よくある話
「ここに一万円札で百枚ある。数えてみてもいい」
その男は突然、僕にそう言ったんだ。きっと公園を散歩しているときに見知らぬ人物からそんなことを言われたら、僕でなくても言葉を失ったと思う。だから僕が呆然としたのは至って自然の振る舞いだったと思うんだ。
それだのに男は、これだけ言えば解って当然なのにとでも言うように、まるで気の利いたジョークの説明をするみたいな口吻で言葉を続けた。
「つまりね、これを九十万円で買い取って欲しいんだよ」
僕はそれを不思議な話だと思った。そして男の言うこれ、或いは百枚の一万円札に目をやると、何だか酷く黒ずんでいて、工業用の油でも染み込んでいるのか、ちょっと尋常でなく汚れている。
「でもそれ、汚いお金じゃないですか」
「そうなんだ。汚いお金なんだ。でも、お金はお金だから、使うときの価値は変わらないし、悪い話ではないと思うよ」
僕は聊か眉を顰めた。男の話が少し怪しいと思ったから。
「お金はお金なんだから、あなただって気にせず使えばいいじゃないですか」
「それが駄目なんだよ。取引先はとても清潔な人だから、どうしても綺麗なお金しか受け取ってくれないんだ。ね、助けると思って、買い取っておくれよ」
困っている人を見たら助けなさいと、小学校の先生には教わった。無償で恩を売れば後に大金が手に入るなんて甚だ行儀の悪い御伽噺もある。
ところが実際は、助けようとした暴れる鶴には怪我を負わされ、仕事を邪魔された猟師には叱咤と侮蔑の挙句に賠償金を請求されて、世間の冷たい目と際限なき貧困に苛まれることになるのが現実だ。
誰もが生き残ることに必死で、自分の場所を勝ち取ろうとしている。限りある席を奪えない者が敗者なのだ。これは高校の先生から聞いた話。
「でも僕、九十万円なんて大金、持っていません」
「いくらならあるのさ」
「一万五千円くらい」
「それなら、一万五千円でいいよ」
僕は著しく眉を顰めた。いきなり九割八分三厘引きだなんて、少しでなく怪しいもの。それに、たまたま僕が一万五千円しか持っていなかったことを、どうして取引先に説明するのだろう。因みに僕は計算が得意なのだ。
「でも」
「わかったよ。ありがとう。ちょっと、そこのあなた」
どうやら僕に大胆な意志がないことを見て取ると、男は近くを通りかかった女の人に一連の商談を持ちかけ始めた。女の人は数秒だけ男の話を聞くと、来ないでください、誰か助けてくださいと悲鳴を上げて駆け出した。僕は割と人が良い方だ。
公園からの帰り道、コンビニで買い物をすると、店員さんに渡されたお釣りは汚いお金だった。
「え、あの、これ」
「はい。如何なさいましたか」
店員さんは不思議そうな表情を浮かべて僕の顔を見た。きっと公園で男に話しかけられた僕も、こんな顔をしていたのだろう。僕はそれきり何も言う気になれなかった。
「いえ、何でもありません。ごめんなさい」
僕が汚いお金を財布に押し込むと、店員さんはお礼と再来店を促す決まり文句を元気に愛想良くその辺に放り投げた。
それからというもの、お店で買い物をしても、銀行でお金を下ろしても、手元に入ってくるのは決まって汚いお金だった。
悪貨は良貨を駆逐する。人々は綺麗なお金を手元に残そうとして、進んで汚いお金から使うようになった。綺麗なお金の供給量が激減するのが道理だ。
それでも祝儀不祝儀に汚いお金を送る訳にもいかないから、需給バランスは乱れに乱れ、一ヶ月もすると綺麗な一万円札をニ万円、三万円で売り出す専門業者が現れた。
僕の手元のお金がそっくり汚いお金になった頃、亀田くんが教室の窓ガラスを割って職員室に呼び出された小学生みたいな顔をして僕を訪ねてきた。
「あの、実は僕、借金があって。いえ、借りたのは十万円なんですけど、返そうとしたら、綺麗なお金で貸したんだから綺麗なお金で返せって言うんですよ。それでその、今日が返済期限で」
「でもお金はお金なんだから、問題ないでしょう」
「そうですよね。そう思いますよね。ところがゲンジョウカイフクって言うらしいんですけど、そんな汚いお金を貸した覚えはない、貸した状態で返せって。酷いと思いませんか。綺麗なお金で十万円だなんて、今では五十万円は下りませんよ。それで浦島さんに相談に乗って貰おうと思って」
「ごめん、もう出かけなくちゃいけないんだ」
僕とは同意見なんだから僕と相談しても意味がない。納得していないのは金貸しで、納得させるのに必要なものを僕は持っていないし、例え持っていたとしてもそれは亀田くんのものではないから、つまり金貸しは納得しない。
だから亀田くんが片思いをしている憧れの先輩のデート現場を目撃してしまった処女のような眼差しを僕に向けるのは間違いだと思うんだ。親しい間柄であってもお金の貸し借りの問題に関わってはいけないと、テレビで弁護士の先生が言っていた。
それから街に出て百貨店を冷やかしていると、ガラスケースの中の綺麗な一万円札に十万円の値札が付いていた。僕の財布の中にはどす黒く汚れた四千円余。
あのときの百万円、一万五千円で買っておけばよかったなあ。