白い世界
まず最初に女の子がいた。白いワンピースを着た女の子。名前は…………安易だけれども頭にリボンをつけてたからリボンちゃん。 この子が物語の主人公になるんだけどリボンちゃんは、すごく孤独だった。
白い世界においてリボンちゃんは唯一の住人だった。だから、孤独。でもそれをリボンちゃんは苦に思ってはいなかった。たまに来る来客と話をしたりしていたから。それを楽しみに毎日白い世界を探索する。
たまにどこかの誰かが落としたのか本が落ちてたりしてそれを読んだりしながらリボンちゃんは過ごしてるの。
だけどあの日は違った。たくさんの荷物が、白い世界にやってきた。誰の物かも分からないしあるいは誰かが落としたまま忘れたのか最悪いらない物を捨てて行ったのか。ともかくリボンちゃんが今まで見たこともないような量の物があった。何が入ってるのか分からないし、そもそも誰かの荷物ならばと思って開けることもできない物を前にリボンちゃんは頭を傾げる。取り敢えず量が量なのでリボンちゃんの家に持って帰って保管することもできないからリボンちゃんは目印のフラッグをここに建てておいた。
フラッグを建ててから二日経ったけど持ち主は現れず、捨てられた物なのかと思い始めた時、その人はやってきた。若く何かをしようという気力に満ちていた。顔は…………まぁまぁのつくりで。
【この人はそうね、白衣を着ているから便宜上、先生と呼びましょう】
これがリボンちゃんと先生の初対面だった。リボンちゃんは先生に尋ねる。これはあなたの物ですか、と。すると先生はややばつが悪そうに、
「あ、ああ。どうもこの世界に来るときに場所を間違えたみたいでこんな所に荷物だけが届いてしまったみたいなんだ」
と、頭を掻きながら告げる。そしてリボンちゃんが作ったフラッグを見てからお礼を言った。それから一つ訊いてきた。
「この世界で一番綺麗な場所はどこかな?」
何をするのかはわからないけれどリボンちゃんは答えてあげた。
そこは綺麗な水が湧き出る湧水場。それを聞くと先生は少し考えててから案内してほしいと頼んできた。断る理由もないし案内を承諾したリボンちゃんだったけど、この荷物はどうするのかと問うと湧水場を見たらまた取りに来るという。フラッグがあるのでなくなる心配はないからだそうで。
それなりに移動して湧水場まで来ると先生は景色に目を奪われていた。リボンちゃんにとっては見慣れた風景であるが初めて見る人にとっては驚嘆するほどの物だったらしい。透き通る水に陽光が降り注ぎ水面から水中へ吸い込まれていく。水中へ飲み込まれなかった光は反射してきらきらと光っている。
しばしその光景を見ていた先生だが、やがて何やら満足して頷いた。
「決めた。ここが世界の中心だ。ここから始まるんだ全てが」
力強く言うのはいいけれどリボンちゃんにとっては何の事だかさっぱり分からなかった。戸惑いながら先生に訊ねると先生は再び力強い口調で言った。
「この白い世界を幸せの世界へ変えたいんだ。皆が幸せになる世界に」
先生の気迫にやや気圧されそうになりながらリボンちゃんはさらに問う。幸せの世界ってなんですか、と。
「一言で言うのは難しい質問だね」
頭を捻ってなんて言おうか考えている。けれども当てはまる言葉が見つからないようで。
「どういう事かと説明するのは難しいね。幸せそのものは形がないから。それに何を以て幸せというかは人それぞれだし。あえて言葉にするのならば、君が嬉しいと思えているその時間を、より長くする事と、嬉しいと思える出来事そのものがより起こり易くなる。それが幸せの世界になると思っている」
告げた後でも腑に落ちない言い方だったのか先生は腕組みをして唸る。対してリボンちゃんは分かったような分からないような、何とも微妙な気持ちになってしまった。
ただこれだけは思った――――。面白い人が来たと。しばらくはこの人を見ていようって思っていた。
次の日、リボンちゃんはいつもより早起きしてを湧水場へ向かった。理由としては先生が気になって仕方なかったから。
湧水場には既にいくつかの荷物が運ばれていた。昨日の内に先生が運んだらしい。結構な量があった筈だが、何度も往復したんだろう。けれど肝心の先生の姿がない。辺りを見渡しながら確認するけどやっぱり姿が見えない。どうも荷物を取りに行っているようだった。その事にやや落胆しながら運ばれている荷物の内、封が切られている物がいくつかある事に気付いた。流石に取り出しては不味いと思ったので見るだけにして荷物の中を覗いてみる。中には本で読んだことのある道具が入っていた。大工道具というやつだ。
別の荷物の中はまた違っていた。何やら怪しげな儀式に使いそうな緑色の液体やら幾何学模様の描かれた石版やら、曇りのない水晶玉に難しい字がびっしりと書かれてる札。さらに別の荷物には磨かれてない宝石が山ほど入っている。中を確認してみるに先生とは何者なのかと疑問が浮かぶリボンちゃんだった。
大工道具に儀式術具にきちゃない宝石。…………何にどうやって使うのか繋がりようがない。
リボンちゃんが混乱していると先生がやってきた。先生はリボンちゃんの姿を見つけると挨拶してくれた。声を掛けられて先生が来たことを知ったリボンちゃんは怪訝な目線を先生に送る。荷物の中身が怪しすぎると。その視線に気付いた先生は苦笑しながら手に抱えていた荷物を置いた。
「そんな不審な目で見なくても大丈夫だよ。触っても平気だって」
涼しい顔をして大工道具の中から金槌を取り出してリボンちゃんに渡す。おずおずと受け取るとなんてことはない、ただの大工道具だった。
「だから大丈夫だって言ったんだよ。まあ刃物には気を付けて扱わないといけないけど。他のは大丈夫、この水晶とかこの石もね」
それぞれ荷物の中から取り出して見せる。平気だろうとそれらもリボンちゃんに渡す。渡されたリボンちゃんは怪訝な表情で水晶と睨めっこするが歪んだ自分の顔が反射で映っているだけだった。宝石の方も鈍い輝きを放つただの宝石だった。けれどもこれらを一緒くたにもっている先生は怪しかった。怪訝な表情を崩さないリボンちゃんに先生は苦笑して大工道具、儀式術具、宝石の使い方を教えてくれた。
まず土台となるのが宝石との事。厳密には宝石ではなく創造の石と呼ばれるもので砕くとデカくなるらしい。それを大工道具で加工して最後に儀式術具で固めるという。固めるの意味が分からないので試しに先生が一つ宝石を砕く。すると一気に膨れ上がる宝石。それを先生は少し大工道具で切り取ってリボンちゃんに渡す。触り心地は低反発の少しだけ弾力のあるものだった。重さは拳大の大きさだけどほとんど重さは感じなかった。――――けれども。
「固めるというのはこういう事なんだ」
先生がそう言って取り出した札を貼ると札が徐々にボロボロになっていき、それと比例して石が重くなっていく。やがて札が完全に滓になった所で石も重量が一番重くなっていた。
「この創造の石を固めるのには札などの儀式術具がいるんだ。固めるっていうのがどういう事か分かったかな」
重くなった石を見ながら先生の説明を聞いてリボンちゃんは納得する。先生は宝石を砕いて大きくしてから大工道具で加工して最後に儀式術具で固めて何かを作るんだと。けれども何を作るのかリボンちゃんには見当もつかない。それを先生に訊くと、
「まずは家を建てないと。リボンちゃんだって自分のお家があるでしょう?」
リボンちゃんは頷く。さらに他には何を作るのかと訊くと、
「まだ決まってないよ。でも役に立つ物を作るつもりだよ」
先生は楽しそうに語る。リボンちゃんは楽しそうな先生を見てなんだか自分も楽しくなってきた。これから何が始まるんだろうって心が弾んだ。
それからすぐに先生は家を建てたり湧水場の整備をしたりより人が住みやすいように白い世界を変えていった。それに伴って徐々に人々が白い世界に訪れるようになっていった。けれど白い世界にフラッグを建てた人はリボンちゃんと先生しかいなかった。その事に先生は悩んだ。人々が集まるのは豊かな証拠だから、まだまだ力不足だ、と。悩んで悩んで考えた。
それで一つの施設を作った。…………大図書館を。
旅人が落としていった本や譲ってもらった本、どこから拾ってきたのか分からない古めかしい装丁をされた本、先生自身が書いた本もあった。そういった本達を一つの場所に揃えたのが大図書館。司書は先生が兼ねて図書館は開かれた。すると、もっとたくさんの人が訪れるようになった。その中でリボンちゃんと先生は一人の女の子と出会うの。
【その子は洒落たドレスのような服を着た女の子でちょっとツンとした性格だったの。容姿は髪が長くて二つ留めにしていたの。ツインテールって言えば分かり易いかな。
ここではこの女の子の事をツインちゃんって呼ぶよ】
ツインちゃんは大図書館にすごく興味を持ったみたいで白い世界にいる間はよく図書館に通っていた。リボンちゃんと先生はそれが気になって声を掛けてみた。白い世界には何しに来たの、と。
リボンちゃんが一人だった時に比べると十分に発展したけれどそれでもまだ何もないに等しい状況で遊びに訪れるには相応しくないモノだったから。でもその質問にツインちゃんは答えてくれた。決して人当たりがいい態度ではなかったけれど。
「私は自分の居場所を探しに来たのよ。今までの世界は私を必要としなかったから」
居場所を探していたこの世界を訪れたツインちゃん。先生は何か思うところがあったのかツインちゃんに会ってからしばらく考えていた。リボンちゃんは何を考えてるのか訊きはしなかったけれど先生が何について考えているのかは見当がついていた。
ある日、先生は図書館に来ていたツインちゃんにこう言った。
「この図書館の司書にならない?」
突然言われたツインちゃんは戸惑っていたけれど、先生にいくつか質問をして答えをもらうと、司書をやってもいいと首を縦に振った。それでその日からツインちゃんは大図書館の司書になったの。それと共に白い世界に住民が一人増えた。その事に先生は喜んだけれど、リボンちゃんは複雑な思いがあった。初めての同年代の女の子ということもあったけど何よりツインちゃんの佇まいに話し掛け辛いところがあったみたいで少し苦手な印象を持っていたからだ。 けれど先生はこれからは一緒に白い世界に住む仲になるんだし、いやでも仲良くなるだろうと思ってたようで。…………まあ、結局リボンちゃんとツインちゃんは仲良くなるんだけど。
切っ掛けはツインちゃんの司書の仕事を手伝った事だった。ツインちゃんが仕事に慣れてないこともあったのだが、そもそも大図書館に蔵書されてる本の多さに対して司書が一人なのが釣り合ってなかったから仕方ないことだった。だからツインちゃんが把握しきれていない部分をリボンちゃんが補っていた。先生は司書をツインちゃんに譲ったので手伝う気はさらさらないようだったし、先生は先生のやるべきことがあったからそれはそれで仕方のないことでもあった。先生はとにかく白い世界を発展させることに精一杯で、作った物の整備もしていた事も手伝えない理由だったろう。そのお陰で前より住みやすくなったし、何より先生が来てから毎日が楽しいと思えた。日がな一日来るか分からない旅人を待ったり変化の少ない空模様を眺めるよりも断然充実した毎日になったから。
リボンちゃんにとって誰かと何かをするという経験が初めてで。誰かの為に動くという事が初めてで。誰かの事を考えるという事が初めてで。何もかもが新鮮だった。いろいろな初めてをリボンちゃんは楽しいって思っていた。
明日は何するんだろう? ツインちゃんの手伝いかな? 先生について行って白い世界の落ち物探しかも? なんて考えながら寝る事なんかしたことなかったし。
朝起きたら一目散に大図書館へ行く。ツインちゃんは大図書館で寝泊まりしてるから行けば会えるし、大抵先生もいるからここに来れば二人にも会える。先生のお家は湧水場の近くにあるから大図書館とは少しだけ離れてるけど、大図書館がいつの間にか集合場所になっていたのでほぼ毎日会えていた。
大図書館では新刊のチェックをしたり掃除したり本をジャンルごとに整理したり司書の仕事をツインちゃんが要領よくこなす。その際先生はほとんど手伝わないか、どこかに出かけてる場合が多く手伝わされるのを回避しているようで。ツインちゃんの手に回らないのをリボンちゃんが手伝ってある程度片した頃にまた顔を出す。
「ああ、大分片付いたね。ちょっと休憩しようか」
という風に。全て終わってから顔を出す先生にツインちゃんも苦い顔を浮かべる。しかし一服の時に先生が淹れてくれる紅茶は驚くほど美味しいから文句は言わなかった。
そうしてると時間が経つのが早かった。三人でずっと他愛もない話を続けてたりして一日が終わったりする。先生もすることを忘れてたりするのが少なからずあったり。それをリボンちゃんが指摘すると、
「リボンちゃんやツインちゃんは楽しくなかった?」
そう聞き返した。リボンちゃん自身は楽しいと思うから言い返せないしツインちゃんも同じ意見で、
「楽しかったわよ。でもアンタが動かない理由にはならないじゃない?」
楽しいことには賛成だけどちょっと言い返す。けれど先生は満足そうにさらに言う。
「一番の目的は幸せの世界を創ることだからね。その世界に住む君たちが詰まらないとか辛いって思ったらダメでしょう。君たちが楽しければ、そして互いに過度な迷惑を与えないのならそれでいいんじゃないかな」
なんとなく、はぐらかされた気がしないでもない返答だったけどツインちゃんもこれ以上は何も言わなかった。それは先生がツインちゃんの事をきちんと考えてる事が分かったからだとリボンちゃんは思った。もちろんリボンちゃんの事も考えてくれている。
それが先生が目指す幸せの世界の形ならリボンちゃん達が幸せを感じていないといけないわけで。
先生が適当な事を言ったり、適当に白い世界を開発しているんじゃない事が、こういう形でしか伝わらないけれどもリボンちゃんとツインちゃんにはしっかりと伝わっていた。特に自分の居場所を作ってくれた事に対してツインちゃんは言葉にはあまり出さないけど感謝しているみたいで、たまに、
「感謝はしているわよ。……………ほんの少しだけだけど」
ちょっと頬を赤くしながら言う姿を見ると本当はものすごく嬉しいんだろうと分かる。気難しいツインちゃんは素直に自分の言葉を伝えるのが苦手なんだな、と。だけどきちんと態度で示していた。司書の役割はしっかりとこなしているし大図書館で分からない事がないようにリボンちゃんが手伝った部分も後で自分で確認していたみたいで。司書の役割を自分だけでやりたいって思ってたんだろうとリボンちゃんには分かっていた。
ツインちゃんのそうした努力は目に見えて実っていった。大図書館という名所が出来た事で白い世界に訪れる旅人や訪問者は増えていったからだ。
たくさんの人が、時には動物が、幻想の世界でしか出逢えない生き物まで訪れた。そういったモノ達にツインちゃんは司書として丁寧に応対して、できる司書さんとして名実ともに知られるようになっていった。
目に見えるようにというのは本当に文字通り目に見えるからだ。 そしてそれはある日突然現れた。――――空飛ぶ鯨だ。真っ白い姿の鯨。
どうしてそれがツインちゃんの努力の証になるかというと、その空飛ぶ鯨は豊かさの象徴だったからだ。
何を以て豊かさを測るのかは分からないけれど、空飛ぶ鯨が豊かさの象徴と言われるようになったのは鯨の姿を見た人は口々に言った。夢が叶った、生涯を共にする相手が見つかった、欲しいモノを手に入れた、なりたいものになれた、会えないものに会えた…………そして死んだものが生き返った、と。どれも本当かどうか分からないけれど、そういった噂が広がって空飛ぶ鯨は豊かさの象徴になっていった。
それが現れたんだから白い世界は豊かになったんだろう。けれどリボンちゃんやツインちゃん、そして先生が変わったか、というとそうじゃなかった。みんなやりたいことをして今に至ったんだから鯨が現れたからといって劇的に変わる、ということはなかった。
ただ、訪問者の人たちは違う。白い世界に鯨が現れたと聞けば一目見ようと訪れる人も増えた。それはいい。でも先生は白い世界を幸せの世界に変えたいという気持ちで頑張ってる。それは鯨がいるからとかじゃなくて自分で作ってそういう世界にしたい。そう思ってるからこそ先生はこれで満足はしなかった。
リボンちゃんにとってもそれは同じで現状に不満のないリボンちゃんは世界が豊かであることははっきりいってどうでもいいことだったし。
だからこの鯨が誰にとっての豊かさを証明するかと言ったらツインちゃんしかいない。今の白い世界で一番心が満たされてるのはツインちゃんだ。自分の居場所を探して白い世界を訪れた。そのツインちゃんに居場所を与えて役割を与えて意味を与えたのは先生で、それを良しとしたのはツインちゃんだ。ならば空飛ぶ鯨が豊かと思うのはツインちゃんしかいない。
しかし訪問者達はそんな事は気にしない。鯨目的の訪問者は自分の事しか考えてないから心無い人が現れたりもした。
鯨が現れてからすぐに白い世界には訪問者が増えた。でも白い世界には人を滞在させるような施設はなかった。そこで先生は滞在可能な住居を新たに作った。大図書館から比較的近い場所にたくさんの住居施設を建てた。訪問者はこぞって住居を利用した。
でも鯨を見たいと思う人はたくさんいて、住居を利用せずに白い世界のいたるところで滞在をしていろいろと荒らす人も少なからずいた。そういった人には先生とリボンちゃん、ツインちゃんが注意を促したりしたが、どうしても聞いてくれない人も少なからずいて大変だった。
鯨が現れた事で嬉しくもあったが自分勝手な人たちによる迷惑もあって新しい問題が出てきた。それを自覚したのは先生がリボンちゃんとツインちゃんを集めて話してくれた時だった。
「二人も知っての通り、この頃訪問者達の被害が多い。いくら注意しても直らない。なんでだと思う?」
その問いにリボンちゃんもツインちゃんも答えられなかった。自分の都合で他人に迷惑を、注意されてもなお、掛け続けるような人達に会う事自体が初めてで過去に経験がなかったから。二人は悩むがやはり答えられずに先生を見ると先生は、
「この白い世界にはね、およそルールというルールがないから。あるのはこの世界に住む人が自分の居場所にフラッグを建てることだけ。それだとフラッグのルールだけ守れば他は何をしてもいいという事になる。それが今の惨状に繋がってると思う」
そう説明してくれた。それを聞いた二人は納得できる理由だったし理解もしたが、リボンちゃんはとても悲しかった。自分が一人の時にはこんなことはなかったと。一人だったけど誰にも迷惑は掛けてないし白い世界を大事に使って生きてきた。白い世界の原風景を壊すことなく世界と共に生きてきた。だからただただ悲しかった。しかし、それは仕方ないことだと分かっていた。何かをするのは変化を求めることだから。先生の幸せの世界を見ようと思ったのはリボンちゃん自身。故に新たなルールが必要になることも受け入れないといけない。
けれど心配になっても仕方ない事だった。何故ならルールというのは枠組みだからだ。それを基に世界が回る。
リボンちゃんのそういった不安を先生は汲み取ったのか先生は、
「不安? でもね、新しいルールは必要だ。きっと作るルールは今の世界に迷惑を掛けてる人を縛るルールになるし、これから白い世界を訪れようと思う人に強いてしまうルールになるでしょう。けれどね、そのルールはリボンちゃんを、ツインちゃんを、そしてこの先白い世界に住む人を守るルールになるはずさ。きっとね」
縛るルールであるけれど、リボンちゃんを守るルールでもあると言った。決して理不尽に不自由になるルールではないと。
「前に言ったと思うけど過度な迷惑じゃないならいいんだ。迷惑ってのはただただ撒き散らすのもあれば信頼のおける人に自分の不足分を任せることでもあり、時として自分の意図しないことで起きる迷惑もある。その中で一番最悪なのはただただ撒き散らす迷惑。現状で白い世界に掛けられてる迷惑はそういう類の迷惑だ。幸せの世界にそういうのはいらない」
そう言い切った。先生の言い分は理解できた。仲間内で例えるならそう、今のリボンちゃんとツインちゃんの関係に近い。司書としての役目を果たすツインちゃんだけれど、手に負えない量の仕事はリボンちゃんが手伝っている。それは正式に司書じゃないリボンちゃんに迷惑が掛かってると状態とも言える。しかしそれは気の知れたリボンちゃんとツインちゃんだから掛ける事のできる迷惑だ。
だが訪問者達のは違う。鯨見たさに訪れ好き勝手にやっている。それを罰するルールはない。誰かが迷惑を被っても構わないと言わんばかりで。だからルールが必要になる。
リボンちゃんは新ルールを作ることに賛同した。ツインちゃんも同じく賛同した。それからもう一つルールを作って欲しいとも告げた。
「大図書館内にもルールが必要だわ。図書館だって言ってるのに本の無断持ち出しが後を絶たないし、本を元の位置に戻さない奴もいるのよ。司書として注意するんだけど聞かないのもいるから冗談じゃないわ」
ツインちゃんの提案に先生は驚いていた。まさか勝手に本を持ち出すような奴がいるとは思ってなかったのだろう。軽く衝撃を受けたようで頭を抱えた。きっと自分の常識外の行動をするような人を理解するのに時間が掛かったに違いない。
衝撃を受ける先生に対してリボンちゃんはそこまで衝撃を受けてはいなかった。そもそもリボンちゃんも本の無断持ち出しに関しては知っていたから。ツインちゃんから聞いたわけじゃない。司書の仕事を手伝っていた時に知った。そしてそれは司書であるツインちゃんから先生に伝えるだろうと思ったから何も言わなかった。出過ぎた真似になるからと伝えなかったのだ。
理由としてはツインちゃんの事も分かってきていたからどういう子なのかを考えてのだった。
リボンちゃんから見たツインちゃんは本当に努力家で司書として頑張っている。だからリボンちゃんが手伝うのも実は嫌だと思ってることもなんとなく分かっていた。でも仕事の量に手に負えない事も分かってるから手伝うことに文句は言わなかった。おそらく意識というかプライドが高いんだろう。完璧主義というか、自分でしなければ気が済まない質なのか。
ツインちゃんの提案を先生は了承した。本そのものは先生が集めてきたものだし、たった一冊しかない貴重な本もある。それを持ち去られたらたまったものじゃないから。
そうして三人で話し合って新ルールを作った。白い世界は基本的に先生とリボンちゃんの希望通りに。大図書館はツインちゃんの意見を中心にリボンちゃんと先生の意見を付け加えた形に。そのルールが、
『白い世界そのものに迷惑を掛けた者は強制追放』
『大図書館内の本の無断持ち出しを禁止及びした者を強制退館』
『ルール違反者には警告をし以降も直らなければルールを執行』
この三つ。違反者を罰するルールが二つと違反ルールを執行する条件のルール。
かなり曖昧な条件だけれども現状、白い世界の住人はこの三人であるから訪問者に住居や生活範囲を壊されるのは非常に困る。という事は新ルールは三人の独断で執行されることになる。見方によっては酷いルールだ。
けれどこのルールを施行してから、先生が言うところの撒き散らすだけの迷惑は減り大図書館も本の無断持ち出しは減った。
それらはいい事であったが、それによって悪いことが起きたのも事実だった。施行してから白い世界を訪れる人は少なからず減ったという事実。空飛ぶ鯨も去ってそれも影響があったのだろうが。しかし一応安定した世界を取り戻す事が出来たから良かったと言えよう。
リボンちゃんもツインちゃんも訪問者が減った事は別に構わなかった。だが先生は困っていた。ようやく人が行き来する世界になったかと思ったら、また地図から外された世界へと戻りつつある。それに心を痛めていた。
「人を集めるって大変だ。こんなのでは幸せの世界を創るなんて夢でしかない。はぁ。まだまだ頑張りが足りないってことかな」
弱気を見せる先生を見たのは初めてだった。先生の不安にリボンちゃんとツインちゃんも動揺を見せた。相当の心配だったんだろうと思えた。それでも先生は大図書館に顔は出してくれたし先生はやるべきことはやっていた。考える事と手を止めない事は続けてた。それは先生が、きっと止まりたくないって思ったからなんだろうけど、その姿を見たリボンちゃんは逆にすごいな、と思っていた。自分の目指す所から離れてしまったのに止まらずに進む事が。
先生の頑張りの姿勢を見ていたリボンちゃんは自分にももっと出来る事があるんじゃないかと先生に相談をした。
新ルールを作ってから人が減った。先生はそれを悲しいと思ってる。ならば自分に手伝え事はないかと。そうしたら先生はそれを嬉しいと言ってくれて手伝って欲しい事があるとリボンちゃんに告げた。
「喋るイルカを知ってるかな? 空飛ぶ鯨と同じで世界を旅するんだけど、そのイルカは綺麗な水と心の穏やかな人の前に現れるそうなんだ。それをリボンちゃんに見つけるのを手伝って欲しい」
喋るイルカなんていう生き物をリボンちゃんは初めて聞いた。それはどういう生き物なのか訊き返した。すると先生は、一冊の本を取り出して説明してくれた。
「この本を見て欲しい。ここに喋るイルカの事が載っている。このイルカはね、道を示してくれるんだ。迷っている時や悩みがある時このイルカに会うことができれば話を聞いてくれて一つの道を示してくれる。その道を歩むかどうかはその人次第だけどね」
道を示す。そんなイルカがいるだろうか。喋るのは大して驚きはしないけれど、道を示すという事は一種の予言と思えた。そんな事ができる存在に会えるのなら会ってみたい。そうリボンちゃんは思った。手伝いたいという気持ちもあったけど一気に好奇心も大きくなったからだ。
先生が言った喋るイルカが現れる条件は綺麗な水がある場所と心の穏やかな人の前。ただ疑問に思うのは悩みを持つ人が心穏やかでいられるだろうか。そして何の悩みもない人にイルカが会ってくれるかどうか。
そもそもリボンちゃんにイルカと会える資格があるのか。考えると幸先不安になる。けれど先生のように進まなければ。立ち止まったら絶対に会えないのは分かってる。なら、会いに行くしかない。 リボンちゃんが知っている綺麗な水があるのは湧水場だけ。心の中で行こうと呟いてからリボンちゃんは湧水場に向かった。
湧水場に着いたのはいいのだが、そう簡単に現れてくれるはずもなく、しばらく待つ事になった。しかしだ、先生が来る以前も湧水場に来ていたのにリボンちゃんは喋るイルカに会った事は一度もなかった。先生からイルカの話を聞いたからといって会えるわけもなく。そんな事を考えていると先生がやってきた。
「すまないリボンちゃんこれを渡すのを忘れていたよ」
先生が取り出したのは水晶玉だった。リボンちゃんはそれを受け取ると何に使うのかのを訊いた。
「その水晶玉はね心を映すと言われてるんだ。喋るイルカは水晶玉を通して持っている人の心を見るんだ。どういう原理かは分からないんだけど、まぁそういうものだと思ってくれればいい」
先生の説明はよく分からなかったけど水晶玉を持っている今なら喋るイルカに会えるらしい。先生は自分がここにいてはイルカは現れないだろうと言って湧水場から去っていった。
それから再び待ったけれどイルカは現れず、仕方なく帰る事にした。帰ろうと思って水辺に背を向けた時、ちゃぷんちゃぷんと音がたった。驚いて振り返るけれどそこにはゆらゆらと揺れる水面しかなかった。不思議に思ったけれど今日はもう会えないと思って帰る事にした。
会えなかった事を先生に伝えると、そうそう簡単には会えないかと言っていた。リボンちゃんはイルカを訪問者寄せに使う気なのかと思い、それを問いかけてみた。もしイルカをそういう風に扱うならきっと空飛ぶ鯨と同じで一時的に訪問者は増えるだろうけど、イルカがいなくなればそのうち人は散っていくと。先生は答えを言うのを少し躊躇った。けれど答えてはくれた。
「正直、訪問者が増える、それを期待している所もあるよ。でも、前にも言った通り喋るイルカは道を示してくれるんだ。今この世界に足りないもの、必要なもの、そしてすべきこと、それを教えてもらいたいんだ。打算も希望もイルカに掛けてるって感じかな。リボンちゃんには悪いと思うけど」
先生はそう答えた。先生が目指す幸せの世界。それを創る手段が今の先生には分からないのかもしれない。リボンちゃんはそう思った。だから道を示してくれる存在に頼るのかと。
リボンちゃんに先生の道を示す事はできないし他の力に頼るなんてとか非難も筋違いなのは分かっている。しかしそうなら、リボンちゃんに頼むのはなおさらおかしいんじゃないかと思った。
「それは前にも言った筈。イルカは心の穏やかな人しか会ってくれないんだ。リボンちゃんの方が適任だよ」
先生はダメなの? と訊くと自分は良くできた人じゃないからと苦笑いしながら答えてくれた。過去の話になるけれど、と前置きしてから、それを先生は話してくれた。
それは先生がこの白い世界へ来る前の話で白い世界に比べてとても発展した世界だったという。欲しいモノはなんでも手に入る世界で恵まれてもいた。ただしそれは力のあるモノだけだが。
単純に腕っぷしが強いでもいいし、人々の声を集めるカリスマでもいい。相手の心内が読める特殊な能力の持ち主でもいい。とにかく力があればいい世界だった。そんな世界で先生には大事な大事な相手がいた。恋人とかそういう色のついた関係ではなかったけど本当に大事な人だった。血の繋がりもない赤の他人。けれど先生が生まれてきてから、おそらく実の親よりも長く傍にいた人。
その人はその世界ではもっとも低い地位の人で、ずっと誰かに使われてその働きの報酬で生きる事を許された人だった。ある人はその人を生まれながらの敗北者と言った。先生はその人の使用権を持っていた。どうして先生の手にその使用権が渡ったかは知らない。ただ物心が着いた時にはその使用権を持っていた。先生はその人の事が不思議でならなかった。どうしてそんな地位にいるのか理解できなかった。同じ人であり体の構造そのものに差異はない。違うのは地位だけ。
それはある種の力であった。たったそれだけの事でここまで違うのだ。…………そんな世界の在り方に疑問を持った。
【そうね、その人の事はダークって言いましょうか。理由としては先生がいた世界の一つのルールとして、地位ごとに割り当てられた色の服しか着用してはいけないというものがあって、その人の地位では黒い服しか着てはいけなかったからなんだけどね】
色のない黒。敗北者に相応しい黒色。決して好んでなった訳じゃない。でもそれがダークに課せられた運命だった。ダークにとってもはやそれは受け入れた運命だった。何をしても自分の運命が変わることがない事は生まれてすぐに悟ったらしい。だから今の今まで人に使われながら生きてきた。そうして使用権がまた移り次の人に使われ続けていくのだろうと。
先生が疑問を持ったところでダークにとっては変わった使用者程度にしか見えなかった。ダークは今までの使用者にしてきたようにいつ、どこで、何を命令されてもいいように先生のすぐ傍で待機した。
けれど、おかしい。一日、十日、百日といくら月日を重ねても命令はなかった。そこで初めてダークは自らの意志で先生に話し掛けた。無論、なぜ命令しないのかの問いであったけれど。
ダークの問いに先生はダークの使用者となってから初めて言葉を返した。
「今ダークは初めて自分から声を上げた。だから返事をしてあげるけどその問いには答えない。残念ながらその問いの答えを持ち合わせていないからね」
先生はダークの問いには答えを返さなかった。先生の中では世界の在り方が気になって気になって仕方がなかったから、ダークの事は正直どうでも良かった。
先生は世界の在り方を変えようと画策を始めた。それはこの力がモノを言う世界で一番上に立てばいいという単純な考え。その為に必要なものを揃え世界の頂点に立つ。そうすれば誰も文句は言わない。何せ世界のルールに則っているわけだから。
先生は肉体的に優れているわけじゃなかった。腕っぷしでは勝てない。ならばと腕を補う道具を使えばいいと考えた。すぐに行動に移しどんな道具が先生に合っているか、世界を変えるに都合がいいかを調べ、集め、試しを繰り返した。そうした中で創造の石、大工道具、儀式術具を揃えた。使い方もマスターした。その技術をもって先生は世界を駆け昇って行った。先生の世界では先生の手に入れた技術は最新と言っていいものであり使えるのも先生だけというアドバンテージがあった。もっとも技術自体は昔からあったものだけど伝承者が途絶えてしまった為に書物の中に眠ってしまっていたのを発掘したようなものだ。随分と前に失われた技術であった為に今の人々は目新しいものに見え、先生の技術を求め合った。しかし、先生はその技術が武器であり力である事を知っている。だから技術流出は絶対しなかった。自分しか使えないという事で技術価値を上げたのだ。そうして先生は頂点の手前まで辿り着いた。
けれどそこでダークの存在が仇となった。その時の先生は赤の服を着る世界で二番目に高い地位にいた。なのにダークという黒服の従者がいる変わり者。そうした風評は瞬く間に広がり先生の持つ技術は黒服たちが使うような低俗な技術なのだと囁かれた。そこで先生は後悔をした。ダークがいる事ではなく、ダークの事まで考え切れていなかった自分に。そして二番目の地位に至るまでにダークの地位をなぜ変えておかなかったのかと。同じ二番目の地位とは行かずとも五番、六番目の地位くらいにはしてあげられたんじゃないかと。
結局、先生自身、自分の為にしか動いていなかったから自分の周りが見えてなかったんだと反省を繰り返した。そして初めてダークときちんと向き合った。
「黒服の地位にいるだけで、ここまで評価が下がるなんて。ダークが悪いわけじゃないのに、どうして周りはそう判断するんだろう」
自問自答するように呟く。先生の言葉にダークは返答しかねていた。それがダークに向けられたものなのか判断できなかったから。それで先生の気を損ねないように一歩下がった所で待機した。けれどそれが先生には気に入らなかったらしい。
「ダーク。君はどうして黙っていられるんだ? 君自身は何も悪くないのに黒服の地位にいるという事実だけで不当な評価をされる。悔しくはないのか?」
ダークに詰め寄って強い口調で言う。それは今日まで共にいて自己主張がなかったダークを見てきて先生の中で無意識に溜まっていた苛立ちもあったのかもしれない。
対してダークは弁解はしなかった。それが自分の評価であるならそれを受け入れるだけと告げた。つまり自分からこの地位である事と、不当な評価という事実を変える気がないという事だ。
先生にとってダークの姿勢は耐えがたいものであった。先生は今の今まで力が全ての世界を変えようと動いてきた。それと正反対のダーク。もっとも先生の姿を近くで見てきた筈のダークが先生の気持ちを全く理解していなかった。先生は悲しみや苛立ち、無力感や後悔の念をぐるぐると混ぜ込んだ気持ちが湧き上がっていた。
感情に任せてダークを殴りつけるのは簡単だけどそれは先生の誇りに賭けてしなかった。だから今一度問うた。本当に今のままでいいのかと。今のダークを変えないのかと。
するとダークは顔を上げて告げた。先生に使用権が移る以前の話でダークが経験したものだった。どの使用者も奴隷が如き働きを強いてきた。時は娯楽と称し、獅子と同じ檻に入れられた事さえあった。死に物狂いで逃げて生き延びた。またある時はダークと同じ黒服たちを集めて殺し合いをさせられたこともあった。その際にダークはどうしても相手を殺せなくて逃げて逃げて生き残った。けれどそれが使用者は気に入らなくて罰として背中に墨を入れられた。その痕は今でもダークに残るほどだ。またある時は使用者が異常性愛者である時もあった。ありとあらゆる愛を注がれた。反吐と糞とゲロカスが出るほどの重臭い愛だった。拷問と言い換えてもいいだろう。
そうした使用者を随分と見てきたダークにとって力を持つ者はその悉くがダークの知る人でなく例えるなら災害のような回避することが困難な試練であると思ってきた。そうでなくては同じ人と誰が思いたいだろう。
そして、先生にダークの使用権が移った。けれどダークには些細なことでしかないとそう語った。それはダークにとっては今までの使用者達と先生に違いはないとそういう事だった。
それを聞いて先生はただ唖然とした。先生の知らない常識外の連中がいて、簡単に人を力で捻じ伏せる人がいる。そしてその被害者がいるという事。
無力で、無知で、無様で。結局先生は何一つ分かってはいなかったのだ。自分の知っている範囲で足掻いていただけ。情けないと思った。ただただ自分に嫌気がさした。何もできなかった事。ダークの事。力の事。地位の事。自分の信念。大きな挫折だった。二番目の地位になったのに何も変えられなかった。この世界のルールに負けた。でもダークの話を聞いてダークだけは救おうと思った。黒服以外の地位に、少なくとも先生が知っている常識の世界に連れて行こうと思った。
その為に先生はこの世界を捨てたのだ。自分の地位をダークに渡すことでこの世界での居場所を自ら捨てた。
戸惑うダークに一つ伝える。
「好きに生きて、幸せを掴んで欲しい」
そうして先生はこの世界から去った。それからいくつかの世界を回り、白い世界へ辿り着いた。
先生は昔語りを終えた後さらにこう言った。
「ずっと共にいたダークを救えなくてね。それが今でも心に残ってるんだ。今はどうしてるか分からない」
少しだけさびしそうに表情を落とし、だから自分にはイルカに会える自信がないとも告げた。
リボンちゃんは先生の話を聞いて、そんな過去があったからこの何もない白い世界を誰もが幸せになれる世界へと変えたいんだな、と思った。そんな先生の気持ちを汲み取ってリボンちゃんはまた湧水場に向かってあげようと思った。
次の日、リボンちゃんは大図書館には向かわずに真っ先に湧水場に足を向けた。水晶玉を大事に抱えていく。
湧水場は先生に整備されており泉が湧き出る範囲を創造の石で造られたブロックで囲ってあり一応土足で入れないようにしてある。
ブロックの隣には警告も兼ねた泉の説明碑が建っていた。
リボンちゃんはブロックに腰を下ろしてイルカを待つ事にした。どうせすぐに会えるとは思ってない。長丁場になるだろうと思ってリボンちゃんも臨んでいる。
誰もいない湧水場で久しぶりに一人になってふと思った。前はずっと一人だったから何をしても心が落ち着いていた。失敗しても咎める人はいなくて、成功しても褒めてくれる人もいなくて良くも悪くも心の底が揺れ動くことはなかった。けれど先生やツインちゃんが白い世界に住むようになって、訪問者が多く訪れるようになって以前に比べて他人と触れ合える時間が長くなった。そうしたらリボンちゃんは自然と自分の事を相手に反映して見ていた。自分が行った事、喋った事が相手を通して自分に返ってくる。そんな経験は初めてだった。その変化は嬉しい事なのかリボンちゃんには分からない。
けれど、もし。先生が、ツインちゃんが、多く訪れる訪問者達が以前のようにいなくなったと考えたらとてもとても怖いと、そう思った。
この時、リボンちゃんは自覚してなかったけれど以前の自分が孤独であったことを知ってしまった。決して一人の時には知る事のできない感情。それと共に寂しさも知ってしまった。孤独と寂しさはワンセットの感情。孤独だから寂しい。果たしてリボンちゃんが知る必要のあった感情なのか、知ってよかったのか。
考えても分からなかった。リボンちゃん自身の事なのに分からなかった。
風で揺れる水面と流れる雲とを交互に見ながら時が経つのを感じ取っていたリボンちゃんだった。結構な時間が経っているはずなのに喋るイルカには会うことができないでいた。そんな時、ふと水晶玉に目を落とすと水晶玉が妖しく煌めいていた。それはまるでリボンちゃんの心を映しているように。
しばし水晶玉に目を奪われていると泉の水面が波紋を打って揺れていた。驚いて立ち上がると手に持っていた水晶玉を滑らせて落としてしまって泉の中に消えていった。しまった、と思っていると、それは現れた。
「これを落としたのは君か?」
器用に鼻先に水晶玉を掲げているイルカがそこにいた。おずおずと水晶玉を受け取って、イルカを見ていると、
「君に会うのは実に六回ぶりになる。今回で七回目だ。もっとも君が私を見たのはこれが初めてだと思うが」
そう語ってきた。このイルカはリボンちゃんに会ったことがあるのだという。そして言葉の通りリボンちゃんは会った事はない。これが初対面だった。
「まだ君が一人ぼっちだった頃、よくこの泉に来ていただろう? そして日向ぼっこをしながら君が寝こけている姿を私は何度か目にしたことがある。あの時の君は今日のように複雑な思いはしてなかったのに今はまるで別人のようだ」
喋るイルカはなぜか残念そうに告げた。何よりリボンちゃんに親しげに言葉を投げてくる。リボンちゃんは実質これが初めての会話になるのに。
「まあ無理もないか。今日はもう帰りなさい。また会おう。その時に君の訊きたい事、知りたい事を聞かせてもらおう。君の言葉で。それを考えておきなさい」
リボンちゃんが返事をする前にイルカは消えるように泉の中へと潜って行った。何もかもが早すぎてぺたんとアヒル座りになってしまうリボンちゃんだった。それから思い出したように泉を覗き込むけれどさっきの波打つ波紋が嘘のように静かになっていた。そして返してもらった水晶玉も今は曇りのない澄んだ色をしていた。
イルカは今日は帰れと言った。また会おうとも。それはつまり今日はもう会えないことを意味する。リボンちゃんは水晶玉を落とさないようにしっかりと抱えて帰る事にした。
家に帰る前に大図書館に顔を出して先生とツインちゃんに報告した。すると珍しくツインちゃんが口を挟んできた。
「喋るイルカね。明日行けば会えるんなら私も行こうかしら」
どうやら興味があるらしい。けれどそんなツインちゃんに先生が水を差す。
「イルカは滅多に会えるものじゃない。明日のはリボンちゃんとイルカの約束で会える訳だから、ツインちゃんが顔を出すのは避けた方がいい」
ちょっときつめにツインちゃんに釘を刺したのを見て先生もイルカの事を真剣に考えているんだな、と思った。ツインちゃんは面白くなさそうだったが。
「いいかい、リボンちゃん。明日はよろしく頼むよ」
念を押すように先生は確認した。先生の事はきちんと分かっている。そもそも先生がイルカの事は教えてくれたのだし、先生がこの世界に掛ける信念も知っている。だから今、どうしたらいいのかをイルカに問いたい、その思いも。
リボンちゃんはぐっと頷いて大図書館を後にした。
家に帰りベッドに入ると急にドキドキしてきた自分に気付く。緊張している自分に驚く。
道を示すイルカ。果たして先生にどんな道を示すのか、そしてリボンちゃんにどんな答えを返してくれるのか。本当にドキドキが止まらなかった。
湧水場のほとりでリボンちゃんは座っていた。昨夜、あれだけドキドキしていたのにいざ会うとなると緊張はなくただ無心で何も浮かばなかった。ぼんやりと水面を見つめてイルカが現れるまで静かに待っている。
しばし待つと水面に変化が生じた。微かな波が立ち、泉全体を揺らす。次第に波紋は大きくなりその中心が盛り上がってイルカがその姿を現した。
「早いこと来て待っていたようだな。そんなに私に会いたかったのかな?」
穏やかな口調でイルカは声を発する。対してリボンちゃんはイルカを目の前にして声を出せないでいた。無心だった気持ちが何を訊くかで混乱してしまって言葉にならなかったから。
「どうやら聞きたいことはたくさんあるようだな。どれ、一つずつ話してみなさい」
イルカに冷静に言われて、リボンちゃんは一度深く息を吐いて訊ねるべきを事を整理した。大まかに分けて二つ。先生の事、それから自分の事。まずは先生の事から訊くべきかとリボンちゃんは考えた。それはイルカの事を教えてくれたのは先生であり元は先生が答えを知りたがっていたから。
リボンちゃんが訊くことを決めると丁度そのタイミングでイルカが声を掛けてきた。
「訊きたいことが決まったみたいだね。まずはそれを話してくれるかな」
タイミングが良すぎて驚いてしまったけれど、息を呑んで質問をした。
まずは先生の質問。…………質問というには大まか過ぎる大きな問いだ。先生が目指す幸せの世界。その為に先生は何をすべきなのか。人を集め、ある程度の往来ができた今、何が求められているのか。それを訊いた。
するとイルカは低く唸ってから声を発した。
「……………それは難しい質問だね。そもそも幸せというものの概念や定義を決めなくては話にならない。けれど幸せというものは一人一人によって違うモノだ。そして一人一人、幸せを得る過程も到達点も違う。それを叶えられる世界を幸せの世界というのなら、そんな世界を創ることは可能ではある。もっともそれは完全な人任せになるがな。個人で幸せの定義が違うのなら個人がその定義に従って動けばいいのだから、君の先生とやらが世界を創る必要などないのだ。けれど君の先生はそれを良しとはしないだろう事は分かる。もしも、人は一人一人で頑張れば幸せになれるから頑張れと告げれば、君の先生は求める幸せの世界ではないと言うだろう。ならば私はこう答えるしかない。この世界をその先生と誰かもう一人だけのたった二人だけの世界に戻し、その世界での全ての人を二人に限定する。そうすることで先生は結果的に全ての人が幸せにできる世界を創れるだろう。極論ではあるがこれが最も確実な幸せの世界の形の一つだ」
イルカは淡々と語る。けれども、どこか消化不良な様子を見せている。きっとイルカ自身も納得のいかない答えではあるのだろう。けれど適当な事を言うにもいかず一番確実にできる世界の作り方を告げたのだろう。
「――――――――ただ確実に一つ言える事がある」
泉をゆっくりと遊泳しながらイルカは言った。
「人がその手で幸せにできるのはたった一人分しかない。今も昔もそして未来もそれは変わらない。だから何人、何十人、何百人、何千人、何億人と住む世界を創ったところでその全ての人が幸せになれるはずがない。それこそ個人任せの幸せしか約束できない世界にしかならない」
果たしてイルカの言葉を残酷と受け取るのか。リボンちゃんには分からなかった。イルカの言っている事を事実と断定できる証拠もない。ただ分かる事は、…………ああ、そうかも知れない、と思わせる内容ではあったという事だけ。この事を先生に伝えていいものかどうか。
「先生とやらには私の言葉は可能性の一つと言っておいてほしい。全ての人が幸せになれる世界。そんな世界が作れない理由はない。ただ私にはその過程の絵を描くことはできないと」
迷うリボンちゃんに申し訳なさそうに答える。リボンちゃんは慌ててイルカが悪いわけでじゃないと弁解した。
「さて、他に訊きたい事が君にはあるんじゃないかな」
あたふたと弁解するリボンちゃんにイルカはまだ全てを聞き終わってないという風に次の質問を促した。
リボンちゃんが訊かなければならなかった質問の内、先生に関しては伝えにくい内容ではあったけれど十分すぎるほど答えて貰った筈だ。ならば次に訊くべきはリボンちゃん自身の事。先ほどと打って変わって自身の事になると急に心臓の鼓動が早くなる。何を訊くべきか。はっきり言って全く決めていない。漠然とした不安があるだけだ。それがうまく質問にできない。
「悩んでいるようだな。無理もない。自分の住んでいたこの世界が目まぐるしく変化をする。嫌でも不安や期待が生まれる。そして、そういう時にどうしていいのか知らない君はどうしても世界の変化に対して受け身にならざるを得ない。違うかな?」
そう。そうなのだ。イルカの言う通りリボンちゃんは変化に対して受け身だった。自分から何かがしたいと言ったわけじゃなく先生やツインちゃんに対してしなくてはならないという気持ちがあったから大図書館の手伝いも先生の頼みも受けていた。リボンちゃんは素直にそう告げると、
「そうか。それは別に悪いことじゃない。変化に対してそれを受け止める事が出来るのは難しいことだ。君はそれを無意識に行えているがな。だから今の状態では不安に思ってしまうのだろう。けれど君はこのままでいいと思っているのかな?」
それはよくはないと思う。それはなぜかと言われれば偏に怖いから。何に対してじゃない。変化する全てにだ。それは自分自身も含まれる。
「君に確実な可能性の未来の一つを教えるのは容易いことだが、それは決していい未来とは言えない。私の独断ではあるがそれを言うのは控えさせてもらう。その代わりというわけではないが、君に一つ指針を教えよう。従うかどうかは君次第だが、どうする?」
そう言われ、食い入るように身を乗り出したリボンちゃん。無意識に答えを求めてしまっていたようで。もちろん訊きたいと告げると、
「分かった。では伝えようか。君はこれから多くの人と出会うだろう。ただそれはこの世界に訪れる訪問者であってこの世界の住人ではない。だが、この白い世界が人々の往来に含まれた世界となった今、訪問者達はかつてとは違う者達となっている。あからさまに悪意を持った人も近づいてくるだろう。その時の為に自分が何を一番大切にしているのかをはっきりしておくんだ。そして自分が信じられる人を作っておくんだ。もう、孤独を知ってしまった君に一人は耐えられない。友達でも恋人でもなんでもいい。心の拠り所を作るんだ。それが君が最も幸せになれる可能性がある方法だ」
何度も何度も言われた事を反芻する。道を示すイルカが可能性の一つとして提示してくれた道。最もリボンちゃんが幸せになれる方法と心の持ちよう。
リボンちゃんにとってこの言葉は胸に響いた。漠然とした不安の中、明確な指針が一つ出来たのだから。
「どうやら私の言葉を自分なりに受け止めることができたみたいだね?」
固く頷いて見せる。その姿にイルカは満足したようだった。
「私はね、たくさんの人に道を聞かれた。でもね、私が示した道を最後まで歩き通した人はごく僅かなんだ。みんな途中で道を変えるか足を止めてしまうからなんだけれど、それは道を変えた人にとってその方がいいと思ったからに他ならない。でも私はそれでいいと思ってるんだ。私はあくまで道の途中で歩みを止めてしまっている人の背中を押せればいいと思ってるだけだからね」
嬉しそうにイルカは告げる。
「では、私は行くとしよう。また会うこともあるだろう。その時は君が歩いている道の事を聞かせて欲しい」
そういって泉の底へと消えていった。イルカの影が見えなくなるまでリボンちゃんは泉を見続けていた。
大図書館へ戻り先生にイルカから教えてもらった事を、そのまま伝える。イルカは可能性の一つであることも伝えて欲しいとも言っていたから、それも一緒に言った。
先生は当初、衝撃を受けていたようだったけれど可能性の一つである事と、先生の求める幸せの世界が創れない訳じゃないと知ると幾ばくか表情に安堵が浮かぶ。
「易しい答えが返ってくる筈はないと思ってたけど、こうもはっきりと言われるとくるものがある」
伝えられた道を受け止めるのにやや時間が掛かるようだとリボンちゃんは思った。
押し黙る先生を見兼ねてかツインちゃんがやってきた。
「先生。そのイルカが言ってることは間違ってないと思うけど、何もそのまま受け止めなくてもいいんじゃないかしら?」
何か、ツインちゃんには考えがあるのかとリボンちゃんと先生はツインちゃんに視線を向ける。
「確かに一人一人幸せは違うしその過程も異なるけど。だったら一人ずつ幸せを叶えていけばいいじゃない。少なくとも私はその一人なわけだしね」
ツインちゃんの意見に目を丸くする先生とリボンちゃん。二人して顔を見合わせてツインちゃんの意見を呑み込む。
リボンちゃんには思いつかない意見だった。そもそもツインちゃんとリボンちゃんは境遇が違う。リボンちゃんはこの白い世界の元からの住人であるし、ツインちゃんは先生に頼まれて訪問者だったのが住人になったのだ。
ツインちゃんとは居場所を探していたのを先生が与えてあげたのがもともとの関係だ。それは互いの利害が一致しただけかもしれないがツインちゃんも先生も対人関係的には悪くない関係を築いている。むしろ仲は良い方だろう。ツインちゃんにとっての幸せが居場所を得る事だったのならば、この世界で先生が叶えて上げた事になる。そしてツインちゃん自身がそれを認めているのならこの世界の住人は三人なわけで、イルカの示した道とは違って既に別の道を歩んでいることになる。
「なるほど。この白い世界の住人になろうと思ってる人の幸せを叶えて行く。それを繰り返して幸せを掴んだ住人を増やしていく、とういう訳か。つまり常にこの世界に住める定員は一人であるという事か。しかしそれをどう決めたものか」
イルカの示した道とツインちゃんの意見を反芻しているようだった。
リボンちゃんは先生が目指す幸せの世界の事をまだ全て理解しているわけじゃない。だからたくさんの人が幸せになる事が条件の一つでツインちゃんの意見の通りにするならば気の遠くなる時間を掛ける必要がある。一人、また一人と異なる幸せを叶えて行き、しかも幸せに至る過程と時間も違うそれを決められた人数ではない不特定数をこなす必要がある。
どれだけの労力を掛けるのか、掛かるのか、掛け続ける事ができるのか、分からない。それを先生がやるのか。
「考えただけで気が遠くなるね。それに一人でできるのかどうも分からない。しかも君達にも迷惑が掛かるかもしれない。そしてその際に君達が不快だな、辛いな、気持ちが悪いなと思ってしまってもダメなわけだ。その上で幸せを掴んだ住人を増やしていく………………なんて遠い道だろう」
深い溜息を吐いて先生は頭を抱える。リボンちゃんもツインちゃんも話を聞いているだけで気が遠くなる。それを目の前にいる先生は実行しようと思っている。それがどれだけ無謀な、あるいは勇敢な賭けだろうか。一生を賭けたとしても幸せの世界に生まれ変わらせる事が出来るだろうか。少なくとも今のリボンちゃんとツインちゃんにはできそうになかった。二人で顔を見合わせて今は先生を一人にした方がいいと判断して先生を残していく。
「先生の事だから大丈夫だとは思うけど、なんていうか壮大な夢ね全く。まあ、私にとっての居場所探しと考えれば必死に追いかけてるのも頷ける話なんだけれどね」
ツインちゃんは呆れているのか感心しているのかよく分からない感想を漏らした。それに対してリボンちゃんは一つ訊いてみた。ツインちゃんは今、幸せであるのかと。
「私は…………幸せよ。面と向かってあまり言いたくないけどね、恥ずかしいから。この大図書館の司書って肩書もその仕事も仕事の達成感も挫折も苦労も全部私の居場所を作ってるから。自己満足だけど私がいるからこの大図書館は運営出来てるんだって、ちっぽけな私の自尊心を満たすには十分すぎるものだわ、って先生には言わないでね、絶対よ?」
最後、そっぽを向いてしまったけれどとても嬉しそうだったから指摘はしなかった。
「私はいいわ。アンタはどうなのよ? 私と違ってアンタは元からここにいたんでしょ? アンタ自身は幸せなの?」
それを言われるとリボンちゃんは複雑な気持ちになる。リボンちゃんにとっての幸せが何かリボンちゃん自身も分かってないから。
それを言うとツインちゃんは呆れたように溜息を吐いた。
「なんていうか、面倒くさいわね。それはアンタ自身にしか分からないんだから人に訊いてもたぶん答えは出ないわね」
そう言ったツインちゃんにイルカに言われたことを話してみる。
イルカの話では心の拠り所を作る事と言われている。
「心の拠り所と信じられる人ねぇ。意外と大したこと言わないのねその喋るイルカってのも。けれどアンタに適した言葉なのかもね。だって私からみてもアンタって何がしたいのか分からないし。私の仕事を手伝ってくれてるのも私が処理できない量を先生に言われたからやってる訳でしょ? 私がしなくていいって言ったらアンタはきっとしなくなる。アンタの中ではこの大図書館の司書は私だからその私からの頼みなら素直に一歩下がって手伝いをやめる。そうじゃない?」
ツインちゃんの例え話にリボンちゃんはおずおずと答える。実際にそう言われたわけではないにせよ、おそらくリボンちゃん自身は従うだろう。
「アンタにはやりたい事もなければ、やりたくない事もない。そして以前の私のように居場所がないわけでもない。アンタには方向性がないのよ。きっと一人でこの世界にいた時間が長い所為ね。自分以外の人と接する時に、いいえ違うわね。変わりつつあるこの世界のルールにアンタは取り残されてるのよ。今までは、そうアンタがこの世界に一人だった頃、この世界のルールはアンタ自身だった。フラッグを建てるとか世界そのもののルールもあったけど、問題はそうじゃない。アンタが何をしたいとか、するべきだとか、そんなのは自由で誰にも迷惑は掛からないし許しを取る必要もない。さらには他人を通さないから孤独と寂しさも知らなかった。だから一人でいることに不安はなくて何の不自由なくアンタはたった一人で完成された世界に住んでいた。いうなればユートピアとディストピアを完全に共生させている、ありえない世界。そんな世界に住んでいたアンタにいきなり目的や目標を見つけさせる方がどうかしているわよ。だからイルカは何かをしろとかじゃなく今の世界での信じられる人を作れと言ったんじゃないかしら。酷い言い方になるけれど、アンタは普通考えられない世界で考えられない生き方をしてきて考えられない存在だったのよ。あらゆる理想郷を超えた世界で生きてきたわけだからね。アルカディアもエデンもエリュシオンもエルドラドもザナドゥもシャングリラもティルナノーグすら超える言葉にするなら無上郷と言ったところね。なんとなく思ってたけどアンタは感情の起伏がないじゃない? どんな感情でも漠然としたものですっごく怒ってるとかすっごく悲しいとか表に出したことある?」
正直に述べるならツインちゃんがここまで喋ってくれているのに分からないと言うしかなかった。
ツインちゃんが推測した所の無上郷に住んでいたリボンちゃんは本当に必要のない感情と自分に負荷の掛からない生き方をしてきた訳だ。それはこれだけ語ってくれたのに、傍から聞けば酷いと思えてしまう事も面と向かって言ってくれたのにそれを酷いとすら感じない。それは無上郷には必要なかったからだろう。
「アンタには正直可哀想だとも思ってるわ。だって先生が来る前は唯一無二の無上郷にいたわけでしょ? アンタとこの白い世界で完成されていたのにそれを壊されたわけだからね。それがガラッと変わってしまった。それも不可逆なもので二度と元に戻ることのできないものだしね。…………まぁ後からやってきて勝手に居座っちゃった私にも非はあるけれどね。許してとは言わないわ。許してもらったところでアンタの境遇が変わるわけじゃないしね。それだったらアンタの為に何かするわ私なら。だからアンタは気兼ねなく私に頼み事とか相談とかして構わないわ。正直、先生はこの事に気付いてないと思うしね。アンタの世界を壊した張本人なのにね。先生のいう幸せの世界。アンタは何にも思ってないと思うけれど私から見ればあまりにも歪。さっきは先生の手前ああ言ったけれど、先生はアンタを幸せにできていない時点で矛盾しているわ。まぁ、言っても仕方のないことだけど。だから私はアンタを幸せにするわ。私がこうしていられるのもアンタの世界を壊したから。それを償うにはアンタに幸せになってもらうしかないのよ。いい? アンタは何かあったら私を頼りなさい。約束だからね?」
約束と、ツインちゃんは言った。そして小指を突き出して指切りというものを行った。それは約束事を必ず守るという意思表示なのだそうだ。もちろんツインちゃんだけでなくリボンちゃんも守らざるをえないもの。今のリボンちゃんは上手く言えないが、嬉しいと思った。これが自分の為に誰かが何かをしてくれるという事なのかと思った。だから、最初は約束を上手く守れないかもしれない、でも頑張るからと告げるとツインちゃんは顔を赤くさせて照れ隠しに鼻を鳴らして、
「ふ、ふんっ。最初からできると思ってないわよ。でも私を頼りなさい。アンタには申し訳ないって思ってるんだから。これのことも偽善だと思ってくれて構わない。私の免罪符の為にやってるんだと罵ってもいい。でも、それでもアンタには謝っても謝りきれないし感謝してもしきれない恩があるのよ」
小さく呟いて指を切った。
「じゃあ、これで湿っぽい話は終わりね。アンタは今日これからどうするの?」
そう言われて今日はもう家へ帰ることにした。空は既に、鮮やかな夕焼けだったのが夜の闇に呑み込まれ始めていた。
家で一人になってツインちゃんに言われたことを思い返す。何かあったらツインちゃんを頼る事。…………頼る。それはどういう事だろう。迷惑を掛ける事? いやそれは何か違う。信頼できるってどういう事だろうとリボンちゃんは思った。けれど、それはまだいい。問題は、可哀想、と言われた事。
果たしてリボンちゃんは可哀想なんだろうか。
自分は哀れまれる存在なんだろうか。
ツインちゃんに言わせればリボンちゃんは完成された世界で完成された存在として生きてきた事になる。そしてツインちゃんとは違い、知らなかった感情、必要のない思考があって、完成されたリボンちゃんには不必要だったものが強制的に付与されてしまった事になり、完成されたものが壊れてしまったという。
自分は壊れた存在なのか? どこかおかしいのか、狂っているのか。いや違う。これもツインちゃんが言っていたはずだ。変わってしまった世界にリボンちゃんが取り残されているのだと。つまりは新しくなった世界のルールにリボンちゃんが適応できていないだけなのだ。
世界は一瞬で変わる。けれど人が変わるには長い時間が掛かる。今リボンちゃんには今の世界での常識とルールと訪問者としての他人ではなくこの世界に生きる他人を知る必要がある。
どうやって知ればいいのだろう? と疑問が浮かんだ。
知る、ということ。かつての自分はどうやって物事を知っていただろう。誰にも迷惑が掛からないから知っても知らなくても構わない事だったのが、知ることで誰かに合わせないといけない。
モヤモヤと形容のできない気持ちがリボンちゃんの心を埋め尽くしていく。なんというのか、落ち着かない感じ。
その答えがでないまま今日という日は終わって行った。