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思春期の終わりについて

作者: 鈴木正人

小説 「サンセットサンライズ」 のバックボーンとなる仮説です

 このテーマについて自分なりに考えをまとめてみようと思ったのは、もう三十年近く前のことになります。きっかけは友人のなにげない一言でした。当時、私はその友人とドライブをしていたのですが、長らく走って話題も尽きた頃、ステアリングを握っていた友人が 「もう年だよなあ」 とつぶやいたのです。今からすれば、かなり奇妙に聞こえる発言です。なぜなら、当時、私達はまだ二十三歳で (その年の内に二十四歳になりましたが) 自分の年齢をぼやくには早すぎたからです。私自身、そうしたことをつぶやようになるのは、体の衰えを自覚する中年期に入ってからのことだと思っていましたし、実際それは遠い未来の話でした。ただ、そのときの私は、友人の言葉に深く共感していました。というのも、私もまた、少し前から似たようなことを感じていたからです。もう自分は若者とは呼べないんじゃないか、青春と呼ばれる季節は過ぎ去ってしまったんじゃないか――漠然とそんなふうに感じていました。ただ、やはり、衰えを自覚するのは遠い未来の話だとも思っていましたので、自分の実感に対して半信半疑だったというのが当時のありのままの心境です。友人の言葉を聞いたのは、まさにそんな折でした。思いもよらず胸の内にあることを言い当てられ、衝撃を受けたのと同時に、常識 (こんな若いうちから衰えるはずがないという) が音を立てて崩れ去っていくような感覚にとらわれたことを、今でもはっきり覚えています。


 その後、彼と何を話したかはもう思い出せません。しかし、この日を境に、ほかの友人たちの口からも似たような言葉を聞くようになりました。「そろそろ落ち着かなきゃね」、「いつまでもハメを外していられないよね」――彼らが語ったのは、そんな言葉だったと思います。今考えれば、もっと色々聞き出せばよかったと思うのですが、当初はまだ自分の見解を文章にまとめてみようとまでは思っておらず、皮相的な会話をするだけに留まりました。ただ、複数の人たちから似たような言葉を聞くにつれ、一つの普遍的な事実に突き当たった気がして、自分に分かる範囲のことを書いてみようと思い至ったのです。


 人から聞いた言葉以外には、当時、あるいは当時と前後して、雑誌の記事や流行歌の歌詞などに、似たようなことが書かれていたり、歌われていたことを覚えています。さすがに雑誌は手元に残っていませんが、音楽の歌詞なら、今でもネット上で確認することができるでしょう。私が記憶しているものを挙げれば、すばらしい日々 (ユニコーン)、innocent world (Mr.Children)、FACE (globe)、グロリアス (GLAY)、嗚呼、青春の日々 (ゆず)、さらば愛しき危険たちよ (JUN SKY WALKER (S))、SO YOUNG (THE YELLOW MONKEY)、などはここで取り上げていることについて歌っていると思いますが、いかがでしょうか (ちなみに、ミスチルの桜井さん、GLAYのTAKUROさん、globeのKEIKOさん、ゆずの北川悠仁さんは、楽曲リリース当時、23、4歳だったと思います)。若さの終わりというものは、誰もが経験することですので、同様の曲は探せばまだまだ見つかると思います (ゼロ年代以降もそうした曲はあったはずですが、残念ながら曲名を思い出せません。微妙なものなら、いくつか挙げられますが、ここでは割愛します)。


 さて、このあたりで、私の主張をはっきりさせておきましょう。


 「思春期」 は二十三歳まで。

 「大人」 は二十四歳から。


 だいたい二十三歳から二十四歳にかけての間に、子供と大人を分ける節目が存在すると私は考えています。専門家ではないので、どう言ったらよいのかわかりませんが、ここで 「節目」 と言ったものは、何らかの脳的な変化だと思っています。節目を迎えた個人は、様々な変化を自覚します。それは例えば、感受性の低下だったり、感情的なエネルギーの減退だったり、老いの自覚だったりします。わかりやすく言えば、何かにドキドキしたり、深く感動することが少なくなったり、テンションが上がりにくくなったり、急に老け込んでしまったように感じます。いずれの場合も、個人にとってはかけがえのないものを失ってしまったという――つまり、喪失体験として経験されます。私が友人から聞いた 「そろそろ落ち着かなきゃね」 という言葉も、若さの勢いを失ったところから発せられたものでしょう。言ってみれば、青春の引退宣言みたいなものです。


 もっとも、節目を過ぎても、その自覚がないケースもあると思います。二十三、四歳といえば、社会人として駆け出しの時期ですし、結婚して家庭を持つ人も増えてくるでしょう。何かと忙しい時期ですから、目の前の課題をこなすことに精一杯で、自分の内面にまで目が向かないという人も多いでしょう。そのような人の場合、いくらか遅れて、例えば、二十代後半や三十代になって変化に気づくこともあるかと思います。仕事や育児に忙殺される日々の中、ふと気づいたら、いつの間にか青春時代が遠い過去のものになっていて愕然とした、という経験を持つ人もけっこういるのではないでしょうか。


 ただし、一方でこのようなケースがあったとしても、十代後半や二十代前半で 「年を取った」 と感じる人は、まずいないでしょう。そうしたぼやきをこぼすようになるのは、たいてい二十代半ばを過ぎてからです。学生であっても社会人であっても、この点に違いはありません。例えば、十代で就職して、世間的に大人の仲間入りを果たした人でも、心は依然として若いままです。逆に、学生でも節目を過ぎていれば、何かしらの衰えを感じるでしょう。


 「思春期の終わり」 というと、ものの本には 「十代の終わり頃」 と書いてあったりしますが、私はこれに違和感を覚えます。その言に従えば、二十代前半の若者は立派な大人ということになりますが、十代後半の若者と二十代前半の若者に、大きな違いがあるとは思えません。一時期メディアを賑わせた 「荒れる成人式」 で暴れていたのは二十歳の若者たちですし、最近なら 「バイトテロ」 を行うのも、多くは十代後半から二十代前半にかけての若者たちです。十代の終わり頃を思春期の終わりとしてしまうと、こうした現象を説明できなくなってしまいます。私は、この手の逸脱行動は、思春期特有の心の発露だと思います。


 さて、冒頭で述べた通り、このテーマについて自分なりの考えをまとめてみようと思ったのは、もう三十年近く前のことになります。当時の文章は消失してしまいましたが、書くことによって頭の中を整理し、要点を覚えておくことはできました。この文章は、その記憶に基づいて新たに書き直したものです。同じテーマを扱った小説 (サンセットサンライズ) のほうは、当時の原稿がある程度残っていますが、やはり完全な形ではありませんので、現在手元にある原稿と記憶を頼りに書き直しています。執筆にあたっては、ゼロ年代以降の資料も参考にしていますが、それを使って書いたところは、新たに肉付けした部分です。

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