団を組織してアイラーニアに攻め込み──5日後にはドラゴンたちに首都を蹂躙され、あっさりと滅んだ。
『絶対怒らせてはいけない国・アイラーニア』を象徴する事件である。
それ以降、アイラーニアは『永世中立国』を標榜するようになった。
他国の侵攻には決して屈せず、また他国に侵攻することもない国。それを喧伝することによって、今では西大陸と東大陸を繋ぐ架け橋という地位を確立している。
西大陸と東大陸の交易の中継地でもあるため、両方の文化を取り入れつつ、この国独自の文化も発展してきた。
比較的温暖な北部では西大陸からの移民がもたらした『醤油』や『味噌』といった独特の調味料の生産が盛んで、雪深い南部の山岳地帯では東大陸からもたらされた雪に耐える建築様式が人々の生活を支えている。
ハンスの故郷は、そのアイラーニアの南部、山岳地帯の中にあった。
南部最高峰の霊峰、エーギル山の南側。
山と山との間に抱かれたなだらかな丘陵地を開墾してできた村。それがハンスの故郷、『下エーギル村』だ。
アイラーニアではごくありふれた、山間の農村である。
強いて言えば、
「…き、きっつー……!」
──このように、山麓から村を最短距離で結ぶ道が大変険しい、というのが特徴らしい特徴だろうか。
ユグドラの街で母からの伝言を受け取ってから、5日。
ハンスは徒歩で下エーギル村へと向かっていた。実に20年振りの帰郷である。
ユグドラの街近辺の街道は石畳で、とても歩きやすい。
その環境が下エーギル村まで続いていると想定して、上り坂とはいえ2日もあれば着くだろう、と高を括ったのが運の尽き。
街道の分かれ道を下エーギル村方面に進んだ途端、石畳は砂利道へと姿を変え、山間部に入ると砂利すら消えてただの剝き出しの地面になった。
20年も経てば村も発展して街道も整備されているだろう──そんなハンスの楽観的な期待は、見事に裏切られたわけだ。
まあ普通に考えて、人の往来の少ない道にわざわざお金を掛けたりしないだろう。実に浅はかである。
「くそっ、何か馬鹿にされてる気がするぞ…!」
悪態を吐きながら、ハンスは地道に山道を登る。
記憶が14歳の時点で止まっているのも敗因だろう。
村に住んでいた頃、ハンスは何度か親に連れられてユグドラの街まで往復したこともあったのだが──疲れ知らずの子どもの体力、しかも山道を知り尽くした大人が同行した状態で、である。
山道のことなど記憶の彼方、20年も平野部で暮らしてきた34歳のオッサンが、同じ水準で動けるわけがなかった。
「3日連続、野宿は、避けたい…!」
ぜえはあと荒い息の合間に、涙声が漏れる。
ハンスも野営の経験はそこそこあるのだが、この山腹は魔物も多く棲む森林地帯で、あまりにもリスクが高かった。単独行動なので、誰かと交代で夜通し見張りをするという手段も取れない。
しかも最悪なことに、ハンスは昨夜、魔物除けの薬を使い切ってしまった。
帰郷するだけだからと消耗品の補給をケチった結果である。ベテラン冒険者にあるまじき失態だ。
「うおおおお……!」
途中、道を半ば塞いでいた大岩を乗り越え、晩秋の降り積もった落ち葉で滑って何度もこけそうになりながら、ハンスはひたすら獣道のような山道を進む。
前に進めばいずれ目的地に着く、それだけを頼りに。
(……本当に着くよな…?)
あまりの疲労にそんな不安が頭を過ぎった直後、急に視界が拓け──目の前に突き付けられる、鎌の先端。
「……お?」
「……へ?」
ぎらり、美しい銀色の刃が陽光に輝く。
ハンスはそれを間抜け面で見詰めた。明らかに眉間か眼球を狙われていたのだが、疲労困憊のハンスは幸か不幸かそれに気付かない。
「なんだ、人間か」
鎌がひょいと引っ込んだ。
ハンスはそれを目で追って、鎌を持っているのがいかにも屈強そうな成人男性であることに気付き、一拍遅れて理解する。
(…オレ今、殺されるところだった…!?)
「いやースマンスマン。まさかこっちからお客さんが来るとは」
ブワっと背中に汗が噴き出すハンスをよそに、男は軽いノリで謝罪した。
そして改めてハンスを見遣り、数秒後、あんぐりと口を開ける。
「おまっ……ハンス? ハンスか!?」
「えっ」
「俺だよ! 隣ン家の、ほら、一緒に用水路飛び込んで怒られた──」
「──ジョン!?」
子どもの頃のエピソードで、ようやくハンスは思い出した。
隣の家の幼馴染で学舎の同級生、ジョン。
用水路に飛び込んだり堆肥の中に落とし穴を掘ったり鶏小屋に忍び込んだりと、子どもの頃は一緒に色々とやんちゃしては大人たちに怒られていた。
そんな悪友が、何故一目で分からなかったのか。それは──
「お前……デカくなったなあ………」
辛うじて昔の面影を残すオレンジ色の瞳を見上げ、ハンスは呆然と呟いた。
ハンスもそれなりに身長はあるが、ジョンはさらに頭一つ分、高い。
しかも全身筋肉質で、上半身の厚みはハンスの倍はありそうだ。子どもの頃のもやしのような体格からは想像もつかない仕上がりっぷりである。
「まぁな! ほら、ウチは森の管理をしてるだろ? 体力仕事なんだよ」
照れ臭そうに鼻の頭を搔く仕草は昔のままだ。
「そうか…大変だな」
それにしても、同年代でありながら雰囲気の落差がひどい。
ジョンは真夏の木々のように生き生きしているが、ハンスはさながら紅葉も出来ずに落葉しかけている晩秋の落葉樹のようだ。
(どうしてこうなった)
ハンスが死んだ魚のような目になるのも、むべなるかな。
「それにしてもお前、生きてたんだな! 村を飛び出してからろくに便りも寄越さねぇで、この薄情者ー!」
「悪かったよ! つーか昔のノリで寄っ掛かんな! 潰れる!」
ハンスの肩に回されたジョンの腕は、まるで丸太だ。ハンスが文句を言うと、ジョンは笑って離れた。
「お前ほっそいもんな! ──そーいや、何でこっちの道を通って来たんだ?」
「…こっちの道?」
ハンスは眉を顰めた。
こっちも何も、平地からこの村に来るルートはこの道しかない──そう、20年前の時点では。
ジョンの案内で村を横切り、反対側まで辿り着くと、そこにあったのは──
「9年くらい前にな、こっちに新しい街道が出来たんだよ。ユグドラの街からだと遠回りにはなるけど、馬車も通れるし、途中に休憩所もあるし、滅茶苦茶便利になったんだぜ──あれ、オイ、ハンス?」
ジョンの説明も、右から左へ流れて行く。
整備された石畳の道。
普通に停車している馬車。
一際大きい建物には宿屋兼食堂を示すベッドと皿とフォークの絵柄。
そしてそこに当たり前の顔で入って行く、商人と思しき人々──
「………」
20年前、ここには鶏小屋と納屋があった。それが今や、村でも一番賑わう場所になっている。
時間の流れとは、時に残酷なものだ。
ハンスはその場に崩れ落ちた。
「………この3日のオレの苦労……!!」