宇治川千歳と妖怪喫茶
匿名スレにて創作ネタを募集したら『老人と老猫』『お化けの働く喫茶店』『ある日急に龍になった男が自分なりに好きな人に告白する』『エアコン壊れた』『鳴らない風鈴』あたりが上がって来たのでえいやっと全部まとめてみました。
執筆時間約6時間。
「う~」
六月吉日、日曜日。天気晴れ。クソ晴れ。燦々晴れ。気温はなんと三十一度を記録。つい昨夜の土砂降りが嘘のような快晴である。そんじょそこらの夏よりよっぽど真夏日な今日、梅雨明けの湿度と相まって太陽はそれはもう眼下の人間をアイスクリームみたいに溶かしつくさんと張り切っていた。いい迷惑である。
「う~~」
うだるような暑さ、という表現を考えついた人は天才だと思う。だって、こうも暑いと、うーうー唸りながらだるさを紛らわすしか無いんだから。私こと宇治川千歳はさながらくたばり損なったゾンビみたいに意味のないうめき声を漏らしながら、雲ひとつ風ひとつ無い、文字通りの直射日光を一身に浴びながらひとり路地を歩いていた。
寒いのは何とかなる。着込んだり、カイロを懐に忍ばせたり、最悪動き回れば温まる。しかし暑いのはどうだろう? 氷水や冷えピタが涼を与えてくれるのは一瞬だ。脱ぐにしたって限界というものがある。ましてや千歳は女子校生。うら若き乙女の素肌は暑さごときに露出面積を増やしてやるほどお安くないのである。
「う~~~」
したがって、千歳はかの格言「おしゃれは我慢」を忠実に守り、薄手のカーデに長丈のフレアスカートといった出で立ちでこの猛暑に立ち向かっているのである。京都のおばあちゃんが見たら卒倒するかもだけど。
「なっちゃんめ……明日会ったら覚悟しろよ……」
怨嗟の矛先は否応なく幼馴染の友人に向けられる。陽咲夏美。読んで字の如く夏女にして晴れ女。陽キャにしてトラブルメーカー。千歳がこの炎天下の中、一人優雅なウォーキングに精を出すことになったのも、元はと言えばこの子のせいなのである。現状に至るまでの経緯をスリーステップで簡単に説明すると。
一、昨日うちに遊びに来たバカなっちゃんがふざけてバットをフルスイング。
二、案の定すっぽ抜けてエアコンにダイレクトアタック。
三、「ごめん! いいカフェ知ってるから明日そこで涼も?」
と、いうもの。とんでもない破壊神である。しかしながら今、千歳の汗ばんだ手に握られているスマホに表示されている通知のせいで、五分前からステップはもう一つ増えていた。
四、「用事できたから行けんくなったわ! 『ひゅ~どろ』の場所教えるから一人でいってらっさ~い」
で、今に至る。
色々言いたいことはある。もちろんある。山ほどある。「人んちのエアコン壊しといてカフェで釣り合い取れるかバカ」とか「エアコンだけじゃなく交友関係まで破壊するつもりか」とか「火に油って慣用句知ってる?」とか。けれども、燃え上がった千歳の怒りの炎よりもなお熱い、いや暑いのが本日の気温である。こうも暑いと怒ることすらもう億劫になる。
先の通知を見た時、千歳は勢いのままに一度帰宅の途に着いた。しかしながら策士陽咲は奸計により我が家のエアコン将軍を討ち取っているのである。窓際の風鈴も沈黙を貫くサウナもかくやな本陣こと自宅に、一切の成果なく撤退するのは千歳とて忸怩たる思い。歩けば照り焼き戻れば蒸し風呂。これが焦熱地獄というやつか?
そんなわけで、暑さにやられてなんやかんやと回らない頭での葛藤の末「何が何でも絶対に涼んでやる」という一丁前の覚悟を決めた千歳は再び歩き始めたのである。うーうー言いながら。
「う~~~~~?」
十数分ほど歩いただろうか。正午に近づくに連れて太陽の勢いはなお増すばかり。入念に汗止めをしているはずの千歳の額にも大粒の汗が浮かんできている。暑さに屈し、カーディガンは途中でバッグにしまった。ノースリーブのフリルシャツ姿へと華麗に変身を果たした千歳は、しかし未だ目的地に到着していなかった。
「この辺、だと思うんだけどなあ」
呟きながら、なっちゃんから送られてきたお店の情報と地図アプリを照らし合わせる。住所に誤りはない。地図上だと、いま千歳の歩いている通りにそのお店はあるはずなのだが、それらしき建物を見つけられない。結局、同じところをぐるぐるしている。
立ち止まり、スマホを注視する。何としてもたどり着かねば。もういい加減喉も乾いたし歩き通しで疲れてきた。だというのに、頭がぼんやりしていてなかなか画面の情報が頭に入ってこない。というか、うまく見えない。視界の端が何だかちらついて、上手くピントが合わない……。
ふと目線を上げた瞬間、ぐらりと世界が歪んだ。まるで立ちくらみを起こしたみたいだ。平衡感覚を失い、足から力が抜ける。重力に抗うすべを失って倒れる寸前、目の前を黒猫が横切った気がした。そういえば、おばあちゃんの飼ってた黒猫、長生きだったなあ……。
しょうもない思考だけを残して、千歳の意識は途切れた。
「はっ!?」
目を覚ます。どうやら気を失っていたらしい。
「あれ?」
あの気怠く纏わりつくような鬱陶しい熱気が感じられない。それどころか、ひんやりと心地よい冷気が火照った肌を冷ましてくれている。寝ぼけ眼で周りを見渡す。室内だ。どうやら、千歳はこの茶色い革張りのソファに寝かされていたらしい。体を起こしながら、夢と現実の狭間の、むしろ夢側から現実に手を伸ばすが如く千歳は呟いた。
「ここはだあれ? 私はどこ?」
「逆やがな」
「ひゃわあっ!?」
不意に傍らからした声に驚き飛び退く千歳。一瞬で現実へと意識が戻る。その声の先には。
「猫?」
「猫や」
毛並みの良い黒猫がいた。関西弁を話す黒猫が。
「……」
「……」
どうして猫が? というかここはどこなの? 猫って喋るんだっけ? さっき倒れたよね? ……ああ、そうか。
宇治川千歳ちゃんの明晰極まりない頭脳は滞ることなく回転し、コンマ五秒の早業でこの難解極まりない事態の真実を導き出した。
「夢か!」
「なんでやねん」
満月のように黄金色の瞳をそれこそ半月みたいに細めながら、ずべし、と放たれた往年のツッコミ(という名の猫パンチ)を頬に食らった千歳は混乱。
「ええっ!? 夢じゃない!? 猫が喋ってるぅ!!」
「夢やあるかい! 自分、ウチの前で気ぃ失っとったんやで? うちが見つけんかったら今頃ジューシーなミディアムレアなっとったで。感謝しいや」
「ひええおっそろしい……ありがとうございます……」
死因・ミディアムレアはいやだ! 千歳は鉄板の上で美味しく焼かれる自分の姿を想像してゾッとしつつ、目の前の黒猫に素直にお礼を言った。
そうか。あの時、やはり千歳は倒れてしまったのだ。冷静になった頭で周囲を観察する。
どうやらここは少し古風な喫茶店のようだ。あまり詳しくないからわからないけれど、純喫茶というやつだろうか? 千歳が寝かされていたのは店の奥にあるソファ席。四人掛けだ。他には二人がけのテーブル席が三つとカウンターに五席。そんなに大きなお店ではないが、床や壁を含めて全体の調度品がダークウッドの質感で統一されていて、落ち着いた雰囲気を感じる。見上げれば、白い天井に梁が通ってその中心では大きなファンが回っていた。観葉植物やよくわからないレトロな置物(スーパーカー?)などが置いてあって、「ザ・喫茶店」といった感じだ。
自分のお店の前で急に倒れられたら、そりゃあびっくりもするだろう。改めて千歳は謝罪した。
「すみません、ご迷惑をおかけしてしまって……」
「わかりゃええねん。ほんで、何飲むん?」
「え?」
「え? とちゃうよ。ここはカフェ。自分はお客。なんか注文せなあかんやろ? それとも何か? 介抱させるだけさせといて尻尾巻いて帰ろうとしてるんちゃうやろな?」
ま、あんたには巻く尻尾もあらへんけどな、と二又の尾を揺らして自分の言葉に笑う黒猫。……ん? 二又?
千歳は思わず目を瞬かせた。視線に気づいた黒猫は、ああ、と事もなげに言った。
「自己紹介がまだやったな。うちはマオ。猫又や。よろしゅう」
言うなり、黒猫、もとい猫又のマオはひょいとソファから飛び降りて軽やかに宙返り。瞬間、マオの体は煙に包まれる。煙に目が眩んだ千歳が再び目を開くと、そこには黒猫の姿はなく、一人の少女が立っていた。
シックなエプロンドレスに身を包んだ少女は艷やかな黒髪をお下げの形にしている。特徴的なのはなんといっても満月みたいに明るい黄金色の瞳と頭の上の黒い猫耳。胸元のネームプレートには「まお」と可愛らしい丸文字で書かれている。年の頃は千歳より少し高めに見える。十八、九の外見だ。
「お給仕するときはこっちのが楽やねんな」
「変身した……?」
あまりのことに驚きを隠せない千歳。いや、倒れたと思ったら喫茶店で寝かされてて、猫が喋ってて、関西弁で、驚くことは他にもたくさんあったのだけれど、感情が追いついていない節があった。けれど、これは流石に視覚的なインパクトが大きい。
「したで。猫又やからな」
事もなげに返すマオ。
「そもそも、猫又って本当にいるんですね」
「本人……本猫? 前にして言うこととちゃうやろ。それに、わかってウチ探してたんとちゃうの?」
「え?」
ほれ、とマオに差し出されたものを受け取る。それはこの喫茶店のメニューだった。表紙には『妖怪喫茶 ひゅ~どろ』……ここが目的地だったんかい!!
内心での千歳の叫びを知ってか知らずか、マオは言った。
「知る人ぞ知る隠れ家的名店、ってあるやろ。ウチがそうや。だって、この店は基本妖怪しか入って来れへんもん。だから人間が来るときはだいたい妖怪に連れられて来んねん」
「へえ……。ん? とすると、今日私一人で来てましたけど、もし倒れてなかったら……」
「見つけられへんかったやろな」
「やっぱり!」
超変な店! 心の底からそう思ったが、流石に店員であるマオの前で口に出すのは憚られた。かわりに零れたのは別の感想である。
「なっちゃん、どうやってこのお店知ったんだろ」
「誰や? そのクーって子は」
「なっちゃんです」
「バヤリース?」
「ジュースの話じゃないですよ?」
千歳が思わずツッコむと、マオは「冗談や」とからから笑った。ちらりと見えた鋭い八重歯がチャーミングだ。改めてなっちゃんのことを説明すると、マオは「ああ」と得心がいったように拳で手のひらを叩いた。
「夏美のことか! あいつ妖怪やで。晴れ女」
「嘘ぉ!?」
今日一衝撃だ。だって、なっちゃんとは幼馴染で、物心つく頃から一緒に遊んでたのに。なっちゃんが妖怪だなんて。確かに、言われてみればなっちゃんと遊びに行くときに雨が降ることは絶対無かったし、「あーした天気になーあれ」って靴を飛ばすやつも絶対「晴れ」だったし……。
うん、まあ別になっちゃんが妖怪でも困らないな。
「意外に妖怪って身近にいるもんなんですね」
「飲み込み早いなあ自分。まあでもそんなもんや。猫又もたまたま百年生きた猫の尾っぽが裂けて変身できるようになるだけやからな」
「てことは、マオさんも?」
「せや。百十二歳や。人間で言えば大ばあちゃんやで。いつ寿命来るんやろな~……っと、話逸れとったわ。注文! 決まったら呼んでな~」
言うなり、マオはカウンター奥の厨房へ引っ込んでいってしまった。
折角なので、なにか頼もう。外の日差しからは逃れられ、快適な冷房もついているけれど(これも雪女の吐息だったりしないよね?)、ともかく喉を潤したいところだ。
妖怪御用達のお店ということで恐る恐るメニューを開いたが、ほっと一安心。品揃えは普通のカフェとそう変わらないみたいだ。目玉タピオカミルクティーとか、獲りたて臓物生タルトとか、そういう魑魅魍魎を感じるおどろおどろしい品揃えでなくて助かった。
少々迷って、千歳は『アフタヌーンスイーツセット』をチョイス。沢山歩いてお腹も空いていたし、ちょうどいい。ドリンクはメニューの中から好きなものを選べて、スイーツはその日入荷している季節ならではのものが出るらしい。千歳はシェフの気まぐれサラダとか、おまかせ丼、みたいなランダム要素のある食事メニューにどうしようもなくときめいてしまうタチなのだ。宝くじも買ったことがない千歳だが、もしギャンブルに手を出してしまったら熱中してしまうタイプかもしれない。
卓上の呼び出しベルを鳴らすと、「はいは~い」とカウンター奥からマオの声。待つこともなく、千歳の席に一人の男性がやってきた。
ロマンスグレー、といえば良いのだろうか。白みがかった髪はしかしその毛量を減らすこと無く、海外俳優よろしくピッシリとセットされている。着ている制服にも皺ひとつ無く、柔和な微笑みを浮かべる目尻には深い笑い皺が刻まれていた。非の打ち所のない老紳士である。
遅れてマオがやってきて、男性を紹介した。
「こちらは龍彦さん。うちのマスターやで」
「どうも、一条龍彦と申します。お嬢さん。体調は?」
龍彦さんは重みのある低い声で喋る人だった。見た目通り……いやそれ以上に重厚な年月の積み重ねを感じる声だ。千歳が問題ないと告げると、 龍彦さんはにっこり笑って注文を取ってくれた。そういう趣味は無いけれど、所謂枯れ専と呼ばれる人たちの気持ちがわかった……かも、しれない。ちなみに、本日のスイーツはレアチーズ白桃タルトだそう。「レアチーズ」で「白桃」で「タルト」!? もう、そんなの絶対美味しいに決まってる! 龍彦との会話はそれ以降も続いていたが、正直話の内容なんて殆ど覚えちゃいなかった。本日のスイーツを聞いた瞬間から心の中のギャンブラーが快哉を上げて憚らなかったからだ。我が心ながらやかましすぎる。ギャンブルには決して手を出すまいと、千歳は内心の奥底の方でそう決意を固めた。
レアチーズ白桃タルトを美味しく完食し、おかわりのアイスコーヒーを飲んでいる時である。カフェはそれなりに席が埋まってきていて、マオは接客に忙しそうだ。
ふと視線を感じ、そちらを見やると龍彦さんと目が合った。それだけであれば何のことは無いのだが、龍彦さんはそそくさときまり悪そうに視線を外し作業に戻ってしまうのである。それが一度ならず、二度、三度と続いた。好奇心を刺激され、四度龍彦さんと目が合ったタイミングに声を掛けてみた。
「私の顔になにかついてますか?」
「ん、いや、別に、そういう訳では無いよ。気に障ったのなら申し訳ない。少し……その、何だ。昔を思い出してしまってね」
「昔?」
龍彦さんは頷き、「少し昔話でもしようか」と作業を止めて千歳の対面の席に腰掛けた。お店は大丈夫なのかと思ったが、厨房にも何人かの妖怪がいるから大丈夫だとのことだった。
龍彦さんはお冷を口に含んで話し始めた。
「うちのマオがそうであるように、妖怪のルーツは普通の生き物である場合も多い。私もかつては人間だったのだよ」
「今も人間に見えますけど」
「それは外見だけだ。私は若い頃、ある神社に祀られていた龍神様の像に触れてしまってね。……単なる深夜の肝試しに過ぎなかった。だが、龍神は私を祟り、理性のない獣へと姿を変えさせたんだ。そうして、私は龍に……妖怪になった」
「それは……」
千歳は驚いた。妖怪になったという部分にではない。神社に祀られていたという龍神の像が話に出てきたからである。なぜなら。
「それ、もしかして京都の宇治川神社じゃないですか?」
「確かにそうだが……なぜそれを?」
龍神の像、肝試し。千歳はその神社を知っていた。龍彦さんにとっても予想外だったのだろう。目を丸くしてこちらを見据えている。千歳は龍彦さんに向き合い、偶然の告白をする。
「私の名前は宇治川千歳。京都宇治川神社の神主は私のおばあちゃんで、更に言うなら実家です」
「なんと……」
ただでさえ丸くなっていた龍彦さんの瞳が皿ほどに丸くなった。
おばあちゃんから聞いたことがある。まだおばあちゃんが今の千歳ほどの年の頃、肝試しスポットとして深夜の宇治川神社が流行ってしまい、訪れた人が稀に失踪していたこと。正直、千歳はその話を冗談半分に聞いていた。だって、その話の締めはいつも、「おばあちゃんは凄腕の陰陽師だったから、妖怪になってこの世を去った者を現世に呼び戻せたのさ」で終わっていたから。そんな話、子供を楽しませたり怖がらせるためのおとぎ話にしか思えない。というか実際、今の今まで、そう思っていた。龍彦さんの話を聞くまでは。
「では……」
震える声で龍彦さんが口を開く。唇はかすかに震え、今から言おうとしていることを本当に言っても良いものかどうか、思案しているようだった。数秒ののち、龍彦さんは毅然とした表情で、一世一代のプロポーズに望むような面持ちで、こう問うた。
「では、お祖母様のお名前は……」
「万里恵です」
「やはり!」
龍彦さんは驚きの声を上げた。そうして、内からとめどなく溢れんとする情動をこらえるように、顔に両手をやってその老練さに似つかわしくない、思春期の少年のように涙をこらえていた。
しばらくして落ち着きを取り戻した龍彦さんは、今一度千歳の顔をよく見た。
「どこか、よく万里恵さんに似ていると思ったんだ。目の形や……すっと通った鼻筋も面影がある……。すまないね、みっともないところを見せて」
「いいえ、大丈夫ですか?」
龍彦さんはうなずいた。嘘をついたり、強がっているふうには思わなかった。
「宇治川神社で最も最後に龍になったのが私なんだ。理性を失い、目につくもの全てを壊そうとした。君のお祖母様……万里恵さんも含めてね。それでも万里恵さんは諦めず、必ず私を元に戻すと強く訴え続けてくれた。たとえ一生かかろうとも人間に戻すと」
噛みしめるように言うと、龍彦さんは「ちょっと待ってね」と一旦カウンターに引っ込み、少しして便箋に入ったひとつの手紙を持ってきた。
「万里恵さんはやり遂げてくれた。私を人間に戻してくれたんだ。もっとも、一度妖怪になってしまった本質までは変わらない。だとしても、半人半妖の第二の生を与えてくれたのは紛れもなく万里恵さんだ。私は、私のために万里恵さんが本当に命を掛けてしまったんじゃあないかとずっと思っていた。だが、違ったんだね。万里恵さんは龍と化した私から生き延びた。それだけでなく、千歳さんという孫までいる。こんなに嬉しいことはない」
そう言いながら、龍彦さんは手紙を千歳に手渡してきた。「これはなんですか」と千歳が聞くと、龍彦さんは「うーん」と少し悩んだ風にして、逆にこう問い返してきた。
「孫の千歳さんから見て、お祖母様は幸せそうに見えるかい?」
千歳は即答する。
「ええ。とくに、おじいちゃんとは死ぬほどラブラブです」
「クッ、フフフ……そうか、ラブラブか! ははははははははは!!」
龍彦さんは少年のように屈託なく笑った。ひとしきり笑って、「じゃあ」と改めて手紙をこう説明した。
「この手紙は、失恋確定のラブレターだ。気が向いたら、お祖母様にお渡ししてくれるかい?」
「わかりました。必ず、渡します」
それ以外の返答は、千歳には思いつかなかった。
からころ。
入店時には気絶していて気が付かなかったドアベルが、優しく千歳にさよならを言う。気づけば、もう夕暮れだ。ずいぶんのんびりしてしまった。
空は燃えるように真っ赤だが、今日の仕事を終えかけている太陽に昼間ほどのガッツはない。バッグの中からカーディガンを取り出して袖を通す。うん、ちょうどいい気温だ。
さて、帰ろう。
千歳が帰路に着こうとした時。
「待ちや」
今日一日で聞き慣れた関西弁が千歳の足を止める。振り返れば、そこには二又尻尾の黒猫、マオがいた。マオは千歳の視線を受けると、殊勝に頭を下げた。
「すまん、今日『ひゅ~どろ』に千歳呼んだん、うちやねん。夏美に千歳を誘うよう言うたのも、当日急に来れへん言わせたんもうちや。振り回してすまんかった」
「ああ、なんだ、そんなことですか。大丈夫ですよ。色々と新鮮なお話も聞けて、普段じゃ出来ない体験をさせてもらえたので。それに……」
千歳は屈み込み、黒猫マオに耳打ちするように言った。
「私が倒れるのを、おばあちゃんの式神が放っておくわけ無いもんね」
「! 気づいとったんか」
「おばあちゃんは猫派、だからね」
龍彦さんの話を聞いて確信した。陰陽師という話が事実だった以上、昔飼っていた黒猫がやたら長生きだという話にも符号がついたのだ。
「食えんやっちゃな。万里恵の孫なだけあるわ」
「それ、褒められてるの?」
「どちらかといえば引いとるわ」
「ええっ!? ひどい!!」
一人と一匹でけたけた笑う。いつの間にやらマオとの距離が縮まった気がする。式神というより、千歳にとってみれば人間に変身できるという「ちょっとした特技」を持つ猫の友達といったところか。
新しい友達と、新しいお気に入りのカフェ。それと、普通じゃ絶対聞けなかったおばあちゃんの昔話。
比べるとちょっと高いけど、なっちゃんがエアコンを壊した分は今日のカフェでチャラにしてあげよう。
そう思いながら、千歳は自宅への帰り道を心なしか上機嫌に歩くのだった。
thx 4 reading♡