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この男江戸主水の仇討ち(あだうち)

作者: 郡司 誠


 この男の本名は別にある。姓は江戸、名は主水もんどと言うこの時代がかった名前は、平成の寵児ちょうじ、経済界の大物と言われるこの男のお気に入りである。ペンネームとかのお洒落のたぐいではなく、財界でのみつかう通り名である。真面目で勤勉であったこの平凡な男を冷徹非情な復讐鬼に変えた要因は枚挙まいきょいとまが無い。アレクサンドル・デュマ・ベール作巌窟王「モンテ・クリスト伯」主人公エドモン・ダンテスより拝借、もじった、江戸主水と言うこの名前を以って、昔自分を陥れた輩どもに報復を果たさんと財力を蓄えてきたのである。


       仇討ち一番首いちばんくび

 山の上の邸宅街の一角に林の家はあった。大きく構えた門には、十数年前に訪ねた時には無かったモニターカメラが幾つか配備されていた。防犯用であろうが訪れた誰もが違和感を覚える家の造りである。門から玄関に至る庭は小振りではあったが見事に手入れがされてありとても経済的に困っている様には見えなかった。そこかしこに珍しい置き物が散在しているエントランスホールを横切り応接間に通された。部屋に入るなり直ぐにこの男江戸主水は大理石のテーブル上で風呂敷包みを解いた。そして持参した現金を露骨にもむき出しにした。普段冷静なこの男にしては珍しい品の無い所作である。贅沢な装飾品で飾られたこの部屋が腹立たしく感じられたからであった。林から裏切られた当時の自分をこの部屋と共にどうしても思い出してしまったのである。机の上に積まれた眼前の札束で、あの頃と立場の変わった林の家族皆の命が助かる筈であった。

 林は昔自分が冷たくあしらったこの男に頭を下げる事だけはどうしても出来なかった。

余程の事があったのかそれとも遺伝によるものなのか林の頭はこの十数年で見事なまでに禿げ上がっていた。唯一残された林のプライドがこの頭を下げる事を許さなかった。江戸

主水の前に顔を出した林は昔の恰幅かっぷくの良さは完全に消え、見る影もなく痩せこけていた。隣に居る林の女房春子も落ち着き払った上品さは無くしていた。しかし女性はたくましかった。恥も外聞も無くこの男江戸主水にびすら売りへつらい哀願するのである。その昔三人は同じ高校の同級生であった。そして婚期を逃した二人を結び付けたのは、誰あろうこの男江戸主水、本名桒野勝彦くわのかつひこだったのである。

「林、無理をするな。困った時はお互い様だろ。その昔、お前達夫婦が私に冷たく接してくれたからこそ、今日の私が在るんだ。いや、決して嫌味で言ってるんじゃない。感謝こそすれ怨むなどとんでもない。さあ遠慮なく遣ってくれ。そうでないと、お前達が失敗した『株』などに捨てなければならない。あの時、

私の借金の申し出に対し、『株』の現金化に四日欲しいと気持ちよく承諾してくれた筈のお前が約束の日に連絡は取れなくなるわ、春子さんからは、『株』の現金化は断り文句に決まってるでしょ、貴方に貸す位なら『株』を買うわ、と残酷にも言い切られたその『株』にまたぞろ負けてしまう事になるだろ。本当にあの時は参ったよ。その日を充てにして金融業者を始めとする何人かの人達に日にちを切ってどうにか待って貰えたと安心しきっていたからね。それはもういい、過ぎたことだ。

今となればむしろ愉しい想い出となっている。さあ林、意地を張るな」

 林は項垂うなだうつむいたままでいた。

(相変わらず可愛気のない馬鹿な奴だ)

 この男江戸主水はほくそ笑んだ。林は迷いに迷った挙げ句、漸く顔を上げ頭を下げたのである。とその時、この男江戸主水の携帯電話が着メロ『ベートーヴェンの運命』を奏でた。この男江戸主水の秘書からである。

「何だ、どうしたんだ。・・・、それ位の金、どうとでもなるだろう。義理で買った不要な『株』でも手放せば良いだろう。・・・何、この金は駄目だ。・・・何々『株』を現金化するのに四日掛かる、・・・解った。また掛けなおすから待っていてくれ」

「林、少し会社の方で困った事が起きてしまった様なんだ。なあに大した事じゃない。今日要り用なのは充分承知している。四日ほど待つのは無理かな。私のは本当だ。お前があの時使った様な断り文句では決してない。確実な事だ。四日、四日だけ待ってくれないか」

「えーっ」

 愕然がくぜんとした林と春子の夫婦は応接間のソファーから崩れ落ち、高級な絨毯じゅうたんが敷き詰められた床にへたり込んでしまった。

「いやあ、冗談だよ。これ位の端金はしたがね、造作もない事だ。幾らでも都合がつくから心配は無用だ。ほんのごとだ。さあ、これは是非遣つかってくれ」

「もういい。何なんだ、君は。人の心を弄ぶのは止してくれ。もういい。本当にもういいからこの金を持って帰ってくれ」

「そうか、本当にいいんだな。よし解った。春子さんもいいんですね」

 化粧っ気もなく、肌も荒れ放題の春子は慌て狼狽うろたえた。そして林の背中を小突きながら叫ぶ様に言った。

「まっ、待ってください・・・。あなた、きちんとお願いしてよ。あなたのつまらない意地なんかどうでもいいわ。早くお頼みしなさいよ」

「林、どうする積りだ。私はどちらでもいい。

・・・、そうか。いいんだな本当に。じゃあ引き取らせて貰うよ。失礼した」

 事はこの男の思い通りに運んだ。プライドの捨て切れぬ林が断わるであろう事も計算づくであった。携帯電話が鳴るのも全て計画に入っていた。

(もういいだろう。本当にもういいだろう、これ位で許してやっても)

 この男江戸主水は玄関の下駄箱の上へ先程の札束を風呂敷包みごと全額残し、林宅を後にしたのであった。この男の報復の一番首はこれで充分にねられたのである。そして無事に一番首仇討ちは終わっていた筈であった。しかし誤算が生じた。この男は少し悪戯いたずらをしたかっただけであったのだ。何も手を加えず、そのままで救いの手を差し出すのには、まだ聖人に成りきっていなかった江戸主水であった。果たしてこの悪戯が悲劇を生んだのである。林は想定外にプライドが高かった。林の矜持きょうじが最後まで邪魔をし、彼は無駄な意地を張り通したのだった。

 次の日の新聞報道に拠ると、林は年老いた両親も道連れに遺書も残さず金にも手を付けず一家を巻き込んでの無理心中を計ったとあった。もしかすると、玄関の風呂敷包みには気付かなかったのかも知れない。

 金縁眼鏡きんぶちめがねのこの男江戸主水は、無表情に冷たくつぶやいた。

(意地悪が過ぎたか。まあいいだろう。さて次は二番首のあの男を・・・)


           仇討ち二番首

「せ、せ、先輩、お久し振りです。その節は大変・・・お、お世話になりました。こんなところでお会いするなんて。本当にあの時は申し訳ありませんでした」

 ここは大阪北新地にそびえ立つ全日航ホテル最上階にあるラウンジである。突然の聞き慣れた背後からの声に驚きは隠せず、逃げることも出来ず、この中年の紳士然の男、森下哲夫は狼狽えつつも挨拶を交わした。

「なあにもう済んだことだ。あれから十数年色々とあったがみんな忘れてしまったよ。久し振りにこうして会ったんだ。それにしても昔はここでよく君と飲み明かしたものだったよな。野暮は言いっこ無しだ。今晩は大いに飲もうじゃないか」

 突如現れたこの男が今経済界で時代の寵児と持てはやされている江戸主水その人であり、昔自分が不義理を犯し信頼を裏切り、無一文どころか相当な額の借財を負わせたままの先輩の桒野勝彦と同一人物であるとは夢にも想像が付かない森下は、何がどうしてこの場所に今後も絶対に会いたくない会えない桒野勝彦が出現したのか、大いに慌てたのである。

「は、はい」

 年よりも老け気味の森下は冷や汗をかきながらも、白髪が少し混じった頭を下げうなずいた。顔の色艶は良く背丈もあり、昔ながらの美男子であったが今は狼狽えていた。

「先生、大分だいぶとお待ちになられましたか」

 森下より二つほど隣りのカウンター席に座る年配の男に江戸主水は声を掛けた。

「いいえ、桒野さん。私も先ほど来たばかりです。お先に始めさせて頂いております」

「ここに居られる方は、村津重幸さんと言われてね、私の会社の顧問弁護士さんだ。紹介させて戴くから何でも相談に乗って貰うとよい。この度大阪弁護士会の会長になられる少し怖いお方だ」

「村津です。よろしくお願いします」

 恰幅が良く強面こわもての凡そ弁護士とは程遠いその男は太い声でグラスを手に腰をかけたままの姿勢で森下に挨拶をした。

「村津先生、森下です。昔、桒野先輩には、何から何までお世話になって居りました。今後ともよろしくお願い致します」

 声に威圧された森下は慌ててカウンター椅子より降り、直立不動の姿勢で丁寧に挨拶を交わした。森下の相変わらずの営業振りをこの男江戸主水・桒野勝彦は金縁の眼鏡越しに静かにじっと観察していたのである。

「お話は桒野社長からよく伺っておりますよ。

・・・しかし、森下さん、こんな新地の真っ只中にあるホテルで堂々と飲まれていて大丈夫なのですか。貴方は味方も多いが敵も相当な数居ると聞いていますよ」

「先生、何を言われるんですか、ご、ご冗談を・・・」

 初めて紹介されたばかりの者からこんな失礼なことを言われる筋合いはないと思ってはみても、弱い立場の己れであると観念している森下は何も言い返せず、作り笑いをして誤魔化すのみであった。

「ところで森下くん、細君は息災そくさい で居られるのか」

「いえ、先輩に不義理をしたあの時に家から私の方が追い出され、そのまま離婚となりました」

「あ、そうだ、そうだったね。すまない。悪いことを思い出させてしまったな。本当に申し訳ない。あの時私は失踪した君を探しに二度ばかり奥さんを訪ねたんだ。その時に奥さんから離婚の事もきかされていたんだった。

すまない、すまない。それで今君は何で生計を立てているんだ」

「すみません、恥ずかしくてとても大きな声で言える様な仕事ではありません。勘弁してください」

「何を言っているんだ。職業に貴賤きせんは無い。こうして立派に生きているんだ。大したものだよ。だが無理に敢えて聞かないでおこう」

 他愛の無い世間話で時間が経った頃、酔いが少し回ったこの男江戸主水は切り出した。

「先生、私はね、この森下君が可愛くて仕方なく、いつも弟のように思っていましてね。彼が事業の失敗で困っている時、自分の持っていた不動産で有らん限りの金を工面くめんし、彼に用立てをしたんですよ。その時の私はごく普通のサラリーマンだったんですが、親からの土地などが幾分有りましてね。それが却ってまずかったのですね。彼の行動力に期待を掛けひたすら成功を祈り、投資し続けたのです。連帯保証人にもなるくらい彼を信じ切っていたんですね。それが、ある日を境に森下君はこの世の中から忽然こつぜんと消えてしまったのですよ。家を訪ねても奥さんからはもう別れたから知らないと突っ張ねられるし、あの頃は本当に困り果てましたね。塗炭とたんの苦しみを味わいましたよ」

 丁度一回り年下の森下は針のむしろ状態で聞いているより仕方がなかった。

「先輩、本当に申し訳なく思っております」

 森下はわざとらしく涙を見せていた。

「済まない森下。そんなつもりで言ったんじゃない。折角の酒の席を台無しにしてしまったな。愚痴はもうこぼさない。村津さんにもお恥ずかしい処をお見せしてしまい、誠にすみませんでした。今日は特別な日だ。ドンペリゴールドを、いやあ、プラチナを。ドンペリプラチナで乾杯をしよう」

 シャンパンとグラス三客が用意された。

「森下君、よく頑張って生きていてくれたものだ。ありがとう。実に有難い。君の前途を祝して乾杯だ」

 森下は目の前の異様な光景が理解出来なく、どのタイミングでこの場から逃げ出そうか模索していた。何かしら不吉な予感が彼を急き立てるのである。

「どうした森下、先程から辺りをキョロキョロと本当に落ち着きの無い奴だな。誰かと待ち合わせでもしているのか」

「実はそうなんです。約束の時刻はうに過ぎているのですが、その方がまだお見えにならないのです」

「君は江戸主水を待っているのだろう」

「ど、どうしてそれを」

「江戸主水なら先程からずっと君の目の前に居るじゃないか。森下君、私が江戸主水なんだよ。約束の現金はそこに持って来てくれたようだね。ケースを入れて二十キロは優に超えているだろ。よく一人で持って来てくれたものだ。それほどの大金を右から左へと簡単に動かせるとは、仕事の方はうまくいっているようだな」

 森下の頭の中は混乱を極めていた。どうすればあの先輩と江戸主水が結び付くのだ。

(そう言えば新聞や雑誌に紹介されている今を時めく江戸主水の写真を初めて見た時、誰かに似ている、と心に何かを感じたものだった。それなのに先程背後から声を掛けられた時は聞き慣れた声色こわいろだったので、若干違和感を感じたのだが先入観が上回り先輩の桒野勝彦だと信じて疑わなかったのだ。自分の知っている桒野勝彦は少なくとも金縁眼鏡など掛けてはいなかった。鼻の下のコールマン髭やあご鬚など蓄えてはいなかった)

 森下の頭の中の整理は簡単には付いていなかった。

「光栄です。あの高名な江戸主水様と取引が出来るなど夢の様です」 

 錯乱の中でも最小限の美辞麗句を精一杯並べ立てることが出来る森下であった。

「君には到底この一連の流れは読み切れないだろう。こちらの村津先生の元には君の所為

(せい)で財産を失くされた方がたくさん相談に来られるということだ。自ら貴重な命を絶たれた方も多く居られたそうだ。この前、家族を道連れに一家心中をした林も君の餌食になっていたそうだな。君は知る由も無いが、林と私とはその昔同じ高校の同級生だったのだよ。村津先生や警察関係の方の調べで全てが明るみに出た。どうして資金を調達出来ているのか、どこから引っ張って来ているのか、銀行、やくざ組織との繋がりなど、全てが露見されているのだよ。随分と悪事に手を染めているみたいだね。ただそれとは別に私の為に用意してくれた現金はそのままそっくり返して貰うからね。精神的慰謝料などは頂かないから安心していていいよ。それとね、別れた筈の君の奥さんだがね、北浜の一等地にあるそのタワーマンションにも早く帰ってあげないといけないな。二、三日の内に、いや今日にも、警察や君が懇意にしているやくざが動き出しているだろうから、今度こそ本当の夜逃げをしないとたいへんだぞ。・・・あと銀行に期待をしても無駄だからね。君には悪いがあらゆる金融機関にも手を回しておいた、今後森下とは取引はしないようにとね」

「ええっ、そんな。それではせめてこの金の一部だけでも、勘弁してください。お、お願いします。ご、後生ごしょうですから。でないと逃げようにも不可能です。お願いです」

「森下さん、何を甘いことを言ってるんだ。この場に警察を呼んでいないだけでもよしとしないか。この現金の授受は正式な貸借行為の一環であって、それどころか貴方の長年の借金により発生する利息は一円たりとも江戸会長は要求されていないのだ。早くこの場を立ち去り己れの身の安全を図りなさい」

 森下は漸く事の顛末てんまつが理解出来たのか、椅子から転げ落ちるように降り、得意の営業トーク、営業姿勢を忘れ、後ろも振り返らず、テーブル、椅子にぶつかりながら、一目散にこの悪夢のラウンジを後にしたのである。

 この男江戸主水の仇討ち二番首はこうして刎ねられたのであった。その後、森下とその妻を見た者は誰も居らず、新聞報道にも登場せず、二人は今度こそ完全にこの世の中からも消えてしまったのかも知れない。


            仇討ち三番首

幸徳銀行本店顧客専用玄関前に江戸主水の乗った黒塗りレクサスが横付けされた。銀行から差し向けられた車の後部座席のドアーが助手席に乗っていた幸徳の若い秘書課長によって開放されると、そこには副頭取の木原が出迎えに立っており、その後方には幸徳の主だった役職の者達が二列に別れ整然と並んでいたのである。

「江戸主水先生、お忙しい中弊行にお越し頂きまして誠に有難く、恐悦至極に存じます」

 背丈のある副頭取の木原は気分良く誇らしげにいた。経済界で時代の寵児と持て囃され、今、日本で最も忙しい人物とされる江戸主水の幸徳銀行本店講演会への招聘しょうへいに成功したからであった。

「先生、どうぞこちらへ」

「木原さん御自おんみずからお出迎え頂くなど、本当に申し訳ありませんね。今日は黒田さんは居られるのですか」

 次に刎ねる三番首の黒田権太郎くろだごんたろうは大阪府を地盤とする第二地銀の中位行である幸徳銀行の頭取にまで出世していた。

「すみません。先生のお出迎えには間に合いませんでしたが、講演会が始まります前には必ず戻ると申しておりました。誠に以って申し訳ございません」

「いやいや、そんな心算つもりで言ったんじゃありませんよ。貴方と違って黒田さんとはお会いするのは恐らくや初めてだと思いますので是非お話を交わしたいと願いましてね」

 木原はドキッとした。実は玄関での出迎えを木原は事前に黒田に頼んでいたのだった。

『木原さん、なんでこの私が金縁眼鏡を掛けた成金男なりきんおとこ機嫌きげんを取らないと駄目なんだ』

 こう言い切ったずんぐりむっくりの頭取の黒田は銀行内にずっと居た。

(江戸主水さんは完全に黒田の人となりを読み切っておられる。恐ろしいお方だ)

 木原は背筋が凍る思いがした。と同時に今日の講演会への江戸主水招聘は正解であったのか不安を覚え始めたのである。

 江戸主水は自身が率いるイーエムコーポレーション傘下の関連会社江戸商事社長花田克正を秘書替わりとして同行させていた。花田は大阪府警なみはや警察署長で居た処を江戸主水に見い出された柔道三段の猛者もさである。現場叩き上げノンキャリアで警視正まで異例の出世を果たしていた逸材の花田を江戸主水は所謂いわゆる三顧さんこの礼を以って自らのグループに迎え入れたのであった。幸徳銀行本店は、なみはや署の管轄であり、何かと花田は役に立つと思い同行させたのである。

 一行は木原副頭取室へと案内された。同乗していた秘書課長と世話係の女性行員がお茶とおしぼりを持って入って来た。少し席を外していた木原も戻って来た。

「江戸主水様、やはり先生の名声は凄いものですね。先生のご講演だけには間に合わせようとまるで雨後うごたけのこの様に・・・、と言っては失礼なのですが、お客様があとからあとからと増え、講堂に入り切らない様子でしたので、慌てて追加のテーブル、椅子を用意させて来ました。あと三十分ほどで本日のメインイベントであります先生のご講演を始めて頂きますがそれでよろしかったでしょうか。ご存知であります様に、今日お集まり下さって居られる方々は皆様が昔から当行がお世話になって居ります地元の経営者の人達ばかりで、メイン銀行である幸徳の先行きをご心配されて居られます。出来ますれば弊行へいこうに対する根拠の無い悪い噂話などを払拭ふっしょくして頂けたらとお願いする次第であります。誠に勝手なお頼みとは存じますが先生のお力で是非ともよろしくお願い致します」

「木原さん、貴方は実直な方だ。私はそういう正直な人は大好きなんですよ。今日来られた方々には、現在の経済状況を充分と説明し、内外の諸情勢にかんがみて、これからどのように事業を進めて行くのが得策か、正直な私の考えを、決して貴行の不利益にならない様にお話させて貰いますよ。ご安心ください。木原さんも大変ですね」

「江戸主水先生、心より感謝致して居ります」

 その時、態とらしくハンカチで汗をぬぐいながら、頭取の黒田が副頭取室に入って来た。

「いやあ、江戸主水先生、こんな小さな、街の銀行によくお越しくださいましたな。ありがとうございます。遅くなり申し訳ございません」

 幸徳銀行頭取で仇討ち三番首の黒田が馴れ馴れしく、悪びれる事無く、上から目線で自分から江戸主水に名刺を差し出した。いつもなら名刺を受け取れば、例えどのような相手からであっても、必ず返しの名刺を出す江戸主水であったが、この時は意識的に敢えてそうはしなかった。

「黒田さん、初めまして、江戸主水です。今日はお招き頂き本当にありがとうございます。

頭取、講演会が済みましたら少々お時間を頂戴できませんか。少し教えて頂きたいことがあるのです。三十分ほどお付き合い願えませんでしょうか」

「は、はい、どうされました。この黒田でよければいつでもお安い御用です。講演がお済みになられましたら、私の部屋へお越しください。お待ち致して居ります。木原さん、あとで先生をご案内して頂けますか」

 時間の限られた九十分の講演会は盛況に終わった。江戸主水は木原との約束通り、幸徳銀行にまつわるきな臭い世間話を強く打ち消し、この銀行の健全さを充分にアピールしたのであった。いずれこの先銀行の大小に拘わらず統廃合は避けられそうもない世の中の流れであったのである。江戸主水の元にはその手の情報は当の銀行以上に集まって来ていた。しかし、嘘は言っていない。幸徳銀行は名前は消えたとしても銀行としては残るのは事実なのであるからと、江戸主水は読んでいた。

「先生、お疲れさまでした。どうぞこちらへ。頭取室にご案内させていただきます」

 殊勝にも頭取の黒田は自分の部屋で大人しく江戸主水を待っていた。黒田の背中には億単位のする有名な画家の絵が飾られてあった。やはり頭取室は先ほどの副頭取室とは格段の違いがあるなと江戸主水の後ろに秘書替わりとして付いて来ている花田は部屋に入るなりそう感じたのである。江戸主水に並び豪華な応接間ソファーに腰を下ろそうとしたその時、江戸主水は花田に意外な指示を出した。

「花田君、悪いが君は部屋の外で待っていてくれないか。頭取と二人きりで是非ご教授頂きたい個人的なお願い事があるのだよ」

「木原さんも悪いのですが、江戸主水先生と二人きりにしておいて貰っていいですか」  

 続いて頭取の黒田も木原を部屋の外に出て行かせたのである。

 江戸商事社長の花田、そして幸徳銀行副頭取の木原が退室した。一瞬異様に重苦しい空気が流れた処に見事なタイミングで女性秘書が珈琲とおしぼりを二人分運んできた。

「小川くん、こちらから呼ぶまで隣りの部屋に待機しておいてください。よろしいね」

「わかりました。それでは江戸主水様、失礼致します」

 黒田は女性秘書の後ろ姿をいやらしくでる様な目で追い、秘書が部屋から出るのを待って直ぐ、客である江戸主水よりも先に珈琲カップに口をつけたのである。

「さあ、先生もどうぞ熱いうちに飲んでください。どうぞ、どうぞ」

(昔の記憶通り相変わらず失礼で下品な男だ)

 江戸主水は飲み物には一切手を付けず金縁眼鏡の奥より眼光鋭く本題に入いった。

「いきなりですが頭取、貴方は十数年前、貴行天神橋支店に居られませんでしたか」

「居りました、居りました。確かに居りましたね。丁度相互銀行から相互が取れた時期でしたからよく覚えております。江戸先生、それがどうかしましたか」

「あの頃私は貴方と何度もお会いしているのですよ。当時貴方は天神橋支店で融資課長として活き活きとお仕事をされておられた。世に言うバブル期で、私も随分とお世話になったものですが覚えておられないですかな」

 江戸主水の話口調に変化が生じて来た。動物的感の鋭い黒田は一瞬で立つ位置の違いを覚えた。

「いえ、大変申し訳ないのですが、思い出せません。何しろ沢山たくさんの案件を担当しておりましたもので。誠に申し訳ありません」

 今の出世はバブル期の強引で徹底した顧客いじめの産物であると自他ともに認めている頭取の黒田は少し動揺を来たし始めた。それ程その頃の黒田は非情な仕事をしていたのである。この時期に横行したあの悪名あくめい高い『がし』は鉄面皮の黒田の得意分野であった。この場所で江戸主水の口から出るという今からの話は碌なものではないと察知した頭取の黒田は今度は演技ではなく本当に流れ落ちる冷や汗をしぼりで拭ったのである。

「先生、あの頃のことは兎も角として、先生の個人的なお願い事とは何でしょうか。次の約束もありますもので」

「わかりました。では単刀直入に言いますが、実はですね。私どもが貴行にお預けしております預金を今日中に全て解約させて貰いたいとお願いにあがったのです。私個人名義のものもグループ全体のものも全てお願いします。お話、お願いというのはそれだけです。よろしいでしょうか。貴方もお忙しい様ですからそれが済み次第失礼させて頂きますよ」

「ま、待って下さい。いきなりそれは困ります。何か弊行に至らない処があるなら仰って下さい。唐突とうとつにそんなことをされると、私どもも困り果ててしまいます」

 普段は態度の横柄な黒田も滝の様に流れる汗を拭いながら丁寧な銀行マンにならざるを得なかった。何しろ江戸主水の関係する預金高は、この後予想される連鎖反応的引き出し額も含めると、幸徳銀行の屋台骨を根底から揺るがす程の相当な数字になるからである。

「黒田さん、私の金を私がどうしようと私の勝手ではないですか。それと、今日の講演料は頂かなくて結構ですからね。では早速さっそく引き出しに取り掛かって貰いましょうか。貴方もたいへんお忙しい様ですので」

「いやあ先生、いえ江戸会長、少しお待ち下さい。理由をお聞かせ願えますか」

「それは十数年前の桒野勝彦個人の全預金出入の流れを貴方自身がお調べになられたら直ぐにでもお判り頂けると思いますよ。もっとも桒野勝彦は私の本名ですがね」

 世にいうバブル時代に土地を担保に行われた銀行融資は、時価の下落によって、大幅な担保割れの状態におちいり、大量の不良債権を抱え込んだ銀行が今度は自己の経営安定を最優先した為に強引に行ったのが、あの悪名高い『貸し剥がし』なのである。この『貸し剥がし』により、大地主であった桒野勝彦個人が肩入れし連帯保証人にもなっていた健全な中小企業数社も倒産に追いやられ、桒野本人も破産を余儀なくされたのである。

「江戸主水先生、当時私は融資課長として債権管理回収の最前線に居ったものですから、大手都市銀行からの『メイン寄せ』の対応に連日追われておりまして、大変な毎日を送っていたのです。当行が生き残れるかどうかを賭けた、正に瀬戸際だったのは貴方様もご存知ご理解頂ける筈です」

「いえ、ある程度は貴方も会社の存続の為にされたことと理解はしております。しかし、貴方は覚えておいでではないでしょうが、私が最後の相談に貴方に面会を求めた時、通された部屋はいつもの相談室ではなく、何の飾りも窓も無い小さな一室で、しかも貴方は一切顔を出さず、見るからにやくざ者二人が私の相手をしたのです。その時の見るからにその筋の者と分かる強面の二人も貴方が日頃懇意にしている『難波組』の組員であることは、なみはや署の署長で居た先ほどの花田の調べで判っていますがね。身体こそ触れなかったが、机を叩いたり椅子を蹴ったりの威嚇いかくはそれはひどかった。その上お前呼ばわりされ、挙げ句の果てには、『役に立たない弱い人間は死んでしまえ』とまで言われたのですよ。これが本当に法治国家日本の銀行内部で実際に行われていることかと恐ろしくなりました。もうお解かり頂けましたかな。それ以来、私は金融機関、特に銀行は全く信じられなくなりましてね。そして貴行と貴殿に対しては、いつか今日こんにちの日が来るのを待っておりました。さあ、もういいでしょう。花田君入って来なさい。花田君、あとは全て君に任すからね。私はお先に失礼するよ。では黒田さんこれにて」

 この数か月後、幸徳銀行は同じく地方銀行中位行と合併し、陰で尽力した江戸主水の肝入りで幸徳の木原副頭取が新銀行頭取となったのである。勿論イーエムコーポレーショングループそして江戸主水個人の預金は全額、黒田頭取の引退を条件に木原新頭取にゆだねられることとなった。こうして三番首黒田は世の表舞台より、完全に消え失せたのである。


          仇討ち番外編・壱

 この男江戸主水の本名は桒野勝彦と言う。イーエムコーポレーショングループ総帥そうすいの彼は、会長室応接間で独り十数年前の不思議な出来事の数々を思い起こしていた。

 当時四十代半ばの彼は、一見普通の会社の平凡なサラリーマンにしか見えなかった。しかし彼は、先祖代々より受け継がれてきた膨大な土地の大地主であったのだ。大学に入ったばかりの年に父親を亡くした彼は、本家嫡子であることで、潤沢な財産を全て一人で相続することとなったのである。母親は産後の立ちが悪く、彼を産んで直ぐに他界してしまっていた。兄弟は無く感情的には寂しくも物質的にはゆとりのある彼は見るからに育ちの良い御曹司そのままで、幼少の頃より周りの誰からも可愛がられる存在であった。広くて大きな屋敷には、メイド、料理人、庭師、運転手が居り、そして彼らを取りまとめ、桒野勝彦の衣食住を始め身の回りのこと全ての世話をする親の代からの優秀な執事しつじ和田栄太郎が居た。先代を亡くしてからは親代わりにもなり、この執事が居なければ、自分では何一つ決めることも、また誰一人疑うことも出来ない男に桒野勝彦はなっていた筈である。

 親戚のコネにより有名企業に難無く就職した彼は真面目に働く勤務人で、出世欲はなくとも、後輩の面倒見はよく、自然と役職は付いて行き、四十にして早くも総務部長となっていた。その頃である、出入りの広告代理店の森下哲夫と会ったのは。一回り歳が離れていても森下が自分の学校の後輩であると程なくして知ると、身内の居ない桒野勝彦は森下哲夫を実の弟のように可愛がったのである。

 大手広告代理店営業アカウントエグゼクティブの森下は饒舌じょうぜつで、話す内容は桒野にとっては目新しいことばかりで、別次元の世界を紹介するものであった。波長が合ったのか、森下が甘え上手だったのか、何しろ桒野は森下を可愛がり彼の言うことならどんなことでも聞き入れたのである。普通のサラリーマンではあったが、桒野には親から受け継いだ莫大な資産があり、桒野はそれに群がる人達で出来上がった人脈等の財産をふんだんに持ち備えていた。桒野はあらゆる社交場に森下を連れ歩き彼を紹介したのであった。森下は自分の会社に戻る必要は無かった。桒野勝彦に付いてさえ居れば自然と営業成績が上がるからだ。まもなく森下哲夫は己れの営業結果を実力と過信し、三十を迎えて自分の広告代理店を立ち上げたのである。見栄えのする森下は人一倍行動力があり野心家であった。勿論若い森下の会社創業の資金は乏しく、桒野を連帯保証人としての銀行よりの借り入れのみを頼りにしての代理店起業である。今の会社を辞めることが出来ない桒野は、共同経営の話は受けずに足らずの資金だけを提供、森下に投資したのであった。

 広大な土地の地主である桒野勝彦に資金援助を依頼する会社は他にも数社あったが、いずれも個人経営の中小企業ばかりで、森下の会社の大きなクライアントには成り得なかった。学校を出たばかりの森下が営業成績のトップを走れたのは桒野の紹介以外にやはり大手広告代理店のネームバリューがあったからに他ならない。独立当初よりつまずいた森下は反省することなく、バブル期であった事をいいことに、桒野を説得して、尚も資金を捻出させたのである。人を疑うことに鈍感な桒野も贅沢ぜいたくに有る資産を頼りにたかくくっていた。

 この頃、銀行の桒野勝彦担当として連日顔を合わせていたのが、今幸徳銀行の頭取にまで出世した黒田権太郎なのである。当時黒田は一支店の融資課長で居た。金融プロの黒田もそうであるように、バブルの崩壊がいつやって来るのかは誰も予想は出来ていなかった。それどころかこの景気は永久に続くのか、とさえ思われていたのである。『バブル』はいずれはじけて消えてしまうことは小さな子供でも解ることであったのだが、多くの大人たちは目の前の好景気にたわむれていたのである。バブル崩壊と同時に自らの経営の保身に回った銀行は、黒田が先頭に立ち、手のひらを返した様に桒野の財産を食いつぶし切ったのである。桒野勝彦が連帯保証人となっていた会社はことごとく倒産を余儀なくされた。なかでも森下の経営する広告代理店の損失は酷く、あれほど可愛がっていた当の森下哲夫は全ての借財を連帯保証人になって貰っていた桒野個人に負わせ、世の中から突然に消えてしまったのだった。

 抵当に入っている大きな屋敷、広い土地全てを銀行に持って行かれてもまだ桒野には借金が残ったのである。銀行の黒田に頼んでも会っては貰えず、あれほど懇意にしていた友人知人ももっともらしい意見は述べても誰も助けてはくれなかった。

 桒野は途方に暮れた。桒野は親がのこしてくれたにも拘わらず人手に渡さなければならなくなった信貴山中にある元の自分の土地での自殺を思い立ったのである。愛する女房静子も負うであろう残りの借金も己れの死による生命保険金で幾分かプラスに取って替わるという計算の上での決意であった。不審に思われようと今更もういいだろうとなり振り構わず近所の金物屋でゴムホース5メートルと他にガムテープ一つを購入した桒野は白の愛車プリンススカイラインと共に一目散に阪奈道路を目指したのである。時刻は夕方の六時を回っていた。秋の夜は早くに暗い。この時から桒野の身の周りには不思議なことが起き始めていたのであった。

 高架側道を走っている時だった。ハザードをいた黒っぽい小型車が二車線の左一つを占有し、年配らしき女性が車の前で立ちながらこちらに向かって手を挙げているではないか。幾らライトをけていたとしても秋の暗い夜である。不思議なことに、停止していた車全体がその夜道に光り輝き浮き上がっている様に見えたのだった。その時より十数年を経た今日でも車の色と車種がはっきりと思い出せるのである。黒っぽく見えていた車の色は緑色でホンダのシビックであった。何事があろうとも動じない、既に死を覚悟している身の桒野は同じく左にウインカーを出しその小型車の後ろに付いたのである。

「どうされましたか」

 やはり年老いた女性であった。その女性とは勿論初対面の筈なのだが、どこか見覚えのある懐かしい感じを桒野はその時味わった。

「すみません、道に迷ったらしいのです」

「どちらまで行かれるのですか」

「生駒を越えて奈良へ帰りたいのです。阪奈道路を探しているのですが、どうやら道に迷ったようです」

 偶然にも桒野が目指す生駒山地越えの道路ではないか。この当時、既に阪奈道路は無料開放されていた。

「そうですか、それならこの道で合っていますよ。次の信号を右折されたら真っすぐに阪奈道路入口まで行けます。暗くなっていますのでお気を付けて帰ってください」

「ありがとうございます。ご親切に助かりました。人生なんてこの先何が起こるかは本当に分かりませんからね。早まらず貴方様もお気を付けて頑張ってくださいよ」

 何故か自分を産み直ぐに亡くなった母親の温かみを桒野はその時感じていたのである。

その老婆の顔に昔より写真でしか知らない母親の面影を見たからかも知れない。あとから振り返ればこの時の老婆の態度も言葉の内容も不自然であった、と会長室応接間で改めて思い返す桒野江戸主水なのである。

 機先をそがれた桒野はそれでもまだ自殺の決意は変わっていなかった。もう一度気を取り直しエンジンを掛けたのである。夜道を先に走る老婆が心配ではあったが、ひとのことを気に掛けている余裕は今の自分には無いと

納得させ、白のプリンススカイラインを走らせたのである。音楽を聴こうとダッシュボードから何気なく手にしたカセットテープを車のオーディオに差し込んでみると、偶然にも夫婦でよく通ったスナックで録音して貰った桒野の好きな曲『夫婦船めおとぶね』が流れた。愛する女房が唄う声を聴き涙が後から後からあふれ、車の視界がかず、何度もブレーキを踏む桒野であったのだ。どうにか阪奈道路に入り、人が全く居ない暗くて寂しい目的地に到着した桒野は、早速買ってきたゴムホースを昔観た映画の中のワンシーンを真似、車の排気筒に差し込んだあと、隙間すきまをガムテープでふさぎ、伸ばし切ったホースのはし数十センチほどを助手席側の少し開けた窓の外から車内へ垂らしたのである。窓の隙間にも目張りを施し、さあいよいよと覚悟を決めて右ドアを開き運転座席に乘り込んだその時である。ふと何気なく目をった車のガソリンメーターに桒野勝彦は驚愕きょうがくした。メーターの針がなんとガス欠状態を指していたのだった。走行中は全く気付かなかった。排気ガスを吸い込んでの自殺を決め込んでいたが、途中でガソリンが無くなればどうなるのだ。中途半端な死に方は嫌だ。必要以上に苦しむのは苦手だ。途端に現実の世界に引き戻され、冷静さを取り返した桒野勝彦は、今進行中の一連の行為が信じられず急に恐ろしく怖くなったのである。桒野は思わずエンジンを切り車外に飛び出した。漆黒しっこくの山の中の空気は冷たく、何より新鮮で美味おいしかった。

 桒野勝彦は完全に悪夢より目が覚めたのである。そして車内に装着してあったショルダーホン(車外兼用型自動車電話)でまだ明け渡しの完了していない家に電話を入れたのだった。

「もしもし私だ、静子か。今から戻るつもりだが、帰ってもいいかい」

嗚呼ああ、よかった。本当にあなたですの。ほんとに、ほんとにあなたですよね。よかった」

「今ね、プリンスがガス欠になりかけている。こいつのお陰で命拾いした。車の通る大通りまでどうにか頑張って走って貰って、それからタクシーを拾い帰るつもりだ・・・」

 桒野勝彦は静子の前ではいつも愛車プリンススカイラインをプリンスと呼んでいた。

「はい・・・」

 桒野静子は電話口で泣き崩れていた。

「手持ちの金はほとんど無い。馬鹿みたいだな。タクシー料金は着払いで支払うつもりなので幾らか用意しておいて欲しい。それ位はありますよね。本当に苦労をかけますね」

「はい、ありますとも」

「それじゃ帰りますよ。もう心配は要りませんからね」

「ありがとう、あなた。あなたのお声をどれほどお聞きしたかったことか・・・」

 一度治まりまっていた涙が静子の目より大粒となって再び零れた。

「あなた、今どこに居られるのですか。寝室の置手紙を読み、心配で心配で・・・、よかった。ほんとによかった。本当にお帰りになるのですね」

「そうだよ。家に帰れば何もかもすべて話すからね。もう大丈夫だ。いろいろな悩み事がすべて吹っ切れた。君にも随分と心配をかけたからね。もう安心してくれ。もう一度一からやり直しだ。今はね、君の作る味噌汁が無性むしょうに飲みたい。じゃあ帰りますからね。待っていてください」

「はい。お帰りをお待ちしております。ありがとう、あなた。本当にありがとうございます」


     仇討ち番外編・弐

 人生のやり直しを固く誓った桒野江戸主水は残った借金返済に全力をそそいだ。彼は幸い辞めずに済むように取り計らってくれた今の会社の社長に無理を承知で総務部長職を解いて貰い、歩合の付く営業畑に自ら希望を願い異動したのである。住まいも会社の寮に優先的に入ることが出来た。

 女房の静子とは桒野の入寮時点で無理やり納得をさせ、先の目処めどが立つまでという約束で別居していた。再起を計る桒野は背水はいすいの陣を敷いたのである。その当時、追い詰められたこの環境に今までに無い充実感を覚え、結構満足もしていた桒野であったのだ。

 しかし男の勝手な行動に誤算が生じた。まさかの出来事が起きたのである。苛酷な運命の悪戯いたずらによる心労がたたり、桒野の女房静子は別れて一年を経たずに亡くなってしまったのだった。ようやく人生のやり直しの目処が付き始め、女房に喜んで貰おうと妻ひとりが住むアパートを訪ねたその日に、初めて彼女の入院を知り、病院に駆け付けた時には既に間に合わず帰らぬひととなっていたのである。静子は桒野に心配をかけさせまいと誰にも黙っていたのであった。桒野勝彦は何故ふたりは離れなければならなかったのか、そのまま一緒に暮らしていてもよかったのではないのかと後悔したが、仕切れなかった。会長室応接間の江戸主水は、当時を振り返り大泣きしてしまった。隣りの部屋に控える秘書たちは何事が起こったのかと心配するほどだった。天井の高い広い部屋で江戸主水の号泣ごうきゅうが響きそして暫く続いた。

 人懐っこい根っからのボンボンの桒野は誰からも好かれ、無器用ながらも営業の成績は上々でまたたく間に借金は減っていったのである。愛車も手放し今は自分の足で飛び込み営業をしている彼は意外と頑張り屋であった。この営業経験でボンボン色は見る見るうちに消えていき、肌も色黒くなり、自分と家人をおとしいれたやからどもに来たるべき日の復讐を誓っている桒野は日増しにたくましくなっていったのである。愛する伴侶はんりょを亡くしてから早くも三年ほど過ぎていた。

 その日も汗をかきながら一生懸命に営業を繰り返していた時だった。一本の電信柱に目新しい一枚のチラシが貼られていたのだ。このチラシがその後の自分の人生を大きく変えることになろうとは本当に分からないものだと、イーエムコーポレーション会長室応接間に飾ってある額に入ったその四つ折りの折り目の残るチラシを見ながら、江戸主水はその当時のことを感慨深げに思い起こしていたのであった。電信柱に貼られていたチラシには《車お要り用の方、拙宅へお寄りください。お譲り致します。有田》と書かれてあり、有田家までの略図も添えられていた。何故か連絡先の電話番号は表示されてはいなかった。

(変わったチラシ広告だな。果たして広告と言えるのか。あの森下ならこの貼り紙チラシをどう評価するかな)

 忽然と世の中から消えてしまった弟の様に可愛がっていた広告のプロ森下のことが桒野の頭に浮かんだ。それは彼の身を案じてでは当然無く、自分や女房を陥れた森下にもう一度会い、無責任な突然の夜逃げの真意を問いただしたかったからである。

 何事に対しても好奇心の旺盛な桒野は貼り紙チラシの本当の目的を無性に確かめてみたくなった。実際に車が手に入いるのか。車種は何なのか。チラシにある《有田》とはどういう人物なのか、どうしても会って確かめてみたくなった。あとから考えてみると、これが生涯に一度有るか無いかの運命の出会いであったのだと桒野江戸主水は十数年前の不思議な出来事を思い起こしていたのである。

 正確な地図により、有田宅は直ぐに見つけることが出来た。隣りには小さな町工場があった。看板は既にはずされかかげられてはいなかったが、家の造り、並びからして有田工場であると推察された。今は稼働しておらず、廃業したのであろう。しかし工場をたたんでそう長くは経ってはいない様子だった。飛び込み営業で鍛えられた桒野はおくせず玄関チャイムを鳴らした。奥より人の気配がした。

「はいはい、お待ちください。今出ますので」

 老人の弱々しい声が玄関の扉の内に聞こえた。ガラガラと引違い扉が開き、見事な白髪の老人が出て来た。上品で小柄な、歳は七十を超えたくらいの男性であった。

「どなたですかな」

 桒野は丁寧に両の手で名刺を差し出した。右手で名刺を持ち左手をその下に添え、敬意を表しつつ相手に自分の名刺を差し出すというスタイルは桒野勝彦の真面目な性格を充分に表現していた。

「初めまして、わたくし桒野と申します。電信柱のチラシを見まして寄せて頂きました」

「お、お前は、た、高志たかし・・・。いや、すみません。早速お越しくださいましたか。車は別の場所に置いてありますので、少し歩きますがお時間はよろしいですかな」

 足取りのゆるやかな老人の後ろに付いて歩きながら、これから自分に何が起ころうとしているのか、逞しくなった桒野は不思議にも不安は感じず、むしろ逆に期待に胸を膨らませていたのである。とおほど並んでいる貸しガレージの前まで来て、老人はその一つに胸ポケットから取り出した鍵を差し込みシャッターを開放したのであった。

「これです。この車をつかってやってくれませんか。息子が大切にしていた車です」

 緑の小型ホンダシビックであった。新品の様に美しく、充分な手入れがされてあった。この緑の車に桒野は見覚えがあった。桒野が数年前に馬鹿な考えを起こし生駒へ向かった際の高架側道に停車していた、あのおばあさんの車と同じだったのである。

「息子さんはご承知なのですか」

「息子は去年の夏、交通事故で亡くなりました。この車はあれが大事に大事に可愛がっていた車で、実際にはほとんど乗っていなかった車です。是非貰ってやってください」

 老人はしっかりとして来た。何かしら意味ありげな目的をいだいている様子が見て取れた。

「息子さんはどうされたのですか。この車で事故にわれたのではないのですね」

「はい・・・、この車に乗っている時の事故ならまだよかったのかも知れませんが、仕事の途中で横断歩道を渡っている時の、先方の完全な不注意による交通事故に遭ったんです。

普段は社用車で移動する筈の息子はその日に限って、わたしへの誕生日祝いを買うために、車を降りていたとのことです。父ひとり子ひとりのたった二人きりの生活でしたが、仕事の好きなあれは結婚もせず、わたしのことばかり気に掛ける優しい子でした。そんな息子も最近気になる女性が居ると聞き、楽しみにしていた矢先の事故だったのです。実に悔しい」

 老人は気丈にも涙は一滴も見せなかった。

「それは本当に悲しい残酷な出来事ですね。それではこの車は息子さんの貴重な形見の車ではないですか。それほどの大切な車をはいそうですかと言って、そう簡単には頂けませんでしょう」

「いいえ、少し聞いてください。貴方の歳恰好は亡くなった息子と同じで、それどころか、顔も高志と瓜二つなんです。そうです、息子の名前を高志と言います。そして、今日は偶然にも息子高志の月命日つきめいにちでしてね、わたしは玄関で貴方を見て思わず声を上げてしまったほどそっくりなんですよ。これも何かの巡り逢わせだ。不憫ふびんに思った高志が貴方をわたしに引き合わせてくれたのでしょう・・・」

 桒野はこのあと老人にわれるまま有田宅に引き揚げ、有田老人より驚くべき内容の話を聞くこととなったのである。

 有田高志は四十歳になったばかりで、既に大手家具メーカーの取締役営業本部長の要職に就いていた。誰もが次期社長のうつわであると認めていたほどの人物だったのである。ホンダ創業者の本田宗一郎を敬愛し車が大好きな有田高志は、出世を果たした時点でも、親に頼らず自分の力のみで手に入れたこの名車初代ホンダシビックをこよなく愛していたのである。乗りこなすのではなく、見てれて、まるで恋人のように扱っていたのであった。

「その百貨店の角で降ろしてくれませんか。少し野暮用があって時間が掛かると思いますので、待たずに先に帰っておいてください。社には電車で戻るつもりです」

 自分の父親と同世代の役員車運転手にもいつも丁寧に優しく気配りの出来る有田高志であった。遠出の際は、若輩者として後部座席には位置せず助手席に座り直し、経験豊富な人生の先達せんだちからいろいろな話を聞き、教えを乞うのが好きであった。それは自然でひとつも嫌味いやみには見えなかったのである。

 その日は父親の誕生日プレゼント選びに車を降りたのだった。青信号を確認しての横断歩道を渡っていた時の惨事で、事故を引き起こした車はそのまま猛スピードで逃げて行ってしまったとのことである。翌日警察に出頭自首して来たのは大阪市の幹部職員であり、将来の助役候補と目されていた男であった。勤務中にも拘わらず、夫婦で株の取引きの為懇意にしている証券会社に急いでいた最中の出来事であったことが判明した。車内で夫婦ふたりの言い争いとなり、完全な前方不注意による事故の為に有田高志は無駄に命を落としたのである。そして、あろうことかその事故を起こした加害者は、桒野が人生に困り果て借財を申し入れたけれども嘘をいてまでして冷たくあしらわれた、あの同級生の林夫婦であったのが分かったのだ。何という偶然か。桒野がいつの日にかの復讐を誓っている複数の仇討ち首のひとつだったのである。

「憎い林は、市役所を懲戒免職で首になったあと、慰謝料を持ってわたしの処に来たんだが、わたしは会わずに知り合いの弁護士先生にお任せしました。先生のお話によると、林は同乗していた奥さんを連れずに一人でやって来たそうで、慰謝料も半分しか用意出来なく、残りは無期限で待って欲しいと言っていたそうです。しかし、数日後にどこでどう工面をしたのか、残りも全額納めてくれました。先生が言われるのには市からの退職金は一切出ず、事故保険ですべてを対処出来なかった林は、女房の反対を押し切って全持ち株を処分し、尚足らずを自宅を担保に街の金融業者いわゆる闇金業者から高金利を承知で借金をして作ったらしいとのことです」

 有田老人の話を聞き、桒野は、数年前自分を冷たくあしらった林夫婦に対し、有田宅に顔も出さずに居る恥知らずの女房は兎も角も、今では林に惻隠そくいんの情を抱く心の余裕を見せるのであった。少し前の桒野なら(ざまあみろ、自業自得だ)とほくそ笑んでいたであろう。しかし、今までに経験したことの無い貴重な社会体験を幾つも積んだ桒野は気の毒な林をおもんぱかるゆとりが心の中に芽生えていたのであった。

「わかりました。有田さん、それではそのお車を大事に使わせてください。ガレージまで行き、大切なお車を取って来ます」 

 再びシビックの納められてあるガレージで先ほど預かった車のキーを差し込んでみると、意外にも一発でエンジンは掛かった。息子を亡くしたあとも老人により手入れはされていたのであろう。桒野はもう一度有田宅に戻りお礼と別れを告げ、玄関で見送る有田老人をあとにしたのであった。車中で桒野はつぶやいた。

(なんと不思議なご縁だ。あの方とは今後もずっとお逢いすることになるだろう。それにしてもいい車だ。乗り心地は最高だ。車の運転は久し振りだがやはり気持ちが良い。しかしあの場所で林の名前が出るなんて、あいつとは本当に悪縁なのか)

 有田高志の車、緑のシビックは車検まで一ヶ月を切っていた。桒野は経費節約もあるが、何よりもあの有田老人の思い入れの強い大切な車のことなので、自分自身で車検を受験するという所謂いわゆるユーザー車検に挑戦することにしたのである。大阪運輸支局にユーザー車検の予約を取るとその日を完全に仕事休みとし、あらかじめ学習しておいた手順通りに初めての体験を実行したのであった。運輸支局の近くにある民間の予備検査場に於いて支局で行なう車検項目と同じ内容の検査を本番前に行なって貰い、支局窓口にて自動車重量税額分と検査手数料分の印紙、証紙を購入し、各書類に貼り付けたのであった。自賠責保険の継続加入手続きも支局近辺の代書屋で済ませたのち、それらの書類一式を運輸支局内のユーザー車検受付窓口に提示した桒野は、予約を入れた際の予約番号を伝えると、いよいよ自動車に乗り、検査コースで受験を終え、新しい車検証とステッカーの交付を受け完了したのであった。やはり素人仕事である。なかなか手間取った。しかし、点検整備料、車検代行料などの節約もあるが、大事な預かりものと位置付けている車である。これくらいの手数てかずは自分自身の手で掛けないといけないと律儀りちぎにそのように思う桒野であったのだ。

 その後も桒野はこのシビックに乘り、老人お気に入りの和菓子『とらやの羊羹ようかん』を持参して有田宅にたびたび足を運んだ。やはり歓迎して貰った。老人は見違えるほど元気になって来たのである。半年ほど過ぎた頃、老人は桒野に面白いことを言って聞かせた。この頃になると、身内の居ない桒野勝彦は、有田老人を実の親の様に慕い、今までの自分の身の回りに起きた事を全て打ち明けるまでになっていたのである。 

「勝彦くん、わたしが思うに銀行家の黒田、難波組、そして行方ゆくえ知れずの森下、この三者は仲間で、始めから君の財産を搾取さくしゅする計画を立てていたのと違うだろうか。当たらずとも遠からずで、きっとそうだと思うよ」

「えっ、いくら何でもそれは無いと思いますが・・・」

 桒野は直ぐには否定しながらも、いやそれはあり得る充分あり得ると考え直すのであった。

「本当ですね。有田さんの言われる通りに間違いはないようです。そう言えば思い当たるふし随所ずいしょにあるのです。辻褄つじつまも合うのです。そうです。わたしも以前より何か引っかかるものがあったのですがそのことだったのですね・・・。ああ、そうだったのか。実に悔しいですね。彼らは絶対に許せません。彼らの所為せいで桒野家も滅んでしまったのです。自分が至らなかったことはいなめませんが、何よりも心の優しい愛する女房まで死なせることになってしまうなんて、わたしはなんと愚かな馬鹿者だったのでしょうか」

 桒野は恥も外聞も無く、有田老人の前で積年の悔し涙を流した。世間知らずの自分が今更ながら情けなく、老人に甘えるのであった。


     仇討ち番外編・参

 有田老人の鋭い指摘は、その後の桒野の調べでおおよそがその通りであることが判明した。桒野はいつかきっとこの恨みを晴らしてやると誓いを新たにするのである。しかし巨大企業イーエムコーポレーション総帥そして経済界の超大物と言われる様になり、江戸主水として念願の雪辱を果たすまでにはあと十幾年かを待たねばならなかったのである。

「こんにちは。おとうさん居られますか。勝彦です。入りますよ。おとうさん、大丈夫ですか。居られないのですか。お好きな羊羹をお持ちしましたよ」

 奥からの返事は無く、電気も点けずに部屋は暗かった。桒野は不吉な感じを覚えた。

「あっ」

 有田老人の好物である羊羹の入った黒地に金虎の袋が桒野の手から滑り落ちた。何と台所で有田老人が倒れていたのである。

「おとうさん、おとうさん、どうされたのです。しっかりしてください。今救急車を呼びますからね。駄目ですよ。しっかりしてください。もういやだ。いやだ、おとうさん、頼みますから目を覚ましてください」

 今では身内の居ない桒野は有田老人をおとうさんと呼び、老人も桒野のことを息子の様に勝彦と呼び捨てにするほどになっていたのである。桒野は必死だった。本来無神論者である桒野は、この時一心不乱に天を仰いで神に祈った。生まれて初めての祈りである。

「お願いです、神様。どうかこのおとうさんの命を奪わないでください。僕の命でよければ代わりに持って行ってくださって結構です」

 祈りはかった。桒野の必死の言葉が終わると同時である。祈りが天に通じたのか、見事なまでの奇跡が起きた。何と驚くべきことに老人はごく普通に自然に意識を取り戻したのであった。

「ああ、勝彦か。よかった。もうお前に逢えないのかと心配だった。少しふらついただけの様だ。起こしてくれ。もう大丈夫だから」

「ああ、おとうさん。よかった。よかった。ほんとによかった。じっとしていてください。今、救急車が到着しますからね。それまで動いてはだめです。絶対にだめです」

 救急車で運ばれた有田老人は検査入院も兼ね、一週間ほど入院することとなった。見た目には元気になったのであるが、精密検査の結果は良くはなく、末期の肝臓がんが発見されたのである。桒野勝彦は嘘を吐けない性格であったが、出来得る限りの演技をした。

「おとうさん、よかったですね。大丈夫です。明日になれば家に帰れますからね。永年の心労で体に疲れが出たみたいですよ」

「勝彦、嘘はいかんよ。もうわかっている。自分の身体のことは誰よりも解っているつもりだ。そんなに悲しい顔をしながら涙を溜めて何が『大丈夫です』だ。馬鹿な子だ。家に帰ってから急いでしなければならないことがたくさんある。勝彦、お前、明日からわたしの家で一緒に暮らしてくれないか」

 桒野は病室ベッドの横で項垂うなだれていた。有田老人に見られまいと、涙でくしゃくしゃの顔は上げることは出来なかった。大粒の涙がポロポロと溢れ止まらず、しかし声は努めて殺していた。

「おとうさん、僕も前からそのことをお願いしようと思っていたところなのです」

「ありがとう。そうかそうか、いやあこれで安心だ。いい息子をさずかってわたしは幸せものだ。神様ありがとうございます。高志が亡くなった時は、随分とあなた様をお恨みしましたがお許しください。こんなに幸せを感じる日がまた来るなど思ってもみませんでした。本当に心より感謝致しております。神様ありがとうございます」

 次の日、家に帰ってからの有田老人は元気いっぱい精力的に行動を開始し始めた。老人の最も危惧きぐしていたことはなんと言っても自分が遺す財産の行方であった。今回の様な予期せぬ事態に陥った時に、今では息子同然の桒野勝彦に大事を伝えないままにった場合はどうするのだと病室であれこれと作戦を立てていたのであった。桒野自身はそんなことは微塵も考えてはいなかった。しかし、老人には家、工場、土地、息子から預かっていた預貯金、そしてこの息子の事故賠償金などを加えて、約三億という多額の財産があったのだ。老人は自分がもしもの時は、桒野に全財産を継いで貰いたいと事あるごとに話す機会をうかがっていたのだが、桒野は知ってか知らずか、何かと理由を付けてはその手の話を避け続けていたのである。

「勝彦、ちょっとこちらに来てくれ。少し今後のことについて真面目に話し合いをしておかないか」

「おとうさん、いやですよ。また、自分がどうにかなったら、とかのお話でしょう。いやですよ」

「今日はちょっと違うのだよ。勝彦、前から頼もうとずっと考えていたことだが、お前、正式にわたしの養子になってはくれないか」

 老人はいきなり切り出した。そして続けた。

「弁護士の村津先生とは、段取りなどの話は既に付いているんだ。あとはお前さえ同意してくれれば全てうまく事が運ぶんだがね。どうだろう、そろそろもういいだろう。安心してあの世に逝かせてくれないか」

「おとうさん、いい加減にしてください。ほんとに怒りますよ」

「まあ聞きなさい。お前は、裏切られた林を始め、財産を奪われ、桒野家を潰された黒田、難波組、そして森下に生涯の復讐を誓ったのではないのか。その中の林に至ってはわたしの一人息子の命を無駄に奪った、わたしにとっても憎むべき相手であるのだよ。それらの報復にわたしからのお前に譲る財産は決して充分とは言えないだろうが、それを元に事業を起こし、資産を増やすことは出来る。その資金を以って、お金の所為せいで味あわされた屈辱を晴らすということは考えられないのか。そして高志の無念も晴らしてやってはくれないか。どうだ、もう一度考え直しておくれ」

 桒野は医者より有田老人は末期がんで余命も既に三ヶ月を切っていることを知らされていたのである。

「おとうさん、僕はやはり承服出来ません。

何も無ければ、身内の居ない僕こそ、無理を言ってでも一番におとうさんの子供になりたいのです。本当になりたいのです。しかし、今の状況での・・・」

 桒野は言葉に詰まり、老人に涙を見せてしまったのだった。

「勝彦、そうやって悲しんでくれるのはありがたいが、お前との不思議な出会いを思い出してごらん。神様が何の思惑おもわくをお持ちになり、わたしの処にお前をおつかわしになられたのかは解らないが、ただはっきりと言えることは、息子を亡くし、寂しくたった独りきりで無意味に生きている老人を哀れみ、神様はわたしにお前を引き合わせて下さったことだけは間違いないのだ。しかも亡くなった高志と同じ歳恰好で姿かたちも瓜二つのお前を引き合わせて下さるという神様ならではのいきなお計らいでだよ。勝彦、これは何を意味していると思う。明らかに神様は互いに身寄りの無い私達ふたりが家族になることを応援して下さっているのだよ。これほど不思議なことは神様でないとお出来にならないことだ。お前はわたしが死んで大きな財産を継ぐことを心配しているのだろう。しかし、元々お前は大の資産家であったではないか。その一部が戻って来ただけと考えられないのか。その金を増やし、潤沢な資金で桒野家の再興を計ればいいじゃないか。自分を窮地きゅうちに追いやった輩どもに復讐をすればよいと言ったのはわたしの間違いだ。この素晴らしい運命の出会いを人の報復の為などとかろんじたりすれば、神様からお叱りを受けるかも知れない。既にいてしまったことが手遅れと言うなら、その天罰はわたしの死を以って甘んじてお受けすればいい。わたしの息子になってくれと頼んでいることはそれとは別次元のことだ。勝彦、お願いだ。うんと言ってくれ。この年寄りを喜ばしてくれないか。そして安心させてくれないか」

 桒野は心底有田老人が好きで、人間的にもまた人生の先輩としても尊敬していた。この人がこんなにも頼んでおられるのだ。自分が承諾することで大いに喜び、寿命も延びるかも知れないのではないか。有田老人と逢えたようにもう一度奇跡が起こらないとも限らない。こう考えた桒野は遂に観念したのであった。

「おとうさん、わかりました。そうと決まれば一刻も早くにおとうさんの子供にしてください」

「ありがとう、ありがとう。これでいつお迎えが来ても大丈夫だ。よかったよかった」

「またそれを言われる。おとうさん、いい加減にしてください」

 有田老人は自分の寿命をかなり正確に把握し、予測していたようだった。善は急げとばかりにその日の内に弁護士の村津に連絡を入れ、有田宅にまで直接来て貰い、じかに専門家によるアドバイスを受けながら、桒野勝彦との養子縁組手続き、および自筆証書遺言書の作成を行なったのである。

「先生、これで安心しました。先生のお陰で心に引っ掛かっていた懸案事項が全部思い通りに解決しそうです。遺言書の保管、管理もすべて先生にお任せ致します。こんなに清々(すがすが)しい日は無い。先生、今後ともずっとこの新しいせがれ勝彦の相談相手になってやってくれませんか。心よりお願い申し上げます」


     仇討ち番外編・四

 とどこおりなく養子縁組を済ませ、正式に有田龍三の息子有田勝彦となった桒野は仕事上の名刺は老人の了承の元、そのまま桒野姓のものを使用することとした。新しいこの親子の充実した新生活は長くは続かず、そろそろ終わりを迎えようとしていた。有田老人はその残り少ない日々、一日一日を大切に神に感謝しつつ過ごしていたのである。桒野勝彦をこよなく愛している有田龍三は復讐に燃えるこの新しい息子の今後を心配するのであった。

「勝彦、『天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさず』は解るな。異常な苦しみを味あわされたお前の気持ちは充分に理解は出来る。復讐心に燃えるお前を責めるつもりは毛頭もうとう無い。しかしだね、こうして神様が私達を引き合わせて下さったのだよ。その神様が悪人をそのまま野放しにされておられる訳が無い。お前が手を下さなくとも自然に彼らは滅んで行くだろう。それこそ『天網恢恢疎にして漏らさず』だ。復讐の最高の形は相手を心から許し、尚且なおかつその相手が困っていれば手を差し伸べ助けることだと言う人も居る。どうだ勝彦、こんなにも素晴らしい幸せをお与え下さった神様に感謝しながら残り少ないふたりの生活を楽しもうじゃないか。お前は本当にいい子だ。どんな人にも分け隔てなく接し、自分の事は後回しにしてでも先ず人を助けようとする子だ。しかし、こと黒田、森下の事に関すると、別人の様になる。お前らしくなくなる。わたしは今では林夫婦のことを許している。あの夫婦もその後かなり苦労していると村津先生からお聞きしてからは、気の毒にさえ思えるようになって来た位だ。だが黒田、森下はそう言う訳にはいかないだろう。彼らは放っておけばまだまだ世の中に害をもたらす。そう言う意味からすると、、自分の事はさて置いてでも、人一倍正義感の強いお前には絶対に許すことは出来ないのであろう。どうだろう、父からの提案なんだが、お前は『死』のことを話すと嫌がるが、わたしが死んで十年間は何もしないでひたすら財力を蓄え、今以上に逞しくなり、その時にもう一度どうすれば良いのか決めるというのはどうだ。その時はわたしはもう居ない。何も言わないし言えない。そうだそれがいい。約束しておくれ。そうしておくれ」

 有田老人には思惑があった。十年も経てばいろいろな事情により、愛するせがれの心の中からつまらない復讐心など消えてしまうであろうと考えたのであった。

「わかりました。おとうさんの言われる通りにします。おとうさんも僕に仇討ちをさせたくないなら、ずっと長生きされることですね」

「ほんとだな・・・。そうか分かってくれたのか。つくづくいい息子を持ったものだ。わたしはなんと幸せ者なんだ。神様、心より感謝致します。本当にありがとうございます」

 翌日、有田龍三は容態が急変し、救急搬送された病院で、愛する息子有田勝彦をそばに置き、穏やかな顔のまま眠るように生涯を閉じたのである。喜寿きじゅを翌年に享年七十六歳であった。

 有田勝彦は有田龍三の教えをかたくなに守り、その後十年、一生懸命に働いたのである。見違えるほど逞しくなったとは言え、元来がんらい脇の甘い人の良さは、そう変わるものではなかった。有田勝彦の財産を狙い近づく者はあとを絶たなかった。しかし、以前の桒野勝彦ではなかった。この頃になると、有田勝彦の周りには鉄壁とも言える蒼々(そうそう)たるメンバーが自然と集まって来ていたからである。法曹界の重鎮である弁護士の村津重幸、警察出身の切れ者花田克正、高齢だが聡明な桒野家元執事の和田栄太郎とその息子良一などが中心となり、財テクに明るい者や株式に通じている者を始め、あらゆる分野の一流と称されている人物達が無理無く有田勝彦の強力ブレーンとなっていったのである。

 有田勝彦自身にはなんの力もなかった。しかし逞しくなった今の彼には鬼に金棒となる生まれながらにして持つ一番の武器『人望』があった。それぞれの分野の問題はそれぞれの分野の有能な部下に任せ切るという『懐の深さ』も持ち備えていた。勿論、最終的な責任は己れがるのである。有田勝彦が『将に将たる器』であることを弁護士の村津は一早く見抜いており、生前の有田龍三とよく有田勝彦の将来を語っていたものだった。

 こうして過ぎた十年の間に有田龍三の遺した資産は何百、何千倍と大きく膨れ上がり、飲食、アパレルなどのチェーン展開に始まり、百貨店、ホテル、病院経営といった多種の企業の統合により巨大複合企業イーエムコーポレーションが誕生したのである。『人は財産である』と会長室応接間で改めて再認識するグループ総帥江戸主水・有田勝彦であった。


          一番首仇討ち前夜

「会長、亡くなられたおとうさんが以前お話しされていた林夫婦ですが、会長が探しておられた森下の処に偶然にも金の相談に来たそうです。前にもお話ししましたように、森下は難波組の石川から資金を回して貰い、高金利の街金業を営んでいます。会長のお指図通り、森下、石川、そして後ろ盾の黒田にはこちらからは何もせず遊ばせて居りますが、このまま放っておきますと、林は森下の餌食となって潰れてしまうのは火を見るよりも明らかです。今でも既にかなりの借金に膨れ上がっていますが如何いかがいたしましょうか」

 絶大の信頼を寄せる弁護士の村津からの驚くべき報告だった。高校時代同級生であった林夫婦である。婚期の遅かった二人を結び付けたのは誰あろう勝彦自身であった。そして勝彦が困窮している時、見事に裏切った二人なのである。江戸主水は会長室応接間で複雑な心境で居た。何故なら、この二人が引き起こした交通事故により一人息子を亡くした人生の恩人である義父の有田龍三から、生前、『復讐の最高の形は相手を心から許し、尚且つ相手が困っていれば、手を差し伸べ助けること』と強く言い聞かされていたからである。有田勝彦・江戸主水は決心した。予めの調べで林宅の電話番号も住所も昔と変わっておらず分かっていた。秘書一人だけを連れ出して林宅の近所より携帯で連絡を入れたのである。

「もしもし、桒野ですが、私が誰だか判りますか」

 林の女房春子が出た。春子は恐る恐る怯えた声で答えた。

「い、いえ、どなた様でしょうか。い、今、主人は家には居りませんが・・・」

 かなり切羽せっぱ詰まった様子が伺えた。

「春子さん、僕ですよ。高校時代同級生だった桒野ですよ。失礼は百も承知ですが、林が経済的に大変困っていると聞きましてね、今お宅の近くまで来ています。林が居るようでしたら、まとまったお金を持ち、寄せて頂きたいのですが、どうでしょう」

「えっ、本当にあの桒野くん、桒野勝彦君。急にどうしたの」

「林はそこに居ますか。実はね、うちの弁護士先生の関係でたまたま知ったのだが、あなた達が相談を持ち掛けた森下という男は大層なわるでしてね、付き合ったりすれば大変な目に遭うことになりますよ。絶対に縁を切らないといけない」

「かっちゃん、なんでそんなことまで知ってるの」

 林の女房春子は高校時代、桒野をいつもこう呼んでいた。

「そこに居るなら林を出してくれないか。直に林と話がしたい」

「今本当に居ないの。お金の工面くめん に親戚中を回っているみたいなの。かっちゃん・・・、いえ、今更親しげにそんな昔の呼び方は無いわよね。桒野さんには随分と酷いことをしたものね・・・。それなのに桒野さん、本当にいいんですか。厚かましいんだけど、ほんとに幾らか貸して貰えるの・・・」

 林春子は恥も外聞も無くしていた。口調にも昔のしとやかさは消えていた。やはり彼女も人並み以上の金の苦労を充分過ぎるほど重ねたのだろう。それこそ必死なのである。

「勿論だよ。どれほど用立てればよいか、林とよく相談して、またこの携帯の番号に連絡して来て欲しい。春子さんが承知なら明日にでももう一度寄せて貰うよ」

 このまますんなりと事が進み、林のつまらない矜持きょうじが邪魔をせず、そして自分の大人げない悪戯心いたずらごころが顔を出さなければあの悲劇は起こらなかったのにと、江戸主水は後悔した。あの世で有田龍三に合わす顔が無いと思う江戸主水であった。江戸主水は巨大企業イーエムコーポレーションの会長室応接間で弁護士の村津重幸、江戸商事社長の花田克正、そして元桒野家執事の息子で今は秘書室長の和田良一の三人に林夫婦の悲劇の顛末を話し聞かせていた。全幅ぜんぷくの信頼を寄せる腹心の三人である。恥ずかしげも無く、少し涙を溜め、強い後悔の念に駆られる江戸主水であった。

「龍三父が懸念されておられたように、自分の気持ちの中に幾分か、いやそれ処かまだまだ多くのわだかまりが残っていたようだ。父が言われたように『心より完全に許さなければいけなかった』のにだ。中途半端な助けがかえって林家に最大の悲劇をもたらせてしまった。なんと罪深いことをしてしまったものか」


     二番首仇討ち前日

 元なみはや署の警察署長で居た処を江戸主水のっての頼みで強力ブレーンの一人に加わり、今では江戸主水の腹心中の腹心となった花田はこの日、イーエムコーポレーション会長と広い会長室応接間で二人きりで居た。

「会長、会長は何もせず放っておけば良いと言われますので、泳がせていますが、あの森下は随分と派手に動き回りたくさんの人達を次から次へと泣かせていますね。そろそろ手を下さなくてはならないのではと思いますが」

「花田君、父龍三は最後まで私に復讐をさせたくなかったのだよ」

「そうです。ですから、お父上のご遺言通りに会長は十年間は動かずに居られたとうかがっております。これは報復とか仇討ちとかの次元の低い話ではないのです。世の為人の為に悪をらしめるという大義があるのです。今それを実行に移せるのは広い日本に於いて貴方様をおいて他には居ないのです。このまま森下をのさばらせておくと、またまた第二第三の林が誕生します。段取り、仕掛けは私の方で考えますので、会長の了解さえ頂ければいつでも実行に移すことが出来ますが、どうでしょうか」

 会長室より出て行く花田の少し小柄ではあるが、自信に満ちた精悍せいかんな後ろ姿を見ながら、江戸主水はこの熱血漢の花田との出会いを振り返っていた。亡き父有田龍三の良き相談相手であった、今はイーエムコーポレーションの顧問弁護士の村津重幸からの三年前の進言をこの男江戸主水は思い起こしていたのである。

「会長、イーエムコーポレーションはまだまだ成長し続けるでしょう。法律的渉外担当としては私は今後も会長のご相談にお応えするつもりです。しかし、私も歳を取り過ぎています。会社もこれほどまでに大きくなりますと個人が動くにも限りがあります。実際に身軽に行動を起こせる正式な渉外担当部署を企業内に設けないといけないでしょう。私は一昨日ある素晴らしい人物に会い、是非ともこのことを実現させねばと心より願いました。仕事の関係で、なみはや署に出向きその方とお会いする機会を得たのです。その方は、なみはや署という府内でも一、二を争う大規模署の署長でした。知り合いの検事にあとで教えて貰ったのですが、ノンキャリア叩き上げの方が五十歳を超えたばかりでの警視正けいしせいとは府警本部始まって以来の異例のスピード出世だそうです。府警本部に花田在りと前々から噂では聞き及んでいたその花田さんと初めてお会い出来、府民の平和と安全を守り、もっと住み良い街にしたいとの彼の忌憚きたんの無い意見をお聞きし、私は年甲斐としがいも無くすっかり彼の熱い信念に惚れてしまったのでした。なんと言いますか花田さんは会長のお考えと相通ずるものが多く有り、誰にでも優しく、間違ったことが大嫌いで、何よりも正義感が半端はんぱではなく強い方なのです。是非こういう方にイーエムコーポレーションの一員になって頂きたいと心からそう願ったのでした」

「村津先生をそこまで夢中にさせるその花田さんという方に是非お会いしたいものですね」

「はい、直ぐにでも会って頂きたいと思っております。会長はどのように思われますか。私は以前より、今の情報化社会には、コンプライアンスを念頭において行動する、またそれを指導教育する部署がどうしても必要となって来ると思っていたのです。それが正式な渉外担当部署だと考えます。どうでしょうか」

「その部署にその彼をお招きするということですね」

「その通りです。色々と調べさせて貰うと、花田さんは長くて二年で署長を退官されるそうです。府警本部の参事官への道を敢えてお

断わりされ、大手民間企業に入られるそうなのです。それならば我がイーエムへのヘッドハントも可能性が充分有ると私は考えております」

「解りました。それでは私から直接連絡を入れお頼みしてみましょう」

 この男江戸主水の行動は早かった。次の日なみはや署に直接直談判に出かけたのであった。最初は断り続けていた花田克正ではあったが、二度三度と話し合いを重ねるうちに、二人は互いの男気を感じ、完全に意気投合したのであった。江戸主水は三年前のこの時の村津よりの進言、そして花田のイーエムコーポレーションへの参加は大正解であったと会長室で今更ながら納得するのであった。

 今ではイーエムコーポレーション傘下の江戸商事社長の花田は江戸主水の了承の元、弁護士の村津と相談をしながら、二番首森下哲夫仇討ち作戦を立てたのである。

「森下さんですか。わたくし、江戸主水の私設秘書を兼ねております江戸商事の花田と申します。いきなりですが、私どもの会長が公に出来ない株式の投資に失敗を重ねまして、十億単位にのぼる巨額の損失を抱えてしまった様なのです。性質上今直ぐにご自分の口座を動かせないそうです。だからと言って会社のお金を遣っての補填ほてんは大きな罪になりますので、ご無理を言いますが、明日より丁度十日間きりまとまった額を融通して頂けませんか。先程も申しました様におおやけには出来ませんので口外は決してなさらない様にお願い致します。金額に付きましては全額では無く、貴方様には二億円のみをご用意くださいましたら結構かと存じます。ご持参して頂く場所は北新地の全日航ホテル最上階のラウンジということで、明日の夜七時に会長ご自身がお忍びで行かれますので、くれぐれもよろしくお願い致します」

「はい、分かりました。新地の全日航はよく存じております。あの伝説の江戸主水様と遂にお会い出来るのですね。わたくしみたいな者が誠に光栄です。分かりました、それでは明日夜七時全日航ホテル最上階のラウンジに於いてお待ちしております」


     三番首仇討ち一ヶ月前

 桒野家元執事の息子であり、今は巨大企業イーエムコーポレーション会長江戸主水の秘書室長の和田が会長室に喜び勇んで飛び込んで来た。元執事の息子と言っても兄弟の居なかった桒野勝彦にとっては実の兄のようで、幼い頃より何をするにも頼れる存在であった。

「どうしました、良一さん。嬉しそうですね」

 二人きりの時には、江戸主水は三つ年上の秘書室長をこう呼んでいた。

「会長、ついにあの憎き黒田権太郎に鉄槌を下す時がやって来ましたよ」

「良一さん、違うでしょ。決してこれは個人的な復讐じゃないんですよ。悪事を働きのうのうと生きている輩どもを懲らしめ、二度と悪さの出来ないように完膚かんぷ無きまでに叩きのめすのが目的の筈です」

「そうでした、そうでした。つい嬉しくてはしゃいでしまいました。恥ずかしい限りです」

「それでその黒田がどうかしましたか」

「はい、実はですね、あの幸徳の黒田の直ぐ下に実直な副頭取の木原という私の大学の後輩が居るのですが、その木原から直接私に幸徳銀行本店で毎年行われる講演会に是非会長にご足労そくろう願えないでしょうかという正式な招聘しょうへい依頼が来たのです。当日幸徳の車をお迎えに上がらせて頂きますのでという、ご丁寧で有難い本当の講演依頼ですので、断る理由が無く、快く承諾しておきました。他に入っている当日の予定はどうとでもなりますのでお任せ下さい。その前に一度木原にも会って頂きますが、正に千載一遇せんざいいちぐうのシチュエーションの誕生かと思われます。会長を始めどなたにも相談せず勝手に返事をしてしまいましたが、宜しかったですね」

「宜しいも何ももう返事をされているのですよね。いいんじゃないですか。良一さんにすべてお任せだ。幸徳は確か花田君の居たなみはや署の管轄でしたよね。当日は花田君を連れ出そうかと思いますが、どうですかな」

「それで充分かと思われます」

 見るからに人の好い優しい和田良一であった。

「良一さん、人生とは本当に摩訶まか不思議なものですね。私は実に幸せ者だ。そして強運の持ち主だ。貴方を始めこんなにも素晴らしい人達に出会え支えられているのだからね」


     仇討ち四番首

「石川、もう終わりだ。組は解散しろ。今なら穏便おんびんに済ませてやるぞ」

「いくら元警察署のお偉方と言っても今は只の人だ。そんな他人ひとから勝手なことは言われたくありませんね」

 巨大企業イーエムコーポレーション会長江戸主水の信頼の厚い、元なみはや警察署署長であった江戸商事社長の花田は江戸主水の命

(めい)を受け単身難波組に乘り込んだのである。

「こら待て、待たんか。何なんだあんたは。

勝手に入るな。おっさん、ちょっと待て。ここをどこだと思ってるんだ」

「邪魔だ、そこをどけ。おい、石川は居るのか。石川、居るなら顔を出せ、花田だ」

 花田の迫力に圧倒された難波組組員たちはどこの誰だか判らないこの少し小柄な初老の男を制止出来ずに慌て狼狽えているばかりであった。

「お前らは手を出すな。この方を奥へお通ししろ」

 花田より一回り体格の大きな見るからに恐ろしい形相ぎょうそうの難波組組長石川が隣りの部屋より姿を現わした。組長の石川剛毅と幸徳銀行元頭取の黒田権太郎とは同郷の幼馴染おさななじみで、黒田が大学生だった頃に大阪ミナミで悪さをしていた石川と偶然に再会を果たしてからは二人は無二の親友、刎頚ふんけいの友となったのである。頭を使う黒田に対して体で動く石川という構図は、黒田が銀行を追われるまでの間四十年もの長きにわたって、綿々(めんめん)と続いていたのであった。

「お前が懇意にしている黒田は銀行を引退後、悠々自適ゆうゆうじてきの生活を送っていた様だが、昨日とうとう特別背任罪で捕まったぞ。となると流れとして警察が次に矛先ほこさきを向けるのは間違い無く難波組のお前となる」

「何を言うんだ、花田さん。本当に黒田は捕まったのか・・・。しかしそのことでなんで次が俺なんだ。訳の分からないことを言わんでくれ」

「解らん奴だなあ。お前は黒田から充分な担保も無しにかなりの額のお金を融通して貰っていただろう。その不正融資、不良貸付で、融資の受け手の方も背任罪の共同正犯きょうどうせいはんとされるからだ。黒田が潰れた今、お前を助ける者はもう誰も居ないだろ。お前が街金をさせていた森下もトンズラした。ここらが年貢の納め時じゃないのか。このまま続けると難波組の親にあたる神戸組にも捜査の手が伸びて面倒な事になるぞ。それでもいいのか。早く警察に解散届を出すことだ。解ったな」

 次の日、神戸組及び本家の了解を事前に取り付けた難波組は解散届をなみはや署に提出したのであった。そして石川自身も江戸商事花田克正の付き添いで背任罪そのほかの罪も含めて自首することとなったのである。

 十数年前、桒野が絶望の淵に立たされても尚、どうにかして家屋だけでも残すことは出来ないものかと方途ほうとを探っていた時だった。黒田は一刻も早くに桒野家の財産をそっくり銀行のものとする為に難波組を遣い、使用人が誰一人居なくなった大きく広い屋敷の中でたった独り留守を守っていた桒野の女房静子に嫌がらせを連日繰り返していたのだった。静子はその心労もたたり、新規巻き直しを計っての納得づくの桒野との別居のあと、日を追うごとに身体が衰えて行き、一年を待たずに亡くなってしまったのである。

 江戸主水は難波組に対してはそれ程腹は立たなかった。桒野本人が銀行内の一室で脅されたり、桒野の女房が嫌がらせをされ、結果的に死んでしまったことに関しては、実行犯には違いなかったので憎い相手ではあったが、やはりそのように仕向け、後ろで操っていた銀行家の黒田権太郎こそ絶対に許すことが出来ない最大の仇討ち首であったのだ。

 江戸主水は腹心の花田克正には全ての事実を打ち明けていた。阿吽あうんの呼吸でその事情を察している花田は難波組の解散そして石川組長の自首で事を済ませたのである。とは言え、組長石川の『組の解散』『自首』は裏の社会で長く生きて来た者にとっては最大の屈辱であったに違いない。石川を警察に送り届けた後、江戸商事社長の花田は細かい一部始終は省き、江戸主水会長に短く報告を入れたのであった。

「会長、四番首は無事刎ね終わりました」

「うむそうか・・・。・・・、ありがとう」


     仇討ち番外編・五

 イーエムコーポレーション総帥の江戸主水は、度々(たびたび)有田龍三の古い家をおとずれた。この時はいつも秘書は連れず、たった一人であのホンダシビックに乘りたずねたのである。この家に足繁く通う理由の一つに、この家が誰にも邪魔されず心をいやせる最適の隠れ場所だったこともある。いずれこの家を巨大企業イーエムコーポレーション発祥の地として跡地に記念館を創り、そこに人助けを最大の目的とする有田財団を設立するつもりでいた江戸主水にはその前にするべき大切な確認事があった。江戸主水は部屋の中で独りよく瞑想めいそうふけっていた。そして有田財団創設の夢をひとりっていたのである。

(おとうさんのお陰で幸せの日々を送らせて頂いております。すべてはおとうさんとの不思議な出逢いから始まりました。ありがとうございます)

 江戸主水は今、亡き父有田龍三の寝室に居た。そしてこの前アルバムの整理をしている時に偶然見つけた、有田龍三への実の姉前田さくからの古ぼけた手紙をこの日江戸主水は手に取り大切に見ていたのである。この手紙の発見により、父龍三は天涯孤独の老人ではなかったことが判り、今日こそは時間の許す限り、自分にとっては伯母さんにあたる方の居住場所などの確かな情報を得て帰ろうと訪ねて来たのであった。前回寄った時はあまり時間が取れず、古くかすれ気味の文字の判読に時間をく余裕が無かったのである。

(よかった。おとうさんに身内の方が居られたのだ。前田さくと言われるのだな。しかもここからそう遠くはない福井の勝山に住んで居られるようだな。明日にでも訪ねてみるとしよう)

 次の朝、江戸主水は会長室応接間にて腹心の三人に事情を説明した。財団の創設、記念館の設立に関する大事なので腹心中の腹心である彼らには自分の胸の内、今後の計画を明かしておく必要があった。

「戻って来れば、また報告しますからね。今日は取り敢えず和田さんひとり私に付き合って貰えますか」

 社用車に乘り込み、江戸主水は秘書室長の和田良一にこれからの大まかな己れの動きを福井県勝山市までの道中で言って聞かせた。有田龍三の身内の人がご健在なら、その方に今後創設予定の人助け財団の責任者になって頂き、新設の記念館も併せて運営していって貰いたいとの考えをざっと説明したのである。今は高速道路も整備されており、一行いっこうは大阪を出て四時間ほどで福井県勝山市に到着した。日本の都道府県別幸福度指数トップを続けていた福井県の、あの恐竜博物館で有名な勝山市である。高速道路が無かったひと昔前なら、日帰りではとても無理な道程みちのりなのである。

「会長、手紙から読み取れる住所はどうやらこの辺りのようですが、住居表示に若干じゃっかん変更がありますね。車から降りられて少しお歩きになりますか」

 美しく整備された閑静な住宅地の中を和田は地図を片手にキョロキョロとしつつ歩き進んだ。そのあとを江戸主水は子供時代を思い起こしながら大人しく付いて行った。

(あの頃もこうしていつも和田のおにいさんの後ろにくっついて歩いたものだった)

 江戸主水は当時を振り返り、ひとりにやにやと思い出し笑いをするのであった。十五分ほど歩き一軒の家の前まで来た時だった。和田は素通りしたが、玄関前で一人の老人が植木に水をあげているのを見た江戸主水は我が目を疑った。そこには有田龍三が居たからである。思わずおとうさんと声を掛けかけたがそれは有り得ないと思い、寸前の処で口には出さず言葉を飲み込んだ。ということは、ここが探し求めていた家なのか。そしてここに有田龍三にゆかりのあるどなたかが住んで居られるのか。江戸主水は有田龍三の顔を知らなく先に進む和田を呼び止めた。嬉しさがこみ上げて来た。

「少しお尋ねしますが、有田龍三のお姉さんの前田さく様のご自宅ではないでしょうか。わたくしは、十年程前に有田龍三と養子縁組により息子となりました有田勝彦と申します」

「ああそうですか・・・。確かにここは私の母前田さくの住んでいた家に違いありません。しかし、母は二十年くらい前に亡くなっておりまして今は私がこの家の主です・・・。ああ貴方がそうですか。風の噂で叔父さんの息子さんが交通事故に遭われて、その後新しくご養子を迎えられたとは聞いていましたが、貴方がそうでしたか。すると貴方と私とは従兄弟いとこ同士になるわけですね。どうぞ、むさ苦しい処ですが、家の中へお入りください。どうぞ、どうぞ」

 どういった理由が有り、姉と弟が何十年もの永きにわた疎遠そえんになっていたのか、有田龍三そっくりのこの従兄も今となっては正確には解らないとのことであった。地元の高校の校長を定年退職後、悠々自適の生活を送っているこの従兄もやはり有田龍三に劣らず立派な人物であったことが江戸主水を充分に満足させたのである。これより後に設立した有田財団の理事長にはこの見るからに教育者然とした従兄の前田広孝が収まり、イーエムコーポレーション記念館の運営は前田広孝の一人息子の前田孝太が仕切ることとなるのである。


          仇討ち最終編

「会長、今人事部より連絡があったのですが、今年の新卒採用者の中に、面接時におかしなことを言う者が居たそうなのです。成績は誰よりも群を抜いており、ほかに問題は無いのですが、その者が面接時に言った内容が会長と関係がある様でしたので、人事部の鈴木から私の方に直接連絡が入って来た訳ですが、会長今お時間は宜しいでしょうか」

 巨大ビル最上階にある会長室で新聞に目を通していた好奇心旺盛な江戸主水は秘書室長の和田の報告に興味を示した。

「どういった内容なのかその場に居て聞きたかったものですね」

「なんでも、亡くなった母親の遺言で、学校を卒業すれば、絶対にイーエムコーポレーションに就職し、大恩有る江戸主水会長の手足となって骨身を惜しまず働きなさいと厳命されていたそうです」

「どういうことですかね。その彼の名前は分かりませんか」

「いえ、分かります。少しお待ちください。ええとですね。林、林英太郎くんですね」

「はやし・・・、あの林、まさか・・・。本当に林と言うのですね。まさかとは思うのですが、彼を呼んで貰ってもよいでしょうか」

 江戸主水は珍しく動揺を隠せなかった。

「解りました。それでは早速連れて参ります」

 巨大企業トップの者が一介の新卒者と会長室で会うなどということは、常識では考えられない行為であることは、秘書室長和田は百も承知ではあったが、年下であっても尊敬する江戸主水のすることである。余程の理由をお持ちなのだろうと、和田は直ちに指示通りに従ったのである。

「会長、入ります。新入社員の林君を連れて参りました。宜しいでしょうか」

「ご苦労様でした。申し訳無いのですが、和田室長も下がっていて貰ってもよいでしょうか。こちらからお呼びするまで林くんと二人きりにしておいてください。さあ、林くん、楽にしてこちらに座りなさい」

 直立不動の若者は動けなかった。目の前にあのあこがれの江戸主水会長が居り、広い部屋の中で二人きりになり、気安く声掛けをしてくれている。極度の緊張状態に居た初々(ういうい)しいその青年の耳には江戸主水の言葉は全く入って来なかったのである。

「林くん、そんなに固くならないで。いいからここに来て座りなさい」

 同級生であった高校時代の林の面影を充分に残すこの凛々(りり)しい青年が間違いなくあの悪縁の林夫婦の歳を取ってからの忘れ形見であると確信を持った江戸主水は、動けず固まっているこの林英太郎の肩を優しく抱きかかえる様にして会長室ソファーに誘導し座らせたのである。と同時に江戸主水の金縁眼鏡の奥からは熱い涙が零れ始めたのであった。林青年は何が何だか訳が分からなかった。

「あなたのご両親とは高校の時、同じクラスメイトでしてね。それなのに、困って居られたあなたのご両親を助けることが出来なかったのです。それどころか、足を引っ張るようなことをしてしまったのです。本当に許して欲しい。わたしの狭い了見りょうけんがあなたのご両親のお命を奪ってしまったのです。たった一人、大学生のあなただけが遺されたということはつい最近になって判りましてね」

 江戸主水は真面目な林青年を前に涙が止まらなかった。

「林くん、この心根こころねの悪い男をどうか許してください。許すと言って欲しい」

 林英太郎はこのあたりの流れを母親の遺言とも言える長文の書き置きで充分教えられ理解もしていた。林英太郎も少し落ち着きを取り戻して来た。

「会長さん、母が遺した手紙には、両親が作った多額の借金の肩代わりを桒野さんは申し出てくださったのだけれども、父が頑なであって、昔桒野さんにとんでもない不義理を犯した身の自分が今更甘える訳にはいかないと死を選んだと書かれてありました。玄関下駄箱の上に残して置いていってくださった大金には絶対に手を付けることは出来ない。この有難いご配慮に母は嬉し涙が止まらなかったそうです。会長さんには感謝しても仕切れないとのことで、この時のご恩返しとして、私に学校卒業後は是が非でもイーエムコーポレーションに入り、親の分まで桒野さんの為に骨身を惜しまず頑張って欲しいと書き置きにしたためてあったのです。ですから許すも許さぬも変です。両親こそ充分感謝致して居りました。会長さん、もう泣かないでください」

 後日、江戸主水は林英太郎の許しを得て、英太郎に宛てた母親林春子からの死の直前の書き置きを読ませて貰ったのである。

《英太郎、あなたにはたいへん申し訳なく思っております。先立つ不孝をどうか許してください。先ほど迄、父、母の共通のお友達であった桒野さんが来られていました。今から十数年前、あなたがまだ中学校に通っていた頃のことです。人の好い御曹司であった桒野さんはバブルの崩壊によって多額の借金を負うこととなり、高校、大学と親友であったあなたのお父さんに助けを求められたのです。その時は父も母も二つ返事で了解したのです。しかし、丁度時を同じく、今は亡きお祖父さんにも想定外のお金の入り用が出来たのでした。二方ふたほうに融通するほどの余裕は家には無く、大いに喜び感謝をされていた桒野さんにわざと悪態を奈落ならくの底に突き落とす様なことをして、お祖父さんの方を助けてしまったのです。それからは、負の連鎖なのか、交通事故を起こし、将来有望な何の罪も無い方のお命を奪ってしまったのです。この事故は新聞報道に有る様なことでは決して無く、自殺をほのめかすお祖父さんの元に急ぎ向かっていた時の私達夫婦の完全な不注意の出来事でした。だからと言って許される事では到底ありません。役所の要職にいていたお父さんはこの交通事故により、職場を追われ、まだまだ解決しないお祖父さんを救う為にもお金に執着しゅうちゃくするしか生きるすべを見い出せなくなってしまったのでした。しかし、金策はことごとく失敗し、八方はっぽうふさがりとなり途方に暮れていたそんな時でした。急にあの過去に信頼を裏切った桒野さんから電話があり、助け舟を出してくださったのです。どこでお知りになられたのか、全額肩代わりをさせて頂くからという信じられない有難いお話だったのです。どれほど嬉しかったことか、感謝しても仕切れません。涙が止まりませんでした。しかし、桒野さんにお話し出来た金額は要り用の十分の一もありませんでした。プライドの高いお父さんは正直に言い切れなかったのです。そして奈落の底に落とした親友に今更泣き言を言えなかったのです。その時の桒野さんならすべてをお話すれば解決してくださった筈ですが、母も世渡りが下手で頑ななお父さんに附いてきます。下駄箱の上に置いていってくださったお金はあなたが責任を以って桒野さんにお返ししておいてください。無責任は重々承知しておりますが、父、母とも疲れ果てました。英太郎、誠に勝手を言いますが、学校を卒業すれば、必ず、桒野さん、今はイーエムコーポレーション会長にお会いしてこの愚かな母の感謝をお伝えして欲しいのです。そしてきっと、桒野さんの会社に入り、桒野さんの手足となり骨身を惜しまず頑張って頂きたいと勝手な母は願います。今まで本当にありがとうね、さようなら。無責任で弱い母より》

 その後、こどもの居ない江戸主水は亡き父有田龍三が自分にしてくれたのと同じく、この林夫婦の忘れ形見である林英太郎を養子に迎え、有田英太郎として帝王学を学ばせ、巨大企業イーエムコーポレーションを引き継がせることとなったのである。    (了)


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