背中合わせの吉田さん
「ご苦労さん」
「あっ、こんにちは!」
庭に植えたオンコの木陰から、最初に挨拶したのは、岩井しゅうじさん68歳。
春を探していたら、挨拶されたのが、吉田まちこさん。年齢は、30うん歳。
2人は、背中合わせの住宅で、おとなり同士の間柄。今いる場所は、背中合わせに挟まれた、草木が芽吹く岩井さんの裏庭。
4月になって、北国にあるこの庭も、もうすぐクロッカスを皮切りに、福寿草やムスカリ、水仙それからカタクリと、春の開花が矢継ぎ早です。
庭の緑のほとんどは、中古で買った住宅に、前の家主が残していったものでした。
ところが、「庭や草木を世話して愛でる」そういう趣味が岩井さんにはありません。
それではなぜ、今もこんなに手入れがゆきとどいているのでしょう。それは――
お察し通り、吉田さんが、代わりに世話をしているからです。
「私、生き生きとしたこの子たちを眺めるのが、大好きなんです!」
岩井さんは、庭で吉田さんを見つけると、気が向けば挨拶をしに出てきたり、たまには少しだけ手伝いもしたりします。
「岩井さーん。クロッカスが、ここに出てきましたよ!」
「本当だ。黄色いつぼみだ」
「そことあそこも、出てきますから」
「へえー、分かるんだ。すごいねえ」
「去年の秋に、球根を植えておきました」
「ああ……なるほど」
またある日のこと――
「岩井さーん。アスパラがありました!」
大きな庭石の陰に、野菜のアスパラが5本。ちょうど食べごろに伸びています。
吉田さんは、それを鎌で刈り取ると、生のまま全部その場で頬張りました。
「シャキシャキ、ゴクン。んーおいしい」
岩井さんは、「自分の庭のアスパラなのに」と、少し悔しい気持ちで眺めました。
「もう他に無いかなー」
すると今度は、満開のクロフネツツジに近づいて、ピンクの花を摘んではパクリ、またパクリ。食べてもお腹は、だいじょうぶなものでしょうか。
「吉田さん! これ以上体重が増えても知らないよ」
岩井さんは、自分の怒った声で目が覚めました。寝室に掛かるカーテンが、うっすら朝日に浮かぶころでした。
実は、吉田さんは、かなりのおデブさん。「いつも、どれだけ食べるのだろう」、岩井さんは素朴に思います。
当然、口に出しては聞きません。病気なのかも知れないし、少しの食べる量でも太ってしまう、そんな体質なのかも知れないからです。
「こんな日は、池でボートに乗ったら、きっと涼しいですよね」
8月のとある昼下がり。岩井さんは、公園の池まで行ってみませんかと、吉田さんに誘われました。
北国では、まだまだエアコンの無い住宅が多く、二人の住む家も有るのは扇風機だけ。岩井さんは、連日の暑さに嫌気が差していたところです。
「それじゃあ、今日の野良仕事はおしまい。今すぐ行こうか!」
2人は、あと片付けもそこそこに、近所の公園へと向かいました。
ところが考える事は皆おなじ。池の船着き場まで来てみると、ボートは1艘残らず貸し出し中です。
岸から遠く離れた場所で、たくさん浮かんでいるのが見えました。
しかたなく2人は、ボートが戻って来るのを待つことにしました。
しかし、いくら経っても待てど暮らせど、こちらへ漕ぎ出すボートがありません。吉田さんのため息が、横でどんどん大きくなるのが分かりました。
「しょうがない!」
なんと吉田さんは、靴だけ脱ぐと、池の中へ飛びこんだのです。
「大変だ!」
岩井さんは、慌てて池の底をのぞきました。すると、大きな泡がたっていて、そこから潜水艦のように、吉田さんが浮かんできたのです。
「ぷはー。さあ、私に乗ってください」
戸惑う岩井さんでしたが、せっかくなのでそれならと、仰向けで浮かぶお腹の上に、恐る恐るまたがりました。
すると、吉田さんの両足がチャプチャプと漕ぎだして、両腕も開いては閉じて水をかき始めました。
あごを上げ、白目で前を睨んだ顔が、水面を切って進みだします。
そよ風に頬をなでられ、池につかる両足も気持ちが良くて、岩井さんは、ずっとこうしていたいと思いました。
中島に架かる太鼓橋をくぐり抜け、木陰の水鳥たちを横目にして、晴れ渡る太陽の下、吉田さんは快調に池の中を進んで行きます。
「よーそろー!」
岩井さんの陽気な声も聞こえたそのときでした。
中島の陰から、すぐ目の前をスワンボート<白鳥の足漕ぎボート>が現れたのです。
2艘は互いに舵を切り、危うく衝突は避けられました。
しかし、スワンボートが右から左へ過ぎ去る途中で、船尾から次々波の立つのが見えました。
真っ直ぐこちらへ、どんどん大きくせり上がり、波はまるで、巨大な壁になって押し寄せます。
「危ない!」
吉田さんは、最初の一波であえなく転覆。岩井さんも、池の水をお腹いっぱい飲みこみました。
「うぷぷ!」
岩井さんは、池の底から浮かび上がろうとして、必死で寝床を飛び起きたのです。
池の2人の出来事は、またも全てが夢でした。
「長いあいだ楽しい時間を、ありがとうございました」
9月になって吉田さんが、突然こう告げました。
いつになく礼儀正しくて、岩井さんは、何かあっただろうかと首をかしげます。
話の続きは――彼女が近々結婚をすること。お相手は、ベトナム人の留学生。10月にベトナムへ行き、ホーチミンという街で、2人は暮らすのだという。
岩井さんは、これも夢かと疑いました。
ベトナムの男性は、アオザイの衣装が似合う、痩せた女性が好きなのだと、今の今まで信じていたからです。
しかし10月になって、吉田さんが、「いつまでもお元気で」とお別れを言いに来て、岩井さんも「すえ永くお幸せに!」と、改めてお祝いを伝えました。
こうして吉田さんは、夢のような話だけれど本当に、はるか遠くのベトナムへと旅立ったのです。
岩井さんは最近、インターネットで検索をして、花の名前や育て方を勉強しています。
それに、今年の庭の冬囲いや、来年使う道具だとかの下調べをしに、ホームセンターへ足繁く通うようになりました。
あとは――
些細な事ですが。通販で大人気商品だという、夜眠るための枕を思い切って買いました。
おかげで、ひどかった肩こりが、楽になった気がしています。
ぐっすり眠れるからなのでしょう、吉田さんが出てくる夢も、そういえば見なくなりました。
11月に入って、北国は、もうすぐ冬を迎えます。
岩井さんは今夜から、毛布2枚の上に、羽根布団を重ねて寝ることにしました。
電気を消して寝床にもぐりこみ、通販の枕に頭を沈めます。
毛布の裾を、鼻の下まで引き上げて――
「ベトナムは、暖かそうでいいよなあ」
もごもごと、寝床の中でつぶやく独り言。
冬の到来を知り、岩井さんは、明るくて太陽みたいに暖かかった友人が、急に懐かしくなりました。
(おわり)