泳げない男とは付き合ってられないらしい
約一年間同棲してた真由美が突然「泳げない人とは、これ以上は付き合えない。尚道君は悪くないの。ごめんなさい」と告げて出て行った。いろいろ思い出す。銀座での高級クラブで初めて会った事。町田のコンビニで再開した事。夏の終わりに茨城の大洗に行き海を眺めながら、話してくれた洪水の夢の話。昔の真由美の同僚から話を聞く。その後洪水に襲われる白昼夢を見た。流木にしがみつき、懸命にその世界に抗う。わかった、この世界を表してるんだ。
泳げない男とは
「泳げない人とは、これ以上は付き合えない。尚道君は悪くないの。ごめんなさい」
煮えたぎるような夏の暑い日に、夕食の辛いカレーを食べた後だった。明日も作り置きしたさらに美味しくなったカレーを一緒に食べる予定だった。淡々としてた。とても信じられない。さっきまでの楽しい時間はどこに。こんな結末があるなんて信じられない。きっとタチの悪い冗談だろうと信じたかったけど、真由美はその手のつまらない冗談は一番嫌いだった。
僕としては至って順調だと思い込んでた。喧嘩もしたけど、お互いの意見を気さくに言い合える中だと。好きな料理も服も映画も分かり合ってきた。結局独りよがりだったと言うことか。本当だとしても、どうして泳げないことが理由なんだ。確かに僕は泳げない、だから何だって言うんだ。それを持ち出すなんて。
到底納得できない理由だ。彼女は短い説明の後、僕の目をたった一度も、一度もだぜ、逸らすことはなかった。強くて美しい眼差しを崩さず常に一貫してた。僕はもちろん食い下がったさ、失いたくないあまりに泣いてまで、行かないでくれって懇願したよ。みっともなく惨めくさくさ。そんな姿を晒しても、真由美の意思は一ミリも揺るがない。官僚が一度決めたことは簡単には覆せないのと同じようだ。どれだけ意見を言われても曲げない。真由美にとって僕という存在ってどれほどのものだったんだろう。利用されただけなのか。ひと時の遊びなのか。違う、全てじゃないはずだ。真夏の終わりに湘南の海に行った時は、海と僕を眺めながら、本当に楽しいと呟いた。あれが偽りなわけないじゃないか。それが泳げないなんて理由で別れるなんて。
次の日に、荷物を纏めてさっさと出て行った。引きずるとか、後悔という感情はもうないらしい。すでに気持ちを切り替えていた。清々しいほどだ。置いて行ったのは、お気に入りの薬用シャンプーと、好きだったミスチルの何枚かのアルバム。考えてもみたらそれほど僕の家に真由美の品はなかった。それなのに真由美のないない家は、どこかよそよそしくて、自分が選んで契約したアパートなのに、他人の場所のように感じだ。ここは真由美の場所へと少しずつ変貌してたんだろう。その日は夏の盛りで、熱中症でバタバタと倒れて救急車が走りサイレンがやかましくよく鳴る日だ。暑かったはずなのに、部屋の中にいても何も感じなかった。静かに現実を受け止めようと椅子に座り、じっとしてる。駄目だ。喪失感の穴は深く底が知れない。今の現実を受け入れようとしても、奈落の崖に物を放り込むようで、埋まるという事を知らない。超小型のブラックホールのようだ。現代の科学でも全く解析されてないブラックホールの穴の中に底に、地球上の水全てを大量に流し込めたなら。泳ぐという概念を取り除くことが出来たなら、どれだけいいだろう。その代わり、地球上に水分が無くなり、生命は全て消え去るけど。それでも構わない。世界が終わっても。
真由美と初めて知り合ったのは、東京のど真ん中にある老舗の銀座のクラブ。安月給のサラリーマンじゃ決して来店できない選ばれし場所だ。美女と楽しくお酒を飲めるかも知れないが、万札が飛ぶように消える。僕はもちろん選ばれし側にいたわけじゃない。そのクラブに可憐な花たちを、白い蘭をことあるごとに配達してた。一株五万近くもする手間暇かけた花が、簡単に消費されて枯れていく場所だ。
花屋で働くようになったのは、そこしかバイトの面接で受からなかったから。僕は不器用だったけど、覚えは良かったし真面目だった。花を配達するには打ってつけだった。三日に一度は配達する大きい老舗のクラブがある。そこはビルの五階に店舗があって、狭いエレベーターを使わず、いつも外階段で一気に駆け上がると決めてた。五階の外階段で真由美はいつも細いタバコをゆっくりと味わうように吸っていた。そこから見渡す限り隣のビルの白く濁った壁だけだ。それなのに遠くを眺めているように佇んでいる。それで気になったんだ。真由美は長年磨きをかけ、洗練された美しさがあった。爪には赤く彩られたマニュキュア。隙のない調和の取れた顔のパーツと薄い化粧。大切にトリートメントされた真っ直ぐな手入れされた髪。職人が手入れした白い蘭のようだ。だけど目だけは違う。あまりにも強い眼力、動物園で眺めた虎を思い出させる。檻の中にいてさえ、人間から餌を貰ってもなお、なびこうとはしない。野生を宿してる。その目で見つめられると、平伏し大抵の男は願いを聞くしかなくなるようだ。ただの一度もすれ違う配達中の僕を多々の一瞥さえしたことはなかった。一度も話したことも識別されたことさえないはずだった。その態度には軽蔑や侮辱されてると同じなのに嫌悪感は湧かない。何故だかはわからない。一日にいくつものクラブを回って、誕生日祝い、何周年記念、とにかく記念が好きな人たちだ。胡蝶蘭や百合の花を配達してた。銀座には信じられないような綺麗な人は山ほどいけど、一番印象に残ってるのは真由美だった。もちろん花屋の配達人がどうこうできる話じゃないし、偉そうに語れることじゃない。銀座の店でお客として楽しんだことなんて一度もないんだから。これからもそれはないだろう。
大学を卒業しても、三年は遊んでいた。花屋のバイトは楽しかったが、色々な世間からの鋭い視線に窮屈さを覚えて、まあ一番は実家からの仕送りが途絶えたことだけど。気乗りしなかったが就職することにした。ハローワークに通って、かなり苦労したことは確かだけど、その時は割と好景気だったし、入った会社は人手不足だった。花屋のバイトをしてる間は銀座に近くて安い中央線圏内の荻窪や中野を転々としてたが、就職するに至って町田になった。職場に近かったからだ。狭いアパートに本や漫画を敷き詰めて、埋もれるように生活してた。仕事は面白かったけど、大変だった。仕事は主に部品を納品するルート営業だった。同じお客様の気持ちよく会話を弾ませて、あわよくば新しい商品の商談に持って行く。僕は不器用だからお客様に失礼な事をしたり、言い間違いをしたり、数値を間違えたりと、結構失敗した。持ち前の真面目さと覚えの良さと愛想を振りまき続けていた。給料は花の配達よりもほんの少しだけ高いだけだった。生活していけない事はないけれど、結局僕の限界なんだろうな。
働き始めて一年近く経ったころだ。アパートの帰り道のいつものコンビニ寄る。自炊はしてるけど、最近はサボり気味だ。今日は先輩と些細な争いをしてしまった。どうしてお互いそんなことでムキになったのかわからない。多分疲れてたんだと思う。それともお互い嫌いだったのか。ちゃんと仲直りじゃないけど、どうにも気になって。ぼんやりそんなことを考えながら温めて食べられる商品をカゴに入れて、レジで会計を済ませると、店員に声をかけられた。
「毎日毎日、同じ大盛りペペロンチーノでよく飽きないね。それで野菜も取らないで」
確かに、ここのところ毎日同じペペロンチーノ大盛りだった。でもそれはいつも会計を済んだ後になって気が付く。それの繰り返しだ。店員の顔さえぼやけてまともに覚えちゃいない。同じ店員だってことも気がつかなった。それにしては、店員とお客という立場からしたら少しラフすぎないか。ここはアメリカじゃないんだぜ。特に慣れない営業を強いられてるから、尚更目に付く。
目の前にいる女は、髪を後ろに束ねてる。化粧をしてなかった。それでも肌が綺麗だ。木目が細かくて、適度に水分が保湿される。僕のすぐ荒れる角質がボロボロと取れる肌とはまるで違う。目元が力強く綺麗な人だった。コンビニ店員に声を掛けられて、嬉しくなったのは初めてだ。それにしても、どこかで感じたことのある既視感。デジャブともいう。どうにも腑に落ちないまま店を出た。その後ずっと考えた。帰り道、アパートに着いてペペロンチーノを食べながら、シャワーを浴びながら、布団に入ってもそれは止むことがない。いつの間にか眠っていた。朝になって久しぶりに目覚まし機能を利用しないで自然に起きた。そしてコンビニで声を掛けた彼女がはっきりと誰だか分かった。眠って頭がスッキリしたんだ。真由美だと叫んでた。花屋のバイトを辞めて、もう一年近くなっていた。少しショックだ。燦然と銀座で輝いていた真由美が、町田のコンビニで働いてるなんて。
三日後の仕事帰りに意を決して、コンビニに寄って声をかけた。「昔銀座の〇〇っていう店で働いてませんでしたか」
真由美らしき女性はキョトンとしてる。何も話さない。僕だけが取り残されてる気がする。後ろからは次の買い物客が早く会計を済ませたくてイライラしながら待ってる。でも今だけは待ってもらうしかない。
「だったらどうなの」
「どうって事はないんです。ただ確認して置きたかった。すみません、このことは誰にも言わないんで。このコンビニにも迷惑でしたらもう来ません」僕の方が年上のはずだけど敬語だった。冷汗が大量に出てくるのが止められなかった。
「後三十分ちょっとで仕事終わるから、外で待ってて」外は雨が降ってたが、従うしかない。今は。
結局二時間待たされた。雨が止まなかった。怒って帰ってしまうという選択は僕にはなかった。こんなチャンスは僕の人生で二度とない。待たされるのは苦手だけどね。特にこんな雨の日は。現れた真由美は悪びれたそぶりはなく。「後にくるシフトのおじさんが遅刻しちゃって、そのおじさん度々やらかすんだ」それだけだった。
すでに遅い時間だったが、僕たちは近くにある朝までやってるファミリーレストランに入った。店内には暇な学生や、だらだらとパソコンを広げて、仕事してる社会人が数人いるくらいだ。僕は、夢中になって話した。何を話したのか内容が覚えてないくらい夢中だった。多分だけど僕の近況で面白い話題を矢継ぎ早に語ったはず。真由美は話に耳を傾けてはいたが、注文した山盛りのパフェを少しずつ、ブロック崩しをやるように食べるのに夢中だ。結局心は一度も通じ合わぬまま真夜中までファミレスをにいた。それもすごい。もちろんお会計は僕が支払い。
帰り際、どうして連絡先を交換しくれたんだろう。「また奢ってよ。尚道くん」それでその日は別れた、奢ったのにありがとうも言わずに。それにしても、名前を教えてないのに、どうして知ってるんだろう。真由美と付き合うと終始こんな小さい驚きの連続だったような気がする。その日は顎がジンジンと痛んだ。夢中になって話したから、口角が重くガタガタする。帰ったら、風呂にも入らずにベットに潜り込み泥のように眠る。連絡したかったけど止めた。多分真由美はパフェを食べたかっただけだろう。失望はしなかった。最初から無理な話だったんだんだ。僕だって無用に傷付きたくはない。いろいろ聞きたいことはあったけど、あまり考えないようにして、会社の行き帰りに真由美が働いているコンビニには近寄らないように遠回りした。それから一週間後だった。真由美は怒って電話をかけてきた。
「こんなに私を待たせる男は珍しい」
女はわからない。同じファミレスで会ったときは、今度は僕が聞き役になった。なぜ誘ってこないのかと怒って僕のことをとにかく詰る。迷惑なのかなって、勘違いをしちゃってと言い訳。納得してなかったけど、話の内容は今働いてるコンビニは最悪だって。待遇は悪いし、同僚はシフトを簡単に飛ばすし、客は酔っ払いばかりで、セクハラをしてくるらしい。同じようにパフェを注文して少しずつ、クリームを口に運ぶ。こんなに甘い物を食べてるのに、胃に収まらずにどこかにワープしてるのかってくらい体はスリムだった。外は激しい雨が降っていた。雷が鳴って窓に雨が打ちつけられる。前に会った後から、雨は降っていなかったはずだ。パフェを食べ終えて、真由美は満足したようだ。そこで素早く聞き返した。
「名前って教えてなかったよね。記憶の限りだけど。尚道って名前。順序がかなり変わってるけど、どうして知ってたの」
「会社のネームがカバンからはみ出てた。単純でしょ」
「なるほど、確かにカバンのチャックを閉めるのを忘れる癖がある。何で銀座の高級クラブで働いてたのに、町田のコンビニで働いてるの」
「何でって、飽きたの。お金も貯まったし」
それ以上は話そうとしなかった。いくら聞いても、平気で僕を無視をした。彼女は話さないと決めると頑なだった。その時はまだ理解してなかったから僕も頭にきて、大量のお酒を注文した。そしたら真由美も勢いよく飲み始めた。僕らはその日に酒をしこたま飲んで、レロレロになって駅前の安いホテルで勢い任せでセックスをした。激しいセックスでお互いの身をすり潰し合うような、強く求め合う物だった。セックスの後はトイレに入って朝まで胃が空っぽになるまで吐いた。僕らは何を求めてたんだろう。結局よくわからない。
真由美がいなくなって早一ヶ月。何も変化はなかった。携帯電話に一度連絡してみたが、電話番号は現在使われておりませんと、跳ね返された。そして誰からも連絡はこない。僕は世界から忘れ去られてしまったんだろうか。最近週末の休みが苦痛だ。それまで週末を楽しみに生きてたっていうのに。夏の終わりが近づいたある週末。それまでジメジメした濁った空模様の天気で、鬱々とする空模様だったのに、その週末は最悪なことにカラッと晴れた過ごしやすい日だった。大雨が降れば幸いだった。雷だって歓迎するのに。仕事をしてるときはいい、少なくとも商談してる間は忘れられる。だけど休みの日は、現実が重くのしかかってくる。土曜は朝早くから目覚めちまった。ゆっくりと朝食のシリアル食品を胃に収めて、洗濯を干して、風呂を丹念に洗った。部屋を隅々まで掃除機をかけた。それでも、時間は午後になっていない。何もすることがないので、街をぶらぶらする。近所の本屋に行き、様々な週間雑誌を斜め読みしていく。どれも興味を引くようなことはないし、文字が頭に入ってこない。アパート近くの公園に行き、ベンチでぼんやりしていた。暑かったけど、逃げ出したくなるような暑さじゃなかった。日陰のベンチで、ボールを蹴り合ってる子供達をぼんやりしてると、子供連れの奥様方の警戒する鋭い視線にやっと気がついた。子供を狙う怪しい男と映ってるのかもしれない。ただの被害妄想かもしれない。まあどちらでもいい。照った太陽は西に落ちようとしてた。全てがお座なりだ。それから町田の駅前まで移動して開店したばかりのキャバクラに入った。年季の入った店内。少しかび臭い。店内には当たり前だけど、誰もいない。ここで少しでも金を使って現実を忘れようと決めた。他に思いつかなかった。着飾った綺麗なお嬢が何人かついたけど、全然興奮しない。少しだけ世間話をしたけど、余りにも怠くて止めた。しきりに高いお酒を頼んでと可愛く袖を引かれたけど、無視をした。金を使おうと決めたのに、結局すぐに反故してしまう。会話もせずに安いビールを黙々と飲んでいた。結局キャバクラに来て忘れようとしても、今は真由美が頭の中に居座って離れようとしない。この一ヶ月ずっとそうだ。目の前の綺麗な嬢たちはがいても尚。店員はこいつは何しに来たんだと半ば呆れていた。
二時間で店を半ば強制的に追い出される。金を払ってくれるからって余りにも目に余る客は追い出される。特に嬢に敬意を払わない人は尚更。安いビールしか頼まなかったのがまずかったかな。
つまみも食べずに、ビールを飲んだはずなのに、特に酔ってなかった。普段ならもっと顔が紅潮して、千鳥足になるはずなのに。夜はまだ始まったばかりだった。町田駅前の百貨店ルミネや東急ツインズやマルイに繰り出して、男女が群れて何をするわけでもなくブラブラしてる。正直、眺めてるとムカついてくる。余裕がなくて、不幸の真っ只中にいるから、他人がどうしても羨ましく見える。馬鹿らしいが嫉妬は消えなかった。むしろ時間が深まるにつれて憎悪は高まっていく。街で暴れてる人間を僕は軽蔑してた。長いこと夜の街銀座で配達してたから、何度も狂った痴態を目撃した。暴れて警察の厄介になる人を確実に軽蔑してた。配達しながら横目で、虫唾が走る思いだった。そんな軽蔑をしていた人たちの気持ちが今になって、身に染みる。少しでも、寄り添うことが重要なんだ。暴れてしまうのを必死に抑える。同時に泣き出しそうにもなった。もっと辛い人たちに僕が何かして少しでも寄り添ったら、こんなことにならなかったのかな。そんな事を考えなが歩いていたら、真由美と思い出深いファミレスに来てた。やはり囚われてる。導かれるように入る。店内はとても混んでいた。土曜のファミレス何てどこも混んでる。ガヤガヤとまるで動物園のように騒がしい。幸いなのかわからないが、窓際の席だけが空いていた。そこに通される。そこの席は様々な場所から声が乱反射して全く分からない場所だった。
僕はハンバーグ定食をゆっくり食べた。ひとりで食べてるなんて僕だけだった。惨めな気持ちもあったけど、騒がしくて誰も僕には注目してなかった。目の前の友人や恋人にたわいもない話をするのに忙しくて、興味ないらしい。それが今だけはありがたかった。ハンバーグ定食を半分食べて、目を瞑っていた。誰かの会話の切れ端に海に行こうという言葉を聞いた。その言葉で鮮やかに記憶が蘇ってくる。去年の夏だった。確か付き合って間もなく、夏の終わりの時期だった。真由美がいきなり海に行きたいと騒ぎ出した。行きたいって聞かない。僕としても忙しかった。初めて、一人で営業を任されていて、仕事に集中しなければならなかった。でも真由美たっての頼みだったので、答えようと使命感に駆られたんだ。つくづく惚れてたんだな。だけど記憶が曖昧だったりする。一年前の夏の終わりを紐解く。
前日に残業で夜の十二時近くまで働いた後に、友達の車を貸りに行った。ガソリンを満杯にして返すから貸してくれと、予め頼んでおいた。型落ちしたカローラだ。白かった色は所々はげて、クーラーの効きが悪くて、オーディオ機器も使い物にならない、車内の匂いは微かにかび臭くムッとする。僕はこんな車だったら、何もわざわざ頼まなかった。友達の古びて入るけど、乗りやすくて最高の一台だって言葉を信じてしまった。仕方ないので深夜までやってるドンキホーテまでわざわざ消臭材と香水を買って、車内にばらまいた。カーペットに散らかったゴミを丁寧にコロコロテープで片付けていく。そんなことをしていたら、朝になってた。結局一睡もせずに待ち合わせ場所の真弓のアパートまで車を走らせる。真由美が住んでいた場所はシェアハウスのようで、家賃は驚くほど安けど、プライベートはほとんどないっていう場所。だから町田に引っ越したんだと、珍しく短く教えてくれた。もちろんシェアハウスの不満や愚痴を話すためには、その情報は僕に伝えなければならなかった。
真由美が行きたいと騒いだのに、つれない様子だった。というか明らかに朝早くからの行動に不満げだった。カローラに車内に入るなり香水臭いと、窓を全開にした。持ってきた小さいバックから細いタバコを取り出して、おもむろに吸い出す。僕は苦々しく思う。徹夜して行った準備が全て台無しだ。幸にもこのカローラにはカーナビだけは最新の機械が設置されてる。友達は方向音痴なんだ。湘南と入力しようとした。予め話し合って、湘南の海だと決まっていた。真由美は入力を邪魔して、勝手に目的地を変える。驚くべきことに茨城の大洗と入力してしまった。乾いた女性の声で道案内が開始される。
「どうして大洗に行かなきゃいけないんだ。話が違うじゃないか」
「今日は湘南は天気悪いんだって、それに人がウジャウジャいるじゃない。それなら大洗の海の方がいいかなって」
「それならもっと早く言ってくれよ。予定ってものがあるじゃないか。今から大洗に行くんじゃ、三時間近くかかるかもしれない」
「さっき天気予報を見て決めたんだもの」
湘南だろうと大洗だろうと関係ない。僕らは夏に海に行くという行為が必要だった。予定が狂わされるのが嫌なだけだ。僕らは少し喧嘩してぎこちなかったけど、東名高速に乗りカローラが軽やかにスピードを出していくと、会話も弾んだ。景色が一変していくスピードが自分たちを軽やかにしてくれる。最高の一台という友達の話もわかるかもしれない。型落ちしてる割に、アクセルを踏むとエンジンがうねりをあげてスイスイとスピードが上がる。ハンドリングのレスポンスも悪くない。
首都高は混んでるし、トラックの運転は荒いし、道の分岐点が多くて何度か間違えそうになったけど、カーナビと真由美のアシストで間違えずに済んだ。きっと僕はカーナビとしっかりした女性が居れば、迷わずに済むんだろう。そんなに都合良くはいかない。首都高で東京都を抜けて、茨城の常磐自動車道に入ったら、スピーは加速していった。途端に視界がひらけたような気がした。
大洗には二時間ちょっとでついた。ただそこからビーチまでが長い。途端に渋滞だ。車の交通量は多くなったのは、みんな海を目指してるからだろう。夏の最後の思い出作りのために来てる。カーナビ案内された目当てのビーチに着くと、駐車場は割と空いていた。海が近くになるにつれて、真由美は何も語らなくなっていく。とても暑い日で、もし陽光を少しでも集めたら、ライターがなくても焚き火が出来る。こんなに暑いのに真由美は意に介さなかった。夏なんだから暑いのは当たり前じゃないかっていう態度。すぐに砂浜に行くと、人はまばらだった。あの渋滞は何だったんだ。近くに期間限定の海の家がある。そこでパラソルをレンタルした。海の家でバイトしてる肌を真っ黒に焼いた金髪男に、どうして今日は人がそんなにいないのか尋ねた。「さぁ、こっちが聞きたいっすよ。クラゲが怖いんじゃないすか。それか、あれですよ。涼しい水族館に行ってるんじゃないすかね」下品にゲラゲラ笑っていた。そうか、もうクラゲが出る時期か。ありがとうと伝えて、冷えたコーラを二缶買った。海に入るのは止めようという、言い訳が出来た。パラソルと缶の冷えたコーラ。
太陽に照らされて海はキラキラと輝く。カラッとしていて、日陰にいれば悪くない日だった。
パラソルの下で、椅子に座って、寛いでいた。真由美はいつの間にか、水着に着替えていた。青い水着で、とても似合っている。肌がとても綺麗だった。流石に暑いのかうっすらと汗をかいてる。日焼け止めは塗ってないようだ。無駄な脂肪が一切ない。ついでに胸の脂肪もなかったけど。下半身はタオルを巻いていて隠していた。それが残念でならない。かと言って、そのタオルを剥がしてくれと勇気はないよ。塩の香りが心地いい。すぐそこは永遠に近い時間をかけて波が押し寄せ、海岸を形成する。この景色は何があってもずっと変わらない。みんな海から来たんだ。その何十世代の原始の記憶を求めて海に来るのかもしれない。いや、僕の場合は、真由美がいなければどうだろうな。水着姿を眺められただけで、苦労した甲斐があった。真由美の白い素肌には僕は触れた。怒られるかなと思ったけど、真由美は特に反応を示さなかった。満員電車で、他人に触れたような反応だった。でも反抗しなかったということは、気を許てるのかもしれない。僕らはしばらくコーラを飲みながら、お互い触れ合っていた。何世代も前の原始の海の色を賢明に思い出そうとしながら。
「晴れてはいないけど、大洗の海もいいね」
「前にこの辺に住んでたの。でも一度も来たことがなかったんだ」
何だよ、思い出を回収する目的だったのか。湘南の天気が悪いからなんて言ってたくせに。でも珍しく過去を語ろうとしてたので、僕は期待した。そのあとの言葉を待ったが、待てど暮らせど、その先は語らなかった。真由美は話したくないことは、とことん語らなかった。別れる時でさえそうなんだから、頑なな性格だ。でもそれがある意味魅力になっていたような気がする。独立した力強さ。可憐な花の下には、しっかりとした根が張り巡らせている。コーラを飲み終わった後だった。
「泳がないの」
「クラゲがいるって」
「沖に行かなきゃクラゲなんていないよ。泳いできなよ」
「実は泳げないんだ。昔から水が苦手何だよね。ここで海と真由美を眺めていた方がいいんだよね」泳げないのは本当だった。理由ははっきりしてる。小さい頃、実家近くの川で溺れかけたんだ。親父と泳ぎに行ったんだけど、僕はまだ小さくて、泳ぎ方も知らなかった。それなのに、親父は魚取りに夢中で、僕は足のつかない川の領域に侵入して溺れかけた。息ができなくて、水を飲んで、手足をバタバタさせても、どこにも感触がなくて、このまま水に飲み込まれる。この透明の歪んだ水の世界に閉じ込められるだと悟った。意識が遠のく間際に、異変に気づいた親父に助けられた。その後、しばらく父親とは口を聞かなかったっけ。それで僕の水の恐怖心が生まれた。それは決して消えることはなくて、プールの授業はもちろん欠席したし、お風呂に入った時でさえ、顔に水をつけるのを恐れた。
彼女はとても戸惑っていた。他人に泳げないと告白することは少なかった。だってそんな場面は少ないだろ、現代社会で泳ぐ必要性はどこにも見当たらない。自ら恥部を披露することなんて迫られたこともない。彼女は海の家に行ってキンキンに冷えたビールを持って僕に渡してきた。帰りも運転するだかと断ったけど、彼女は言葉巧みに、僕の決心を砕いた。悪魔の言葉だ。捕まったら、彼女にだって罪に問われる可能性があるのに。キンキンに冷えたビールは涙が出るほど旨かった。一杯飲んで、すぐに酔いが回った。そして眠気がきて、意識が朦朧とした。そんな時に真由美は静かに喋り始めた。僕は聞き取るだけで精一杯だ。
「小さい頃から同じ夢を見るの。洪水に巻き込まれる夢。一軒家で家族と楽しく暮らしていたら、ある日突然近くの川が決壊したのかわからないけど、勢いが増した茶色い濁流が襲ってくる。気がついたら、どんどん水嵩は増して家の中まで浸水して。私は急いで家の屋根に登るんだけど、その時には家族はどこにもいなくて私一人。家族の名前を叫ぶけど、聞こえるのは水の音だけ。濁流はどんどん勢いを増して、水嵩は増して簡単に家が流されるの。私は濁った水の中に放り出されて、近くにあった流木に何とか必死にしがみつく。何度も大声で助けを求めるけど、誰もきてくれない。心細くて悔しくて残酷なの。でもそれは、私たちのありのままを表してるって、最近思うんだよね。それを判らせるために私は夢を見る」
正直僕は、何を答えたのか思い出せない。奇妙な話を聞かされて、正直戸惑ったことは覚えてる。僕はきっと話題を逸らすような話をしたはずだ。例えば、僕が泳げたなら、君の夢の中に入って僕が泳いで君を助けるよと、優しく語りかけることが出来たかもしれない。嘘をつけばよかったんだ。でも僕は泳げないという点では、どうしても引け目を感じて、嘘はつけなかった。それにその洪水の、濁流を想像してしまった。彼女の話は、いや、僕が眠気とアルコールで弱っていたのかもしれないが、濁流に流されていく僕自身がはっきりと浮かんだんだ。真由美はこの話をするために僕にビールを飲ませたのかも知れない。そんな気がした。
僕は真由美とたわいもない話をしながら穏やかな海を眺めていたけど、その濁流のイメージがどうにも脳裏にチラついた。彼女はいつにな多弁で、僕の体力と口角は限界を迎えていた。深い眠りに入る。どうしても覚ますことが出来ない眠りだ。全てのたかが外れてしまうような眠りだ。でも目を覚まして真由美は笑顔で「今日は楽しかった」と僕に優しい言葉を口にした。
結局、僕らはアルコールを取ってしまったので、近くの安いホテルに泊まった。短くて簡易なセックスをした。野生の動物が子孫を残すためだけにする短いセックスに似ていた。それでも僕らは幸せだったんだ。その洪水に巻き込まれるという夢という話は、正直思い出さないようにしてた。それが重要なことなんて思わなかった。濁流のイメージなんて覚えてる必要なんてあるか。土曜のファミレスは若い人たちが凄まじく騒がしくて、人の距離が近い。密集してこの今の時を熱狂しようとしてる。一つのグループは酒によって、男同士で掴みかかっていた。必死に店員が止めに入ってる。他の席では大勢が一言も喋らずにスマホ画面を眺めてた。きっとその場にいる人が同じゲームをしてるんだろう。僕の席だけ雑踏の中でただ一人、これだけ周りに人がいて、楽しんでるのに僕はその輪には入る権利がない。でもそれが心地よかった。
結局閉店になる朝の五時まで、ドリンクバーを頼んで、ひたすらコーヒーをお代わりしながら、粘っていた。ハンバーグ定食は結局半分しか食べていない。孤独感はあったが、みんながいるこの空間の方が物事に集中できたりする。もちろんこの辛い時期だけだけの傾向だった。自宅アパートに帰り、短い眠りについた。くたくたですぐに眠りに入れたのがありがたかった。余計なことを考えなくていい。
長い夢を見た。穏やかで一面透き通った静かな湖の中で、悠々と慣れたように泳いでいた。体が心地良くて、生まれ落ちた時から僕は泳いでいたんじゃないかって思ったほどだ。泳いだことなんてないくせに、歩くことがむしろおかしいんじゃないかって。このままそこは理想化された世界だった。だけど気がつくと、陸に足がついていた。ないはずの陸が。僕は歩き方が判らなくて、這いつくばって進むしかない。そのうち呼吸の仕方も忘れてしまって、苦しくなった。一方を手に入れると、一方を手放さなければならない。
起きると、朝の八時だ。二時間しか寝ていない。夢の中だと、十時間くらいの感覚だったのに、変な夢だ。あのまま進んで行ったら、どうなっていたんだろう。続きが気になるけど、知らない方がいいこともある。僕が現実的に足りないものはベッドの隣にあるはずの温もりが消えてる。
去年、大洗の海に入ったすぐ、とはいえ秋になっていたけど、同棲することになった。ルームシェアの女友達と喧嘩したらしくて、僕のアパートに大荷物を抱えて現れた。少し恥ずかしそうだったけど、遠慮は全くなかった。今日から泊めてくれたないと、そっぽを向かれて話した姿が、イジらしくて最高に可愛かった。彼女は夜寝る時に一人にしておくと怖いらしくて、離れていたら僕を詰った。就寝時は必ず隣にいなければならなかった。それが義務化していく。それを僕はむしろ喜んで引き受けた。心穏やかに眠れる最も賢い方法は最愛の人がいてくれることだ。
全く休日だっていうのに、二時間しか寝てないなんてあり得ない。眠くならないので、ゆっくりと朝ごはんを作った。だしをちゃんと取って味噌汁を作るのは本当に久しぶりだ。質素な食事だったけど、昨日のファミレスで食べたハンバーグよりも何倍も味を感じて、声が出るほど旨かった。
インスタントコーヒーを飲んで、さて、どうしたものかと思ったけど、家の中には真由美の思い出が強く残りすぎてる。やはり外に出た方がいいだろう。なんて言っても、カラッと晴れてるんだもの。昨日と違う反応だ。できれば昔の僕を知ってる人に会いたくなった。それに真由美のことも知ってる人がいい。それは自ずと限られてくる。
町田から小田急線に乗って新宿まで出る。そこで丸の内線に乗り換えて、銀座で降りた。働いてからは一向に来てなかったな。ここは品のある大人の街。そうさせてるのは莫大な金と権力が集まってくるからだ。街は綺麗に整備されて各百貨店や有名ブランドの店舗が並んでるので、それを覗いて歩いてるだけで楽しい。有り余るほどのお金がないと満足した買い物は出来ないけど。貧乏人は自然と排除されてる。働いていた花屋は東銀座の高層ビルに埋もれるように店舗を構えている。外に置かれてる小型軽トラックは何年も一緒にいた相棒のような存在だ。そのトラックが哀愁の中に誘い込もうとする。その手には乗るかっての。花屋は相変わらず盛況だった。様々な花たちが店内に所狭しと並べられてる。主に彩られた薔薇が目立つが、相変わらず白い胡蝶蘭は一番人気らしい。夜の蝶たちには白い胡蝶蘭が良く似合う。ここの社長は、僕の年齢より三個上の気さくな二代目若社長だった。やり手で、契約店の規模を着々と拡大してる。素敵な笑顔を向けながら、これほどこき使うのかってくらい働かせられた。頼られると僕も答えなきゃって思う性格なのを把握してたんだ。
僕が現れると社長は喜んで花屋の仕事を他の従業員に任せて、僕と近くのカフェまで話をしてくれた。ここも休憩中によく通った老舗のカフェだった。懐かしい。よくクラブの嬢は、お客と同伴するためにここを利用していたなと思い出す。ここで落ち合い、美味しいお店でご飯を食べて、クラブに行くっていう流れ。それを見るのが僕は好きだった。男はどれだけ偉大でも結局、女の手の内で遊ばれてるに過ぎない。話す内容はほとんど僕の近況報告だった。でも流石に僕がただ遊びに来たわけじゃないってことは悟っていた。
「バイト辞めてからほとんど、顔出さないんだもの。辞める時に遊びに来いって何度も言っただろう。それで何か用事があってきたんだろう。ずいぶんやつれてるぜ」
「精悍な顔になったって言って欲しいですね。酸いも甘いも噛み分けた男ってことですよ」
「馬鹿話は相変わらずだな。死ぬことはないようだから、少し安心したぞ。それでも悩みでもあるのか」
話題をさり気なく真由美の勤めていたクラブに移した。あそこはお得意さんだから若社長もどんな有望な嬢がいるのか常に知ってるはずだ。そういうのに鼻がきく。情報は武器だ。
「配達してたら、非常階段でタバコを吸ってた女性っているじゃないですか。あの人のことはよく思えてますか」
「はぁ、それが目当てってことか。久しぶりに来たのかと思ったら。全く相手にしてもらえると思ってんのか、完全に高嶺の花だぞ。とはいえ、あの子はもういないぜ。確か、いろんな男から金を毟り取って、恨みを買ったんで逃げたって話だ」
消えた嬢からはよく聞く話だった。僕は動揺しなかった。そういう傾向は顕著にあった。一緒に外に食事に行っても、料金を出すことは一切なかった。スーパーに生活食材を買い物に行っても、一円たりとも出さなかった。家のクーラーは関係なく使い放題。髪を乾かすドライヤーだって、もう乾いてるのに使用してるし。さすがに申し訳ないと思ってるのか、家賃を折半してくれたくらいだ。それでもアパートの家賃は六万なので、彼女の払ってた金額は三万ちょっとだ。ということは、僕はただ都合よく利用されただけなんだろうか。その可能性も十分あり得る。金を貯めるための、簡易的な民宿だったのか。それはもちろん考えてたさ、考えないわけないだろ。現実的でまともな理由だ。
「どうしてそんなに思い詰めてるのか知らんが、一足遅かったな。とはいえ、いなくなった後に尋ねて来て正解かもしれないぞ。尚道だったら、けつの毛まで、むしろ取られて捨てられる」
「聞いてみただけです」
「まあ、目当ての女のことをよく知ってる同僚の女性なら知ってるぞ。とは言っても、その子もクラブでは働いてないけどな。キリエっていう子だ。クラブを辞めても普通の仕事に戻っても、その子は月に一度会って食事してるんだ」
相変わらず女遊びが酷いようだ。でもそれで情報が得られるんだから儲け物。綺麗な奥さんと可愛らしいお子さんがいるのに。元同僚の女のことを教えてくれて、取次までしてくれた。可愛がって貰った後輩を、助けになりたいようだ。何と言っても、僕はこの爽やかな若社長から、ずいぶんこき使われた。若社長とその愛人との蜜愛時間のアリバイ作りに利用されたことだってあるんだ。それに花屋の仕事の終わりに、強引に飲みに連れて行ってもらうと、調子に乗って飲み過ぎて先に若社長が酔い潰れて、介抱した事は一度だけじゃない。僕が退職願いを出したら、とても残念がっていた。誰にアリバイ作りを頼めばいいんだと。それに仕事終わりに、飲みに行って自分が酔い潰れたら誰が介抱するんだ。抗議に近い激しい目つきだったが、結局僕の退職願いをスムーズに聞いてくれた。早速連絡をとってくれた。流石はやり手だから仕事が早い。
「幸いキリエは仕事で近くにいるそうだ。少しなら会ってくれるってさ。よかったな。それとわかってると思うけど、手を出すなよ」
「わかってますよ。でも本当に感謝します」
「もし仕事にあぶれたら、いつでもここに来いよ。今だってあの店舗には直道の残像が残ってるんだからな」爽やかな夏のひまわりみたいな笑顔だ。例え情報が貰えなくても来てよかった。少し元気が出た。
真由美が友達や、家族、電話で誰かと親しく話したりするのを目撃した事は一度もなかった。僕の家にいる時も、テレビをぼんやりと眺めるか、僕の集めた小説や漫画を片っ端から黙々と読んでいた。それも飽きたら、猫がだらんと日向で夢想するようにぼーっとしてた。そうかと思うと、僕と捲し立てるように話した、内容は取るに耐えない漫画や映画だったり、テレビの芸能人の批評。時には意見が合わなくて、激論になることもある。彼女はことごとく世間で言うマイノリティー側に属する作品を愛でた。それを侵害する者は誰でも必死に戦う。ついさっきまで猫のようにポーッとしてたかと思うと、今度は向きになって、戦いを挑んでくる。それはもちろん僕も、総理大臣だって例外じゃないはずだ。訳が分からなくて、知りたくて余計に引き込まれる。
キリエという女性と新橋駅の高架下で夜の七時に待ち合わせをした。連絡先は若社長が教えてくれた。それはキリエも了承済みだ。銀座とはすぐ隣だ。情報を与える代わりに、食事を奢るという条件だ。僕の格好は、ヨレヨレの白いシャツとチノパンとアディダスのスニーカーという出で立ち。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。仕方ないので、新橋ビルに入ってる老舗の呉服屋で格安の涼しげな薄手のジャケットと黒光りしてる革靴を買った。これで一様は食事をする事はできるだろう。僕の服と特徴を伝えてある。
時間になっても、待てども暮らせども来なかった。キリエの携帯電話に連絡しても反応はなかった。騙されたのかな、でも騙す理由って。日曜だというのに次々と駅を利用して帰っていくサラリーマンたち。ここは銀座とは違って、薄汚れてる。言うなれば、焼き鳥を調理すると出る煙で何年も炙られたような。ここは大人たちのビジネス街でもある。きっと大人たちの哀愁と苦汁とほんの少しの歓喜が、街の雰囲気をそうさせてる。
僕以外だって待ち人はいたけど、みんな揚々と思い人と巡り合い、新橋の歓楽街に消えてく。僕は人の波の中をたたずむ頑なな石だ。だからって焦燥感がなかったわけじゃない。明日は月曜日なわけで、僕だって仕事があるんだ。朝から取引先に回らなくちゃいけないし、午後はずっと会議になってた。それでだぜ、お世話になった部長の歓送迎会まであるんだ。小さい居酒屋を貸し切って、盛大に送り出す予定だ。新しい生活に慣れていかなきゃいけない。それでも待ってたのは、それ以上に真由美のことを、もう会えない女のことを知りたかったからだ。このループした苦悩に踏ん切りをつけられるかもしれないという微かな希望。しかし、ここはまるでサウナのように暑い。風が全くなくて、ただ待ち続けて汗がたんまり流れた。おかげでシャツが汗で湿ってしまった。
予定よりも二時間近く遅れて夜の九時にキリエは遅れて現れた。身長がすらっとしていて、外国の血が混じってるハーフだ。目がぱっちりして青い目をしてる。他の顔のパーツは小振りなのに目だけが大きくて少しバランスの均衡が崩れていたが、そこが個性になって目立ち独立性が保たれてる。ピタッとしたパンツスーツを着ていて計算された女性らしい体のラインが保たれてる。これは予め鍛え上げてデザインされた。髪はセミロングで紅茶みたいな色だった。これは若社長が挙ってご飯を奢りたくなる気持ちもわかる。特に若いハーフ顔の人が好きだからな。何にせよ、場のボルテージが一気に上がっていく。動かない石に太陽が差し込む。
「あそこの居酒屋でいいですか」
謝罪は全くない。このところこんな女性ばかりだ。仕方なく僕は肯く。駅近くの大衆居酒屋だった。急いでキリエの後についていく。あの居酒屋だったら、幾ら飲んんで食べたって、財布の中が空になるって事はないだろう。それとわざわざ服を買う必要はなかったかもね。キリエはとても急かせかと歩く。足が長いんで、短足な僕は小走りになってしまう。自然と女帝のお供のようになっていた。どうしてみんな急かせかしてるんだ。さっさと入って一番奥のテーブルに座ってしまった。僕も座り、何を話せばいいか戸惑っていると、店員がすかさず生ビール二つと、枝豆を持って来た。店内に入る際に店員に既に注文してたらしい。用意がいい事だ。乾杯して飲むビールは冷えていて、喉越しが良くて美味かった。とても新鮮で、苦味が舌を突き抜ける。
「ここのビールは最高なのよ」それだけ言うと、店員に次々と注文していく。野菜を中心に焼き鳥も抜け目なく栄養のバランスを考えた注文。遠慮などなかった。こんなに極端じゃなかたけど、真由美と似たところがある。奢ってもらうとなったら、遠慮がない。公共サービスだってこんなに手綱を強めて利用はしないだろう。銀座出身の女が全部こうではないけど、全くたくましい限りだ。少し笑っていた。キリエが二杯目のビールを飲み終わった後。
「あの人の紹介だから、もっと騒がしい人なのかなって思ったけど、そうでもないんだね」
「いや、ちょっと面食らっちゃって。銀座の店で働いていた真由美っていう女性のこと覚えてますか。あの子のこと教えてくれません」
「あの子の事聞きたい人がこの世にいるなんて知りもしなかった。変わった人だったな。懐かしいな。どうして知りたいの」
「フラれたんです。一緒に住んでたんですけど、どこか知らない場所に旅立ちました。それで改めて考えたら彼女のことそれほど知らなかったことがわかって。それで知りたいなって思って。あなたに辿り着いた」
「何それ、付き合ってたっていうのも驚き。どうしてフラれたの」
「わかりません。一方的でしたから。別れを切り出して、次の日にはアパートを出て行っちゃったし。前から計画してたのかもしれない。行かないでくれって泣いて懇願しても駄目でした。涙の量が足りなかったのかも」
キリエにはとっても可笑しかったようだ。そんな物好きな人を初めて知ったんだろう。僕だって奇妙な別れ話がなければ、こんな骨折り苦労はしてない。でも泳げないというワードはあえて出さなかった。それは現在、僕と真由美にとって個人的で深い部分で唯一繋がってるワードかなって。それに自分が女性に泳げない伝えてるのは抵抗があった。軽いトラウマになってるのかも知れない。それが綺麗な女性なら尚更だ。キリエは笑うと、可愛くなる。ころころととても楽しそうに笑う。それで少しだけ打ち解けた。
「久しぶりに笑った気がする。おかげで気分が晴れた。ごめんなさいね。今日は嫌なデートしてきた帰りなの。実業家の息子なんだけどあんまりしつこいもんだからデートしたのに、話がつまらなくて。だらだらと自分で稼いで買ったわけでもないのに高価な時計の自慢話。尚道さんだっけ、あなたと会う約束があるっていうのに、だらだら自慢話ばっかり。それに一回目のデートでセックスに誘ってきたのよ。信じられない、どうして勘違いした男ってああなんだろう。最悪じゃない。彼がトイレに行ってる間に勝手に帰って来ちゃった」その置き去りにされた男のことを思った。途方に暮れて、暴れ出さないことを祈るよ。自業自得だとはいえ、少し気の毒だ。しかし仕事って話じゃなかったか。まあいい。それぞれいろいろな事情があるものだから。
「それで教えてもらえるんでしょうか」
「いいわ、笑わせてもらったし。あなたと真由美が付き合ってたって外見じゃ全く想像すらできないけど、こうやって膝を突き合わせて、話すとわかる気がする。あなたはとても、なんて言うのかな、とても素直で武装してる女子の力を抜いてくれる」そう言って黙ったかと思うと、今度はシクシクと泣き出した。それから声を上げて泣き出した。子供が迷子になって一人で泣き崩れるような泣きかた。笑ったと思ったら、今度は泣き出したぞ。アルコールのせいだろうか。それでもビールを手放さない。嗚咽の間にビールをかき込んでいく。器用なものだ。周りの客は日曜と言う事で、少なかったが僕たちがいるテーブルをチラチラと注目してる。まるで僕が泣かせている悪い男みたいじゃないか。冗談じゃないっての。泣きたいのはこっちなのに。でもどうすることも出来ない。その雪崩のような泣きが鎮まるまで待つしかない。羞恥心に耐えながらね。
「ごめんなさいね。真由美がちょっとの間でも幸せに暮らしてたんだなって、考えたら私も嬉しくなっちゃって。あの子とはほとんど話さなかった。でも何だか感性が合ってたんだよね。あの銀座のクラブってお高く止まった人たちばかりだった。働いてる人もお客も」遠くで川が決壊した音が聞こえた。もちろんここは新橋だから聞こえるわけないけど、確かに聴こえた。幻聴だ、気のせいだろう。
「僕もあそこに配達でよく通ってたんです。丹精込めた花の職人が作った白い蘭がとても似合う。もちろん真由美もキリエさんも。だから、泣くことなんてないんです。白い蘭のように凛と佇んでいて欲しい」
キリエはちょっと驚いてた。こいついきなり何を言い出すんだって。僕の表現が直接的すぎたのかもしれない。そして豪快に焼き鳥を何本も胃に平らげた。今度は運ばれて来た禄茶杯をほとんど息継ぎ無しで飲む。豪快で痛快な飲み方だ。確かにこれじゃ奢りたいと言い出す男は後を絶たないだろう。キリエの肝臓は相当強そうだ。奢り甲斐があるってものだ。キリエは僕の花にかけた褒め言葉をなぜかスルーした。きっと意味のないことだと思ったんだろう。
「真由美との短い会話の中でわかったことは、金は信用できる。人は基本的に信用できない。カラッと晴れた日が好き。マクドナルドは大好きで、高いフランス料理はよく分からない。人の群れの中にいると、どうしても馴染めない。面倒な女同士。真由美は昔のことを絶対に話さなかった。でもどうやら、原因はわからないけど、一家は離散してるね。何時聞いてもみんなバラバラに住んでるって答えるだけだから。それに貧乏だったと思う。とにかくセールが好きだったし、財テクを駆使してお金を浮かせることに、喜びを感じてた。男から貢がせるよりも、喜んでたはず。でもね、真由美は突然いなくなった」
「突然いなくなってどう思いました」
「何だか心に穴が開いたようになったな。張り合いがなくなった。ライバルでもなかったのにね。真由美の方が全然稼いでたのに。どうしてだかわからないんだけど、バカバカしくなって、客がだんだん馬に見えて」
「馬ですか」
「小さい頃に私は学校帰りによく小さい牧場を眺めてた。。地方競馬に出るための貧相な馬がいた。帰り道にある風景の一部になってたのに。ある時その馬が柵を飛び越えてね。私の小さい体の横を通り過ぎた。柵の外から眺めたら孤独で冷静な沈着な目をしてたのに。あの時は狂騒で目が血走ってた。それから馬が嫌いになってね。人間の顔に浮かび上がってきて」
「今の僕はどうなんですか」
「今の尚道さんは、限りなく人間に近い動物って感じかな。だって真由美と付き合ってたんだから」
「人間ではないのは残念だけど、馬よりはいいわけですね」
僕らは笑って、焼き鳥を口に運んだ。そしてハイボールを流し込む。悪くない気分になれた。このまま朝まで楽しく過ごせたら、全てを忘れられるかもしれない。それは出来なかった。同じことの繰り返しで、それは逃げてることと同じだ。戦ってるようで、傍観してるだけだ。川を泳いでいるようで、ただ流されてるだけど。同じところでグルグル回ってるだけだ。それに若社長にも釘を刺されたばっかりだ。
「ちょっとお聞きしますけど、真由美は水に関して何か言ってませんでしたか。好きとか嫌いとか」
「水ね。雨は嫌いだったみたい、特に大雨は。ずっと大雨が降ってたら、出勤しない事もあったからね。理由は話してくれなかった」
それからも話を聞いたが、僕がこの一年で知った事ばかりだった。でもキリエも真由美のことを語り合える人を初めて得て、話に夢中になっていた。真由美は一緒にいても、謎の女だった。その情報を共有できることが、とてもレアなんだ。多分、これから表れないかもしれない。南極で会えた人間のようだ。欲していた答えは全然見当たらなかったけど、それは僕にとっても嬉しい限りだった。
結局終電までその居酒屋でも過ごした。僕がもっと若くて、向こう水ならきっとその夜はホテルに直行してたかもしれない。キリエも上機嫌で僕と離れるのを惜しんでいたような気がする。あくまで気がするだけで、見当違いかもしれないが、そう言う小さな成功を積み上げることが、自信を取り戻すはず。お会計は結構な値段だったが、目が飛び出るほどのじゃない。良心的な値段だ。最後に「その内に、洪水は来ると思いますか」と聞いたら、首を傾げて不思議そうに僕を眺めて「そんなことわかるはずないじゃない。おかしな人だね」確かに僕もおかしな人だと思うよ。
僕は酔いが回って足が千鳥足になった。昨日はいくら飲んでも酔わなかったのに。疲れと緊張からの楽しい空間のせいで気が緩んだのかもしれない。キリエの方はしっかりした足取りでタクシーを拾い帰って行った。外は小雨が降ってる。おかげで涼しいよ。もう少しで夏も終わる。千鳥足で新橋の駅に急いだが、最終電車はすでに行ってしまった。走ったものだから、途中で気持ち悪くなって何度か吐いたのが不味かった。時間切れだ。どれだけ訴えたところで、僕のために電車を出してはもらえない。同じく乗り過ごした人、最初から乗る気などなくて、ブラブラしてる人。じっと佇んでいる人。高笑いをして騒いでる男女。どうしたことか、目がシパシパして視力が定まらない。黒い影だけがうごめく、訳のわからない魑魅魍魎のようだ。彼等にしてみたら僕の方がそうかもしれない。眠気とアルコールが体を駆け巡り、さっき吐いた無残な焼き鳥たちの残骸。余裕はなかった。明日は朝から仕事だって言うのに。高架下の閉店した立ち食い蕎麦屋の屋根の下で、座り込みどうしたものか思案してた。俯いて目を閉じる。
どれくらいそうしてたんだろうか、居酒屋で聞いたダムが決壊するような轟音。それがまた遠くの方で聞こえた。周りを見ても相変わらず黒い影が蠢くだけ。相変わらず電車は止まったまま。硬いアスファルトに耳を押し当てる。音は消えてしまった。必ず新橋の近くで道路工事をしてるはずなのに、今度は何一つ聞こえない。仮に洪水が起こったとしても、ここは東京のど真ん中である新橋なんだ。川の増水だって調整池や、地下に大きな水を貯めることが出来る巨大な空間を駆使して洪水を堰き止められる。考えてもみれくれ、ダムなんて遥か彼方だ。ここは平野で山なんて一つもない。山のようなビルがそびえ立つだけだ。すべては仕組まれたことだ。真由美の罠だ。何も考えないように勤めた。でも一度解き放たれた強烈なイメージは、僕の疲弊し切った頭を侵食していくのは容易い。あるはずのない水が地面を覆っていく。濁った汚い水だ。周りを眺めると、相変わらず黒い人影はうごめく。僕のイメージには全く意に介してない。慌てて逃げようとするけど、体は千鳥足で思うようい動かない。アルコールはまだ僕の体の中で残ってる。
そのうちに勢いよく濁流が襲って来た。あっという間に水に飲まれて足が地面から離され、頭はパニックを起こして大声を出していた。助けてください、僕は泳げないんですと。でも何の反応もない。ついさっきまでいた人影たちはどこかに消えてしまった。後に残るのは濁流に飲まれていく僕だけだ。水で亡くなると体がブヨブヨになって、見るも無残な姿になると聞いたことがある。そんなこと絶対嫌だ。思考が現実を超えていく。そこに流れてきたのはお誂え向きの細長い流木。しがみつき体が沈むのを何とか阻止した。濁流の勢いは収まったが、水位は保たれたままだ。足が付くにはまだない。街はほとんど水に沈んだ。僕は新橋の駅を漂う漂流物だ。そこに僕の意思はない。このか細い流木だけが頼りだ。怯えてばかりだったけど、今まさにわかった。
僕らは流れるしかない。運命に抗う術を知らない。だから真由美はあんなこと言ったのか。思い切って動かない体を、怯えきった気持ちを奮い立たせて足をバタつかせて前に進んだ。他にやることもない。この無意味とも言える行為がもしかしたら、違う場所に行けるかも。それが僕は示せていたなら、もっと分別のある違う別れ方をしてたはずだ。こんなに思い悩むことはなかった。懸命に浮いてるものを利用して僕らは進む。その途中でまた会えるだろうか。期待や希望を抱かないと懸命に足をばたつかせる事なんて出来ない。濁っていた水だって、悪くない、冷たくないだけましだ。
蕎麦屋の無愛想な店主から起こされた。そろそろ店開けるからどいてくれないかだって。何を言ってやがると怒りたくなったが、寝ぼけてるのは僕のほうだ。時計を眺めると朝の七時。強烈な朝日が眩しいぜ。今日も暑くなるということを、すでに知らせてくれる。普段ならうんざりするのに、喜んだ。普段がどれほど大切か。体は濡れていた。雨に濡れたのか、それとも本当に濁流に巻き込まれたのか。どちらだろう。まともな人なら、寝てる間に雨に当たっただけだと笑うだろう。でも僕は違う、半分当たっているし半分外れてる。それが僕の中での事実だ。新橋駅には次々と電車が止り大量の人が吐き出されていく。みんな一様に神妙な面持ちで、素早く歩く。アスファルトにコツコツという革靴の音が連鎖する。こんな時、歌える人だったら、踊れたなら、演技が出来たら、パントマイムが出来たら、即興で絵が描けたら、自分を思いっきり表現してみたい。僕には何一つ出来ない。泳げないし、足をばたつかせることしか出来ないんだ。そういえば足首が痛い。辛うじて電池残量が残っていた携帯電話を取り出して、会社に足首が痛いので休みますと素直に伝えたら、しこたま怒られた。それでも休ませてもらえた。電話に出たのがちょうど僕の上司だったのがたまの傷だが、声質に何かを感じ取ったのだろう。感謝しかない。新橋にあるカプセルサウナに入って、細長くて四角いボックスに潜り込んですぐに寝てしまった。それから濁流に巻き込まれる体験は一度もなかった。もしかしたら一度くらいは出てくるものかと思ったが、それっきりだ。
僕は相変わらず頑張って、町田で生活してる。住んでるところも一緒だ。仕事だって少し昇進した。最近は会社の同僚と、頑張って合コンにも行ってるんだ。まあ空振り続きではあるけどさ、そのうち僕の魅力がわかる数少ない女が現れるはず。真由美のようにね。気長に焦りながらやっていく。あぁそうだ、最近ジムに通い始めたんだ。お腹が出てきたさ。恐れていたプールに少しづつ入れるようになったんだ。まだ今のところはプールの中で老人たちと一緒に歩いてるだけだ。だけどこのまま続けたら、僕は飛魚のように泳げるようになるんじゃないかな。そうしたらまた別の形で出会いたい。また付き合ってくれって言ってるんじゃない。それほど愚かじゃないさ。ただ僕は泳げるようになりたいと、悪戦苦闘してると知らせたいんだ。