首領
吾輩の異変に気が付き彼女は急いで離れようとするが吾輩の牙から逃れようはずもない。
四肢の爪が地面に食い込む。パラパラとした大地だが我が爪は滑ることを許さない。
血潮が滾り腿の腰の腕の筋肉が膨張する。
バンッ
吾輩の筋肉が発した音が頭蓋に轟く。
途轍もない加速感と裏腹に我が双眸は一瞬一瞬をコマ送りにスローモーションで情報を脳に伝えてくる。
ああ、そんな逃げ方をしては余計に首元ががら空きになるだけなのに。
あの場所へ齧りついたらどんな味がするのだろう。
きっと桃のように甘い。
吾輩にキスをしてくれたあの時の甘い香りのように。
・・・俺は何を?
吾輩の牙の前に迫る彼女の白い首筋。ダメだ。
吾輩は無理やりに首を上に振り上げて回転するように背中で彼女の胸元に飛び込んだ。
「ウェルダァァアアア」
エミーの叫びが吾輩の耳に響く。
吾輩は地面に転げ落ちると再び彼女に跳びかかろうとする身体を首を振って転ばせる。
首から上下が別の生き物のようだ。
ヴァァアアア!グルァア!!
吾輩は自分の尻尾へと噛みついた。ウロボロスのように地面を回転する。壮絶な一人相撲、いい迷惑だろう。
「ねぇっ、私のにゃんこに何をしたの?なんでこんなことになっちゃってるの?ねぇ、お姉ちゃん!」
ウェルダは吾輩とぶつかった姿勢のまま動かない。ヒナはそんな状態のウェルダの綺麗な緑色の服に掴みかかっている。
くそっ、ヒナがエミーに平手打ちをされて地面に倒れる。
吾輩はねずみ花火のように回転しながらただ目線を向け続けることしかできない。
ヒナはマリリンに抱え起こされて彼女の胸で大泣きしている。
くそっ、くそっ、くそっ!!
「にゃ~にやってるんだかニャァ・・・」
「おい、わっぱ。少し黙るニャ。耳に響くニャン。大丈夫、すぐに戻してやるニャ。
ふざけたしゃべり方をする女戦士が歩いてくる。
全体的に人と同じ形をしているが耳と尻尾がある。手足は虎柄の短い毛に包まれているが胴体は褐色の肌を晒し僅かな布で局部を隠している。髪型はセミショートのまだら模様で刈り込めば手足と同じ模様が浮かび上がることだろう。表情と立ち振る舞いは威風堂々。自分がボスだと周囲に知らしめている。
ナァァアアアアオォォォオオオォォン!
吾輩に向けられた咆哮に全身の毛が逆立つ。危機感を持ったのか暴れる体はターゲットをその戦士へと向けるが一瞬にして吾輩の体は浮遊感に包まれ、直後地面へと叩きつけられた。
咄嗟に受け身を取るが接地した部分の骨が砕ける。
フギャァアア!と悲鳴を上げる吾輩の頭に女戦士の踵が降りてきた。
うにゃぅん、うにゃぅん、うにゃぅん。タップ、タップタップ!それ以上やられたら頭蓋骨が割れる。
「ふんっ、全く手ごたえがニャい。」
女戦士の足が離れると吾輩の体の暴走が収まり手足の自由が返ってきた。ただ、全身打撲による粉砕骨折で身動きが取れない。
「うちの眷属が失礼したニャ。こいつは脳と金玉以外は獣のダメ男ニャ。」
吾輩の人間らしさは脳と金玉だけらしい。
「妖精族の女、怪我はニャいかニャ?お前のやり方は正しかったとは言えニャい。でも、一族から魔物を出さずに済んだこと、長として感謝するニャん。」
女戦戦士はウェルダへの発現を済ませるとマリリンへと体を向ける。
「お前は初めてみるニャ。このレベッカを一族の長と認め恭順するかニャ?」
「御意にございます。」
「素直でよろしいニャ。こいつの看病をしておくれニャ。」
マリリンは頭を深く下げ了解する。ずっと足元が震えていた。
「野郎共、一族の尻拭いニャん。不始末の詫びと我らが力を示す!一帯のネズミ共を滅ぼし人族に農地を与えん!かかるニャア!」
『おう!』
レベッカの掛け声に獣人族の男達が立ち上がる。そして、各々の声で吠ええると族長の後を追っていった。
レベッカが去り彼女の覇気に氷漬けにされていた人達が一斉に動き出してしゃべりだす。
少し前まであれほどウェルダを持ち上げていたのに今はレベッカの話題で持ちきりだ。申し訳なさと胸糞の悪さで心の中がぐちゃぐちゃになる。
フギャッ。痛い。
「にゃんこぉ、死んじゃやだぁ。」
死なないからもう少し丁寧に吾輩を扱って欲しい。そして、ウェルダに悪態つくのもやめてあげてくれ。吾輩を心配して近づいてきた彼女をヒナは追い返してしまったのだ。目で大丈夫だと伝えようとしたが彼女は俯いてしまっていて、そのままエミーにどこかへ連れられて行ってしまった。
マリリンがやってきて目で吾輩を非難する。彼女の忠告を無視した吾輩が悪かった。
ナー。ごめん、というと彼女はすぐに許してくれてヒナの中であらぬ方向を向いた手足を整えてくれる。態勢が整ったのでゴロゴロと喉を鳴らし回復を開始するとマリリンは吾輩の胸元で光るペンダントに杖差を合わせた。するとペンダントの光が増す。マリリンから送られてくるマナが吾輩のものと同調し吾輩の物とは比べ物にならない量のマナが吸いこまれていく。吾輩がゴロゴロ鳴くのを止めてもマリリンのマナの流れは止まらない。吾輩は彼女にすべてを委ねて目を閉じた。
「うひょ、うひょひょひょ。まさか初日で終わるとは。これで朕の地位も約束される。」
空は茜色に染まり吾輩達は門の前で整列させられていた。正面には門を背にして豚野郎とフルプレートの兵士が並ぶ。
吾輩はマリリンのいろんなところが豊満な柔らかい身体に抱かれている。皆が遠慮する中でヒナだけが前に行きたがったので吾輩達は獅子奮迅の活躍をした獣人達のすぐ後ろという立ち位置になっている。正直、吾輩もマリリンも居心地のいい場所ではないが、その代わり状況が良く見えるので良しとすべきだろうか。
豚野郎の座る前にレベッカが立つ。
「何がお前の地位ニャ?我等が解放せしめし土地は我等一族の者。ふざけたことを言うニャ。」
「ふざけているのは貴様のしゃべり方だ。下等種族風情が!」
豚の頭が跳んだ。兵士の何人かが動揺してジャラジャラと鎧を鳴らしたところを一人の兵士がジャンッという音と共に右手を推定に出して制止する。すると残りの兵士は呼応してジャン、ジャン!という音と共に姿勢を正して槍の石突で地面を叩く。
レベッカは右手の血をペッペと払いながら言う。
「お前が次席かニャ?」
問われた兵士はフルフェイスの兜を外し脇に抱えて答える。短髪に白髪がちらついているが鍛錬を重ねた顔は少しも老化を感じさせない。
「あの方の次というのは怖れ多いがアダルガーと申す。代表して失礼をお詫びする。」
「謝罪の必要はニャい。それは奴の命で受け取った。問題ニャいかニャ?」
アダルガーは頷き言う。
「ここは外縁部といえども神殿の結界内である。この場所で行われたこと、即ちそれは神の御意志に違いなく問題などあろうはずがない。」
そういえば彼らの鎧の胸元には太陽のような文様が刻まれている。吾輩の胸元の月の文様が女神ツクヨミのものであるならばあちらは神アマテラスの物だろう。
兵長の発言にレベッカの顔がゴキブリを見たかのように歪む。
「まあいいニャ。繰り替えず、我等が解放せしめし土地は我等のもの。しかし、その土地を自由に耕し収穫することを我等は認める。異存あるかニャ?」
「ない。我々は城郭都市外の出来事に関知しない。しかし、都市を出て土地を持ちたいものもいるだろう。受け入れてくれるだろうか?」
「死ぬも生きるもそいつの自由ニャ。我等一族は誰の上にも立たず、誰の下にも立たない。覚えておくニャ。」
「承った。その様に報告する。約束の食糧だが手配が遅れている。用意出来次第南門の前に届けるので受け取りに来て欲しい。」
「分かった。定期等なものを行かせる。話は以上でいいか?」
「結構だ。総員敬礼。」
ジャン、ジャン!
「最後尾二名は遺体を運べ。では、失礼する。」
ジャン、ジャン、ジャン、ジャンと鎧を鳴らして兵士達は都市内部へと帰還していった。
「さて、お前達。聞いての通りニャ。土地は用意した。隙に耕すがいいニャ。」
レベッカはこちらに向き直り言う。
「妖精族の女、元気にニャったかニャ?」
「ええ、もう大丈夫。心配してくれてありがとう。」
ウェルダの表情は依然と比べるとまだ少し影があるが体調に問題はなさそうで吾輩は安心する。
「この土地、どう見るニャ?」
「瘴気が強く残ってるから普通の作物では枯れてしまうと思う。」
「普通以外ではどうニャ?」
「モンスター化することを前提にトレントの植林かしら。」
レベッカは腕を組みながらウェルダの方へ歩み寄る。ウェルダの身長も高い方だがレベッカはもう一回り大きい。
「長所は?」
「瘴気を結晶化して体内に留めるからトレントが増えれば増えるほど大地が清浄化すること。」
「また、結晶化した瘴気は安定してるからトレントからとれる木材は色が青黒いというだけで普通の木材として使えること。」
「加えて、城郭内は木材が不足しているようだから食べ物と交換してくれそうなこと。ちなみに少量だけどトレントの実も食べられるわ。こんなところね。」
「短所は?」
「モンスターとしてトレントは今日のネズミのように弱くないので危険なこと。でも、貴女達なら問題ないでしょ?」
レベッカはニャッと笑う。
「種は十分にあるのかニャ?」
「私を誰とでも?」
ウェルダもフンッと笑って返す。
レベッカが右手を出し、ウェルダがそれに応じる。
「ウェルダよ。」
「よろしくニャ、ウェルダ。」
周りから歓声が湧き立つ。
「勝利だ!」
「レベッカ万歳!」
「ウェルダ、ウェルダ、かわいいウェルダ!」
「少しいいかしら?」
歓声が静まりだしたところを見計らって二人に話かける人が現れた。
全身を黒い服で包んでいる。唯一露出した顔はしわが目立つが青い目は強い意志を発している。
今朝吾輩を救けてくれたシスター・カーラだ。
「ニャんだ。辛気臭いババアだニャ。」
ウェルダは苦笑いする。
「この街の修道院を預かるカーラといいます。」
「我等の上には神もいないニャ。」
「信仰はそれぞれ。でも、魔法の使い方に興味はないかしら?」
「今日は女子のほとんどが使い物にならなかったニャ」
「そうでしょう。魔法はすぐに使えるものではありません。鍛錬を必要とするわ。」
「やってれると?理由はなんだニャン?」
「すべては女神の御心のまま。」
「気持ち悪い女だニャ。一族への布教は禁止する。魔法の鍛錬を望む者には許可するニャ。」
「感謝を。ところで、お二人は今夜どちらでお泊りに?」
「うちはここで見張りニャン。」
「どこかいい場所をご存じなのですか?」
「ええ、ここの女子が全員入れるわ。」
「決まりダニャ。ウサギ!」
突然レベッカがこちらを見てマリリンを呼んだ。
ビクッと反応した彼女は吾輩を抱えたまま20歩ほどの距離を駆け寄りレベッカの前に膝をつく。
「お前、魔法が使えるニャ。この女に魔法を習い必要ならうちに教えろ。それと、お前のように人族に隠れている同族を探しうちに恭順させろ。そうしニャイと守ってあげられニャイ。」
「御意にございます。」
「ニャ、ニャ、ニャア。これはこれはダメ男。元気になったかニャ?」
ニャー。体は治ってると思うが立って歩く気になれないのでっこして運んでもらっている。
レベッカは指先の太い爪で吾輩の顎を弄ぶ。先ほど豚野郎の頸椎を首ごと断ち切った5本の爪の1つだ。こえーよこの女。
「ニャ?」
レベッカは吾輩の胸元への目を向けると疑問符に首をかしげる。そして、カーラの胸元に刺繍されたマークと見比べて大きくため息をついた。
「先ほどの失礼を許して欲しいニャ。カーラ修道院長。眷属がお世話になったニャ。よければ経緯を聞かせてくれるかニャ?」
「彼の名はシロといいます。今朝、彼が倒れているところを救け女神に宣誓させました。街から出ないように言いつけたのですが守られなかったようですね。」
吾輩はスッと目を逸らす。逸らした先のレベッカの眼も怒っていたのでさらに逸らすと悲しそうな顔をしたウェルダがいて吾輩の心はシュンとなる。
「こいつがダメ男なのは最初から分かってたことニャ。」
レベッカが自分に言い聞かせている。
「貸しが1つ貴女にできた。ただ、一族への布教はこれが最後にして欲しいニャ。」
「約束しましょう。女神は争いを好みません。」
レベッカはカーラとの話し合いを終わりにしてウェルダの方へ向く。
「ウェルダ、どうやらこのダメ男は街の壁を跨いだ時点で瘴気に侵されて魔物化してたニャ。」
レベッカは呆れた様に言った。
「ただ、こいつの僅かな人の部分が人族の神によって護られていたのでこいつ自身も周りのだれも気が付けニャかった。」
「そこに森の加護を与えたものだから魔物の身体が暴れたニャ。今は人の部分と獣の部分で別々な加護が働いてるニャ。体内の瘴気も浄化れていまはだたの猫ニャ。まったく、ダメ男の癖に贅沢ニャ。」
「さて、詫びとして知りえる事実は全部話したニャ。お前も改めて謝るニャ。」
吾輩はマリリンの手から滑り降りウェルダの前で正座をし頭を垂れる。
ウェルダはしゃがむとゆっくり吾輩に触れた。手が少し震えている。強いようで彼女は弱い。
5本の指が吾輩の鼻さきから頭を撫でていく。柔らかくて暖かい。そしてシルクのような滑らかさに吾輩の心は満たされ思わず喉がゴロゴロと鳴る。
彼女の手の震えも次第に治まっていく。すると彼女は突然吾輩を抱き寄せた。新緑のさわやかな風が吹き抜け甘い香りが鼻孔をくすぐる。
目の前には吾輩が噛みつこうとした白い肌があった。彼女は弱くなんてない。首筋を舐めると甘い桃の匂いがした。