04月20日「されど日常はやって来る」
20XX/04/20(月)
アラームの設定した時間になると、近くに置いてあったスマホがけたたましい音楽を鳴らした。
郁也はもぞもぞと動いてアラームを止め、二度寝に突入した。
しかし五分後にもう一度アラームが鳴り、強制的に起こされる。
もっそりと上半身を起こし、ボーっと壁を見つめていると、下の階から「起きなさい!」と母の声が聞こえてきた。
ある程度脳が覚醒すると、ベッドから降りて閉じてたカーテンを開けた。
日光が郁也を照らす。
ベランダから見える景色は平和そのものだった。
どこかからツバメがチュンチュン鳴く音が聞こえる。
いつもと変わらぬ一日の始まり。
平穏そのものといった町並み。
緊張感のない目覚め。
しかし、その裏で地球の命運をかけた争いが行われているのを郁也は知っている。
二日前、世界の真実を知らされた郁也は優里奈に伴って、地球に戻ってきた。
何でも異世界と地球間の移動は既に確立されており、友達の家に行くような感覚で行き来できるらしい。
優里奈は移動の負担が楽なので助かると言っていたが、同時に魔王軍が容易に地球に攻め込めることを裏付けているのでその点は微妙な心持ちだ、とも言っていた。
優里奈と別れた後の生活も普段と変わらなかった。
流石に帰ってすぐはとんでもないことに巻き込まれた、やべえどうしよう、などと興奮していたけど。
しかし数時間もすればそれで生活が変わるわけでもないことに気づき、とりあえず寝直した。
翌日の日曜日も特別なことはなく、趣味に興じたり部屋を掃除したりと変わらぬ一日を送った。
で、休み明けの今日、月曜日。
やはりこの日も普段通りに始まった。
一つ問題があるとしたら、全てを知った後に葉花と――魔王と会うのは今日が初めてだということ。
しかしこの平和ボケしかねない現状なら大きな問題は起こるまい。
少なくとも朝はこのように考えていた。
「おはようございます、フミ君」
思った以上に緊張しているのが分かったのは、教室に入って葉花に挨拶をされた時だった。
いつものように平然としている彼女を見て、郁也は思わず固まってしまった。
「お、おはよう」
実は朝の挨拶を葉花の方からしてきたのは初めてである。
感動的瞬間なのに全く気づくことなく、どうにか挨拶を返す。
机に荷物を置くと、そそくさと友人の所に向かった。
「おーっす。どうした郁也。顔を青ざめて」
「ああ、いや、別に……」
青ざめた顔を作った原因である葉花をチラリと振り返る。
彼女は開いていた本に視線を戻していた。
「やっぱまだ体調が万全じゃないのか?」
「どういうことだ」
「いや、郁也が来るより前に副会長の奥岡さんが来たんだよ。で、土日に郁也は少し体調を崩して、少し心配だから気をかけてやってほしいって言われたんだ」
優里奈と郁也は別のクラスだ。
四六時中守れるわけじゃない、と優里奈は言っていたがその大きな要因がこれだ。
なのでここは自分の代わりに、郁也の友人である学に見てもらおうと考えたのだろう。
「あ、ああ、そうだったんだ」
「いいよなあ、お前は。こんなに気をかけてくれる幼馴染がいて。しかも滅茶苦茶美人だし、何やらせても万能だし。何よりあの巨乳は下手なラノベやアニメでもお目にかかれないぞ!」
朝からガッツポーズを決めてまで力説する学だった。
「おい学、まだ朝だぞ。それに声大きい」
「しゃあないだろ、事実なんだから」
「そりゃそうだけど」
下らない会話をしながら、郁也は葉花の態度を窺っていた。
どうでもいい雑談ならともかく、敵対関係である優里奈の話題だ。
彼女が聞き耳を立てていてもおかしくない。
「どうしたんだよ、さっきから後ろを気にかけて。あ、笛月さんを気にしてんのか」
あろうことか、学は気づいてほしくないことに気づいてしまった。
「分かるぜ、その気持ち。笛月さんは奥岡さんとは真逆のタイプで、美人というより可愛い系だ。けど思わず見惚れちゃうほどの容姿なのは変わりねえからなあ。後はまあ……もう少し胸が大きければ奥岡さんと良い勝負できたよな」
「おまっ……馬鹿野郎!」
郁也もそっと心の中で考えていたものの、決して口にしなかった禁句を学はサラッと言いやがった。
慌てて友人の口を塞ぎ、葉花の方を確認した。相変わらず本を読んでいる。
「おい、何だよ。声抑えたし、この距離だから聞こえてないって」
「だからってお前な……」
知らないだろうけど、あいつは地球の支配を企む魔王なんだぞ?
気に触れたらどうするんだ。
そんな言葉を郁也はグッと呑み込んだ。
「郁也も必死になってるところを見ると、同じように感じてる部分はあるんだろ?」
「……まあな。笛月さんがもうちょっと中性的な顔つきだったら、男と勘違いするかもしれないぐらいには胸がないな、とは思ってた。けどそんなこと言えるはずないだろ」
「郁也のがよっぽど失礼なこと言ってるわけだが」
学の熱意に押されてうっかり口にしてしまった。
しかし、それも仕方なかった。
美貌よりもまず、肉体にどうしても目がいってしまう優里奈と長いこと過ごしてきたのだ。
あまりに膨らみがなさすぎすると、優里奈の幼馴染としてやっぱり思うところがある。
「ほら、鐘鳴ったぞ。席に着けー」
学と話してる間に朝のチャイムが鳴り、有馬がやって来た。
なるべく葉花の方を見ないようにして自分の席に戻る。
「フミ君」
すると本を机にしまった葉花が郁也を呼んだ。
「教室で胸の話とかしたら、女の子に嫌われちゃいます。ですので止めておいたほうが懸命かと」
郁也の知る限り、これまでの葉花は、どんな時も余裕を感じさせた。
しかし今、郁也を見つめる葉花からは一切の余裕がなく、圧倒的な怒気のオーラが彼女を包んでいた。
満面の笑みを向けているのが一層恐怖を煽る。
「す、すいません」
異世界の魔王も、胸の話題については敏感らしい。
気をつけよう、と葉花の胸を一瞥しながら郁也は決意した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
果たしてその後も、郁也は葉花の視線を意識せずにはいられなかった。
例えば、消しゴムを落としてしまった時。
落とした瞬間は微動だにせず葉花は黒板を見つめていた。
それを見てホッとしながら消しゴムを広い、姿勢を戻す。
ただ、視界の片隅で彼女がこちらを見ていたような気がした。
それだけじゃない。
休み時間になるたび、学の席に行こうとすると、その瞬間をジッと見つめられているような気がした。
先生に指名された時、葉花だけは郁也に熱心な視線を送ったように思えた。
食堂でたまたま葉花の姿を見た時、彼女は郁也の方を見ていたような気がした。
どれも見られていた確信があるわけではない。あくまで視線を感じただけだ。
むしろ郁也が過敏になっているだけで、そこまで見られているわけでもないのかもしれない。
ただ一つ確実にわかることは、今の郁也にとって葉花はいつ爆発するかわからない爆弾を腹に埋め込まれたぐらいの緊張感を発生させる存在である、ということだ。
そんな一日だったので、これまで心休まる時間はほぼなかったと言っていい。
だが一日の最後の授業である体育だけは別だった。
体育は二クラス合同の男女別で行われる。
今日は女子は体育館でバレー、男子は外で長距離を走るということで葉花に見られることもない。
疲れ果てた所に体育かよ、とクラスメイト達はため息をついていたが、郁也だけは水を得た魚のようのように元気を取り戻した。
よほど浮ついてたのだろう。
郁也は誰も伴わず、便所に向かってしまった。
用を足し、手を洗い、ハンカチで手を拭きながら便所を出る。
出てすぐ左に曲がり、女子便所の前を通り過ぎようとした時だった。
突然電池が切れたかのように全身が硬直した。
そこに女子トイレの中から伸びてきた無数の手のような何かが、体のあちこちを掴む。
次の瞬間、その手によって郁也は女子トイレの中に引きずり込まれた。
刹那の出来事だったため、郁也は何をされたかすぐに理解できなかった。
辺りを見回して、ここが女子トイレであることに気づく。
そして自分は何故かその奥で尻をついている。
「女子トイレに入った感想はどうですか、フミ君」
そこに可愛らしい澄ました声が飛んできた。
顔をあげると、体操服を着た葉花が反りのない胸を張りながらこちらを見下ろしていた。
「ふ、笛月さん? な、なんで……」
「あれ、私を見てくれるんですか。嬉しいです。けど女子トイレに入れる滅多にない機会ですよ。見なくていいんですか?」
言われて女子トイレをザッと見渡すが、男子トイレとさほど大きな違いはない。
所詮はただのトイレだ。
どうせなら生身の女性が着替えている女湯の更衣室を眺めたいと郁也は思った。
「俺をここに引きずり込んだのは笛月さんの仕業なのか?」
「そうです。ちょっと強引でしたが魔法を使ったんです。瞬時に目標に迫る無数の手。その名も『見えざる――』」
「ストップ! ストーップ!」
「必死に叫んでどうしたんですか?」
「その名称は他の作品で使われてるからアウト!」
「……言ってる意味がよくわかりません。でも特にこだわりがあるわけでもないので、言わないでおきます」
郁也の必死の呼び止めは叶ったようだ。
「とにかく、笛月さんの仕業なのはわかった。でも何で俺を女子トイレなんかに引きずり込んだんだ……?」
「簡単ですよ。フミ君と二人きりになりたかったから。以上です」
そう言って葉花は可愛らしい微笑を浮かべた。
彼女の表情に土曜の一件を思い浮かべた郁也は後ろに後退しようとするものの、既に追い詰められていているので、距離を取ることができなかった。
「そんなに怯えないでください。取って食おうってわけじゃないですから」
「状況的にはそうとしか思えないんだけど」
「言っておくけど、フミ君が悪いんですよ。熱心な視線を送ってもことごとく目線を逸らすし、ならと思ってやめても、私を見ようとしません。あまりに露骨すぎて、逆に私を意識してるんだなって丸わかりでした」
「でも笛月さんの自意識過剰ってこともありえるかもしれないぞ?」
「いえ、フミ君の友人である綾部君も感づいてましたよ。コッソリ私とフミ君を見比べながら心配そうな表情をしてましたし」
ということは、葉花以外の人間にもバレバレだったわけだ。
初めて恋をした小学生か何かか、俺は。
「あれだけ意識されたら、私もその想いに応えないわけにはいきません。だからこうしてフミ君との空間を作ったってわけです」
恐らく最初からこの時間に郁也を狙おうと彼女は企んでいたんだろう。
気を張り詰めている人間がどういった瞬間に気を緩ませるかぐらい、彼女だって知ってるだろう。
でなきゃこんなに首尾よく拉致れるわけがない。
「そう言われても、土曜にあんなことがあったんだ。意識せざるを得ないだろう」
「何せ私が普通の人間じゃないと知り、フミ君の幼馴染と争いをしていることも知ったわけですもんね」
まるですべてを知っているような言い方に郁也は目を見張った。
「そんなに驚くことではありませんよ。お別れした後、勇者達がどういう行動を取るかぐらい簡単に予想がつきます。特に剛勇の勇者は、その性格からも隠し立てをしないだろうって気がしますし」
葉花の言葉からは優里奈に対する一種の敬意が感じられた。
「世界の裏で行われている争いを知り、またもう間もなく私達魔王軍が地球に攻め込むのも知った。世界が終わるカウントダウンは始まっているのに、すぐ近くには魔王がいるときた。怯えないでも意識ぐらいするのも当然です」
「分かっていただけてるようで何より。けど分かっていながら、何故引き込んだって話に今度はなるぞ」
「ですから、その話をしに来たんです」
葉花がグイッと一歩前に近寄ってきた。
「全てを知ったフミ君を消したところで私には何一つメリットがありません。それに真実を知ったところでフミ君に出来ることは一つもない。以上のことから、フミ君に手をかける理由がありません。ですので、今後フミ君を必要以上に脅かしたりすることはない……。少なくとも命の心配をする必要はないってことを知っておいてほしいんです」
「でも、昨日は俺を殺そうとしてただろ」
「ああ、あれはただの見せしめですよ。本当に殺すつもりはありませんでした。ただ、あの時フミ君は私の力を疑っていた。なので魔王の力を知らしめるためにああせざるを得なかったわけです。結果的に脅迫する形になってしまったのは謝ります」
葉花は素直に頭を下げた。
世界を支配しようとする存在がいとも簡単に謝る姿を見て、郁也は戸惑った。
なんならこいつ本当に世界を支配しようとしてるのか、と首を傾げそうになったくらいだ。
優しげの口調のまま葉花は言葉を続ける。
「身の安全は確保されても、いつ世界が終わるのかビクビクするだけっていうのも救いはないと思ったんです。ですので私が地球に攻め込むまでの間でしたら、特別にこの前の誘いに乗じるのを許します」
この前の誘いとは手下云々のことだろう。
「時間が経てば、考えが変わるとでも?」
「ええ。人間なんてそんなものじゃないですか」
「流石にそれは人間を舐め過ぎじゃないか?」
「そうですか? なら、もう一度聞きますけど――」
葉花は甘い声で囁く。
「私の手下になりませんか?」
妖艶な響きと雰囲気に郁也はのまれてしまう。
彼を救ったのは直後に割り込んできた声だった。
「――そこで何をしている」
葉花と郁也は入り口の方を見た。
体操服を着た優里奈がそこには立っていた。
服の上からでもわかる大きな膨らみを組んだ腕に乗せて、もう何か凄いことになっている。
「副会長の奥岡さんこそ、一体何の用ですか?」
「もう授業が始まるというのに、郁也と笛月さんの姿が見えなかったからな。探しに来たんだ」
「規律を守る生徒会メンバーの一員だから仕方ないかもしれません。ですが、もう少し空気を読んでくれてもいいんじゃないですか?」
「学外ならともかく、学内の風紀の乱れを見過ごすわけにはいかん」
「けど副会長は学外でも私とフミ君の邪魔をしましたよね」
「……あれも学内だ。世界は違えどな」
「まあ、貴女の言うとおりですね。それにそういった理由付けがないと勇者として貴女は動けなかったはずです。今の勇者は不憫だと思いますよ。人々の希望の象徴である癖に、実際は星光軍の傀儡。大切な人一人救うのにも満足に出来ないなんて」
「……黙れ。そのことは今、関係ない」
二人の険悪な空気に割って入る勇気など郁也にはなかった。
むしろ、勇者と魔王といった天敵が目の前にいるのにこれだけで済んでいるのが奇跡な気がする。
「とにかくすぐに郁也から離れろ。そして二度と手をだすな」
「いつも剛勇なあなたが、珍しく苛立ってますね。そんなにフミ君と私の逢引が気に入らなかったんですか」
「当然だ。郁也は私の幼馴染であり、大切な親友だ。もしも彼に何かあったら……ただじゃ済まさない」
「ふーん……副会長なのに攻撃的なんですね」
その一瞬、葉花が愉しそうに微笑むのを郁也は見逃さなかった。
「何とでも言え。ここで起きたことは目を瞑ってやる。だから早く集合場所に向かえ」
「副会長の命令とあらば仕方ありませんね」
葉花はスッと郁也から離れた。
そして優里奈とのすれ違いざまに、優里奈の方から口を開く。
「待った。本当に郁也には何もしてないんだな」
「心配深いですね。何もしてませんよ。私は彼に話をしに来たんです。恐らくあなたが一番気にかけていることをね」
「私が気にかけていること?」
「フミ君の身の安全のことです。本人にも言いましたが、彼をどうこうするつもりはありません。接するにしても魔王としてではなく、一人の女として接するんでご安心ください。それじゃあ、私は先に行きますね」
葉花は言いたいことをいい終えると、さっさと出ていってしまった。
トイレの中を包んでいた鋭い緊張感が解けていくのが一目でわかった。
「ふぅ、全く油断も隙もない。大丈夫か郁也」
「ああ、うん。笛月さんが言ってた以上のことはされなかったしね」
優里奈が差し伸べた手を掴み、引き上げられる。
「少なくとも数日は仕掛けてこないと考えていたが……。予想を裏切られるどころか、まさかこうも直接的な行動に出るとは思いつかなかった」
「原因はどうやら俺にあるみたいだけど」
「どういうことだ?」
「少し長くなるから後で話す。ただ、今一つだけ言えるのは……本当に彼女にはもう、俺を襲う意志がないってことぐらいだな」
「流石に考えが甘いと思うぞ。魔王をあまり信用するな」
しかし、わざわざ「お前は安全だ」と伝えるためだけに、この状況を作り上げるだろうか。
それに彼女の口調にはからかいや嘲笑するような雰囲気は感じなかった。
少しぐらいは信用してもいいんじゃないか。
郁也は口に出さず、そう思う。
しかし、優里奈の言うとおり、郁也はあまりにも事を甘く見すぎていた。
翌日、彼はそのことを実感することになる。