医療という行為とマランドロのフィロソフィー
医療とは、単純な言い方をすれば、症状を診断し、治療する行為だ。
それは手段である。その目的は、生命を救けることである。
生命とは、命のことであるが、命とは人生と置き換えられるのではないだろうか。
人生に於いて何らかの疾患や傷や痛みがあるのなら、それを救けるのが、俺の医療だ。
マランドロ足らん者としての矜持を持った俺が、医の道に進んだのならば、それは必然と言えた。
慈善事業云々を言いたいわけではない。命を大事にと言いたいわけではない。それらは当たり前のことだ。
その当たり前のことを、己の人生を賭け、己の人生を破綻させず、どのように成し遂げていくのか、だ。
問われているのはこちらの心の在り方なのである。
ジョーイ・ラモーンとコンバースのように。
ジャン=ミシェル・バスキアと王冠のように。
カール・ラガーフェルドとホワイトシャツのように。
混ざることで依り個を強調したひとつのオリジンと成った彼らのように。
名手と名作は共鳴し惹かれ合い融合して強い光を放つ。さながらビッグバンの如く熱を伴い炸裂する。
俺の医は地域医療と社会と経済と法律の枠組みにて執り行う業ではあるが、その心根は貧しき者や弱き者をその身と知恵と技術で救けたマランドロのフィロソフィーに根付いている。
俺の中のマランドロもまた、炸裂の時を待つ蕾の如く膨らんでいた。
人の命を人生と捉え、それを治療するのなら、診察と診断による、その人生に於ける疾病の原因究明が不可欠である。
維蕗の怪我に、そして、その原因を話せないもしくは話したくはないということに、物事の本質があるとするなら、まずはそこを明らかにすることからだ。
原因さえわかれば、治療プランも立てられるだろう。
しばらく継続する維蕗の物理的な治療のなかで、維蕗が心を開ける関係性を構築する必要がある。
思慮深い子だ。快活な子でもある。とにかく地道に会話を積み上げていくことが、結局近道なのだろうなと思った。




