マイコ来日(7)
高級レストランテ
入国の祝宴は、フランス料理店でと決まった。マイコが日本の料理に慣れていないという判断と、日本に来てまでアメリカ料理では芸がないという理由から、日本では美食とされる、フランス料理を選んだのだ。
本来なら歓迎の意味で、紗季が接待してくれるところだが、今回は、入国・転居・就職、そしてマイコの入学と、色々と骨を折ってくれた彼女を、マルシアが歓待すると言い張り、押し切った。
マイコの緊張は高まる。決して、料理がフランス流だからではない。今迄レストランテに行く機会なんて殆ど無かったし、三人共、普段着のままだし、自分達が入店可能な場所なのか、等々、色々と心配だったのだ。
そしてマイコの心配が、半分現実となった。
昇降機で上層階へ移動すると、いかにも高級そうな、淡い黒の模様が入った、真っ白な大理石の壁が目に入った。
「この壁って、トスカーナの大理石なのよ!」
マルシアが紗季に説明する。
地中海産の大理石は、アメリカ人にとって憧れの的である。そもそも、ホワイトハウスからして、擬似ギリシャ様式の模倣建築だ。
紗季とマルシアは構わず進んで行き、これまた実に立派な構えの大理石の門柱を通り抜け、重厚な天然木の扉の前に立つ。
どう見ても、富裕層向けのレストランテとしか思えない。
(私達、どう見ても場違いじゃないの?)
本気で心配になってきたマイコだが、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
立派な黒の給仕服に身を包んだ男性が、にこやかに出迎えた。
(だから、場違いだって!)
そう叫びたくなる衝動を抑えるマイコ。
「三人だけど、大丈夫?」
マルシアが尋ねた。
マイコの内心の焦りが高まる。
(え~っ! もしかして、予約もしてないの? きっとこの給仕、私達の格好とか子供連れなのを見て、『申し訳ありません、本日は予約で満席でして・・・』とか言って、やんわり門前払いするに決まって・・・)
「どうぞ、ご案内致します」
(・・・あれ?)
・・・ごく自然に店内へ通された。
琥珀色の照明で柔らかく照らされた店内は、赤を基調とした毛足の長い絨毯、骨太で古風な木製の調度類、真っ白な机布に覆われた高机、壁面を埋め尽くすように並ぶ巨大な窓、綺羅びやかで巨大なシャンデリエを幾つもぶら下げた白い天井、そしてそんな店内を、落ち着いた動作で、かつ機敏に動く凛々しい給仕達、どれを取っても、趣味性の高い洗練されたものだった。
唯一、残念なのは、天井がやや低い点であるが、地価の高い大阪の立体都市では、空間の縦も貴重な資源なので、あまり余裕を持たせる事が出来ないのだ。
特にマイコは、驚くほど巨大な窓が並ぶ壁面に、目を奪われた。夕暮れ時の巨大都市の全貌が、余すところなく見渡せるようになっていたのだ。
マイコは、何故、自分達が素直に入店出来たのか、本当に不思議で仕方がない。
給仕がマイコの様子を見て、気を配って尋ねてきた。
「窓際の席がよろしいですか?」
マイコは、声を掛けられたのが自分だと気付き、虚勢を張って応じてみせた。
「ええ、そうして下さる?」
しかし同時に、疑問が湧いてくる。
(どうして、子供の私に聞くのかしら? 普通は、接待役の人に聞くべきでしょ?)
高机の側まで着くと、窓際左側の椅子を真っ先に引く給仕。
それは正しいのだが、
「どうぞ」
と、案内されたのは、またしてもマイコだった。
さすがにマイコは、マルシアに目で助けを求める。真っ先に案内されるべきは、大人で主客の紗季だ。それが常識である筈だ。別に、ここが高級レストランテだからではない。庶民だってたまには庶民向けのリストランテに出掛ける事はある。
ところがマルシアは、平然と勧めてきた。
「座って」
「・・・・」
まあいいや、とばかりに、諦めて着席するマイコ。景色が良く見えて楽しいことだし。
向かいの窓際席には紗季が座り、最後にマルシアが、マイコの隣に着席した。
マイコは早速、窓の風景に齧り付いていた。
「それ、窓じゃないわよ」
マルシアがそんな事を言い出した。
「え?」
意味が分からず振り向くマイコ。
「このビルは、周囲のビルと高さがあまり変わらないから、本物の窓からなら、そんなに綺麗に景色は見渡せないわ」
マイコは、確認のために、景色の下の方を除き込んでみた。
上から順に三層の空中歩道が見え、一番下部には小さく小さく道路も見え、じっくり目を凝らすと、密集する電気自動車の列も、微妙に動いている。空中歩道があるから、少なくとも、日本の都市風景には違いない。
超高層ビルの形は『角柱』ではない。実は僅かに先細りなので、先端を切り取った『角錐』なのである。
そのため、どんな超高層ビルでも、視力さえ良ければ、地面まで視野が届く。
しかし、正面から映しただけの映像なら、そこまでは見えない筈である。
「ちゃんと、下の方まで見えるわ」
マイコがそう報告すると、マルシアは一言で答えた。
「立体映像よ」
一瞬考え、立ち並ぶ巨大窓列の全体を見渡す。
すると、窓の境界付近の風景が、接する隣の窓のそれと微妙にズレている事が分かった。
唖然とするマイコ。幾ら何でも、こんな狂気じみて大規模な立体映像なんて、生まれて初めて見たのだ。
そこへ、先程の給仕が品書きを持って来た。
「どうぞ」
と、三人に手渡す。
見たところ、古風な布張りの分厚い品書きだ。フランス語の表題があったが、多分、『献立』とでも書いてあると思われる。やはり、いくら精密機械の普及率が高い日本でも、ここはフランス料理店なので、雰囲気重視、といったところだろう。
しかし、そう考えたマイコは、またしても予想を裏切られた。
品書きを開くと、そこには、両面一杯に大きな電端画面が待っていたのだ。
「さ~て、今日は飲むわよ~」
品書きを開いたマルシアが、快活に宣言した。
「飲めるの? マルシア・・・」
心配そうに紗季が尋ねる。
マイコもそれは気掛かりだ。
マルシアは普段から、「脳細胞を破壊するアルコールなんて、秀才の私には敵だわ」等と言って、一切の酒を飲まないようにしていたのだ。
「やっとここまで、大きな目標を達成したんだもの、中間祝いよ」
晴れやかにそう言うマルシアに、紗季も微笑んで応じた。
「そうね。・・・でも、慣れてないでしょうから、悪酔いしない物を選びましょう」
とは言ったものの、紗季も酒に詳しい訳ではない。
「どれがいいのかしら?」
紗季が品書きを見てそう呟くと、控えて待っていた給仕が、助け舟を出してくれた。
「悪酔いしにくい物でしたら・・・」
「フランスのワインがいいわ! 折角、フランス料理店に来たんですもの」
明快に口を挟み、意思を伝えたマルシア。
近年は、中南米諸国でも、非常に高級なワインが数多く作られるようになって健闘しているが、それでもまだ、市場の評価はフランスワインが最高峰である。
給仕は、微笑んで頷くと、自信有りげに勧めてくれた。
「それでしたら、少々値段は張りますが、シャンパーニュの白の辛口がよろしいかと思います」
少しまごつくマルシア。
「シャンパ―ニュ?・・・シャンパニの事かしら?」
日本人は、外国の固有名詞を苦慮しつつ現地の発音で表現するが、欧米人は平然と自国語発音に変えてしまうので、戸惑ったのだ。マルシアは英語も出来るが、英語でも『シャンペイン』と発音するので、自信がなかった。
「多分、合ってますよ」
給仕は、マルシアが開いている品書きに触れ、シャンパーニュの項を呼び出してみせた。
マルシアは、品書きの端っこからスペインの小さな国旗を見つけ出して触り、次にChampagneの文字に触れた。
一瞬で翻訳されたその文字を見て、頷くマルシア。合っていたようだ。
「あまり慣れてらっしゃらない方でしたら、こちらがお勧めです」
給仕が、フランス語で書かれた商品名の中の一つに触れると、商品表示の貼られた瓶の写真が現れた。
彼は、続けて饒舌に解説する。
「このワインは、原材料を一種類の白葡萄・・・、シャルドネという葡萄のみに絞り込んでいまして、しかも一切、添加物無しです。そして、醸造の際には木樽を使っておりませんので、葡萄単一種のみのスッキリとした素直な味わいに仕上がっております。葡萄の栽培方法も、自然栽培法ですので、健康的で安全ですし、値段の方も比較的安価な部類ですので、お試しになる価値は充分にあると思いますよ」
率直に、お勧めのワインらしい。
しかし、マルシアは追及する。
「これが、一番飲み易いフランスワインなの?」
対する給仕は、何ら臆する事もなく、正直に応じた。
「いえ、飲み易さだけで言えば、他にも安いワインがいくらでもあります。しかし、このシャンパーニュは深い芳醇な味わいがあって、その割に好みを選ぶような癖が少ないですので、これからワインを好きになって頂きたい方にも、お勧めできるんですよ」
少しだけ間を置いて、彼は続けた。
「例えば・・・、当店によくお越しになる男性のお客様は、女性の方をお連れになった時に、よくこれをご注文なさいます。・・・お客様にどんな意図があるのかは、勿論、聞きませんけど」
ここでマルシアと紗季が、給仕と共にニヤリと笑う。
マイコには、三人が笑った理由がまるで理解出来なかったが、それよりも気掛かりな事があり、内心で焦っていた。
「じゃあ、これを頼むわ。あなたの意図は聞かないけどね」
マルシアが軽妙に注文を確定し、給仕は微笑を浮かべつつお辞儀をして退出した。
給仕が遠ざかったのを見て取ったマイコは、早速、マルシアに噛み付く。
「このワイン、高過ぎるじゃない! とても飲み物の値段とは思えないわ!」
勿論、あくまで小声で、である。子供の自分がこんな高級レストランテに連れて来て貰った以上、絶対に大人しくしていなければならないからだ。
マイコがマルシアからの弁明を待っていると、突然甲高い幼児の奇声が上がった。
「きゃはははは!」
続いて側を、三歳位と思われる女児が、テケテケテケ~、と、走って行った。
背筋を逆撫でされたような悪寒が走り、苛立ちが増幅されるマイコ。十歳の自分でさえ、レストランテに来るにはまだ早いと考えており、極力大人しくしていたのに、年端もいかない幼児を連れて来るような、非常識な親がいるのだ。
側を通り掛かった一人の給仕が、女児を捕まえ、抱え上げた。
しかし彼は、何故か、屈託のない笑みを浮かべている。
女児は、両親の居る席へと連れ戻された。
マイコは一応安心した。きっと女児の両親は、給仕から厳重注意を受け、店を追い出されるか、隅っこの目立たない席へ移動させられるかする事だろう。
「すみません、すみません」
しきりに謝り、女児を席へ押し込む両親。
ところが給仕は、「いえいえ」と楽しそうな笑顔で応じたのみで、あとは何事も無かったかのような顔をして、仕事に戻ってしまった。
「・・・」
呆れて、物も言えないマイコ。
ところが、マルシアは少しだけ眉をひそめただけで、周囲を見回しても、給仕に抗議をする人は誰もおらず、すぐ近くの席の老夫婦に至っては、微笑みながらその光景を眺めているだけである。紗季はと言えば、何事も起きていなかったかのように、「何を食べようかしら?」と、品書きを楽しそうに眺めているのみだ。
日本の都会人は、家で弁当を食べるより、外食の方が日常となっているため、食事をする場所であればどこであれ、家族団欒の場と考えている(勿論、酒の供出が中心の店は例外だが、そんな場所でも、子供連れの入店が断られる事は無い)のだが、外食の場が特別である外国人には、それが仲々理解出来ないのだ。
勿論マイコは、そんな事をまだ実感していないので、取り敢えず、(ここはそういう場所なんだ)と、暫定的に納得する事にした。
そして、改めてマルシアの弁明を聞く事にする。
「・・・で、ワインの値段の事だけど?」
対するマルシアの返事は、実に素っ気なかった。
「安いわ」
あまりにも簡単に言われたので、毒気を失ったマイコは、日本人の第三者に尋ねてみた。
「そうなの?」
マイコに尋ねられ、少し首を傾げた紗季が答えた。
「そうねぇ・・・、若干高いお酒だと思うけど、驚く程では無いかなぁ・・・」
曖昧な言い方ではあったが、確かに値段に驚いている様子は無い。マルシアはこれから紗季と同じ教職に就くので、金銭感覚に大差は無いと思われる。つまり、過剰な贅沢というわけでもないという事だ。
とは言え、酒を飲まない筈のマルシアが『安い』と断言した根拠はやはり分からないので、本人に尋ねてみる。
「どうして、安いって言い切れるの?」
するとマルシアは、面倒臭そうに答えた。
「調べたからよ。アメリカのレストランテよりも安かったわ」
それを聞いたマイコは、姉の性格を思わず失念した事を後悔した。
きっとマルシアは、目を付けた店の商品の値段を全て丸暗記した後、輸入品であるという点で原価が共通している、同一銘柄のフランスワインの供出価格を比較することによって、どちらが割安かを判断したと思われる。もうそこまで聞かなくても、概ね当たっているだろう。
とは言え、新たな疑問が湧いた。
(どうして、日本の方が安いのかしら?)
日本の方が物価水準が高く、当然、人件費も高い筈なのに、不自然である。
マイコは勘で気付いた。この漠然とした疑問に答えるには、難しい社会構造の説明が必要になりそうだ。
マルシアは日本での留学中に、経済学の博士号(学士号の間違いではない。なんと、大学院卒業並の単位を取得したのだ!)を取得した、立派な経済学者なので、質問すれば丁寧に答えてくれるに違いないが、難し過ぎて途中で苦痛になる事が確実なので、マイコは敢えて質問を封じ、後で自分で調べる事とした。
(後に調べた結果、その理由は大きく二つだった。
一つは、立体都市ならではの、市場密度の高さ。客となる人口が膨大であるため、薄利多売が可能で、しかも競合相手も多いため、低価格化への圧力が非常に高い。
もう一つは、『従量制関税』。輸入品の課税基準が、重量のみであり、重量単価が高い高級ワインは、必然的に税率が低くなるので、従価税方式の国々よりも、高級品が割安になるのだ)
それよりも、品書きである。美味しそうな食べ物が沢山あるので、紗季じゃなくても確かに夢中になってしまう。
料理の一つ一つを検索していくと、全ての原材料名と原産地・生産者・生産日・生産方法・等々、生産に関わる全ての情報が記載されている。しかも、品書きの端には、それが州法に基づく表示義務である事が明記されてあり、食品表示関連の規則が極めて厳しい事が分かる。
その法律は極めて厳格らしく、調味料や発酵食品などの複合食材を構成する原材料も、各々全て、経歴を辿る事ができる。
勿論マイコは、その膨大な資料を精査する気など更々無かったので、分かり易い『原産国』だけに注目した。
一番多い地名表示は、府・郡名から始まる表示で、これは近畿州内の食材。その次が州名から始まる表示。これらは、他州からの購入品。ここまでは国産原料だ。しかし、海外からの輸入も決して少なくはなく、それこそあらゆる国々の食材を使っている事が分かる。フランス料理店なので、フランス産が最も多く、その他欧米各国の食材も豊富に揃っている。
ところがマイコは、次々と見ていく過程で、大きな違和感を覚えた。その正体が掴めず、暫く項を検索し続け、ほぼ全ての品物を見終わる頃に、やっとそれに気付いた。そのきっかけとなったのは、アラスカ産の超高級サーモンを見付けた事だった。
最後にマイコは、調査結果を姉に報告した。
「・・・アメリカ産だけ無いわ」
正確に言うと、アラスカ産サーモン以外の、である。
アメリカ合衆国の国土は広く、土壌も豊かで、食料生産量も当然、世界随一である。辺境の小国なら分かるが、この大国の食材が殆ど扱われていないのは、異常としか言いようがない。
しかしマルシアは、マイコの指摘に感心しつつも、簡潔に応じた。
「アメリカ人も同じよ」
意味が分からず首を傾げると、マルシアは続けた。
「アメリカの富裕層は、輸入食材しか食べてないのよ。・・・私も日本に来て初めて知ったんだけど」
彼女は、少し憤りを感じている表情となった。
妙な話を聞いてしまったマイコ。
念の為に、質問を変えてみる。
「日本は、アラスカ以外のアメリカ食材を輸入してないの?」
もし『輸入していない』というのなら、単なる不公平であり、世間で言われているような、『友好国』という認識も、再考してみる必要がある。
これには、紗季が答えてくれた。
「厳しい安全衛生基準に合格すれば、どんな国の食材でも輸入出来るわ。ただ単に、人気が無いだけだと思うの。・・・あ、でも、支那産よりは、人気があるわよ」
世界有数の環境汚染地域を比較対象にされたので、少々背筋が寒くなる。
「じゃあ、紗季は、アメリカの食べ物を食べるの?」
実に妥当な質問である。アメリカ人であるマルシアの親友なのだから。
「・・・正直、・・・少し警戒するわね」
とても言い難そうに、紗季が答えた。
つまり、『二番目くらいに信用されていないのが、アメリカ産』という、衝撃の事実だ。
「お待たせしました」
疑問は膨らむ一方だったが、給仕がワインを持って現れたので、話は中断された。
既に抜栓されている瓶があり、その瓶からは、マイコのグラスに、発泡する液体が注がれる。アルコール無しの発泡ワインである。
そしてもう一本、瓶をマルシアに確認した後、こちらは抜栓する。シャンパーニュである。
二人に注がれたその液体は、見た目ではマイコの物とほぼ同じだ。
続いて他の給仕が、料理を運んできた。
料理は、台車の上に大きな皿が一つだけなので、給仕が尋ねる。
「お取り分け致しましょうか?」
「いえ、支那方式でお願いします」
マルシアがそう答えた。
マイコが様子を見ていると、給仕は、大皿を高机の上にそのまま置き、三人には小さな取り皿を配った。どうやら、好きな分量だけ自分で取る方式らしい。これなら、過不足なく料理を楽しめるという事なのだろう。
まずは乾杯。
マルシアが音頭を取る。
「では、マイコの学力向上を願って、乾杯!」
苦笑するマイコ。
「「「乾杯!」」」
次に、三人で手を合わせる。
「「「いただきます」」」
さあ、待ちに待ったご馳走である。
三人の表情が綻び、紗季がマイコを褒める。
「日本式の食事の挨拶も知ってるのね」
しかしマイコは、首を傾げて答えた。
「キリスト教徒だったら誰でも、神に感謝の祈りを捧げるけど?」
それでも紗季は言う。
「でも、キリスト教徒は、こうするでしょ?」
両手の指を真っ直ぐ伸ばして掌を合わせるのではなく、指をしっかり組んだ形を作ってみせた。
頷くマイコ。間違ってはいない。ミサでは必ずそうしている。しかし、日本と同じように手を合わせる事も多いのだ。
マルシアが代わりに説明する。
「略式では手を合わせて『アメン』とだけ言うのよ。でも、起源はよく分からないの。私は、日本のアニメの影響だと考えてるけど」
頷く紗季。
食事が始まると、マルシアが念を押すように言った。
「食べ残しは駄目よ」
改めて言われなくても分かっているので、不思議に思うマイコ。
マルシアは続けた。
「近畿州の法律で、州内の飲食業者は、完食報償制度か残飯処理費用負担制度のどちらかを採用しなければならないの。具体的には、完食に対して総額五%以上の還元か、食べ残しに対する五%~十%内の料金加算よ。勿論、両方採用している店もあるのよ」
高価な料理を食べ残すと、結構な痛手になるわけだ。
それにしても、面倒な制度だ。立体都市における廃棄物処理が、いかに大規模で重大な社会問題であるかが、よく分かる。
とは言え、心配は無用だった。料理は全般に薄い味付けで、どれも非常に美味で、見たことも食べたことも無いような物が沢山あり、欧州の料理とは言っても、マイコから見れば、全くの異文化異文明の料理のように感じられ、しかも、一皿毎に盛られた量がやけに少ないので、むしろ残してしまう理由の方こそ、殆ど思い付かないのだ。
料理は次々と進み、いよいよ主菜の肉料理だ。これまで全体に量は少な目ではあったが、ここまで辿り着くまでに満腹になってしまうよりは、遥かにマシである。
・・・という事情は、マルシアと紗季の話で、食い意地の張ったマイコに、そんな心配は無用である。
期待通り、大皿には切り分け済みのステーキがたっぷりと乗っていたが、野菜の付け合せもやけに多い。そこでマイコは、紗季に尋ねた。マルシアは慣れない酒のせいか、何やらぼんやりしていたためだ。
「野菜の盛り合わせも、一緒に頼んだの?」
すると紗季は苦笑して答えた。
「これは、健康優良店指定を受けるための条件の一つなの。『肉類を供出する際は、必ず同量以上の野菜を出すこと』という・・・」
そこで気付くマイコ。
「完食報奨制度が、実際の健康効果を上げているのね」
紗季は続けた。
「その通りよ。その健康優良店指定は、州医師会の強力な推進で実現したのよ」
そこでマイコは、意地の悪い質問をぶつけてみた。
「住民が健康になってしまったら、医者は儲からなくなるでしょ? どうして、彼らがわざわざ推進するの?」
紗季は頷いて答えた。
「日本は昔から、国民皆保険という制度があって、誰でも殆ど無料で医療を受けられるの。
近畿州では、事業請負型地区割担当医院制を敷いていて、・・・つまり、各病院が担当する地区は決まっていて、その地域の国民の医療は、無条件で施さなければならないの。
で、そのためのお金は予め決まった額だけ、州から出されるわけなんだけど、医者の稼ぎは、医療で使ったお金の残りなのよね。
という事は、住民が病院を利用しないで済むようになれば、沢山お金が残って、医者が儲かるの。
だから彼らは、健康促進に関する活動には、とても熱心だし、長い目で見て健康を損なうような薬品類を、可能な限り排除しているわ。
だから、政府も住民も、医者をとても尊敬していて、彼らの主張は通り易いの。
政府は医療費の増大に苦しむ事が無くなるし、住民は健康になるし、その事で医者が儲かるようにもなっていて、皆が幸せになれるのよね」
これには感動したマイコが、目を輝かせた。
「凄い仕組みじゃないの!」
それと同時に彼女は、何故こんな優れた制度を、母国アメリカが取り入れないのか、心底不思議に思った。
でもこれは、アメリカ人のマルシアに聞いた方が良さそうだったので、いつかまた聞くことにする。
そしてマイコは、主菜を充分に平らげ、すっかり満足した。
不本意ではあったが、大盛りの野菜類も、驚くほど美味だった。
傍らでは、少し意識を取り戻したマルシアと紗季が、何やら小難しい話で盛り上がっており、会話に参加出来ない。
マルシアは明らかに酔っ払っていて、普段の秀才ぶりからは考えられないような言い間違いをしたり、同じ事を何度も繰り返して言ったりしていた。紗季も似たようなもので、途中ですぐに話が脱線し、自分が何をどこまで話していたか、分からなくなっている。
見ていればそれなりに面白かったが、それよりもマイコには、急激に睡魔が襲いかかって来ていた。今日一日、色々な事が有り過ぎて、脳も身体も疲れていたし、そもそも時差を考えずに飛行機の中でもずっと起きていたので、完全に限界に達していたのだ。