110 現地視察
契約書の複写を受け取った後は、いつものやり取りだ。
収穫したエリク草と剪定して保管していた世界樹の枝をユークレースに確認してもらって引き渡し、前回の訪問から今までの栽培経過の概要を説明しつつ、栽培記録も手渡す。
ヒューレックは終始不機嫌そうな顔をしていたが、やり取りに口を出してくることはなかった。
が──
「それでは、今回はこれで──」
「待て」
ユークレースが暇を告げようとしたところで、ヒューレックが制止した。
戸惑うユークレースが振り返ると、ヒューレックはあくまで尊大な態度で言い放つ。
「この際だ。私を栽培現場に案内しろ」
「は?」
ハンスはぽかんと口を開ける。
世界樹の枝に認められないと、あの広場には近付けない。研究を主導しているというなら、当然それも知っているはずだが。
ユークレースが困り果てたように眉尻を下げた。
「室長、それは無茶かと…」
「私は研究の責任者だ。現地を視察するのは当然だろう。──それとも、私が視察するのに都合の悪いことでもあるのかね?」
「そんなことは…」
底意地の悪い顔でユークレースをせせら笑うヒューレックを見て、ハンスは一瞬で理解する。
(あー…何が『無茶』なのか分かってねぇなこの御大は)
そもそも広場に『近付けない』のがどういうことなのか、書類で知ってはいても実態が想像できないのだろう。
口ぶりからするに、今まで現地を見たことはない──どころか、向かおうとしたことすらないようだ。でなければ、視察するのは当然などと簡単に言えるわけがない。
そもそも、あの場所に入れるかどうかは世界樹の枝次第、なのだから。
ハンスはふー…と溜息をついた。
「──分かりました。ご案内します」
「は、ハンスさん…!?」
驚きに目を見張るユークレースに目配せして、軽く片目を瞑る。
──こういう奴は、実地で痛い目見させてやれ。
ハンスの無言のメッセージは正確に届いたらしい。ユークレースは一瞬目を見張り、その後色々と諦めたような表情で小さく頷いた。
この場合、一番割を食うのは──ユークレースである。
ハンスとポールの案内で、一行は森の中に入った。
程なく、周囲に濃い霧の塊が漂い始める。
「──さて…」
「…なんだ? もう着いたのか?」
足を止めると、ヒューレックが胡乱な表情で視線を上げた。そして、ギョッと目を剥く。
「な、なんだこれは!?」
ここに来るまで、ヒューレックは自分の足元ばかり気にして周囲に視線を向けていなかった。
森の中を歩くのには致命的な目の使い方だが、普段は馬車での移動ばかりで街歩きすらろくにしていない富裕層では仕方ない。
「霧です」
「そんなことは分かっている!」
ハンスが端的に答えると、ヒューレックは怒り出した。ここに来るまで何度も躓き、疲労とストレスも蓄積しているのだろう。冷静さなど欠片もない。
「世界樹の枝はどこだ!」
「あの霧の向こうです」
「は──」
ハンスが指し示す先、いくつもの霧の塊が漂うさらに向こうは、乳白色の霧一色。森の木々のシルエットすら見えない霧の濃さは、『霧』というよりもはや『煙幕』だ。
ぽかんと口を開けるヒューレックに、ハンスはあくまで淡々と告げる。
「あの霧を抜ければ、世界樹の枝を栽培している広場に着きます。──抜けられれば、ですが」
ハンスがぼそりと呟くと、ヒューレックはハンスとポールを見遣り、不意に小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「…たかが霧だろう。抜けられれば、などと…」
「し、室長…」
ユークレースが困ったように呻くが、ヒューレックは居丈高な態度で言い放った。
「助手、何をもたもたしている。行くぞ」
「え──…は、はい!」
ヒューレックが勢いよく歩き出し、ユークレースが慌てて後を追う。ハンスとポールを追い越し、周囲の霧の塊を無視して、一気に乳白色の帳の中へ──
「……オヤジ」
「なんだ」
「…この場で待ってた方が良いか?」
「…そうだな」
何となく展開が予想できた。
ハンスが呟くと、ポールがとても静かに頷く。
そうして、ヒューレックたちが霧の向こうに消えてから、数分後。
「──ここかっ! …………は?」
息を切らした2人が、ハンスたちの正面に出て来た。
(やっぱりか)
真顔のハンスをヒューレックが呆然と見上げ、さらに周囲を見回す。そして、
「…お前たち、先回りしたのか!?」
(ンなわけあるか)
内心突っ込みを入れつつ、ハンスはあくまで冷静に応じた。
「オレたちは一歩も動いちゃいませんよ。あと、そちらさんがここを出発してから、ほんのちょっとしか経ってませんが」
「そんな馬鹿な話があるか!」
怒鳴るヒューレックの背後で、ユークレースが林冠を振り仰ぎ、太陽の位置を確認して困り果てた表情になる。
彼は何度か現地に足を運び──もとい、足を運ぼうとして、かなり苦労した経験がある。自分たちに何が起きたか、理解したのだ。
「…室長、確かに、それほど時間は経っていないようです」
「なんだと!?」
ヒューレックが血走った目でユークレースを振り返り、その視線に釣られて空を見上げ、ぴたりと動きを止める。
そして慌てて懐を探り、いかにも高級そうな懐中時計で時間を確認して、
「…………ゴホン。世界樹の霧は時間間隔と方向感覚を狂わせるのだ。常識だな」
ハンスへの言い掛かりを速やかになかったことにした魔法植物の権威は、いかにも思慮深げな顔で腕組みする。
「しかしこれでは埒が明かんな。この私を通さぬとは、全く無礼な」
(無礼なのはどっちだよ)
世界樹に認められた者でなければ、この霧を突破することはできない。つまり、選択権は世界樹の側にある。
自分が世界樹の立場だったら、この無駄に偉そうで上から目線で面倒臭いオッサンに近寄ってほしいとは思わない──ハンスが冷めた目で見守っていると、ヒューレックは突然ハンスとポールを見遣った。
「…致し方ない。お前たち、私と助手を案内しろ」
「へ」
「いつも世話をしているというのだから、当然、お前たちはこの霧を抜けられるのだろう?」
無駄に知恵は回るらしい。ハンスはこっそり溜息をついて、ポーチからロープを取り出した。
「分かりました。じゃ、こいつを自分の胴体に結びつけてください」
「なんだと!? この私を家畜扱いする気か!」
「森ん中を手ェ繋いで歩くのも危険でしょうが」
そもそも偏屈ジジイと仲良くお手々繋いで歩く趣味はない──とは口に出さず、ハンスは半眼でヒューレックを見遣る。
ユークレースが申し訳なさそうな表情で進み出て、ハンスからロープを受け取った。
「お気遣い、痛み入ります」




