18 リン
冒険者ギルドユグドラ支部所属、軽戦士のリンは、身の軽さと観察眼に定評のある中堅──いや、ベテランになりたての女性冒険者である。
16歳で冒険者となり8年目。その能力を活かして魔物討伐前の斥候や街から街へ移動する商隊の護衛などで活躍し、昨年上級冒険者に昇格した。
灰色味のある濃い水色の髪に碧眼。
若干気の強そうな顔立ちに対して体格は小柄で、軽々と枝から枝へ飛び移る身体能力の高さから、ついたあだ名は『尖りリス』。
様々なパーティからメンバーにと望まれるも、頑なに『基本、パーティは組まない。助っ人参戦は可』という姿勢を貫くのは、新人時代の教育担当の影響である、と噂されている。
そのリンは、10日ぶりに戻って来たユグドラ支部の受付で信じられない話を聞き、上級冒険者にあるまじき剣幕でギルド職員に詰め寄っていた。
「『ハンスが居なくなった』ってどういうことよ!?」
「ど、どうって…」
不幸にも矢面に立たされてしまった若い男性職員が、しどろもどろに呟く。
年嵩の職員が慌ててやって来た。
「リンさん、落ち着いてください。ハンスさんはご実家の事情でご実家近くの『エーギル支部』へ移籍しただけで、冒険者を辞めたわけではありません。我々としても、当支部所属ではなくなってしまったのは大変残念ではありますが…」
「家の事情…?」
リンの怒気が一瞬しぼんだ。ギルド職員たちがホッと息をついたところで、嘲笑が響く。
「なんだ、あのオッサン辞めたわけじゃないのかよ」
「言っただろ? 尻尾巻いて田舎に引っ込んだってよ」
「どーせ子守りが嫌になったんだろ、あのトシじゃな」
「あ゛?」
リンが鬼のような形相で振り返る。
受付ホールに併設された食堂で、ハンスより少し若い男性冒険者が3人、真昼間から酒を吞んでいた。
素人や初心者なら裸足で逃げ出すであろうリンの殺気もまるで気にせず、聞こえよがしに話を続ける。
「毎日毎日飽きもせずにガキどもの子守りにゴミ漁りにドブさらいなんて、いくら中年でもなあ」
「俺だったら1年2年で辞めてるわ」
「だよなあ! 仮にも上級冒険者が、魔物もろくに倒さねぇで小間使いみたいな仕事なんてやってらんねぇよ」
「……」
リンの纏う空気が一瞬で冷えた。
若い職員が息を呑み、ベテラン職員がリンを制止するため片手を挙げる。が、その手が届くより早く、リンはゲラゲラと笑う冒険者たちのテーブルに足音を立てて近付いて行った。
「自分がやりたい仕事しかしない、上級冒険者の風上にも置けないヤツがよく言うわよ」
『は?』
男たちが一斉に殺気立った。ハンスより年下とはいえ、彼らは全員、リンより年上で経験年数も長い上級冒険者だ。が、リンは一歩も退く様子はなかった。
彼らはハンスのことを常日頃から小馬鹿にしている。リンにとっては『敵』なのだ。
冒険者ギルドユグドラ支部は、永世中立国アイラーニア南部で最も大きい支部である。
土地の魔素が比較的豊富で街近郊での魔物の出現率が高く、また街の規模が大きいため、魔物討伐に護衛にその他雑用にと、冒険者への依頼も多い。
そのため、所属する冒険者も多いのだが──リンに言わせると、その冒険者は大きく3種類に分けられる。
まず、ハンスのことを慕ったり尊敬したりしている者。
これは、リンのように新人教育でハンスに冒険者のノウハウを教わった者や、いざこざを解決してもらった冒険者仲間に多い。
次に、ハンスのことをあまりよく知らず、基本、眼中にない者。
ユグドラ支部に所属してはいるが、護衛依頼で他の街に行くことが多かったり野外調査に出ている時間が長かったりして、そもそもハンスと接点のない一部の超ベテラン冒険者たちだ。
そして──地味な仕事に従事するハンスのことを侮り、馬鹿にしている者。
そういう連中は大概それなりの熟練度の中堅以上の冒険者なのだが、その実態は自分にとって都合の良い、報酬が良くて冒険者としての実績になりやすい依頼ばかり請け負う、『違反ではないが扱いに困る冒険者』であることが多い。
つまりリンの目の前の連中である。
ハンスのことを知らないのならまだ許せる。
だが、ハンスのことを知っていて、場合によってはトラブルを解決してもらったり新人教育でお世話になったりしておきながら、ハンスのことを侮辱するやつは許さん。
いっぺんその髪、毟ってやろうか──『親ハンス派・急先鋒』と評判のリンの思考は、一事が万事そんな感じだった。
リンにとって、ハンスは新人時代の恩人だ。ハンスにとっては依頼を遂行しただけに過ぎなくても、誰が何と言おうと、新人教育の時に油断して死に掛けたリンを救い、本気で叱ってくれたハンスは、リンの命の恩人で、憧れの冒険者で、──そして正真正銘、初恋の人である。
──それを指摘するとリンは全力で否定するのだが、リンがハンスに憧れ以上の感情を抱いているのは、彼女を知る者には周知の事実だった。
ただし肝心のハンス本人は全く、欠片も、気付いていない。
リン自身がハンスの前では態度を取り繕っているせいもある。
周囲からは『朴念仁ここに極まれり』『拗らせすぎにも程がある』『どっちもどっち』と評判だ。
『ハンスがいつリンの恋心に気付くのか』という賭けに関しては、誰も彼も『永遠に気付かない』という選択肢に賭けてしまうため賭け事として成立しなかった、という逸話まである。
そんなある種残念なリンだが、冒険者としての実力は折り紙付きである。そこら辺にのさばっている自称『ベテラン冒険者』の殺気など、そよ風程度でしかない。
「あんたたちに、ハンスさんのことを侮辱する権利はないって言ってるの。小間使いみたいな仕事だろうと何だろうと、仕事は仕事よ。必要だから依頼が来てるの。いい年こいた自称『ベテラン』が、そんなことも分かんないわけ? 新人教育からやり直したら?」
「なんだと…!?」
「手前ェ、先輩に向かってどういう口の利き方だ!」
椅子を蹴立てて立ち上がった3人を、リンは極めて冷ややかな目で見返した。
「真っ昼間から酒かっ喰らってるダメ男どもに払う敬意はないわ。それに『先輩に向かって』って言うなら、あんたらこそ何考えてるの? ──この支部に、ハンスさん以上の経験年数の冒険者なんて、数えるほどしか居ないはずだけど」
「ぐっ…」
経験年数の長い者に敬意を払えと言うのならハンスにこそ敬意を払うべきで、こうして大っぴらに彼を侮辱するのは矛盾している。
リンの指摘に、酔っ払いたちは思い切り言葉に詰まった。
一応、リンの主張を理解する程度の判断力は残っていたらしい。
語るに落ちるとはこのことだ。リンは鼻を鳴らして口の端に皮肉な笑みを浮かべ──不意に感じた寂しさに、顔から表情が抜け落ちた。
──『リン、そのくらいにしとけ』
いつもだったら苦笑混じりにそう制止してくれるはずの声が、いつまで経っても聞こえて来ない。
本当にもうハンスは居ないのだと、リンはようやく実感した。
「…な、なんだよ」
急に静かになったリンを前に、男たちが居心地悪そうに呻く。
実は彼らもハンスが介入して来ないことに違和感を覚えているのだが、本人たちは気付いていない。
リンは胸の奥にぽっかりと穴が開いたような気持ちを自覚し、ぎゅっと拳を握る。
新人教育の依頼の中心人物だったハンスはよくこの支部のホールに居て、親しい上級冒険者やギルド職員と情報交換をしていた。
自分一人の知識では新人を教育するのには足りないからと、常に新しい情報を仕入れていたのだ。
リンも付近の魔物の分布などを自主的に調査して、その会話に加わっていた。
けれどもう、その光景を見ることはない。
これまで確認されていなかった魔物の出現情報に驚くハンスの顔を見ることも、お前はすごいなと褒められることも、危ないと思ったらすぐ逃げろよと心配されることも、もうない。
そう。ハンスはもう居ないのだ。ならば──
(…私は…)




