マイコ来日(2)
大阪へ
空港へ到着して真っ先に向かったのは、関空直営両替所。
手持ちのドルを円に交換するためだ。
自動両替機もあり、それを利用して、極めて簡単に両替を済ませていたのは、日本人だけと見受けられた。それ以外の人々は有人窓口を選んでおり、明らかに外国人と見受けられる人で、自動両替機を利用する人は皆無だった。
『機械に現金を飲み込ませる』事に、何の抵抗も感じないのは、世界広しと言えども、日本人だけだと断言できる。
マイコ自身も勿論、抵抗はあるが、日本のアニメで、そんな場面を見たことなら、何度もある。
外貨の交換には、通貨の安定や海外投資規制のため、日本では一%以上の手数料が法律で義務付けられている(※但し、国際基軸決済電子通貨『バンコール』との両替は〇・五%。いずれの場合も、最低手数料は百円)。辺境の小さな国や政情不安定な国の通貨との交換だと、それが十%以上でも珍しくないのだが、使用済の国際便搭乗券を、制限時間内に窓口へ提出すると、交換金額上限内なら、手数料は一律一%となる。例え不安定な通貨との交換でどれだけ赤字が発生しようとも、世界中どこの国の通貨であろうとも、間違いなく当該国からの搭乗券であれば、手数料は一律一%なのである。為替差益で儲けたり、海外へ資産を逃避させたりする気のない、普通の旅行者に対しては、実に良心的な配慮だ。
とは言え、アメリカドルと日本円の交換手数料は、元より最低の一%である。
マイコは、マルシアが両替をしている様子をじっと見ていたが、交換されて渡された見慣れぬ紙幣の枚数が明らかに少なかったので、(騙されてない?)と一瞬不安になったが、地元では随一の秀才だった上に、日本で四年も生活してきた彼女が、そんな失敗をする筈が無いし、近くに日本人の紗季も居るので安心だろう、と思い直す。
返って来た紙幣の枚数が少なかったのは、日本の最高額紙幣が、アメリカのそれよりも、約五倍の価値があるからだと、マイコは後に理解した。
次に、紗季の先導で到着した場所は、鉄道駅。
これはマイコにとって最も意外な選択肢だった。
紗季が自家用車で迎えに来たという、先入観があったのだ。
しかも、『自家用車を持っていない人なら、バスか地下鉄で迎えに来て、タクシーで現地まで移動する』というのが、マイコにとっての第二の予測だったのである。
典型的なクルマ社会で生まれ育ったマイコにとって、それはごく自然な発想であり、遠方からの来訪者を迎える方法として、それが常識だと思っていたのだ。
そして、それは日本でも同じであり、紗季も常識をわきまえた人物である。ただ、置かれている環境が違うだけの話なのだ。
とは言え、駅に着いた時点においてマイコは、そこが何をする場所なのか、全く分かっていなかった。
空港の設備や建物は非常に清潔で、様々な機械類や細密な案内図や、やたらと親切な案内表示が多くあって、それらを適切に把握出来るようになれば、電車・バス・船・タクシー等の乗り場へも、簡単に行けるようになってはいたのだが、これらの仕組みに不慣れなマイコは、正にここが目的の鉄道駅だという事実を、認識していなかったのだ。
マルシアの行動を見ていると、何かの機械の前へ立ち、財布を取り出したかと思うと、今度は迷いなく機械に現金を飲み込ませた!
更に注意深く観察していると、機械から吐き出された小さな券らしき物二枚と釣銭を回収している。
そして、マイコの元へ戻り、券の一枚を差し出してきた。
取り敢えず受け取るマイコ。
一方で紗季は、何もせずにマイコと一緒に待っていた。
三人は、無人の自動門が並ぶ改札口へ向かう。
「いい? 私と同じようにするのよ」
マルシアがマイコに確認を取る。
少し緊張気味に頷くマイコ。
まず紗季が先頭を歩き、自身の携端(携帯電脳端末)を取り出すと、それを自動門の手元位置の光っている部分にかざしつつ、門を通過。彼女が通った門だけが青く光り、軽い電子音が鳴る。彼女が券を買わなかったのは、携端自動購入だからだと分かった。
続いてマルシア。
マイコのために、敢えて動作を遅くして、携端ではなく、先程購入した券を点灯部分へかざし、同じく無事通過。
(何だ、馬鹿みたいに簡単だわ)
マイコも続く。
ところが、自動門は青ではなくて黄色に光り、電子音も鳥のさえずりのように甲高く鳴った。
子供料金(これも日本独特の制度)入場者の識別信号なのだ。
「わっ!」
驚いて、門を走り抜けるマイコ。
ところが、周囲を歩く人々も駅員も、紗季もマルシアも、何ら気にする様子がない。
(あれ? 大した問題はないようね)
ホッと安堵するマイコ。
ところが、男性が一人、「どうした? 何かあったのか?」と心配するような表情で、こちらを見ている。
マイコは、気恥ずかしさを誤魔化すべく、男性を睨みつけた。
慌てて目を逸らす男性。
階段で歩廊まで降りたところで、ようやく、ここが鉄道駅だと分かる。
航空機のように先頭が尖った形の、海を連想させる深い青色をした、長くて立派な列車が停まっていたのだ。
「えっ! 新幹線なの?」
驚いて問うマイコ。
日本発祥の『シンカンセン』は、世界中にある。ヨーロッパにだけは新幹線が無いが、それは、独自の高速鉄道が既に網羅しているからである。
そして、世界一の経済規模を誇るアメリカに於ける新幹線網の総営業距離は、やはり世界一である。アメリカ第二の巨大都市に住んでいたマイコも当然、中心市街へ出て新幹線の列車を見る機会が何度かあり、その格好の良さに目を輝かせていた。
非常に高速で、勇猛に走って来るにも関わらず、駅に近付いた時点からの動作が驚く程円滑で、殆ど振動や騒音を立てずに、あっと言う間に減速し、氷の上を滑るような華麗さで、柔らかく駅舎へと姿を消すのだ。
だから、新幹線の存在で驚いた訳では勿論ない。それ自体は狭い日本を隈なく走っていると理解していたので、来日すれば、どこかで、最低でも見ることぐらいは出来る筈だと思っていた。
そうではなく、(もしかして、空港と街を結ぶ程度のただの連絡鉄道が、新幹線なの???)と、驚いたのだ。
「違うけど、・・・まあ、似たようなものね」
そうマルシアが答える。残念ながら、新幹線ではなかったが、それに準じるような存在ではあるらしい。
向こう側のホームには、やはり速そうな形の列車が停まっている。白が基調(だから、更に航空機っぽい)になっているせいか、見た目の印象では、こちらより速そうだ。
「あの列車は、どこに行くの?」
ちょっと期待して尋ねてみるマイコ。東京とか富山まで足を伸ばす、本物の新幹線かも知れないと思ったのだ。
しかし、マルシアの答えはまた予想外だった。
「同じよ。大阪とか、京都ね」
「同じ?」
「そう。こっちが南海電鉄で、あっちが関西鉄道。別の鉄道会社よ」
「・・・」
ちょっと呆れるマイコ。たかだか空港と街を結ぶ程度の連絡鉄道が二つもあり、しかも、どちらも、新幹線と見間違うような高速鉄道なのだ。
にも関わらず、どちらも利用客が意外な程多く、過剰な設備投資でもなさそうなのである。
更に付け加えておくと、日本の鉄道会社は、新幹線でも高速列車でも別料金を徴収しない(ただし、超電は別)。別料金の対象は指定席のみである。一見、不合理に思えるかも知れないが、高速交通機関が当たり前の日本では、別料金制度の手間が客離れに直結してしまうので、むしろ収益効率の高い長距離高速便を、料金面でも優遇する傾向があるのだ。
「どうして、南海電鉄を選んだの?」
好奇心のままに尋ねる。
「深い意味は無いわ。料金も速さも行き先も、殆ど一緒だし。・・・関鉄の方が乗る機会が多いから、今回は南海にしてみただけ」
関西鉄道は、全国を網羅していた国有鉄道が起源で、後に分割民営化で、関西以西の本州を営業範囲とした西日本旅客鉄道となり、州連邦制移行後は再分割されて近畿州内のみ(州境付近では、利用客の便益を優先し、近辺における最大拠点を営業分割点に設定している)となり、現在に至る。他州の旧国鉄系鉄道と同様、州内では圧倒的最大の路線網を持つ。
一方の南海電鉄は、純粋な私鉄では日本最古で、既に二百年以上の歴史を持つ大手私鉄である。
マイコ達は、その急行列車に乗り込んだ。
車内は、上品かつ極めて清潔感に溢れている。座席も実に洒落た意匠で、高級感が有りつつ、何やら可愛らしさも有る。
一応マイコは尋ねる。
「どの席に座ればいい?」
「どこでもいいわ」
マルシア即答。
指定席ではないと理解するマイコ。
三人分空いている席を発見したので、確保。
『間もなく発車します』との放送があり、同時に、車内の掲示板にも、全く同じ文言が表示される。聴覚障害者への配慮だ。
暫く待つと、列車が出発した。
全く振動や衝撃が無く、物音一つしなかったのだが、窓の外で駅がゆっくりと動き始めたため、何とか気付いたのだ。
(どうして、ここまで静かに出発する必要があるのかしら?)
少々揺れたり音がする程度では、害など全くない筈なので、無意味な部分にまで技術力を使っているような気がしたのだ。
車内の時計を確認すると、発車予定時刻と全く同じだった。
(噂は、本当だったのね・・・)
納得するマイコ。生まれて初めて、公共交通機関での定刻発車を経験したのだ。公共交通機関で時刻が遵守される国は、日本だけであり、世界的に見れば非常識な事柄なのだ。
発車して暫くすると、窓の外に視界が拡がった。長い連絡橋を渡っているので、海と空が見える。
しかし、上陸するとすぐに景色が遮られた。通過する駅の周辺に高層建築が密集していたためだ。
空港駅を出た時と同じ程度の、緩やかな曲線を曲がると、最初の停車駅へ到着。
駅には、車内からなら誰でも見えるように、『泉佐野』と大きな駅名表示があった。漢字の下には、国際音声記号が併記されているので、世界中の誰でも駅名を読める。
空港に近い泉佐野には、建築物の高さ制限があるが、高層建築が密集する立派な『立体都市』であり、ビル群の中層辺りには、空中歩道が網羅されており、主要な歩道には、自走歩道も併設されている。
泉佐野を後にすると、やたらと長い車内放送が始まった。
まずは簡単に、終着駅と途中停車駅の案内。マイコ達の目的地である梅田から阪急電鉄へ乗り入れて、神戸の新開地という場所が終着駅だと分かった。
南海電鉄は、軌間(線路の幅)が阪急電鉄(標準軌と呼ばれる軌間)よりも狭かったので、乗り入れ案自体はかなり昔からありつつも、実現は無理だと思われてきた。しかし、都市集住により鉄道需要が自家用車需要を大幅に奪い、一方では、自走歩道の普及によって、逆に低速列車の需要は低下する一方だったため、需要の拡大が高速列車に限定された。高速鉄道への特化を余儀なくされた南海は、全線高架・標準軌化によって、大幅な高速化を決意し、それに対応する。同時期、競合相手である関西鉄道も同じ方向へ舵を切ったため、それは避けられなかったのだ。結果として、阪急との相互乗り入れも実現したという経緯があった。
案内放送は、ここからが長かった。途中停車駅全ての到着予定時間と、乗り換えの説明が延々と続くのだ。その内容の全ては、車内の案内表示に丁寧に書いてある(世界各国の言語で読めるようになっており、駅名等の固有名詞は国際音声記号も併記)ので、少し辟易する。
幸い、放送は日本語のみで、主要言語で繰り返し放送される事は無かった。そんな事をされたら、神戸に着いても、放送が終わらないに違いない。
車窓の風景は田園地帯だった。しかし、あちこちに高層建築密集地帯が点在しており、列車も駅を通過する度に、その中をくぐる。
アメリカの郊外は、超低層住宅が互いに余裕を持って立ち並び、土地を平面的に埋め尽くす形態なので、全く景色が違う。
『日本人は寂しがり屋で、郊外でも集住したがる』
・・・という訳ではなく、日本は、人口密度が高い上に、国土の平地面積率が小さいため、都市集住によって、少しでも多くの農地や予備地を確保し、同時に、都市機能の効率化と公共投資効率の向上を図っているのだ。
幾つもの駅を通過しつつ、貝塚・岸和田・泉大津と停車する度に、風景における都市部の割合が増していく。
そして、泉大津の次、羽衣に到着。ここからが大阪立体都市圏で、田園地帯は無くなる。都市圏には、全域に空中歩道網が張り巡らされているので、ここから歩いて目的地へ向かう人も非常に多く、乗客の入れ替わりが激しい。
羽衣を出ると、駅数が激減する。
郊外は、各市街の中心部以外は農林地帯であるため、互いを繋ぐ『自走歩道付きの空中歩道』が必要な程の高い交通密度が無いため、電車やバスが主な交通手段である。一方、大阪立体都市圏内は、全域がほぼ市街であるため、『自走歩道付きの空中歩道』が網羅されており、徒歩での移動が中心となるので、鉄道の方は、中・長距離客が集まる主要駅のみが残り、他の駅は廃止若しくは臨時駅化されている。圏内のみで走っていた、地下鉄等の短距離低速路線に至っては、次々と路線丸ごと廃止された。
都市の立体化により、人口密度が極度に上昇したため、鉄道やバスでは対処し切れなくなった交通需要の内、短・中距離移動分を、自走歩道網が引き継ぐ形となったのだ。
南海で言えば、大阪立体都市圏内で残った駅は、羽衣・堺・住吉大社・天下茶屋・難波のみである。それ以外の駅は、徐々に停車本数を減らされ、次に臨時駅への降格が進み、更には駅自体が次々と廃止され、新今宮駅の営業終了をもって、駅数削減が完了した。
車窓の風景に、薄暗い緑化壁面以外を見られなくなり、興味を失ったマイコは、紗季に尋ねてみた。
「紗季は、自家用車を持っていないの?」
「持って無いわ」
即答する紗季。そして、少し考えて付け加えた。
「・・・そうね、大阪の人は、殆ど持って無いわ。どうしても必要な時は、貸車を借りるわね。運転免許だけを持ってる人なら、結構、多いから。私も一応は持ってるし」
貸車とは賃貸自動車の事である。中規模程度の都市や大都市辺縁部等に事業所が点在し、過疎地域への旅行では、よく利用されている。大手の業者は、州内全域に事業所を置き、貸出・返却の場所を各々自由に選べるようにしている。
そこでマイコは、疑問を口にする。
「どうして、貸車で来なかったの?」
「図々しい子ね、あんたは」
マルシアが即座に咎める。
しかし紗季は、気に障る風でもなく、ちゃんと答えた。彼女は学校の教師なので、子供の他意のない問い掛けには慣れているのだ。
「空港から梅田までは遠いし、電車の方が安くて速くて、しかも安全で快適よ。渋滞に巻き込まれる事も無いし」
要するに、電車の方があらゆる面で有利らしい。
少し残念に思うマイコ。アメリカでは、自家用車を持たない階層が底辺にあり、持つ階層も、保有車の格で階層がくっきりと分かれている。ところが大阪では、仮に階層が有っても、外見では分かりにくく、マルシアの言う『日本には階層が無い』という話が、事実かどうか、確かめ難いではないか。
立体都市圏内は、人口密度が過大で、鉄道のような大量輸送交通機関ですら、輸送量を捌き切れないため、自走歩道網が発達している。当然、道路網の方も、『歩くことの出来る』人間以外の輸送や業務用車両の運行に利用を限定しなければ、渋滞だけの理由で、即座に、都市全体の流通機能が麻痺してしまうため、自家用乗用車は、立体都市圏の外でしか、車庫を確保出来ない規制もあるのだ。
そして、関空から梅田までの距離は、およそ五十粁もある。これでは、大阪までの交通手段を鉄道中心に設定せざるを得ない。実際、自動車で梅田まで行くと、高速道路を利用しても、最速で三十分。しかし、渋滞や信号待ちは確実にあるので、一時間、若しくはそれ以上を想定しなければならない。それに対し、鉄道の場合、最高速度が時速二百粁程なので、途中停車で時間を取られても、約二十分。渋滞や信号待ちは無いので、確実に二十分で済んでしまうのだ。
「じゃあ、老人とか障害者はどうするの?」
そんなマイコの反問に、「良い質問ね」とばかりに頷いた紗季が答える。
「電車を降りて、空中歩道まで昇降機(英語ではエレベーター)で昇ったら、後は、孫辻を使うわね。老人と障害者と妊婦には、料金割引があるから」
その説明で、彼らが殆ど歩かずに目的地へ行ける事は、何となく分かった。しかし、知らない言葉があったので、聞き返してみる。
「『まごつじ』って、何?」
やはり紗季は、丁寧に答えた。
「車道の通行は駄目だけど、空中歩道なら自由に通行出来る、低速で小さい辻車の事よ。老人が主に利用するから、運転手を孫に見立てて、そう呼ばれてるの」
納得して頷くマイコ。
辻車というのは、辻自動車の略である。立体都市圏では、『車道は車、空中歩道は人』と、完全に交通が分離されているので、辻車の需要も空中歩道の側に移行している。そこで現れたのが、孫辻なのである。
形態としては、『運転手付き電動車椅子』だが、意外に高い性能を有し、自走歩道や高速自走歩道へも、大きな衝撃を伴わずに乗り入れる事が出来る。そのため、郊外や過疎地において地面を走る辻車より利用率が低く、料金も割高であるにも関わらず、横着な金持ち、移動中に携端で仕事をするような多忙な人々、大きな買い物をした人、それから泥酔者等も、結構利用している。人口が密集しているが故に、事業として充分に成り立っているのだ。
ほんのちょっと会話をしている間に、列車は天下茶屋に到着。
(あれ?)
少し違和感を覚えるマイコ。
前に到着した羽衣と堺は、歩廊が二本、車線が四本の立派な駅で、駅数削減の対象にならなかった事がよく分かる規模だった。
しかし、天下茶屋駅は、乗降客数では見劣りしないものの、歩廊が目の前の一本しか無いのだ。歩廊の向こう側にはもう一本車線がありそうなので、駅の規模としては、半分にまで減少した事になる。
「小さい駅ね」
マイコがそう呟くと、紗季が説明してくれた。
「ここは『上り』の車線で、『下り』の車線は、一つ下の階にあるのよ」
「え? どうして?」
当然の疑問である。ここまで、そんな構造の駅は無かったし、今まで見たことも聞いた事も無い。
ここから阪急の十三までの路線は、上り列車と下り列車の走行帯が、上階と下階に完全に分けられた二層構造となっている。これによって、複数の路線が合流する際の動線の交わりを最小限に抑え、列車の発着に遅滞が生じにくくなっているのだ。欠点は、上下線に高低差があるため、途中駅での折り返し列車を設定する場合、上下線同一平面構成の場合よりも、長くて複雑な引き込み路線が必要となる事だ。とは言え、列車本数も乗降客も多い都市中心部の駅を、平面構成のまま折り返し拠点に設定するだけでも、ただでさえ地価の高い場所に、多数の車線や歩廊や引き込み線を設置しなければならず、しかも上りと下りの動線が多数交差する事は避けられない。それをよく理解している南海と阪急は、この区間を敢えて上下完全分離構造とし、区間外の平面構造の駅に、折り返し拠点を設定した。
効果は絶大で、阪急梅田と南海難波が終着駅だった時代には不可避だった、無駄な信号待ちが完全に解消され、しかも両駅共、到着車線数を半分近くまで削減出来たのだ。勿論、捌ける交通量は減っておらず、むしろ増やすことすら可能となり、その上、上下の動線が絶対に交わらなくなったため、どちらも複数ある出発路線(南海の二路線と南阪奈の一路線)と行き先路線(阪急の三路線)の組み合わせが、自由に設定出来るようになった。
「これが昔の梅田駅で、こっちが今の梅田駅よ」
紗季は、自分の携端を取り出し、駅の立体映像模型をマイコに見せた。梅田駅を参考例に出したのは、この駅が最も構造が激変し、しかもマイコ達が住む予定の場所に近い駅だからだ。どちらにも、小さな電車が沢山出入りしており、動線が目で理解出来た。昔の梅田駅は、とても大きな駅だが、車線の交わりが複雑で、列車の出入りが何やらもたついており、しかも往来する線路が固定されている様子。今の二層型梅田駅は、小さくまとまった駅だが、列車の動きが滑らかで、しかも、行き先の路線を自由に選んでいる。
「面白いわね・・・」
暫く眺めて構造を理解したマイコは、思わず感心してしまった。
次に到着したのが難波。大阪の二大拠点の一つだけあって、乗客の入れ替わりが激しく、歩廊にも人がごった返していた。
難波を出た後も、高架は続く。阪急・南海・南阪奈(近鉄から経営分離させられた鉄道。本線は南海難波を起点とし、吉野まで足を伸ばす)の三社が共同出資した、『御堂筋高速鉄道』の路線に乗り入れたのだ。この会社は、自社で車両を持たず、三社からの乗り入れで、営業が成り立っている。
この三社は、『高架鉄道網』という組合を結成しており、一社で州最大の鉄道網を持つ関西鉄道と、近鉄・京阪・阪神が結成する『地下鉄道網』に対抗している。
因みに、『地下鉄道網』の中枢路線である御堂筋線は、元大阪市営地下鉄で、現在は京阪電鉄が経営委任を受けて列車を乗り入れており、関西鉄道はすぐ隣に走る四つ橋線の経営委任を受けて、同じく列車を乗り入れている。つまり、(梅田―難波―天王寺)間は、この三者が隣接して競合する、激戦区間なのである。
梅田までに停まった駅は、『船場』だけだった。ここは、豊臣秀吉が大阪の街を開いて以来の中心地という由緒ある場所で、今も企業の本社や官公庁が密集する、大阪の機能的中枢部である。地下鉄時代は駅名が『本町』だったのを、由緒ある駅名に変えたのだ。
そして列車は、西日本最大の拠点地区、目的地の梅田へ到着した。
時計を確認すると、予定到着時刻と全く同じだった。
関空駅は起点なので、出発時刻を守る事は何とか出来そうに思えたが、途中での時間合わせを確実に実行し、ここまで定刻で到着してきた努力と技術には、頭が下がる思いである。
「さあ、降りるわよ」
マルシアの声と共に、三人が腰を上げる。
他の乗客も殆どが降りる中、目的地の歩廊へと足を踏み出した。
そこでマルシアが、再びマイコに手を差し伸べた。
今度は無言で苦笑し、首を横に振るマイコだった。