13-2 居場所は、どこ?
読みに来てくださってありがとうございます。
少し遅れましたが更新します。いいねを付けてくださった方、ありがとうございます。急にたくさん付いたのでびっくりしました。
長いですが、よろしくお願いいたします。
数日馬車を乗り継いで、ようやくベアトリスは王都にたどり着いた。家を出る時何も持たずに来たが、現金だけは多めに持ち出せてよかったと思う。乗合馬車を降りたベアトリスは、ドゥンケル辺境領へ出張中の女性事務官から紹介された家に向かうため、馬車の御者に住所を見せて行き方を教えてもらった。
「初めて王都に来た人たちのために、地図があるんだ。それに書き込んであげよう」
御者は現在位置と目的地に印を付け、方角を見失った時には12時の太陽の位置から判断するんだよ、と教えてくれた。
「その辺りは高級住宅街だ。お嬢さんの格好なら大丈夫だと思うが、歩くだけで咎められることもあるから、注意するんだよ」
親切な人でよかった。ベアトリスは丁寧にお礼を言うと目的地へ向かった。
15分ほど歩くと明らかに住宅の大きさが変わり、店がなくなってきた。更に15分ほど歩いたところで、示されていた住所と名前の家にたどり着いた。門番がいるような大きな邸だ。外国だったら貴族の邸宅に当たるだろう。ベアトリスは門番に紹介状を差し出しながら、
「こちらで下働きを探していると伺い、紹介していただきました。ベアトリスと申します。どうぞお取り次ぎください」
と丁寧に伝えた。門番は紹介状を見ると少し待っていてください、と言って急いで邸に走って行った。それほど待つことなく、門番は家令と思われる人物と一緒に戻ってきた。
「あなたが、下働きを希望している方ですか?」
「はい。王都の女性事務官の方からご紹介いただきました」
「詳しい話は中で伺いましょう。付いてきてください」
「はい」
門番はニコニコと手を振ってくれた。優しい人なのだろうか。お辞儀をしてから家令に付いていくと、使用人用の玄関からあまり広くない一室に通された。
「こちらは上級事務官ダンクラート様の邸です。『統治』能力者なので姓がないということは、ご存じですね」
「はい、承知しております」
「あなたを雇う上で、我々にはあなたの情報がありません。簡単でいいので、話してください」
ベアトリスは固有名詞をぼかして、正直にこれまでのことを話した。そして、1人で生きていくために何としても住み込みで働きたいこと、家族には自分から手紙を書くので、神殿には伝えないでほしいと訴えた。望まれない結婚をする気もないし、婚約を破棄してももうあの町に自分の居場所はないのだ、と。
「言いたくないこともあったでしょうが、正直に言ってくれましたね。私は下位の『統治』能力者で、多少の荒事対応もできますし、嘘を見抜く力もあるのです。他は庶民よりましというレベルですので、こうして家令として雇っていただいています。これから奥様に最終面接していただきましょう」
家令はベアトリスの気持ちを汲み取ってくれるらしい。ここにいることもご主人に迷惑がかからない限り秘密にしてくれると約束してくれた。連れて行かれた奥様の部屋では、ベアトリスはただ、家令が奥様に説明しているのを頭を下げて聞いていた。
「ベアトリス、と言いましたね。顔を上げなさい。私は貴族ではないのだから、そんなふうにすることないわ」
顔を上げる。上品そうな女性がいた。40代後半から50代の初めといったところだろうか。体の小さな、神経質そうな女性がいた。
「奥様のマルガレーテ様です。奥様、採用ということでよろしいでしょうか?」
「ええ、問題があるようなら、試用期間で辞めてもらうことになるわ。契約書はあなたの方で作っておいてね」
「承知いたしました。それでは、失礼いたします」
「失礼いたします」
マルガレーテの部屋を出ると、家令は良かったですね、と言ってくれた。
「奥様は応募があっても、なかなかお決めにならなかったのです。こんなに早く決めたということは、きっとベアトリスのことを気に入ったのでしょう。今から契約書類を作りますので、まずは部屋に案内させますね。着替えてから私の執務室に来てもらいます。あ、ネルケ、ちょうどいいところへ。今日から入ったベアトリスだ。開いている使用人部屋に案内して、着替えさせてから、私の執務室へ連れてきなさい」「承知しました。こちらへ」
「はい、ありがとうございます」
ベアトリスはネルケに連れられて使用人部屋に入った。1人1部屋らしく、ベッドは1つ、それに書き物ができる程度の机と椅子が置かれていた。
「服は、このお仕着せを着てね。外にいるから、着替え終わったら廊下に出てきて」
「はい、ありがとうございます、ネルケさん」
「ネルケでいいわ。あなた何歳なの?」
「21です」
「私も21よ。お互い口調は堅苦しくない方がいいわ。ね?」
「ええ、そうね。じゃ、少し待っていてくれる?」
にっこりと頷くと、ネルケは廊下に出て行った。ほっと一息ついて着替える。紺色のワンピースに、白いエプロンを身につける。髪は1つに結んで、靴も支給されたものに履き替える。
「お待たせ、ネルケ」
「あら、ベアトリス、思っていたより似合っているわ。あなた制服着慣れているの?」
なんと言ってよいか分からなかった。一瞬暗い顔をしたベアトリスに何かを察したようで、ネルケが慌てて言い繕う。
「変な格好する子がいるのよ。第1ボタンわざと開けていたり、スカートを短くしたりするの。それがないから、しっかり働いたことがある人なのかと・・・」
「ええ、働いてはいたわ。色々あって辞めてしまったけれど」
「そう。でも。ここのお宅はいいところよ。早く慣れるといいわね」
「いろいろ教えてね、ネルケ」
「もちろん!」
家令の執務室で仕事の内容と給与、休みなどについて書かれた契約書を確認すると、早速掃除を言い渡された。使用人のいる家庭ではあったが、指針の魔女のところで生活一般全てのことをたたき込まれている。薪割りだってできるし、食事だってフルコースは無理だが作ることはできる。
水回りの掃除を言いつけられたので、ベアトリスは浴室から掃除を始めた。この邸はそれなりに大きいが、浴室は2つだけだという。主人家族用と使用人用だ。思ったよりも広くはなかったため、これなら何とかやれそうだと安堵する。洗剤を浴槽や壁、床に付けた後、備品にも洗剤を付ける。それから磨き、水を流して髪の毛などのゴミをまとめる。窓を開けて湿気を逃す。浴槽と床が手入れされていたようだが、壁と備品はあまり手入れがされていなかったようで、ピカピカになる。ベアトリスは満足し、使用人用の浴場に向かった。今まで誰が掃除をしていたのかは分からないが、主人家族用の浴場と大差ない清掃度合いにベアトリスの気合いが入る。
たっぷり時間をかけてきれいにし、使用人用の浴場を出ると、時計は既に昼を指していた。
「ベアトリス、ここにいたのね? お昼にしましょう!って、あなた随分頑張ったんじゃない?」
「私の家ではこのくらいだったの。まずかったかしら?」
「とんでもない、きっと喜ばれるわ。片付けてお昼にしましょう。あ、ゴミはこっちに持ってきて!」
ネルケがベアトリスを探しに来てくれて良かった。ゴミを片付けた後、2人で昼食を取った。使用人用の食堂はそれほど広くはない。ネルケの話では、家令、護衛を兼ねたご主人の近侍が2人、奥様の侍女が2人に護衛が2人、料理長とアシスタント、庭師が3人、門番が人、そして 下働きが10人いるのだという。
「ここのお屋敷は休暇をしっかり取らせてくださるの。だから、護衛や侍女が2人ずついるのよ」
「珍しいわね。でも1人でずーっと、というのも大変だからよく考えてくださるご主人様なのね」
「上級事務官のご主人の方が、よっぽどお休みがないわ。帰りもいつも夜中なの。だから奥様が不安定で・・・」
「そう。心配なさるわよね」
「それもあるけど、奥様は旦那様が浮気しているんじゃないかって、そればっかりなのよ。本当にお忙しい方だし、うちの家令は嘘も見抜ける人だから、浮気なんてしていないっと家令が言っても駄目。ベアトリスも気をつけてね。侍女さんたち、愚痴を聞くのがもう嫌で、誰かが近くを通ろうものなら、すぐに身代わりにしてくるから」
「あら、それは大変」
「本当に大変なんだから! 3時間コースよ!」
本当にマルガレーテが思い込みで苦しんでいるのなら助けたいとベアトリスは思う。だが、自分の仕事は掃除婦だ。越権行為はできないし、そもそもカラーボトルも言葉の意味をメモした紙もない。しばらくはカラーセラピーに携わることもないだろう。
そう思っていたのに、である。3日後、ベアトリスはマルガレーテの前に引きずり出されていた。ネルケにカラーセラピーの話をしていた所を、誰かに聞かれたらしい。侍女たちがここぞとばかりにベアトリスにマルガレーテを助けてほしいと説得し、マルガレーテの部屋に連れてこられてしまったのだ。
「ベアトリス、あなた、カラーセラピーができるんですって?」
マルガレーテの目がキラキラと輝いている。
「それって、占い?」
「違います。自分の心の中にある色から、自分の本心を言葉に置き換え、これからどうすべきかを自分で考えるお手伝いをする、というものです」
「今すぐ、やって頂戴!」
「申し訳ありません、奥様。セラピーに使う道具が何1つございませんので、いたしかねます」
「そんな! 何があればいいの?」
「私の場合は、14色のカラーボトルと、その色の意味をメモした紙を使います。カラーボトルは色紙でも代用できますが、意味の方は図書館でなら調べられると思いますので、図書館へいく許可をいただけませんか? 3日以内には、簡易的な形にはなりますが、ご用意できるかと思います」
「いいでしょう。家令に伝えておくわ。図書館への行き方は分かる?」
「いいえ。それから、文具店も教えていただけますか? 筆記用具を購入しなければなりませんので」
「分かったわ。誰かに一緒に行ってもらえるようにしておきましょう。あなたはすぐに出かけられるように着替えておきなさい」
「あの奥様、今日これから行くのでしょうか?」
「もちろんよ! 善は急げというでしょう?」
こうして、ベアトリスは今、王都の図書館にいる。家令が一緒に来てくれて、まず文具店に行ってノートとペンとインクを買い、図書館での貸し出し手続きについて教えてくれた。貸し出しカードの作成まで付き合うと、あとは自分で戻れますか、と聞かれた。今日、ベアトリスは乗合馬車の御者にもらった地図を持っている。大丈夫だと思う、と返事をした。
「分かりました。夕食までには戻ってくださいね。ネルケが心配しますから」
「はい。ありがとうございます」
ベアトリスは、カラーセラピーについての本がありそうな棚を探す。心理学関係の所にはなかった。医学関係の所にあった1冊は、色の意味までは書かれていなかった。
どうしよう。
ベアトリスは落ち着いて考えようと本の分類をよく見る。色に関することが分かるもの・・・
そうだ、デザイン関係!
ベアトリスはデザイン関係の本が並ぶ棚を探した。配色や色の名前図鑑など、近い感じがする。インテリアの方に少し足を伸ばすと、色が人間に与える影響について書かれた本があった。だが、肝心の色の意味までは書かれていない。
もしかしたら、閉架書庫にあるのかしら?
ベアトリスは蔵書カードが置かれているコーナーに行くと、色の意味が書かれていそうな本を探す。だが、本のタイトルで並んでいるため、内容まではわからない。
困ったわ。
その時、困った顔で捜し物をするベアトリスに気づいたのだろう、司書が声を掛けてくれた。
「何かお探しですか?」
「ええ、色の持つ意味を調べたいんです」
「色の、意味?」
「はい。私カラーセラピストなんですが、道具を一式家に置いてきてしまいまして、カラーボトルの代わりは見つかったんですが、色の意味を正確にお示しできないとセラピーができないんです」
「そうでしたか。ちょっと確認してみますね」
司書はそういうと司書室に入っていった。しばらくすると館長と思われる男性と一緒に戻ってきた。
「閉架書庫にならあるかもしれないのですが、関係者以外入れません。館長が鍵を開けてくださるそうなので、一緒に行ってください」
「本当ですか!ありがとうございます」
「館長のダンクラートだ」
「ダンクラート、様?」
どこかで聞いた名前だ。首をかしげていると、館長がどうした、と声を掛けてきた。
「ダンクラート様と仰いましたが、もしかして奥様はマルガレーテ様でしょうか?」
「なぜ妻の名を?」
冷えた声にベアトリスはビクッとしたが、4日前から掃除婦として雇われていることを伝えた。
「ああ、君が新入りの掃除婦か。たしかベアトリス、だったか」
「はい。雇っていただきながら、ご挨拶もまだでしたね。失礼いたしました」
「いや、いい。図書館の仕事を妻は暇だと思っているのだが、蔵書をチェックしたり、補修作業をしたり、新刊図書を購入したり、廃棄図書の選定をしたり・・・図書館が閉まった後に、本が盗まれていないか照らし合わせる作業があってね、これが大変なんだ。能力者があるべき本の有無を見て確認していくのだが、この広さだろう? 夜8時に閉館して、そこから2時間は能力者と一緒に蔵書の点検をして、それから清掃をして、帰るんだ。どうしても夜中になってしまう。それが理解してもらえなくてね」
「一度夜の作業にお連れしたらいかがですか?」
「やってみたよ。今日だけ特別にやっているんでしょう、と言われた」
「そうですか」
それ以上は何も言えない。
「ここから閉架書庫になる。私はこの辺りで探すものがあるから、君も頑張って探しなさい。1時間で戻ろう」
「分かりました。お時間をいただき、ありがとうございます」
ベアトリスは心理・医学・デザインの棚を見たが、それらしいものはない。ふと、指針の魔女のことが頭に浮かんだ。
まさか、魔女に関係するところにあるとか?
魔女について書かれた棚は奥の方に隠れるようにあった。人目を避けたい内容もあるに違いない。ベアトリスは以前、魔女によってカラーセラピーにもいろいろなやり方があったようだとラウズールが教えてくれたことを思い出した。
ラウ・・・。
その名を封印する。もう、思い出さないようにしないといけない。
カラーセラピーは、メジャーなものではない。1冊1冊タイトルに目を通す。ようやく見つけたのは、指針の魔女が教えてくれたやり方と同じものだった。カラーセラピーにも流派があるのだろう。閉架書庫内の机に腰掛けると、ベアトリスは急いで色の意味をノートに書き写した。
「どうだい、終わりそうかい?」
1時間たっていたのだろう、最後のページを書き写しているとダンクラートが声を掛けてきた。
「あとこの部分だけ書き写したいのですが・・・」
「そこか。それだけならいい、待つよ」
「ありがとうございます」
ベアトリスは急いで書き写した。そして本を元の棚に戻すと、ダンクラートにお礼を言って閉架書庫から出た。
「そもそも、掃除婦として雇われたのになぜカラーセラピーなんだい?」
「奥様に私がカラーセラピストだということがばれてしまいまして、やってみたいとのことで・・・」
「グレーテらしいが、悪いね。その、カラーセラピーをした時には、その分給料を増やすよう言っておくよ」
「そんな、とんでもないことでございます」
恐縮するベアトリスをダンクラートは目を細めて見た。
「君のような娘がいれば、妻ももう少し落ち着いたのかもしれない」
はっとしてダンクラートを見上げる。忘れてくれ、気をつけて帰りなさい、というと、ダンクラートは司書室に戻っていった。
ベアトリスには今の言葉の中に、マルグレーテの不安定の要因があるような気がしてならなかった。
・・・・・・・・・・
ベアトリスはカラーカードを並べた。マルガレーテはわくわくとした表情を隠せずにいる。
「それでは、始めます」
ベアトリスはまず六枚のカードをマルガレーテの目の前に並べた。朱・金・黄緑・青緑・藍・桃の六色である。
「では奥様、今私が奥様の手前に出したカードの内、どの色がご自分らしいとお思いになりますか?」
「私らしい色?」
「はい。悩んではいけません。直感です」
「そう。じゃ、これ」
手に取ったのは黄緑のカードだった。
「今のカードから、奥様が人からどう見られたいと思っているのか、といった性格の傾向がわかります」
「どうなの?」
「新しい物好きで、いろんなことに挑戦なさいます。ですが、途中で止めてしまったこともおありなのでは?」
「そうなの!興味を持つのだけど、長続きしないのよね」
「それから、甘えん坊さんではありませんか?」
「あら、ばれちゃったわ!」
きゃっきゃっとマルグレーテが笑っている。子どもがそのまま大人になったような、よくいえば無邪気な人だと言えそうだ。
「主人にも、趣味はいいがお金をたくさん使うような趣味は駄目だとか、すぐに飽きるのは何とかならないかとか、叱られちゃうのよね」
「そうなんですか?」
「主人、帰ってくるのが遅いでしょう? 図書館でもしかして会えたかしら?」
「はい。閉架書庫に行かなければ見つからない本でしたので、司書さんがご主人様にお願いしてくださって、閉架書庫までお連れくださいました」
「そうだったの! ねえ、誰か主人にまとわりついている人、いなかった?」
「ご主人様は丁寧で親切な態度でしたが、どなたとも距離を置かれていらっしゃいました」
「本当に?」
「家令様を呼びましょうか?」
嘘かどうか調べればいいとほのめかす。マルグレーテは首を横に振った。
「では、奥様が今悩んでいらっしゃることは、何色のイメージでしょうか?」
手に取ったのは、桃色のカードだ。
「では、こちらに桃色に関わる言葉があります。気になる言葉、引っかかる言葉があったら、全て教えてください」
「そうね。これかしら」
それは愛されたい、必要とされたい、という言葉だった。
「どういうことか、ご自分の言葉でお話しいただけますか?」
「私ね、愛されていないのよ」
マルグレーテは大きなため息をついた。
「主人が図書館勤務だと聞いた時は、ああ、早く帰ってくる人だって思ったの。そうじゃないよって言われても、遅いはずないじゃない? だって、図書館なのよ? だから、私、気づいたの。ああ、この人には誰か他の女性がいるんだって。それでも、結婚して10年くらいは何とか我慢できた。でもね」
マルグレーテは言いよどんでから、寂しそうな微笑みを浮かべた。
「やっと妊娠したと思って、喜んでいたのよ。それなのに、やっぱり主人は忙しいって、そればっかり。途中で流産してしまったんだけどね。その日だけは早く帰ってきてくれた。でも、次の日からまた遅くなって・・・ああ、私は必要とされていないんだって、大事にする必要がない人だと思われているんだって、そう気づいてしまったの」
仕事で忙しいことを信じられない妻。そして、妻を優先できない管理職の夫。どちらも不幸だとベアトリスは思った。お互いに愛する気持ちがあるのに、それがねじ曲がって解釈されて・・・つきっとベアトリスの胸も痛んだ。ラウズールを信じ切れず、話し合うことから逃げてここまで来てしまった。だが、今はまだ現実と向き合うのが怖かった。
「奥様。旦那様の1日の日程、ご存じですか?」
「ええ。13時からの勤務で、閉館が20時。帰ってくるのは23時頃だから、3時間もどこで何をしているのかしらね?」
「図書館は朝8時30分から開いています。なぜご主人はその時間から出勤しないんでしょう?」
「え? 朝からやっているの? それなのに昼過ぎから出勤しているって、どういうこと?」
「事務官は残業も多い仕事ですが、基本的に食事休憩を含めて9時間勤務となっています。つまり、13時から勤務の旦那様は、21時までが基本の勤務時間です」
「閉館しているのに?」
「閉館後の業務があります。10時からオープンするお店で、従業員の勤務時間が10時からということはあり得ません」
「違うの?」
「着替えて、打ち合わせをして、開店準備をして・・・飲食店なら、売るものにもよりますが、10時オープンなら少なくとも7時には仕込みを始めます。パン屋など、3時頃から働いていますよ。お店の営業時間と実際の勤務時間が一致するようなことは基本的にあり得ないのです」
「え・・・」
「21時までが基本の勤務時間として、旦那様はその後館長としてその日のうちに蔵書点検に最低2時間、その他に紛失図書の登録、返却期限を過ぎた人への督促、新刊図書の購入検討など、仕事が終わらないと言っていました。司書さんも、朝シフトの人はすぐに帰りやすい、だから小さい子どもがいる人など、事情がある人が優先的に回されることになっているって言っていました。館長として最後に鍵を掛けてお帰りになり、宿直の守衛に鍵を預けてお帰りになると守衛さんも言っていました。旦那様が図書館を出るのはだいたい23時30分。どこかに立ち寄る時間はあると言えるでしょうか?」
正直に言うと、カラーセラピーではここまで踏み込まない。むしろやってはいけないことかもしれない。だが、正しい情報がないから、今までのメンバーでは信じられないから、ダンクラートとすれ違っているのだ。第3者的な視点でものが言える、来たばかりのベアトリスの方がすんなり入る可能性がある。ベアトリスはそれに賭けたのだ。
「全て、私の思い違いだというの?」
「一度旦那様の後を付けてみたらいかがですか?もちろん黙っておいて、ですよ?」
ベアトリスはにっこり微笑んだ。
「20時の閉館の頃から、出口が見えるところで見張ればいいんです。そうすれば、旦那様が何時に図書館を出るのか、分かるでしょう?」
「それもそうね。1度やってみてもいいかもしれない」
「それで浮気だと分かれば、それはその時です」
「そうよ! 見えない相手にイライラするんじゃなくて、敵を見つけに行けばいいんだわ!」
「その意気です!」
クルクル表情が変わるマルガレーテに付き合うのは、大変なことだろうとベアトリスは思う。侍女でなくて良かった、とも思う。
「それでは、解決のために奥様に必要なことは何色のイメージでしょうか?」
「そうね。これだわ」
それは藍色のカードだった。
「言葉を選んでください」
選ばれたのは、把握する、抜け出す、真実だった。
「私、今の状態から抜け出すの。そのためには、真実を把握しなければならない。だから、あの人の行動を調べるわ。ベアトリス、ありがとう。方向性が見えたわ」
「恐れ入ります。」
ベアトリスはほっと肩の力を抜いた。そして、自分の部屋に戻った。
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それから5日後、ベアトリスが使用人用の浴場を掃除しているとマルガレーテの侍女が呼びに来た。
「奥様がお話があると。すぐにいらっしゃい」
「はい」
ベアトリスが侍女に連れられてマルガレーテの元に行くと、マルガレーテは上機嫌になっていた。
「あのね、ベアトリス。私あの後尾行したの。そして、あの人が本当に毎日遅くまで働いているって確認できたの。だから、私の心はスッキリしたわ。ありがとう」
「いえ、ようございました」
「それでね・・・」
マルガレータから言われたのは、これからいろんな大切なことを決める時にはベアトリスに相談したいというものだった。
「申し訳ありませんが、それはお引き受けいたしかねます」
「どうして?」
「私は一掃除婦であり、雇っていただいている新参者です。そのようなものが御当家の重要事項に口を挟むなど、許されません」
「私がいいと言っているの」
「旦那様にはご相談なさいましたか?」
「好きにしろって言ったわ」
あ、これは逃げたな、とベアトリスは気づいた。
「申し訳ありません、どうぞご容赦ください」
「もう、遠慮も過ぎると良くないわよ」
「そうではありません。今もお呼びと伺い、清掃の仕事の途中で参りました。本来の業務に滞りがあれば、お給金をいただくことができません」
「私からお小遣いを上げるからいいじゃない」
「契約は、そのように軽いものではございません」
固持するベアトリスにマルガレーテも根負けしたのだろうか。今日はもういいといって部屋を出ることを許された。だが、部屋を出た途端、侍女に胸ぐらを捕まれた。
「ちょっと奥様のお気に入りになったからって、うぬぼれるんじゃないわよ」
ベアトリスはこの段階で、もうここにはいられないと悟った。今日すべき仕事をすると、家令にそっと事情を告げ、今日中にここを出て行きたいので、日割りの給金だけでももらえないかと聞いてみた。家令は惜しい人材を、と慰留してくれたが、これ以上いたらどんな目に遭うか分からない。ベアトリスはこの家で働いた数日分の給金を持って、そっとこの家を出た。それしか、今のベアトリスにはできなかった。
・・・・・・・・・・
ベアトリスがいなくなったオトヴァルト家は大騒ぎになった。なかなか起きてこないベアトリスを心配した母がベアトリスの部屋に入ると、ベアトリスの姿がなく、置き手紙が2通あった。そして、その1通には指輪をラウズールに返してほしいと書いてあったのだ。母は卒倒した。母の叫び声を聞いた駆けつけた父も、手紙を読んで頭を抱えた。
いつもの時間に、ラウズールとエドガーが迎えに来た。2人の姿を確認すると、父は手紙を2人に見せた。2人の顔は蒼白になった。
「何があったんですか?」
父の問いかけに、ラウズールは一昨日ベアトリスのために買った菓子にアーモンドが入っていたこと、それを見たベアトリスが神殿から逃げ出し、昨日の騒ぎになったことを伝えた。
「僕がぼーっとしていて、アーモンドアレルギーのことを忘れてしまったんです。でも、それで家を出てしまうなんて・・・」
「指輪もラウズール様に返してほしいと、封筒の中に入っています。それだけではないはずですよ、ラウズール様」
「1つ、よろしいでしょうか?」
普段全く口を挟んでこないラウズールの護衛騎士が発言した。
「もしかしたら、菓子店の店員と会っていたところを見られたのでは? ラウズール様の体調がおかしいとあの女性が店からラウズール様を連れ出した時、急いでラウズール様の元に寄ったのですが、目の端にベアトリスさんがいたような気がするんです」
「どういうことだ?」
エドガーが低くうなる。
「最近、ビーチェに結婚の話を進めようといくら言っても、ビーチェはまだいい、の一点張りだった。どうしたらいいか分からなくて店員にその話をしたら、相談に乗ってくれたんだ。だが、話の途中で眠くなって、それ以降のことは覚えていない・・・」
「やたらとその女性店員がラウズール様に触れようとするので、一度は馬車に乗せましたが途中で下ろしました。この雪の中で置いていくのかと喚いていましたが、ラウズール様に治癒を掛けることの方が先と考え、神殿に戻りました。その日のうちに解毒しましたが、何らかの毒物か薬物が使われたようです。調査中でしたので、ご報告が遅れました」
「ビーチェが、僕と店員が話しているのを見ていた?」
「店員の女性の方に腕を回して、女性が肩を貸して何とか歩いているような状態でした。見る角度によっては、相当親しげに見えたのではないかと思います」
「そんな・・・」
「おい、ラウズール、お前話が違うじゃないか!」
エドガーがラウズールの胸ぐらを掴んだ。
「ベアトリスさんを大切にするっていうから、身を引いた奴がどれだけいると思っているんだ?浮気するなら、最初からベアトリスさんに手を出すなよ!」
「浮気なんてしていない!ビーチェが結婚をためらっているんじゃないかって思えたから、どうしたらいいか分からなくなって、アドバイスをくれるっていうから一緒に行ったんだ! それだけだ!」
「ビーは結婚をためらっていたのではありませんよ」
父が絞り出すように声を出した。
「ラウズール様、あなたがお金を掛けたがるから、もう少し冷静になってから準備に入った方がいいのではないかと言っていたのです。あなたの言動に、ビーは不安を感じていたんです」
「僕はいつもビーチェに愛していると伝え続けてきた。それなのに、ビーチェはそれを素直に受け取ってくれない。僕はどうすれば良かったというんだ!」
「距離を置いて、本当にお互いが必要なのか見極めるしかないでしょうな」
「嫌だ!」
ラウズールの執着の深さに、父も驚いた。もしかしたら、この執着が怖くなったのか?
「いずれにしても、ビーを探すことが大切です。ご協力ください。それから、しばらく欠勤となるでしょうからそのことも神殿長にお伝えください」
エドガーが代わりに返事をする。ラウズールを2人がかりで抱え上げて馬車に押し込む。
「何か分かったら連絡します」
エドガーの声に頷いて、父は神殿の馬車を見送った。
神殿に着いたラウズールは、ヴィローを探した。だが、ヴィローは現在出張中でドゥンケル辺境領内にいない、とヴァルトは言った。
「ベアトリスさんが家出をした」
ヴァルトの目が大きく見開かれた。
「そういうことですか。ヴィローさんなら3日以内には戻るはずです。可能性のあるところをしらみつぶしに探す以外、今は手段がありませんね」
ラウズールはうなだれている。ヴィローが戻ったら連絡してほしいと言うと、私室に戻った。ベアトリスの痕跡が色濃く残る執務室には、戻りたくなかった。そのままベッドに倒れ込むと、ラウズールはその後3日間、意識を失ったままだった。
帰ってきたヴィローは、神殿長から話を聞いて眉をひそめた。違和感は感じたのだ。王都の図書館でベアトリスそっくりの女性を見た時に、なぜベアトリスがいるのだろうと思った。だが、世界には自分とそっくりな人間が3人はいるという伝説を思い出し、声を掛けずに戻ってきたのだ。
「ベアトリスが王都に? なぜだ?」
「分かりません。家令とおぼしき服装のものが色々教えていましたので、どちらかで仕事をしているかもしれません」
ヴィローに、ベアトリスがいるところを探してもらおうとしている所に、ラウズールがやって来た。意識を取り戻したようだが、顔色は悪い。ヴィローが王都の図書館でベアトリスそっくりの女性を見た話をすると、ラウズールはいても立ってもれいられなくなり、王都に向かうと言い出した。今すぐに出て行こうとするラウズールを静め、どこの邸にいるかくらいは調べておけ言って、神殿長はヴィローに探索を掛けさせた。ヴィローは言った。
「王都の図書館長ダンクラート様の家です」
「ありがとう!」
走り出したラウズールに、まだそこに今もいるかどうか分からないのに、と言いたかったが、もう出て行ってしまった。ラウズールは馬を急がせた。乗合馬車で3日かかるところを、2日で走らせた。王都についたラウズールは図書館長ダンクラートの家を訪問した。ベアトリスに会いたい。会って事情を説明したい。
だが、そこにはベアトリスはいなかった。名乗り、事情を話し、ベアトリスに会わせてほしいと言ったラウズールに、夫人は泣き崩れた。ベアトリスは掃除婦として住み込みで働き始めたばかりだったが、夫人に頼まれてカラーセラピーを行い、依存されて逃げ出したのだと家令が説明した。
「既に出て行って2日経っております。どこにいるかは存じません。知っていればお伝えできるのですが・・・」
ラウズールは唇をかみしめた。せめてヴィローに、その先まで探索してもらうべきだったと後悔する。あの時ヴィローは確か、待てと言っていなかったか。護衛騎士は、落ち込むラウズールに頭を下げさせてダンクラートの家を後にした。そして、王都に宿を取り、魂が抜かれたようなラウズールに強い口調で言った。
「あんたが蒔いた種だろう! 神殿に10日後には戻らなきゃ行けないんだ。それまでに何とかしろ。俺も手伝うから」
ラウズールは王都の騎士団にも捜索願を出した。だが、5日経ってもベアトリスは見つからない。マルガレーテも、初めはベアトリスがいなくなったことに嘆いていたが、こうなるとベアトリスが死んだ可能性も視野に入り、自分のわがままが他人を振り回したという事実から目を背けることができなくなっていた。
・・・・・・・・・・
その頃、ベアトリスは王都の外の森で倒れていたところを若い猟師の夫婦に助けられていた。雪の中を歩き続けたことで、体力を消耗してしまったらしい。妻はベアトリスを親身になって介抱してくれた。
「何があったか分からないけれど、逃げ出したいほど嫌なことがあったんでしょう? ほとぼりが冷めるまで、うちにいればいいわ。そのかわり、家のことを色々手伝ってね」
森での生活は静かなものだった。2~3日もすると、嫌なことを全部忘れたような気がした。時折聞こえる獣の遠吠えは怖いと思ったが、雪が降り積もる森の中は神域・聖域と言ってもいいような、凪いだ世界だった。ベアトリスの心は、少しずつ落ち着き始めていた。
そんなベアトリスの元に変化が訪れたのは、6日後のことだった。猟師が、倒れていた人がいたと男性を1人抱えて帰ってきた。ベアトリスはその男性の顔を見て、息を呑んだ。
「ラウが、どうして・・・」
固まったベアトリスを尻目に、漁師夫妻は体を拭き、火の側に体を横たえ、体を温めた。
「知り合いかい?」
「婚約者、です・・・」
猟師夫妻ははっとした。神官服を着て倒れていた男の顔を見る。
「神官様だよね?」
「はい。ドゥンケル辺境領の神殿にいらっしゃる、医官様です」
「そんな人と婚約していたの?」
「ええ、でも・・・駄目だったみたいなんです。だから、どうしてここにいるのか、分からない」
やがて目を開けたラウズールは、ベアトリスを見て良かった、生きていた、と涙を流して喜んだ。だが、ベアトリスはそれを素直に受け取れない。手を伸ばしたラウズールから距離を取ったベアトリスに、ラウズールは絶望的な顔をした。
「ビーチェに会うために、探しに来たのに」
「お話しすることは何もありません。医官様は神殿に患者さんがたくさんいらっしゃいます。はやくお戻りになった方が・・・」
「待って、話を聞いて!」
「聞くべきお話などございません」
ベアトリスは外に出た。雪の夜は、やはり冷える。ラウズールに対して、自分の行動は冷たいのだろうか。もう、ラウズールを束縛したくない。執着させたら、ラウズールが苦しいだけなのに。
その内に猟師の妻が外に出てきた。ラウズールと話し合えと言われ、無理矢理2人だけにさせられてしまった。
「ビーチェ、君は僕が他の女性といた所を見たのかい?」
「ええ。とても親しそうだったわ」
「そうか」
ラウズールは深いため息をついた。
「彼女は、ビーチェが好きな菓子店の店員だ」
「ええ、知っているわ。」
「ビーチェが結婚に後ろ向きなのが不安で、どんなお菓子ならいいのかって、彼女に聞いたんだ。そうしたら、あのフロランタンを勧められた。同じ女性として相談に乗ってくれると言われて、そのまま食事をしながら話をした。だが、途中で何かされたようなんだ。意識がほとんどない状態で外に出て、護衛の騎士が助けてくれた。店員を途中で下ろし、神殿で治癒を掛けられた。何らかの薬を盛られたようだと騎士が言っていた」
「薬?」
「神殿長の話では、媚薬と睡眠薬を混ぜたようなものだろうということだった」
「そう」
ぽつり、ぽつりとラウズールがあの日のことを語る。だが、それが事実であると検証するものが、ベアトリスにはない。
「ビーチェが僕のペースに戸惑っていたと父上に聞かされた。ごめん、僕が急ぎすぎた」
「私、苦しいの」
ベアトリスの告白に、ラウズールがいぶかしげにベアトリスを見た。
「ラウが私を愛していてくれるということが、どうしても納得できないの。あなたがいくら愛していると言ってくれても、その腕の中の温かさほっとしても、それがうつろいゆくものとしか思えない。そんな私にあなたを縛り付けているようで、苦しかった」
「ビーチェ・・・」
「私たち、すれ違っていたのね」
「これでお互い分かったんだから」
「いいえ、これでおしまいよ」
ベアトリスは最後までラウズールに言わせなかった。
「私たちは、まだ結婚するほどお互いを理解し合えていない。だから、駄目なの。わかり合えなかったのだから。せっかく私を好きになってくれたのに、ごめんなさい、ラウズール様」
ラウズールはベアトリスの居場所はどこかと尋ねた。ベアトリスは今はどこにも無いと答えた。2人の話は平行線を辿るばかりだった。
「3日、王都で待つ」
ラウズールは言った。
「4日目になったら、神殿に戻らなければいけないから」
ラウズールは翌日、王都の宿屋に戻った。ベアトリスは何度も自分の心に尋ねた。だが、ラウズールの所には行けないという結論しか出せなかった。ベアトリスはそれを自分の口で伝えるべきだと考え、王都に向かった。ラウズールの宿泊する宿屋の前まで来た時、見たことのある顔があらわれた。
「お帰り、ベアトリス」
ベアトリスは、マルガレーテに攫われた。
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