103 地上へ
その後ハンスとモクレンはエーギルと別れ、教えられた通りの道をひたすら地道に登って行った。
脱出路など無いと思いきや、ハンスとモクレンが運ばれた岸の片隅にギリギリ人間が通れるくらいの狭い穴があったのだ。
途中、何ヶ所か完全に氷で塞がれている部分があったが、スパイク付きの靴底で無理矢理蹴破り、あるいはモクレンの火魔法で融かして進んだ。
《オレサマの身体強化魔法に感謝しろよな!》
「あーはいはいありがとよ」
《誠意が足りないぞー!!》
誠意も足りないが、緊張感も足りない。
気の抜けるやり取りをしつつ進んでいくと、段々と気温が上がってきた。
モクレンがそわ…とヒゲを震わせ、ハンスの足取りも自然と速くなっていく。
そして──
《…地上だー!!》
生い茂っていたツタをかき分けると、いきなり視界が拓けた。
眩しい光が目を刺し、ハンスは思わず手をかざして陽光を遮る。
「…ここは…」
真正面に見えるのは、赤い夕日。今にも沈みそうな陽光でも暖かく感じるのは、冷え切った地底に長い時間居たからだろう。
自然と目尻に涙が浮かんで、ハンスは荒っぽく手で拭った。
(暗さに慣れた目には眩しすぎたな)
そうに違いないと自分に言い聞かせ、マフラーを外しながら改めて周囲を見渡す。
ハンスたちが立っているのは、ツタの生い茂る崖の中腹だった。
眼下には森、そして見上げた先、崖の上も森。
植生からして、標高は下エーギル村と同じか少し下。そして真正面に夕日が見えるということは、ここはエーギル山の西側。村や街道からはそれなりに離れているだろう。
ハンスがそこまで判断したところで、なんだ、と気の抜けた念話が響いた。
《ここかあ》
「モクレン、ここがどこだか分かるのか?」
《おう、当然だ!》
モクレンは自信満々に胸を張る。胸元のエーギルのウロコが、夕日にキラリと輝いた。
《ここは下エーギル村からちょっと下った辺りだな。少し東に歩けば街道に出られるぞ》
こっちだ! とハンスの肩から地面に降りて歩き出すモクレンを追って、ハンスも一歩踏み出し──
「おいちょっと待て! 人間に通れる道じゃねぇぞ!?」
何せ崖の中腹である。
モクレンは岩肌のちょっとした凹凸に軽やかに飛び乗って進んでいるが、ハンスが体重をかけられそうな足場など無い。
モクレンが片耳を倒して振り返った。
《えー、面倒だな。じゃあ杭でもなんでも打ってとりあえず崖の上にでも出れば良いんじゃね?》
「お前雑すぎるだろ!」
《俺はフツーに通れるからなー》
ひらりと尻尾を振って、モクレンは軽々と崖を上る。あっさり登頂してひょこっと顔を出し、
《ほれほれ、早く来いよ。日が暮れちまうぞーオッサン》
ニヤリ、大変楽しそうな笑みを浮かべる。
ハンスは額に青筋を立てた。
「このお調子者が…!」
その後、崖に打ち込んだ杭を足場に、ハンスは何とか崖を上り切った。
《トラブル無しかよ、つまんねーなー》
「そうそうあってたまるか」
悪態をつきつつ、モクレンの案内で森の中を進む。
獣道と呼ぶのも微妙な道行きだったが、モクレンは迷うこともなかった。
やがて、拓けた場所に出る。
「おっ、ここか」
明らかに馬車の轍だと分かる跡と見付け、ハンスはホッと息をついた。丁度、街道の曲がり角のようだ。
見渡すと、『下エーギル村』と書かれた案内板が目に入る。
その下に書かれた矢印と距離で、ようやくハンスは現在地を把握した。思ったよりも村に近い。
「これなら完全に暗くなる前に帰れそうだな」
既に日は沈み、周囲は暗くなりつつある。
何とか家には帰れそうだが、さてリンたちは無事に上エーギル村に帰っているだろうか──仲間たちに思いを馳せたところで、ハンスははたと気付いた。
(…いやこれ、もしかして騒ぎになってねぇか?)
洞窟探索の真っ最中に、仲間の目の前でケットシー諸共、底の見えない穴に落ちる冒険者。
どう考えても事案である。『帰れそうだな』などと言っている場合ではない。
急に動揺し始めたハンスを、モクレンが不思議そうに見上げた。
《なんだ、トイレか?》
「違ぇよ。洞窟の中でいきなり落下しただろ? 絶対騒ぎになってんじゃねぇかと」
《そりゃそーだろ》
モクレンは片耳を倒し、当たり前の顔で続ける。
《そこは謝るしかねぇんじゃねーの? 大体、落ちた後に出くわしたモンの方がよっぽどビックリ案件なんだから、今更動揺すんなよなー》
「…………そうだな」
あまりにも平然と言われ、ハンスはスン…と平坦な表情になる。慌てるのも馬鹿らしくなったのだ。
まあ落ちた先が地底湖でそこが海と繋がっていて、水のドラゴンが常駐している上にドラゴンたちの社交場になってるなんて、普通は思わねぇもんな──などとハンスが遠い目をしていると、坂の上から振動が近付いて来た。
「どいてどいてええええ──!!」
ドドッ、ドドッ、という力強い蹄の音と土煙、そしてドスが利きつつも高い声──ハンスはあんぐりと口を開ける。
「……は……!?」
それは巨大な毛玉とそれに跨る小柄な人影──ハイランドシープのメリーさんと、リンだった。
「どいてって…きゃあっ!?」
メリーさんがハンスとモクレンに気付き、急制動をかける。
地面をえぐり激しい土煙と土くれをまき散らしながら、メリーさんはハンスたちの直前、U字カーブのインコース上で停止した。
リンは街道の先、つまりハンスたちとは反対側を見据え、険しい顔でメリーさんの背中の毛を掴む。
「メリーさん、止まらないで! 早くしないとハンスさんたちが──!!」
「オレたちが?」
《んん?》
──ベェ。
ハンスとモクレンが揃って首を傾げ、メリーさんが短く鳴く。
つまるところ、リンはそこに居るのがハンスだと気付いていないのだ。
「早くユグドラ支部に応援を呼びに行かないと…!」
リンは下り坂の先を見たまま、グイグイとメリーさんの体毛を引っ張る。メリーさんが大層迷惑そうに眉間にしわを寄せた。
いや、ハイランドシープに眉はないので、『眉間』という表現が正しいのかは微妙なところだが。
「あー、応援を呼びに行く? ユグドラ支部に?」
「そうよ!」
誰が自分に話し掛けているのか認識しないまま、リンが鼻息荒く頷く。
「ハンスさんもモクレンも、絶対生きてるんだから!」
「あーまあ、確かに生きてるなオレらは」
《そーだなー》
「何を呑気に──って…………」
そこで初めて、リンが振り向いた。
 




