マイコ来日(6)
新居
そしてマイコは、半ば強制的に手を引かれ、携端契約窓口を訪れた。大阪府内には異常な数の通信会社があり、大いに迷うところだったのだが、マルシアの親友である紗季と同じ会社を選んだ。その方が、相互通信で利便性の高い機能を共用できるためである。
携端を持ち、電脳通信網を利用するには、機器に住民登録証明を読み込ませる必要がある。勿論、電脳犯罪を防止するためである。日常では、通信相手に素性を隠しておけるが、警察が許可を得て追跡を掛けると、即座に素性が分かるようになっているのだ。これも今や、どんな国でも常識的な制度である。
しかし日本は、電脳網管理に極めて否定的な国で、警察も、民間人からの執拗な通報で初めて重い腰を上げ、明らかに犯罪だと確認されない限り、逮捕も警告もしない上に、凶悪犯罪以外はほぼ無視してしまう。
因みに、対照的なのが、隣国である支那。電脳網は一党独裁の『民主党』が完全管理し、人民の日常の全てを、党が厳格に監視している。少しでも犯罪の兆候がある人物を発見したら、即、逮捕であり、その管理・運用能力は、人民達を強力に支配している・・・
・・・筈なのに、一方では、電脳犯罪(詐欺や違法取引等)の質も規模も、今だに世界最上級である。そもそも『中華民主主義人民共和国』という国名自体が、詐欺だ。
そして、マルシア達は通行証を持っているので、この窓口で簡単に外国人登録が出来、証明導入済みの携端を渡された。わざわざ区役所へ足を運ばなくてもよかったのだ。マルシアは、機種や色や機能等を自由に選べたが、マイコは、学生専用認定を受けた物の中からしか選べなかった。それでもマイコは、生まれて初めて携端を持てた事が、非常に嬉しかった。
今迄は防犯器(警笛と閃光と通報の機能がある。現代では成人男子でも携帯しているが、携端普及率が極端に高い日本では、殆ど見掛けない)を持たされていた程度だったのだ。
携端は今や世界中で生活必需品となっているが、子供でもそれを持っているのは、世界的に見て、富裕層と日本人くらいなのである。
学生用と一般用は、利用制限の度合いに結構差がある。電脳網上の成人向け項目へは当然接続出来ないし、文字入力方式も、学習の為に手書き限定である。親からは位置情報を自由に掴まれてしまう(一般用では、本人による許可制。立体的な位置情報が分かるため、立体都市でも居場所が正確に分かる上に、電源を切られても追跡可能)し、学校での授業中は、許可された教材や帳面の機能以外は使えなくなる(授業から無断で抜け出しても、やはり教材しか使えない)。
マルシアはアメリカでも携端を持っていたが、日本の携端が世界中でほぼ使えるのに対し、逆はかなり使い辛い(僅かに対応機種あり)ので、出国時に解約し、携端内の個人資料のみを持ち込んでいた。
大雑把な説明をすると、普通の国では、電波方式が、都市型と過疎地型に分かれている程度であるのに対し、日本では、超都市型・都市型・郊外型・過疎地型・無人地型の五つに別れており、地域での使い分け区分が複雑過ぎるためである。
例えばアメリカの携端だと、日本では過疎地と平面都市(京都が代表的)だけでしか使えないという事になるが、旅行程度では貸出機が使えるので、大きな問題ではないのだ。
携端の契約を、これまた簡単に済ませてしまった二人。日本に来てから今迄、全てが迅速で何の遅滞も無く進んだ事に、マルシア達は改めて感心していた。
次に二人の新居へ紗季が案内してくれたのだが、入居手続きも、ほぼ済ませてあるという。
自走歩道で少し進み、次に自走歩道の無い細い脇道を進み、目的の西真砂楼へ、やはり数分で到着。住宅管理事務所へ顔を出し、住宅管理者(有資格業務)との面談(必要事項の口頭確認)の後、鍵を持った職員に部屋まで案内されたところで、入居手続き完了である。手続きの殆どは電脳網を通じて自動的に行われるが、この面談だけは、省略出来ない。これは、州法だけでなく、入国管理法や外国人管理法の規定でもあるのだ。
ここ真砂町は、東京時代末期時点では『西天満』という広い町のごく一部でしかなかったのだが、旧地名復興運動により、由緒ある地名に戻されたという経緯がある。とは言え、昔と今とでは、町域の割り方がかなり違っており、厳密に元の地名に戻すと、一つのビル内に複数の地名が同居する事例が多発する事となり、不便で分かり辛くなるので、町割りも現在の実態に合わせたものとなっている。
真砂町の場合は、道路で分けられた小区画が五つ。つまり、一番地から五番地まであるのだが、五区画全てが、各々一つずつのビルのみで構成されているため、殆ど実用的な意味を成さない『番地』は、省略して表現する事が一般的であり、これが北区全体にもほぼ当て嵌るため、一部では、番地廃止の意見もある。
地上面積で言えば、東京時代の区分よりも随分と細分化された訳だが、今の真砂町の方が、立体都市化直前当時の西天満二丁目全域よりも人口が多い(約千人)ような状態なので、一つの町として充分に機能しているのだ。
マイコ達の住居は西真砂楼の二十四階なので、昇降機で少し上部の階へ移動する。一般的に、空中歩道網より下の階は事業所の割合が多く、上の階へ行けば行く程、住宅の割合が増す。人の動きが空中歩道に集中し、物流は地面上の道路網が基幹となっている都合上、それが合理的なのだ。勿論、商業施設は、空中歩道網の階とその上下に集中している。
昇降機は小型と中型の二つ。小型が常用で、中型は貨物優先である。普通の押釦で呼び出すと、小型の方が必ず先に反応してやってくる。実はもう一台、小型快速という物があって、これは空中歩道のある階と上層階にしか停まらない。マイコ達の住居は中層階なので、上層階直前の第二空中歩道階までしか行かない小型が、普段利用する昇降機となる。
ビルの大きさに対して昇降機の数が三台というのは、多過ぎる気がしたマイコだが、大阪のビルは故郷のそれよりも遥かに高層故に、昇降機の需要も比例して多いのが当たり前、という事に気付く。
二十四階へ到着し、小規模な広間を横切って廊下へ出ると、その両側に住居の玄関がズラリと並んでいる。事故防止の為に、全てが引き戸方式である。開き戸にする場合は、開放時に扉の先端が壁面の外に出ないよう、予め壁面より内側に設置しなければならず、屋内面積がその分だけ削られるため、店舗の外観演出等以外には、あまり使われていない。
目的の十六号室の前に立ち、マルシアが鍵を開ける。
玄関の引き戸は、木製の桟で碁盤の目のようになっており、桟以外は真っ白である。丁度、障子のような形態で中は見えない。玄関の横手には窓もあったが、こちらも真っ白で、やはり中は見えなかった。
戸を引くと『ガラガラガラ』と、耳障りにならない程度の音が鳴った。音を消す工夫を省略しているのではない。事故防止のため、敢えて小さな音が出る構造なのである。
最初にマルシアが玄関をくぐり、小さな土間で靴を脱いで部屋へ上がった。
それを見て、やはりここは日本だと実感するマイコ。
確かにアメリカ人は、日本文化の影響を受けて、家屋で靴を脱ぐ機会も増えたが、これは流石に無い。
そう思った理由は、土間の高さである。土間の高さと、靴を脱いで上がる先の居間の高さが、殆ど同じなのだ。
アメリカ人は今でも、土間と居室の高低差が小さいと、無意識に土足で家屋へ入る。確認すら思いつかない。でもそれは、地面との区別が曖昧である以上、当たり前過ぎる話だ。地面から明確に離れていない場所で靴を脱ぐのは、子供以外なら誰でも抵抗があるだろう。
でも日本人は、もはや線を引いただけに等しいような粗末な区域でさえ、それを土間と認識し、当然の如くその区域内で靴を脱ぐ、という事なのだ。
超高層ビルに住むようになって、地面から遠ざかった事で、抵抗感が薄れたのかも知れない。
紗季に続いて、マイコも玄関をくぐると、非常に清潔で、意外に広い板の間が拡がっていた。日本の都市部は、人口密度が異常に高いのだが、建築物の高さがどれも破格の超高層であるため、人口当たり土地面積こそ狭小であるが、人口当たり延べ床面積の方は、案外常識的な水準なのだ。
部屋をぐるりと大きく見回すと、背後にある廊下側の窓が視野に入ったのだが、透明で外が見えた。
(あれ?)と思い、玄関を見ると、こちらも同じく木枠と桟以外は完全に透明で、すっかり廊下が見えており、居間に抜群の開放感を与えている。
居間の奥には、襖で隔たれた部屋が二つ並んでいる様子。
左側をマルシアが開くと、とてもいい匂いが充満している部屋だった。郊外へ遊びに行った時の干草の匂いを、上品にしたような感じだ。
そして、部屋の床を見て、目を見開くマイコ。
「ねえ、マルシア! これ、畳? 畳なの?」
「畳よ」
簡素なマルシアの答え。
驚くマイコ。勿論、畳の存在ぐらいは知っている。和食系の飲食店等では、たまに見掛ける。彼女が驚いたのは、どう見ても狭くて貧乏人向けに見える住居に、畳の間がある事なのだ。
アメリカ人は、日本人と違って、靴を脱いで部屋に上がる生活習慣がない。だから、彼らにとって畳の間とは、裸足になって寛ぐだけのために、わざわざ別に部屋を用意するという感覚なので、要するに、ちょっとした贅沢なのだ。
「こんな狭い家なのに、畳の間があるなんて、見栄っ張りだわ」
マイコはこんな風に誤認していた。
畳の間はとても狭かった(台目三畳。四畳半の丁度半分の広さであり、非常時には二人分の寝床にもなるため、個人の部屋としては最も普及している。台目一畳は四分の三畳である)が、奥に壁面全体を使った大窓があり、向かいのビルの濃緑の壁面が、大映しに見えた。
左右両面は、どちらも襖である。
マルシアが左側の襖を開くと、押入れだった。こちらの面は全て押入れなので、部屋の狭さの割に、収納力がかなり高い。
今度は右側の襖を開けると、こちらも台目三畳だった。
「また畳だわ!」
部屋へ足を踏み入れ、更に右の襖を開けると、やはり押入れだ。左の部屋とは左右対称の構造となっている事が分かる。ただ、こちらの方は押入れ面積がやや狭かった。
「こっちが、マイコの部屋ね」
押入れ面積の差が、決定要因だろう。
少し戸惑うマイコ。広さから言って、ベッドを一つ置けば、ほぼ部屋が埋まってしまう。これでは子供部屋と言うより、襖で仕切られた寝床である。
とは言え、マルシアもほぼ同じ広さの部屋になるので、文句は言えない。
居間は結構広いので、個人の自立よりも家族団欒を重視した、いかにも日本的な間取り。
・・・とでも言えばいいのだろうか。
マルシアが部屋から大窓を開けて、簀子を敷き詰めた縁側へ足を踏み入れる。
三人で縁側に入ると、風が流れていて、結構涼しい。
振り返って大窓を横目で見ると、やはり玄関と同じく真っ白で、部屋の中が見えないようになっていた。
仕組みが分からないマイコは、魔法か何かのように感じていた。
ここへは、両方の部屋から出入りできる。
外側へは、透明の壁が、マイコの肩辺りの高さまであり、そこから上は空いているが、目の大きな網が張ってあり、人間は通れなくなっている。転落事故防止網、・・・当然、自殺防止も含んでいるのであろう。
壁は、手摺部分と桟以外が透明なので、複雑に絡まって生えている蔓草の隙間から、階下方向もよく見える。
数階分下に空中歩道の屋根が見える。歩道からは各ビルへ渡り廊下が繋げられている。そして、歩道の隙間の遥か下には車道が見え、自動車が頻繁に出入りしている。この高さからだと、あまりにも小さ過ぎて、まるで多彩な蟻のように見える。
空の方を見上げると、向かいのビルの壁に遮られて、遥か真上の方角にしか、空が見えない。左右どちらの方向も、ずっと壁が連なっているのみで、あまり遠くは見渡せない。
窓を除く壁面には、ぎっしりと蔓草が覆い茂っているので、まだ見慣れていないマイコには、かなり不気味な光景に映っていた。
ただ、その蔓草のお陰か、こんな過密都市の中なのに、空気は綺麗で悪臭が全く漂っていない。
それどころか、薬草系の蔓草も多いようで、時折、風に乗って、非常に心地良い香りが漂って来る。
この過密都市の物流を支える、膨大な数量の自動車が、全て電気自動車である事も、大気汚染の少ない重大な要因の一つである。
居間へ戻ると、左右の壁面のほぼ全面が納戸で、やはり収納空間が充実している事が分かった。居間の片隅には、洗面台が隠れるように設置されている。
そこでようやく、マイコは妙な点に気付いた。
「厠はどこ?」
「気付かなかった? 昇降機の側よ」
簡単に答えるマルシア。
言われた意味が暫く理解出来ないマイコ。
「大丈夫よ、洋式もあるから」
紗季が頓珍漢な補足をした。
どうやら各個の住居の中には無くて、共同らしい。
随分と変わった集合住宅だと思うマイコだが、日本の都市部ではそれが標準である。設備管理が容易で全体の費用も安く、利用効率も高いため、厠は共同が当たり前なのだ。
「台所は?」
「無いわ」
これまた簡潔な返事。
マイコは肩を竦めて言った。
「宅配ピザは好きだけど、毎日はちょっと・・・」
マルシアも肩を竦めて首を傾げる。
「宅配なんてあったかしら?」
「乳児母子向けの宅配があるわ!」
さも名案であるかのように、紗季が言った。ここは大阪名物『ツッコミ』を入れるべきなのだろうか?
日本の都市住民は殆ど自炊をせず、外食か弁当が日常である。そしてどちらも、昇降機で空中歩道階付近へ行けば、幾らでも需要を満たせるので、宅配など殆ど必要ないのだ。
建築物自体は難燃性なのだが、個々の生活空間には、燃える物など幾らでもあるため、一般家庭では火気厳禁である。超高層ビルが殆どであるため、万が一にでも、火災が起きた場合、被害の拡大による損失が膨大になるためだ。
そのため、一般家庭で認められるのは、乳幼児にも優しい温め器や軟弱な湯沸し器や冷蔵庫くらいで、いずれも、高温の発生が絶対に起きないような低性能品しか認められていない。
「じゃあ、シャワーは?」
「銭湯も貸しシャワーも、いっぱいあるわ」
これも勿論、火災防止の為である。
更にもう一点。水道の蛇口が、洗面台と縁側以外には見当たらず、縁側の方は、『消防法の規定により、通行の妨げになる物を置かないように』と、書いてあった。非常時には、隣家との障壁が取り外され、縁側が避難経路となるのだ。
当然、マイコは尋ねてみる。
「洗濯機はどこに置くの?」
やはりマルシアは、簡潔に答える。
「置かないわ。最上階辺りに洗濯業者が集まってるから、自由に選べるのよ」
これも、『立体都市の人口密度の高さが可能にした、薄利多売型洗濯業の発達』という現象であるが、これにはもう一つ、立体都市の特徴が絡んでいる。
立体都市は、全体にビルの規模が大きく、高さも非常に高い。そして、空中歩道網を張り巡らせている。マイコ達の住む西日本最大の都心部ともなると、空中歩道網が全部で三層もある。最下層が大阪立体都市圏全域に拡がる主力歩道網。二層目が主要な都心部のみ網羅する局地歩道網で、これは大阪中心部の場合、北は中津から南は阿倍野までを網羅する、やや広域な歩道網となる。そして、最上部の三層目の歩道網は、梅田と難波の二箇所にしかない、超中核地歩道網である。
そして、洗濯業者の利用率は、空中歩道網が充実している地域程、顕著に高い。
要するに、日照量が不足するのである。
一連の会話を通じて、マイコが理解した事がある。
家事はしなくていいという事だ。
アメリカに居た時は、大雑把ながらも家事を手伝っていた。マルシアは、地元でも有名な秀才だったが、勉強ばかりしていて、家事は全く出来ないのだ。
これからはもっと遊ぶ時間が増えるので、嬉しい半面、何となく寂しくもあった。
最後にマイコは、期待を込めて確認してみる。
「で、掃除は清掃業者を呼べばいいのね?」
しかしマルシアは、ニヤリと笑い、首を横に振った。
「私の部屋以外の掃除は、あなたの仕事よ」
参拝
住居を見た後は、大阪天満宮へ参拝に行く事になった。
日本人は、旅行や転居等での行き先で、必ず地元の神社に参拝する習慣があるという。信じ難い事に、キリスト教徒や仏教徒のような宗教信者でも、狂信的な原理主義者以外は、何の疑問も持たずに参拝するらしいので、マイコも敢えて異議は唱えなかった。
教養が高くて宗教に懐疑的だったマルシアは、留学して暫くすると、『信仰を神道に変える』と宣言したが、マイコが今思い起こすと、これは驚嘆すべき出来事だった。
信じる神を鞍替えするという、最低最悪な無節操を行ったからではない。
日本人には到底理解出来ないかも知れないが、日本以外の世界では、『信仰は、人間として最低限持つべき道徳規範の源泉』だと考える思想が、極めて一般的だ。
どんな国に行っても、『他宗教』ならば一定の距離を置かれつつも表向きは尊重され、『無神論者』だと言えば、頭の良い変人扱いされて露骨に敬遠されるのみだが、『無宗教』などと言おうものなら、人間として欠陥品であるかのような、酷い差別扱いを受けてしまう。
しかし、マルシアの考えは違う。信仰意識に無頓着で、事実上『無宗教』と言っても過言ではない日本人が、世界中の宗教民族を押しのけて、随一の高い道徳心を保持している事を指摘し、『宗教と道徳心は無関係!』と大いに断言していた。
だからマイコは、仮面カトリカであった姉なら、無神論者宣言が妥協点だと思っていた。
要するに、姉が信仰を持つと宣言した事自体が、有り得ない方向転換であり、驚きなのだ。
大阪天満宮へは、自走歩道を使って、やはり数分の距離だという。普通に歩いているだけで、自転車を漕いでいる人と同じ速さで移動出来る上に、疲れないという、この便利さは実に有難い。
道中、歩道脇のちょっとした空地に、どう見ても路上生活者としか考えられないような、汚らしい風体の小集団が座り込んでいた。
それを見たマイコは、目を見開く。そして、話が違うと言わんばかりに、マルシアに詰め寄った。
「日本には、富裕層も貧困層も無いんでしょ?」
マルシアは、彼らを一瞥すると、困ったように言った。
「あれねぇ・・・貧困層とは無関係なのよ」
何やら曖昧な口調なので、不信の目を向けるマイコ。
「じゃあ、あれは何? 趣味? それとも幽霊か何か?」
どう見てもそうじゃ無いでしょ、と目で訴える。
仕方なくマルシアは、財布から小銭を取り出し、マイコに手渡した。
「行けば分かるわ」
マイコは、勝ち誇ったようにそれを受け取ると、路上生活者達の元へ近付いた。
彼女は熱心なカトリカではないし、家も決して裕福ではなかったが、生活に困っている人に施しをする事が善行だという常識感覚ぐらいは、ちゃんと持っていた。
最貧層の住人は、犯罪に手を染める人間が極めて多い。しかし、路上生活を選ぶような『無気力な最貧層』には、危険人物が少ない事も、肌で理解していたので、別に怖くはなかった。
それよりもマイコは今、少々不愉快な気分になっていた。
それは、路上生活者の傍を通り掛かる日本人が、誰一人として、目の前の哀れな人達に、施しをしない事だった。誰も彼もが、何の躊躇いすら見せず、完全無視なのである。
(日本人の親切って、どうやら上辺だけのようね!)
彼らへの失望を感じつつ、路上生活者達の傍まで辿り着く。
(えっと・・・何て声を掛ければいいのかしら?)
マイコは、日本語にも『神』という適用範囲の広い便利な単語がある事を思い出した。
小銭を一人の目の前に放り投げ、声を掛ける。
「あなたに、神の御加護がありますように」
マイコは、彼が日本式のお辞儀をして、「お嬢さんにも、神の御加護を」と返してくる事を予想した。
だが実際は、想定外の出来事が起こった。
髪や髭を生やし放題にしていた彼は、小銭をつまみ上げて首を傾げながら言った。
「神の御加護?・・・ああ、勘違いしてるんだね。ここは神社ではないよ、お嬢ちゃん」
そして、マイコの服の衣嚢に、ヒョイと小銭を放り込んだのだ。
どう見ても、『もっと高額な施しを寄越しやがれ!』という意思表示には見えない。
どう切り返すべきなのか分からず、マイコは取り敢えず応じた。
「・・・今から神社に行くところなの」
「そう。いい子だね」
微笑むおじさん。
訳が分からず、すごすごとマルシアの元へ戻るマイコ。
「お金・・・返された」
マイコは、小銭をマルシアに返した。
歩きながら、マルシアが言う。
「彼らは、自発的な路上生活者なのよ」
姉があまりにも馬鹿げた事を言い出したので、マイコは一瞬耳を疑い、そして当然、反発した。
「はぁ~? どこの世界に、進んで路上生活者になりたがるような、頭のおかしい人間がいるっていうのよ!」
誰だって、路上生活なんて、最低最悪の手段だと思うのは常識であろう。無慈悲な人間からの暴力を受ける危険は常にあるし、少しでも金目の物を持つ機会があれば、すぐに盗まれるだろうし、気候が変われば、疫病や凍死や熱中症等で命を落とす事も、決して珍しくはない。あまりにも貧困を強いられ、それしか生きる手段の無い人々が、全くもって不本意に路上生活をするのが、世間の実態ではないか。
しかしマルシアは、冷静に説明した。
「言ったでしょ、この国には貧困層が無いって。犯罪発生率も世界一低いから、路上で寝ていても、何の危険も無いのよ。立体都市の中にいれば、気候が悪化しても平気だし。そうね、・・・例えば、高級住宅街の中に空いた小屋があって、そこに住み着いた貧民が自分だけで、他には貧民がいないとしたら、危険かしら?」
一気に疑念が霧散するマイコ。
だが彼女は、ニヤリと笑い、機転を利かせて応じた。
「即座に、町の外へつまみ出されるわね」
当然である。
「日本全体が高級住宅街みたいな物だし、彼らも日本国民だから、つまみ出せないのよ」
マルシアが、笑いながら答えた。
しかしマイコには、まだ納得出来ない点がある。
「日本人は皆、お金持ちって事ね。じゃあ、どうして彼らに生活保護を与えたり、仕事を与えたりしないの? 余裕あるでしょ?」
普通の国は、一握りの金持ちと、その何倍もいる中間層と、その更に何倍もの圧倒的多数の貧困層、という貧富の階層差があり、政府には、貧困層の救済を充分に行う意思が仮にあっても、余裕は全く無い、という現実がある。余裕のある富裕層からどれだけ援助を引き出せるかが、政治家にとっての存続基盤である、アメリカのような民主主義国は、まだマシな部類なのだ。
マルシアが返答に困る。いくら秀才の彼女でも、日本の事をそこまで踏み込んだ質問に答えるには、少々知識が不足していた。
代わりに、今度は紗季が答えてくれた。
「生活保護は充実してるわよ。日本国民なら誰でも、無収入なら『生活保護者寮』に入る事が出来るの。だから、絶対に衣食住で困る事は無いわ。
でも、あまりにも充実し過ぎていたら、誰もちゃんと働かなくなるでしょ。だから、生保寮に入っても、一切、現金は渡されないし、仮に、外部からお金を受け取った場合は、厳しく罰せられるの。
それに、生活に関わる労働は全て共同分担で、殆ど専門業者を雇っていないし、寮の生活規則は厳しいし、健康に問題の無い人なら、毎日、社会福祉労働に駆り出されるわ。つまり、衣食住保証のタダ働きをさせられるの。
だから、本当に生活保護が必要な人だけが、生保寮に残って、それ以外の人は、仕事を見付けてサッサと出て行くわね。本当の生活困窮者と実際に生活した彼らの殆どは、心を入れ替えて真面目に働くし、運命を感じて福祉の仕事を選ぶ人も多いのよ。
だから結局、健康なのに生保寮も就職も嫌な人だけが、路上生活者になるの。家賃も要らないし、お金が無くなったら必要な分だけ働けばいいから。
日本は海で隔てられた島国で、外国からの不法入国労働者がとても少ないから、不本意な失業が殆ど無くて、逆に、働く人が不足気味なの。だから、職種を選びさえしなければ、いつでも条件の良い仕事が見つかるのよ」
そんな紗季の説明に、深く感心してしまったマイコ。さすがはマルシアの親友である。
内容は少し難しかったが、知的好奇心を大いに刺激され、沢山の質問が思い浮かんだが、思考は中断された。
「もう着くわよ」
マルシアがそう告げたのだ。
新しい携端で確認すると、大阪天満宮の敷地内には、一切の高層建築物が無く、周囲を高層ビルが取り囲むような形態となっている。
しかし、その姿を窓から見下ろす事は出来ず、社殿を見ることが出来たのは、実際に敷地内へ入ってからだった。
空中歩道の脇道から連絡通路を経て、参拝楼という小振りなビルに入り、昇降機で一気に地上へ降りる。
「やっと、日本に上陸したわね」
マルシアが冗談めかして言う。
考えてみれば確かに、日本に来て初めて、地上へ降り立った事になる。
少しだけ通路を歩くと、明るい場所へ抜けた。外へ出たのだ。
広い敷地内に、樹木や記念碑、異国情緒たっぷりの古風な超低層建築が点在し、多くの人々で賑わっている。
何よりも良かったのは、超高層ビルに囲まれているとは言え、空が広く、日本に来て最も開放感があった事だ。
ぐるりと取り囲むビル群を見回すと、窓が無い事に気付いた。ほぼ全面に蔓草が覆っているので、すぐに分かる。この国の超高層ビルは、建築素材の剛性が極めて高いため、全般に窓が広い。そのため、窓が無いと逆に、とても目立つのだ。非常用らしき通路や階段、よく見れば出口もあったが、建物のごく低い部分以外、窓は一切無い。
神社周辺の住人が、社殿を見下ろす事を憚っているためだ。
『地元の住人が神社を軽んじている』と見做されると、神社の威厳が損なわれるので、このように配慮されているのだ。
建築群の屋根は、緑が基調(銅板で出来ているらしい)の、現代建築には無さそうな優美な姿だ。特に本殿は規模が大きく、幾重にも屋根が重なる複雑な構成が大きく目を引く。しかもこれらの建築物群、極めて古い建築様式を保っていながら、実に清潔なのだ。一般的に歴史的建造物というものは、過去の遺物故に、当然古びており、しかも観光客向けのあざとい商売の匂いがするものなのだが、ここには、日常の生活感があり、建築物も明らかに『生きている』。
本殿の前に行くと、人々が賽銭箱にお金を投げ入れ、各々何かを祈っていた。
マルシアと紗季も、財布を出し、小銭を取り出す。
マルシアは、小銭の一枚をマイコに手渡した。
それをじっくり観察した結果、眉を顰めるマイコ。
「五円?」
中心に穴が開けられ、意匠も非常に凝った、しかも金色に輝く、非常に芸術性の高い硬貨である。
例えば、何も知らない外国人ならば、この硬貨一枚で、少なくとも昼飯くらいは食えるだろうと推測する筈だ。
ところが事実は違う。この硬貨は、お釣り用にすら近年は殆ど使われていない、もはや無くても困らないような、最小額補助貨幣なのである。
つまりマイコは、寄進する額としては少な過ぎて、『神様に対して失礼なのでは?』と思ったのだ。例えば、ボロを纏った極貧の老人なら許されるだろうが、通常は白い目で見られるのでは? 事情があって参拝を欠席する方が、恥ずかしい思いをしないだけマシなのでは? とマイコは疑問に思う。
「五円玉は、『ご縁』に繋がるから、縁起が良いとされてるのよ」
平然と解説するマルシア。
半信半疑で他の人々を見回すと、マルシアの言う通り、小額貨幣を投げ入れる人が殆どだが、中には紙幣を投げ入れる人もいた。
一応は安心するマイコ。
参拝の手順については、彼らの所作を見てすぐに覚えた。
「何をお祈りすればいいの?」
尤もな疑問だ。観察するだけでは、分かる筈もない。
「何でもいいわ。・・・願い事が一般的ね」
無欲な神様である。帰依の誓いや賛美の言葉も要らないらしい。
それならばと、早速、手順通りにお祈りを始めたマイコ。
マルシアと紗季も後に続く。
「マイコは、何をお願いしたの?」
お祈りを終えた直後、マルシアが尋ねてきた。
「男前で有能なお金持ち、しかも私に絶対服従する相手と結婚して、一生贅沢に過ごせるようにって、お願いしたわ!」
カミサマでも赤字必至の五円祈願を、明瞭快活に告白するマイコ。
そして、無邪気にマルシアへ反問する。
「じゃあ、マルシアは何をお願いしたの?」
そんな問いにマルシアは、牙を剥いて微笑すると、嬉しそうに告げた。
「・・・お願い事はね、他人に喋ると実現しなくなるのよ」
当然、腹を立てるマイコだったが、気を取り直し、続いて帰ってきた紗季に尋ねてみた。
「紗季は、何をお願いしたの?」
「え? 何もしてないわ」
紗季が即答したが、疑うマイコ。
「やっぱり、内緒なの?」
「本当に何もお願いはしてないわ。マイコは?」
首を傾げ、反問する紗季。
マイコは、勢い込んで、
「私はね!・・・・」
・・・うっかり、また喋るところだった。
「じゃあ、夕食食べに行こうか。今日は入国祝いだから、豪華にいくわよ」
マルシアが提案したので、尋ねてみる。
「参拝はもう終わり?」
教会でのミサのような説法や、長いお祈りが無いので、拍子抜けしたのだ。
「終わりよ」
さらりと答えるマルシア。
「毎週、来るの?」
実母であるマルシアの信仰である以上、従わなければならない(信仰の自由なんて、現実問題として、家族の間では通用しないに決まっている)ので、確認する。
「必ず来るのは正月の初詣だけで、あとは・・・殆ど来ないわね。まあ、機会があった時だけよ」
マイコは、マルシアが神道に帰依した理由を、正確に推察し、呟いた。
「・・・要するに、楽だから良いのね」
面白い参拝客もいた。三十代程度と思しき男性が、大量の五円玉を、ジャラジャラと派手な音を立てて、投げ入れていたのだ。
「なんで、わざわざ五円玉ばかり使うのかしら?」
マイコがそう言うと、マルシアが意地悪な笑みを浮かべ、スペイン語で囁いた。
「きっと、切実に『ご縁』を願ってるのよ」
マイコは、熱心に祈る男性の顔を改めて見て、率直な感想を言う。
「確かに、不細工な男ね」
さすがに、マルシアが慌ててマイコの口を塞いだ。
マルシアの配慮も虚しく、あろうことか、日本語で言ったからだ。