111 研究者の苦手なもの
!注意!
イモムシ・毛虫注意報発令。
苦手な方はこの話を読み飛ばすことをオススメします。
そうして全員がロープで繋がり、改めて霧の中に足を踏み入れる。
先頭がハンス、次にヒューレック、ユークレース、最後尾がポールだ。山歩きに慣れていないヒューレックが躓いてロープを引っ張ったりしつつも何とか進み、数分で霧が濃くなる。
「な、何も見えんぞ…! 先ほどと違うではないか!」
一面の乳白色の中、ヒューレックの間抜けな声が妙に遠くに聞こえる。
止まるな、ロープを頼りにまっすぐ歩けと注意してから、ハンスは虚空に向けて呼びかけた。
「管理人ポールの息子ハンス、通行を申請する!」
(嫌なのは分かるが頼む、このジジイをさっさと帰すためにも協力してくれ…!)
頭の中で強く念じながら一歩踏み出すと──急に霧が晴れた。
目の前に広がるのは、柔らかく枝葉を広げた世界樹の枝たち。
森の中の広場に明るい陽光が降り注ぎ、爽やかな風が木立の間を吹き抜けていく。
先ほどまでの霧が嘘だったように空気は澄んで、葉先や枝先についた朝露の名残がキラキラと輝いていた。
「…おお……」
ヒューレックが呆然と周囲を見渡し、一歩踏み出しかけてつんのめる。ユークレースとの間を繋ぐロープがピンと張っていた。
大きくよろけるユークレースを忌々しそうに睨み付け、ヒューレックが舌打ちする。
「おい、早くロープを外せ」
「は、はい」
もたつくユークレースをハンスとポールが手伝い、ロープを外すと、ヒューレックが目を爛々と輝かせて手近な世界樹の枝に駆け寄った。
「思ったより小さいが、株数は多いな。ふむ…」
無遠慮に枝を掴み、手元に引き寄せる。
同じことをハンスがやったら世界樹の枝にデコピンを喰らうこと必至だが、枝はピクリとも動かない。ヒューレックとユークレースの前で、『本性』を顕すつもりはないらしい。
(…人を選んでんな…)
ハンスとしては、喜ぶべきか嘆くべきか微妙なところである。
「──ぎゃあ!?」
ハンスが遠い目になっていると、突然ヒューレックが悲鳴を上げて飛び退り、着地に失敗して盛大に尻餅をついた。ユークレースが慌てて駆け寄り、助け起こす。
「し、室長、大丈夫ですか!?」
「大丈夫なわけあるか!」
広場の地面は草原のように見えて、その実態は湿地に近い。ぬかるみで泥だらけになったヒューレックは顔を真っ赤にして何とか立ち上がり、先ほどまで観察していた枝を怒りの表情で指差した。
「何故世界樹に虫が這っているのだ!」
「?」
「…」
ユークレースは困惑気味の顔でヒューレックを見詰め、ポールはひたすら仏頂面で佇んでいる。
ハンスは無言で世界樹の枝に近寄り、そっと葉をよけて確認した。
葉の付け根、伸び始めたばかりの柔らかい新芽を、黒いボディに黄色い斑点が特徴的なイモムシがそれはそれは熱心に咀嚼している。
「あー…こいつか」
名前は不明だが、世界樹の枝の新芽によくつくお馴染みの害虫である。捕殺しても捕殺してもどこからともなく現れるため、ハンスの感覚はすっかり麻痺していた。
「はいはい」
大人の中指より大きいイモムシを素手でつまみ、地面に落として軽く落ち葉をかけ、
「よっと」
躊躇なく踏み付ける。
「!?」
「…!」
ぐりぐりと踏みにじってきっちりとどめを刺すハンスを凝視して、ヒューレックが顔を引き攣らせ、ユークレースが息を呑む。街の住民には刺激が強すぎたようだ。
「これで良し──どうかしましたか?」
「い、いえ……豪快ですね」
ユークレースが辛うじて呟く。その視線は、ハンスの足元に釘付けだ。
ハンスは苦笑して頭を掻いた。
「これが一番早いもんで」
「……む、虫を踏み潰すなど…なんと野蛮な…!」
何とも間抜けな呟きが、ヒューレックの口から洩れた。
ハンスが視線を向けると、ヒューレックはズザザザザ!と音を立てて後退る。
「野蛮、と言われましてもね…」
「ええい、言い訳をするな! 即物的な対応しか出来ぬ下賤の者が!」
ヒューレックは癇癪を起こしたようにハンスに指を突き付け、わめき散らす。
「大体、何故神聖なる世界樹に虫がつくのだ! 貴様ら、一体何をしているのだ!!」
「そりゃ虫くらいつくでしょうよ。木なんだから」
「そうだな」
「ですね…?」
ハンスが半眼で突っ込み、ポールが真顔で頷き、ユークレースが心底不思議そうな顔で同意する。
は…?と呻き、ヒューレックの時が止まった。
「……木?」
「木でしょう。どう見ても」
ハンスにしてみれば『どこが木だ』と突っ込みたくなるくらいアグレッシブな存在だが、一応見た目は木である。動いていない今は特に、木にしか見えない。
「いや、だが、世界樹は神聖な存在で」
「人間にとってはそうでも、虫はンなこと考慮しませんよ。目の前に美味そうな青葉やら樹液やらがあったら喰い付く、それだけです」
実際、世界樹の枝の世話の大半は害虫の捕殺である。
世界樹には、アブラムシやカメムシと言った樹液を吸う系統の虫から葉を食害するイモムシまで、ありとあらゆる害虫が──大抵巨大化して襲い来る。
しかも大変ありがたくないことに、特定の植物にしかつかないとされる虫まで世界樹には群がるのだ。
ある程度は世界樹自身が霧で防いでいるようだが、虫は雄雌1対いればその場で繁殖を始めるし、単為生殖──つまり1匹居れば増え放題という種類もいる。世話をする側にとってはたまったものではない。
呆然とするヒューレックに、ユークレースがとても申し訳なさそうに指摘する。
「その…作業記録に書いてあったと思うのですが…」
ヒューレックは何かを思い出すように視線を彷徨わせ、一瞬『あっ』と目を見開いた後、強く首を横に振った。
「…そ、そこまで多くは書いていなかっただろう」
「1匹2匹捕殺したくらいじゃ『駆除』の範疇にも入りませんからね」
一応、ポールは覚えている限りノートに記録しているが、何せ昼間の多岐にわたる作業を夜に一気に書き出すため、どうしても抜けは発生する。
そしてユークレースに渡す『提出用』の写しはダイジェスト版で、大量発生したものでない限り、捕殺した虫の種類を列挙することはない。
「実際は、虫も結構ついてるんですよ。──ほらこことか」
ハンスはざっと周囲を見渡し、それっぽいシルエットが見えた部分を下から覗き込んだ。
ユークレースは興味深そうに、ヒューレックは明らかに逃げ腰ながら、恐る恐るそれに近寄り──
──うぞり。
「…!」
「ヒッ…!?」
葉裏に小型の毛虫が十数匹、びっしりと張り付いているのを見て、真っ青になって固まった。
あ、とハンスは声を上げる。
「これヤバいやつか。2人とも、なるべく静かに、そーっと、下がってもらえますかね?」
「え?」
「こいつら、毒のある毛を飛ばすんで。できるだけ刺激しないように」
「飛っ…!?」
「あー、叫ばないで、静かに…!」
ちなみに、この『毛を飛ばす毛虫』にはモデルがいます。
気になる方は『チャドクガ』で検索…。




