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マイコ来日(5)


  遭遇


 突然、少年達の一団に取り囲まれたマイコ。

 以前、日本の安全性について、マルシアが表現していた言葉を思い出す。

『宝石で着飾った三歳女児が、一人で裏路地を歩いていても、何の犯罪も起きない国なのよ』

(マルシアの、大嘘つき! 私は宝石で着飾ってなんかいないし、もう十歳なのよ! しかもここは裏路地ですらないわ!)

 心の中で、知ったか振りな姉を罵倒した。

 大いに恐慌状態に陥ったマイコは、この状況を何とか打破すべく、流暢な日本語でまくし立てた。

「い・・・いくら私が可愛いからと言って、強姦はいけないわ! あなた達にとっては、ほんの遊びのつもりかも知れないけど、重大な犯罪行為なのよ。被害を受けた側にも、一生心の傷を負わせる事になるわ。それよりも、もっと穏健で、お互いが幸せになる方法を考えましょう。そうね・・・まずは友達になりましょう。それならば、それから後に恋人同士になる事も、充分に考えられるでしょ? 我ながらとても魅力的な提案だと思うわ。私が男なら、間違いなく快諾するところね。そもそも、こんな場面でも、あなた達の事を考慮してあげたんだから、本当なら感謝するべきなのよ」

 口を半開きにして呆然とする面々。

「ねえ、お兄ちゃん、『ゴーカン』って何?」

 桃香が、一誠に尋ねる。先程、健太に嫌なところを突かれたので、元の呼び方に戻していた。

 当然、十八歳の一誠は意味を知っているが、どう答えても間が抜けているような気がしたので、微妙な笑みを浮かべて、はぐらかした。

「・・・俺も、それを聞こうと思ってたところだ」

「明らかに減点ね。とても、お姫様とは思えないわ」

 梢枝が呆れたように首を横に振る。

 何やら話が噛み合わない様子なので、首を傾げ、再びまくし立てるマイコ。

「お金が目当てなの? 残念だけど、今は無いわ。家が貧乏なの。でも、姉は物凄い秀才で、私も秀才になる予定なの。だから、高い学歴を手にした暁には、一緒に事業を立ち上げましょう。それまで私と仲良くしておくのは、あなた達の将来にとって、とても有益な事よ。どう? ここまで妥協するのは、あなた達が初めてなのよ」

 それでも、ただマイコをぼんやり見つめているだけの面々。

 ようやく、一誠が声を上げた。

「お前かぁ? この子に変な日本語を教えたのは!」

 背後にいた大男の雄司を、冗談で責める。

 突然の理不尽な糾弾に、雄司が目を丸くして首を横に振る。

「ち・・・違うよ、僕は何もしてないよ!」

 他の面々が、面白がってゲラゲラ笑った。

 暫くその様子を注視していたマイコだったが、彼らの態度には、悪意はおろか、緊張感すらも全く感じ取れなかった。

 どうやら、安心して良さそうだと、マイコは理解する。

 場の空気が和んだところで、雄司がマイコに懇願した。

「・・・じゃあ、僕の恋人になってくれる?」

 他の面々が、ある者は面食らい、ある者は吹き出しそうになり、あるいは首を横に振って呆れる者、面白がってマイコの反応を注視する者、等々、様々な反応をする。

「小学生を口説く大学生って、こんな身近にいたんだ・・・」

 面白がって雅彦が呟く。勿論、褒めていない。

「お前、『日向ちゃん』はどうしたんだ?」

 信也が、やはりニヤけながら横槍を入れ、雄司が困ったように、愛想笑いを返す。

 彼が実は気が弱いと見抜いたマイコは、高飛車な態度で言い放った。

「駄目よ。あなたは好みじゃ無いもの。修行が足りないわよ。まずは、私の言う事を何でも聞くことから、始めなさいね!」

 再び爆笑する面々。

「残念ね、子供にまで振られるなんて。それにしても、この子、本当に賢いようね。さっきから全然、自動通訳を使ってないわよ」

 健太がそう言う。

 現代は、自動翻・通訳が世界中に普及しているため、翻訳家や通訳業者等の殆どが失業し、外国語学習者も大幅に激減したが、その反面、自動翻訳・通訳を影で支える技師や管理者には、要求される言語能力や知的能力が、極めて高度化している。

 改めてマイコが健太の姿をよく見ると、背が高く、体型も美麗で、顔立ちも突出して美人だった。

(まあ、凄く綺麗だわ! ・・・私とは系統が違う美人ね)

 心の中で密かに、負け惜しみを言うマイコ。

「じゃあ君は、この中では誰が好みなんだい?」

 温和そうな少年、雅彦が、やはり楽しそうに尋ねてきた。

 マイコが見回すと、もう一人、凛々しい顔立ちの少年がいた。無口で無愛想な印象を持つ信也だ。

 しかしマイコは、迷わず統率者と思しき一誠を選んだ。頭が良さそうだし、少なくとも代表を味方に付ければ、一番安心だと思ったのだ。

「あなたよ。・・・あなただったら、恋人候補にしてあげても良いわ」

 高飛車に指を差された一誠だったが、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「お前、男を見る目があるな」

 不服そうな他の面々。

「一番美しいのは私よ!」健太

「そうよ。それすら分からないなんて、只の子供だわ」梢枝

「身長は僕が一番なのに・・・」雄司

「俺の方が料理上手だ」信也

 しかし、最も不服そうなのは、桃香だった。

 兄を渡すまいと、しがみつく。

 一誠は、そんな妹の頭を撫でながら、馬鹿げた冗談でマイコに応じた。

「俺達はヘンタイ兄妹なんだ。仲を裂けるかな?」

 眉をひそめるマイコ。

 満面の笑みで兄の横顔を見上げる桃香。彼女は『変態』扱いでも構わないのだろうか?

 しかし一誠は、コロリと話題を変えて尋ねてきた。

「で、お前、迷子なんだろ?」

 思わず目を見開くマイコ。他の面々も彼に瞠目する。

 しかし、一誠にとってこんなものは、推理でも何でも無かった。外国人の子供が、地元以外の場所を一人で歩き回る事は、絶対に無いと知っていたからだ。

(どうして分かったのかしら?)

 ところが迂闊にも、心を動かされてしまうマイコ。一誠のことを、観察力か推理力に優れている人物だと判断したのだ。

 というわけで、早速、お手並み拝見である。

「じゃあ、私を助ける事が出来るのかしら?」

 自分と保護者の名前と出身、今のマイコが教えられる手掛かりは、これくらいのものだ。

(さあ、どうするのかしら?)

 興味津々で待つマイコ。

 彼女の考えでは、『交番へ連れて行く』という選択は、安直過ぎて不合格である。

 ところが一誠が発した言葉は、予想外だった。

「数秒あれば充分さ」

「???」

 彼が何をするつもりなのか、見当もつかないマイコ。

 彼は、マイコに指示を出した。

「ほんの数秒、目をつぶってくれないか?」

 少しだけ怖かったが、自信に満ちたその態度に賭けてみる。

 目をつぶって暫く待っていると、頬と額を何度か撫でられるような感触があったが、それ以外は特に何も起きなかった。

「これで大丈夫。目を開けていいよ」

 ゆっくり目を開けるマイコ。

 やはり、別に変わった様子は無い。

 他の面々も、少し微笑んでいるだけだ。

 何となく、全員の表情が不自然ではあった。

「じゃあ、行こうか」

 一誠が皆に声を掛け、全員が立ち去ろうとする。

 何が何だか、さっぱり分からないマイコ。

「ちょっと! 待ちなさいよ!」

 背中に声を掛けると、一誠が振り向いて言った。

「必ずまた会えるよ、お嬢ちゃん」

 角を曲がった彼らの姿が、見えなくなる。

 あとは、何やら楽しそうな大きな笑い声が、マイコの耳に聞こえてきただけだった。

(・・・意味不明だわ)


  捜索


「交番に行きましょう!」

 広間近辺を一通り探し回った後、紗季が『安直な』提案をした。

 どうしても、マイコを見つけられなかったのだ。

 彼女には真っ先に携端を持たせる必要がある事は、マルシアもちゃんと分かっていた。日本の街を携端無しで生活する事など、不可能とまでは言わないが、かなり熟達しないと、意外なところで重大な不便を強いられる。だから、一番最初に向かっていたのは、携端通信会社の窓口だったのだ。

 ところがマイコは、見事に先手を打ってきたのだ。・・・勿論、不本意に、ではあるが。

「交番・・・ねぇ・・・」

 随分と簡単に警察に頼ろうとする紗季だったが、マルシアは躊躇した。警察には良い印象を持っていないのだ。決して、自身が犯罪に手を染めているからではない。常識的感覚の問題なのだ。

 外国人の日本人論には色々あるが、彼らが『善良』だという評価は、世界中の誰もが概ね納得する。だが、『警察官も善良だ』とまで言われると、素直には納得できない。社会の善悪に関して強力な判断権限を持っている彼らが、それを利用しないで無私に振る舞う事など、期待する方がおかしい。それならば、裁判官も弁護士も失業者続出である。

 とは言え、マルシアはもう一つの常識も深く理解していた。

『日本には、世界の常識が通用しない』

・・・という常識である。

 かくしてマルシアは、紗季に連れられて、交番へと向かった。自ら無実の罪で逮捕されに行くような、嫌な感覚を抱きながら。

 日本は、人口当たり警察官人員が、世界最少級である。だから当然、派出所や交番の数も少なく、地方の自治体では、専任の警察官がいない場所も珍しくない。

 しかしここは、世界でも有数の繁華街であり、人口密度も極めて高く、規模も巨大だ。そのため、交番の設置密度も、日本の都市としては例外的に高い。

 マルシアが連れて行かれたのは、彼女もよく知っている地元の交番、『曽根崎交番』である。ただし、梅田地区の中心地にあるこの建物自体は、大阪府北区全体の治安維持を統括する、『曽根崎警察署閣』(『閣』は、官公庁や企業本社集積ビル等の、お固いビルを表す)であり、交番はその中のほんの一区画に過ぎない。

 立体都市化以前は地下街にあった交番だったが、今は第一層空中歩道網と同じ階へ移転していた。時代の変遷である。

 とは言え、目の前のこの光景は、昔とあまり変わっていないと言われている。

 何と、昔も今も、人々の待ち合わせ拠点なのだ。

 空中歩道の集散地点である交番前広間はおろか、建物内の窓口広間にまで、老若男女問わず、様々な人々が集まっている。

 留学生の頃から知ってはいたが、やはりこの光景は、マルシアにとって『異国』である。地域を統括する警察署の前に、単なる待ち合わせ目的で、人々が集まる・・・。しかも、忙しく立ち働く警察官達の周囲で、暇そうに談笑したり、携端で本を読んだりブラブラ歩きまわったりしているのだ。

 それなのに警官達は、誰一人として不快な表情を見せず、暇人達を追い払おうともせず、平然と仕事をこなしている。

 マルシアは以前、「どうしてわざわざ、警察署の前を待ち合わせ場所にするの?」と尋ねた事があるが、返って来た答えは「便利だし、分かり易いでしょ」と、実に単純な理由だった。普通の国では畏怖か嫌悪の対象となっている警察も、この国では空気的存在なのだ。

 大きく開け放たれたままの玄関をくぐり、緩んだ表情をした人々の間を抜けて、相談窓口へ辿り着いた。

「いらっしゃいませ、どのようなご相談ですか?」

 若い男性警察官が気さくに応じる。

 とても警官とは思えないような、快活で丁寧な応対だ。

 一応、これには理由がある。今の日本では、公務の殆どで終身雇用が廃止されているが、専門職である警察官も基本的には例外ではなく、彼らは民間企業の出身者も多い。つまり、一般的な接客態度がごく普通に普及しており、接客業務未経験者の場合は、ちゃんと接遇研修も受けているのだ。

「・・・」

 やはり躊躇するマルシアに代わり、紗季が要件を切り出す。

「迷子を探して欲しいんですけど」

 警官は相槌をうち、椅子に腰掛けると、二人にも着席を促し、慣れた様子で応じてきた。

「迷子になられた方の、お名前と生年月日とご住所をお願いします」

 紗季が目で促し、マルシアがようやく口を開く。

「マイコ・ロハス、皇紀二七六四年三月一日生まれ、住所は・・・」

 生まれ年を、西暦から皇紀へと素早く換算出来たのは良かったが、まだ新住所は知らない。

「彼女達は、アメリカから今日、入国したばかりなんです。入居予定の住所は、北区真砂町西真砂楼二四-一六です。マイコはまだ携端を持っていないので、探す事が出来なくて・・・」

 助け舟を出す紗季。マルシア達の新居は、アメリカ総領事館閣のすぐ東隣という好立地で、アメリカ人が住みたがるビルの有力な一つなのだが、外国人の集住を禁止している(外交・領事従業者指定住宅は除く)日本の法律により、実際に入居出来る世帯数は、非常に限定されている。因みに西真砂楼の『楼』とは、お固くない普通のビルの事である。

 耳を傾けつつ、机上の電端(非携帯型電脳端末)へ情報を入力する警官。

「マルシア・ロハスさん・・・ですか?」

 入力を終えて、マルシアに確認する。

「はい!」

 驚くマルシア。しかし、考えてみれば、自分がここに来ている事は、日本政府が掌握している事項であり、通行証申請時に提出した立体映像も登録されているので、顔や姿も当然分かるのだ。

「迷子の該当には、今のところ見当たりませんが・・・」

 チラリと電端画面を確認した警官は、口調を明るく変えて告げた。

「あ、今、見つかりましたよ。案内します」

 あまりの呆気なさに、拍子抜けするマルシア。

 府内の各ビルには、自主的に取り付けられた防犯用監視撮影機があり、空中歩道や車道にも要所にそれが設置されている。そして、その情報は全て直接警察署の電脳網に届く。マイコの立体映像を、その全情報の中から自動検索した結果、彼女が無事に見つけ出されたのだ。

 事務所から出て、マルシア達を先導する警官。

 彼が携端を確認しながら進んでいる様子を見て、監視網を利用した事に、マルシアも気付いた。

(高性能な監視網があるから、治安が良いのかしら?)

 そんな推測をするマルシアだったが、事実としては順番が逆で、治安が良くて犯罪検挙率も高いので、治安維持費用の余力も大きく、それを防犯、つまり犯罪が起きる以前の段階に使えるため、それが更なる犯罪発生率の低下をもたらし、好循環となっているのだ。そもそも、治安の悪い地域だと、余裕の無い予算で取り付けられた数少ない監視撮影機も、すぐに破壊されてしまう。

 そして、前を歩く警官が腰に携帯しているのは、非殺傷性の光線銃である(と思われる)。つまり、殺傷銃を持つ普通の国の警官に比べて、凶悪犯罪者に対する抑止力が極端に小さいという事だ。

 ところがこの点も、この国独自の事情が反映されていたりする。

 日本は治安が元々良いことから、警察官が銃を発砲する事に対し、その正当性を納得しない人が非常に多い。そのため、実際に実務で発砲した経験のある警官は、殆どいなくなっていた。結果として、重大犯罪者をみすみす見逃してしまうような事態が頻発した時期があり、その解決策として、使用にあまり躊躇の要らない、非殺傷性の銃が使われるようになったのだ。

 とは言え、より強力な抑止力を維持するために、殺傷銃を携帯している警察官も混じっている事が、敢えて公表されている。

 さて、件のマイコはと言えば、歩いてほんの一分程度の位置にいた。こちらは自走歩道を使っていたし、逆にマイコの方は、慎重に徒歩で移動していたため、あまり遠くへは行っていなかったのだ。

 自走歩道で一気に距離を詰め、マルシアが声を掛ける。

「マイコ!」

 しかし、振り向いたマイコを見て、マルシア達三人は、目を点にして立ち止まり、声を失った。

 その様子に気付かないマイコが、一気にまくし立てる。

「マルシア! 全く、しょうがない姉ね! いい歳して迷子になるなんて・・・。本当、世話が焼けるわ。紗季が付いていながら迷子になるなんて芸当、あなた以外にそんな事が可能な人間なんて、きっと皆無よ。しかもここは、あなたが以前に留学していた『大阪』じゃないの! 一体どんなひねくれた魔法を使って、迷子になんかなったのかしら? 不思議でしょうがないわ」

・・・全くもって、しょうがない妹である。

 じっと顔を見つめてくる警官の視線に気付いたマイコは、彼にも毒舌を振るう。

「何を見惚れてるの? もしかしてあなた、少女性愛者? いくら私が美少女だからって、変な気を起こさないでよね。とは言え、気持ちは分からなくもないわ。もし私があなただったら、間違いなく見惚れてしまうもの。まあ、今回は特別に見るだけなら許可してあげるわ。迷子の姉を見付けてくれた様子だし、そのお礼よ。こういうのを『目の保養』とか『眼福』って言うんでしょ?」

 何やら薄笑いを浮かべた警官は、マルシアに控え目な感想を述べた。

「えっと・・・、とても個性的な妹さんですね」

 顔を赤くして沈黙してしまうマルシア。

 紗季も、何やら含み有り気に言う。

「あの・・・面白い着想ね」

「・・・じゃあ、真似する?」

 そうマルシアが返すと、紗季は苦笑して首を横に振った。

 探しに来て見付けた相手を前に、何やら三人の態度が微妙に不自然な事に気付き、少し苛立つマイコ。

「さっきから、何を言ってるの?」

 溜息をついたマルシアは、マイコに指示を出した。

「顔を洗って来なさい。話はそれからよ」

 そう言って指差す方向には、厠があった。

 マルシアの意図は分からないものの、口調が明瞭だったので、取り敢えず言う通りに厠へ向かうマイコ。

 入り口は四つ。右端が男性用。入り口周辺が水色を基調とした色合いとなっており、大人の目の位置に、青い男性の姿を模した絵記号が有る。次が車椅子用。やや低い位置に、車椅子の大振りな絵記号有り。男女の区別は無い。三つ目が男女で利用出来る乳児室。その中の一角には授乳室があり、そちらは女性と乳児のみ入室可。最後が女性用。入り口付近はピンクを基調とした色合いで、赤い女性の姿を模した絵記号がやはり有る。そして実は、この女性用厠が一番広い。二番目に広い男性用よりも、倍以上の面積があるのだ。だが、日本の厠では、これが常識だ。理由は極めて簡単。利用頻度・時間共に女性の方が大きく上回り、使用目的も男性より多様だからである。だから、日本の厠では、女性用だけ順番待ちの長い行列が出来るような、理不尽な現象は起きにくい。

 十歳少女のマイコの場合、右から左に向かって、入り口の利用可能性が増すわけで、当然、左端を選んだ。

 中へ一歩入ると、厠とは思えない程、明るくて非常に清潔だった。悪臭も一切しない。不特定多数の人間が利用する、しかも自治体が管理する公共度の高い場所であるにも関わらず、尋常では無い清潔感である。ところが、ここまで清潔なのに、チップを要求しそうな清掃員が、いくら見回しても、一人もいない。

 本当に厠なのか、奥へ入って確かめてみるが、ちゃんと小さな個室が並んでいて、女性達が出入りしている。

 理由は分からないが、水の流れる音を基調とした環境音楽が全体に流れている。気分を緩和させる演出だろうか? でも、それこそ何のため?

 ついでなので、用を足すべく個室へ入る。

 腰を下ろした洋式の便座は、体温より少し低い程度の快適な温度。噂通り、たかが便座如きに暖房が付いており、もう春先だというのに、まだ座面を温めているのだ。親切というより、むしろ浪費だと思ってしまう。

 個室の隅には、簡易の掃除用具がある。日本人は、便器を汚したら必ず自分で掃除する。監視撮影機を設置しているわけでもなく、誰も見ていない事は確実なのに、である。

 用を足し、備えてあった巻紙を千切る。

 その紙がまた、やけに高級だ。うっすらと典雅な模様が施されており、とても柔らかでふんわり厚みがあり、しかもほんのり花の香りがする。

 拭いて捨てるだけの紙がこんなにも贅沢な事に、呆れてしまう。

(全く・・・、お金の無駄遣いも甚だしいわ)

 そう思うマイコだったが、もはや日本の巻紙市場には、単純で付加価値の全く無いような、安いだけが取り柄の製品は、殆ど出回っていない。だから、買おうと思っても、探して取り寄せる方が労力を必要とし、しかも生産量が少な過ぎて、殆ど値段が同じにまでなっているので、むしろ損なのだ。

 個室を出たマイコは、手前の区画へ戻り、言われた通りに顔を洗おうと、洗面所の前に立った。

 大きな鏡があるので、自分の顔が明瞭に映し出された。

 激しい違和感。

「・・・?」

 目を見開いて硬直するマイコ。

 確認の為、左右反転瓜二つの相手に、急接近。

 少女の瑞々しい額には、『漆黒』『極太』『特大』の三秒子が揃った、華麗な筆記体の漢字で、

『迷子』

・・・と、明瞭で親切な案内表示がなされていた。

 驚きのあまり、目がその文字に釘付けになる。

 でも、沢山の人が出入りしているので、大声を上げるのは、何とか堪えた。

 彼女は、落ち着きを取り戻そうと深呼吸をし、そして考えてみた。

(『マイコ』って、漢字ではこう書くのかしら?)


・・・個性的な妹さんである。


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