聖堂
彼女の中にある傷。吾輩が暴走して白い首筋へ噛みつこうとしたときの殺意は本物で、牙は逸らしたものの体はそのままぶつかってしまった。その重みが今も彼女の心を削る。
吾輩の中にある傷。力への恐怖。瘴気に侵され魔獣の本能のままに彼女を気付つけようとしてしまった。次にまた彼女に触れたとき、吾輩はまた傷つけてしまうのではないか。己の牙が心を削る。
その二つの傷が今、お互いに触れあることで癒えていく。事前と吾輩の喉は鳴り胸元から緑色の光が零れる。その光はどんどん大きくなっていった。
吾輩の小川のようなマナの流れにウェルダのマナが山から溢れ出る清流のように加わり、膨らんだ緑の光が周りにいた全員を包む。思わず顔を上げると彼女も驚いた様子で周囲を見回していた。傷ついた人もそうでない人も心地よさにうっとりしている。吾輩の眼が彼女と合う。彼女は微笑んで吾輩の頭を撫でて目をつむらせると吾輩のおでこにキスをしてくれた。
五分ぐらいそうしていたかもしれない。全員の怪我が癒えたのか緑の光がフッと消え暗闇が覆う。いつの間にか夕日は沈んでしまっていた。夜目の利かない真人族が慌てた声を出す。するとパンッと空が弾け照明弾のような光が浮いていた。
「さあ、移動しましょう。女子はわたくしについてくるように。男子はわたくしの魔法が消える3時間の間に食事と寝場所の確保をしなさい。」
カーラ先頭に立ち門の中へとみんなを誘う。空を照らすのは彼女の魔法のようだ。
「うわきもの。」
ヒナはそう言ってウェルダから吾輩を引き剥がして引きずっていく。ケツの毛がじゃりじゃり削らて痛い。マリリンはケラケラ笑って傍に並ぶ。吾輩をからかっているようだがその実、背を後ろに歩くヒナがぶつからないようにちゃんと見てくれている。
遠ざかっていく景色の中にウェルダとエミーの笑顔があった。もう彼女に影はない。
カーラを追う列の終点で古びた聖堂が現れる。形からして宗教施設だと判断できるが廃墟の街並みと同じ石材で造られておりとても地味だ。ただ、他と違ってこの聖堂だけは崩れもせず過去の形を保っていた。
中に入ると床には何もない。かつては椅子が並べていただろう痕がついている。古びているのに埃っぽさがない。きっとカーラが今日一日掃除をしてくれたのだろう。小さめのイベントホールぐらいの大きさだろうか。正面の壇上には石造りの大きな机が置かれ、その後ろの壁の上部に三日月型の紋章が削り込まれていた。
カーラの修道衣の胸元に縫い込まれたものと、吾輩の胸元に下がるものと同じ。
「早く入りなさい。後ろがつっかえています。」
カーラの声だ。朝の優しい声よりもちょっときつい。
一緒に立ち止まってしまっていたヒナとマリリンと奥へ進み適当な場所で腰を下ろす。
ヒナは相変わらず吾輩を人形のように抱っこしたがる。吾輩はいつものようにされるがままに身を任せた。
初回だからと短めに済ますといったカーラの魔法の講義は退屈であんまり覚えていない。
魔法を使うのが主に女性とあって女性が女性に教えることを目的とされたところがあるのだろう。
体内のマナがどういう働きをして魔法として発現するのかといった理論的な話は一切なくスピリチュアルな話が吾輩の右耳から左耳に抜けていった。
ヒナがキラキラした目で夢中になっていたのでいい講義だったのは間違いないと思われる。
中盤ぐらいに、ほとんどの女子が魔法を使えなかったのは鉄のワンドの為だということをカーラが言うと、ヒナがマリリンが木の杖を持っていることをぶっちゃげてしまうという事件勃発。
おかげでマリリンは壇上で皆の代わりにマンツーマンでカーラの指導を受けることとなる。
吾輩はというと、ヒナの腕の中で舟を漕いでいたのをばっちりカーラに見つかり魔法の応用として洗濯魔法なるものを我が身に受けて、天井から吊るすように干されてそれを眺めていた。
生物相手に使うべき魔法ではなかったと確信するが、これはこれで攻撃魔法にあまり乗り気でない女の子達に受けたようで講義は成功裏に終わる。
ンーッ、ナッ。吾輩はようやく天井から降ろされ体を伸ばす。
「酷い目にあったわ。」
ナー。おかげで吾輩は降ろしてもらえた。
「すごーい、マリリンすごいよぉ。いいな、いいな。ヒナも早く使いたいよー。」
まったくこのお姫様は・・・。
「明日になればトレントの枝で杖を作ってもらえるみたいだからもう少しの我慢よ。そうなんでしょ、ウェルダさん?」
「ウェルダでいいわ。おいでシロ。」
吾輩はウキウキした足取りでウェルダに近づき白い腕に頭を擦り付ける。
「うふふっ、柔らかい。君、こんなに真っ白だったのね。」
アゥ~ン。ゴワゴワだった体毛がふわふあになりウェルダの絹のような手の平がより滑らかに感じる。
「そうそう、午前中に私が使ってた矢はエルフの森のトレントのものなの。それがネズミに刺さったまんまで私とシロの回復魔法を十分に浴びたから朝には森になってると思うわ。」
「ねぇ、お姉ちゃん。シロはヒナのにゃんこだよ。そろそろ返してよ。」
「残念でしたー。シロは私のものでーす。」
ウェルダは吾輩を抱きかかえてもふる。
煽るな煽るな。エミーに飛び火して凄い目で吾輩を睨んでいる。あ、やばい、ヒナが癇癪を起しそう。
「シロはわたくしの猫です。」
ヒナが泣き声を発しようかというとき老女の声がそれを遮った。
「証明しましょう。さあ、皆さん一切れずつ受け取りなさい。」
そう言ってカーラはバスケットを回していく。
「皆同じものです。さあ、シロ。彼方が仕える者の手からお食べなさい。」
カーラが、ウェルダが、ヒナが、そしてマリリンも手の平に一切れのパンをのせて吾輩に差し出す。
マリリン、お前もかと視線を送ると手の平のパンがトーストされていた。まったく気の回る女である。
ヒナ、吾輩こう見えても人なの。地面にパンを置かないで。カーラが頭を押さえている。
吾輩はウェルダの方へ歩みを進める。ウェルダの手の中で光が躍った。精霊だろうか粗悪なパンがふんわりしたものに変わっていた。
鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。酵母のいい匂いがしそうなのに吾輩の鼻は無機物のように脳へ伝えてくる。パンの下のウェルダの手の方がおいしそうな香りを放っているぐらいだ。
「そうでしょうね。」
そうカーラは言うとヒナが地面に置いたパンを拾い吾輩の前に差し出す。
「すべては皆、太陽神アマテラスと月の女神ツクヨミの御心のままに。」
聖句を唱え反対の手でスッとなぞるとパンが同じ形をしたサラミに変わっていた。
吾輩が正気を取り戻したときにはカーラのしわのある手の平は吾輩の唾液で汚れていた。
「決まりましたわね。ですが、わたくしは忙しいので普段はヒナに預けておくことにします。」
ヒナは満面の笑みで吾輩を抱き寄せた。
「魔女・・・」
ウェルダが悔しそうにつぶやく。
「この奇跡が魔術でないことはこの中であなたが一番お分かりでしょ?」
カーラは勝ち誇ったように去っていった。女のマウント争いこっわ。
「うふっ、ウェルダのパンうままっ」
エミーが嬉しそうにウェルダのパンを頬張る。その後エミーはウェルダに無茶苦茶にされていた。
姦しく時間は過ぎ去り暗くなった教会の中で皆、肩を寄せ合って眠っている。
眠れない吾輩は一人外にでるのであった。昼間に寝すぎた・・・。