不可能な下山
その場所、半径100Mの荒れ地には、譲一と熊の一人と一匹しかいない。と、譲一は思っていた。決めつけていた。
しかし、声がした、もちろん自分が喋ったのではない、低く野太い声だった。
そしてそれは熊の方から聞こえた。
その熊は警戒こそしているが、すぐに襲いかかる様子ではなかった。
実は後ろに人がいる? そう考えたが、熊に襲われた時、周りには譲一と熊以外いなかった。
「じゃあ…もしかしてよぉ…」
ある一つの可能性が頭に浮かんだ。
しかし、それが現実的ではないことだけは確かだった。
だが、確認せずにはいられなかった。
「今…喋ったのって…お前…?」
おそるおそる、しかしちゃんと相手に届くような声量で譲一は訊ねた。
すると、熊は少し表情を変え、(とはいえ変わったなんて分かるほど譲一は熊の表情に詳しくはない、なんとなくそう見えた)
『あぁ、そうだ』と、答えた。
「……ぁ…そぅ…」
もう聞き間違いではない。
ちゃんと聞こえた、しっかり口が動いていた。
今、譲一の目の前にいるこの熊が、体長5Mはゆうに超えていそうなこの馬鹿デカイ熊が、人間の理解できる言葉で喋ったのだ。
(なんだよ…!それ…!)
もう理解はとうに追い付いていない。
熊に向かって「お前、喋った?」などと訊ねた時点で譲一の思考は混乱していた。
「なんで喋れんだよっ……!」
『ワシだって言葉ぐらい話す』
淡々と答えた。
「いや…違うだろっ、そういうもんじゃねぇだろっ!」
『なにを興奮しておるかは知らんが、ワシも聞きたいことがある』
「なんだよっ!」
もう、熊に対する対処など譲一の頭からは抜け落ちていた。
『なぜ、お前はワシの言葉がわかる?』
「………………は?」
なんと言った?この熊は。
『ワシも久しぶりに人間に会うからな、今までの人間はワシの言葉を理解できておらんかった』
つまり、この熊は人間に理解できる言語を発しているわけではないのだ。
『人間は発達したのか?同じの種族以外の言葉を理解できるほど、成長を遂げたのか?』
「いや…たぶん、そうじゃない…」
譲一は考えを巡らせた。
(じゃあ…もしかして…俺が変わったのか?)
自分がこの熊の言葉が分かるようになってしまったのか?
誰しもが一度は考えたことはあるのではないだろうか。
"動物の言葉が分かったらいいのにな"
譲一はその"いいのにな"に達したのではないだろうか。
『まぁ…そんなことは別にどうでも良い』
再び、譲一は感じた、凄まじい威圧感を。
『ワシの縄張りに入っている時点で、お前が言葉がわかるわからないなど、問題では…ないっ!』
熊は譲一めがけて突進してきた。
さっきよりも速さと迫力があった。
「っ!」
譲一は横方向へと飛んだ、しかし、迫力に気圧され反応が遅れた。
下半身、膝下はまだ、避けきれていない!
「くっ、オォッ…!」
譲一はとっさに膝を曲げ、攻撃範囲から逃れた。
地面を転がり、態勢を整え熊へと向かった、譲一は両手を上げ
「おっ、おい落ち着けよっ! なにもお前の縄張りを荒そうとしてるわけじゃないんだ!」
熊に語りかけた。
お互いに言葉が分かるなら、話し合いでなんとかできるのではないかと踏んだのだ。
熊はこちらを睨み、次の攻撃へと移ろうとしていた。
「縄張りに入っちまったのは謝る!でも、俺もなんで自分がこんなとこにいるのか分からねぇんだ!」
『……』
熊はこちらを見据えている。
「女の子がさらわれそうになったのを助けようとしたけど、ボコボコにやられて、死にそうになってた時、その女の子が鍵みたいなんを取り出して、気づいたらここにいたんだ!」
『鍵…?』
「ホントだ!信じてくれ!」
譲一は必死だった。この熊からは逃げられない。だが、それで死にたくはない。
生きるために、とにかく言葉を切らさないように熊へ語りかけた。
『お前…門を通ってきたのか…?』
「えっ…?」
『なるほど…そもそも、お前のような人間に"この山"の頂上まで来れるはずもないか…』
熊は攻撃の態勢を解いた。
「あ、あのよ…門って?」
『ん? 鍵を持った女に連れて来られたんだろう?』
「あ、あぁ」
『世界と世界をつなぐモノそれが"門"だ。
お前は今、自分のいた世界とは違う別の世界に来とるのだ』
「……」
譲一は開いた口がふさがらなかった。
「なんじゃそら…」
譲一は熊に背を向けると、歩いていった。
『どこへ行く?』
熊が声をかけた。
「この山を下りる」
譲一は歩を進めていった。
「なにが別の世界だ、SFじゃあるまいし」
『そうか、まぁそれはお前の自由だが、せいぜい気をつけてな』
そんな言葉を背中に受け、譲一は木々の生い茂る場所に足を踏み入れ、下山を開始した。
静かだった、譲一が山の土を踏んでいる音がいやに大きく聞こえた。
まだ50mほど下りただけだろうか、下山すべく歩いている譲一の耳に物音が聞こえた。
地面から生えている草をかき分け、道に落ちている小枝を踏んでいる音である。それは譲一の足音よりも大きい。
譲一は警戒を高めた。理由は音のデカさである。小動物が通るような小さな音ではない、もっとデカイ獣が通るような大きな音だった。
(なんだ?あの熊が追いかけてきたのか?)
だが、あの熊はもうこちらの興味をなくしたような様子だった。
音はどんどん大きくなっていく。
生い茂る草木かき分け出てきたのは、大きな動物の顔、大きさからして新幹線を正面に向かいあった時ほどであった。
(ワニ…?)
爬虫類のような顔をしていた。
チロチロと顔の大きさに似合わない細い舌を出していた。とはいえ、大きさがかなりのものなので、譲一からすれば、けっこう太く見える。
「ちがうっ! トカゲだっ!」
譲一が大声をあげると、大トカゲはドスドスと大きな音をたて、こちらに向かってきた。
"コモドオオトカゲ"という爬虫類がいる。
別名"コモドドラゴン"ともいわれており、世界最大種である。
動物食であり、イノシシなどの哺乳類や鳥類やその卵、爬虫類や昆虫なども食べ、水牛といった、自分よりも大きな動物をも食糧とする。
譲一の目の前にいるのが、そのコモドオオトカゲなのかは定かではないが、大トカゲは徐々に全身を現した
「で、でけぇ…」
さっきの巨大熊もかなりの大きさだったが
この大トカゲはそれをも越すのではないかといったところだった。
一度止まった大トカゲは顔をゆっくり動かし、譲一を見ていた。まるで品定めでもしているかのように。
「うおおおぉぉぉ!!」
譲一は180度身体の向きをかえ、元来た道を全力でかけ上がった。何度も転びそうになったが、とにかく必死だった。
そして譲一は再び、あの熊の縄張りである山頂へと戻って来たのだった。
「はぁっ!、はぁ…はぁ…」
息が荒々しい、冷や汗が止まらなかった。
大トカゲは諦めたのか、追ってきてはいなかった。
『なんだ、結局戻ってきたか』
縄張りの中央で寝転んでいた巨大な熊は、さも知っていたかのように言った。
「な、なんなんだよあれ!あの馬鹿でけぇトカゲはよぉ!」
『この山にはあんな動物や虫やらがゴロゴロいるぞ』
熊は淡々と言った。
「なんだよそれ…」
『ま、山を下りたきゃそいつら全員を相手にするぐらいじゃなきゃな』
そう言って熊は譲一に背を向け寝息をたてはじめた。
もはやこの熊は、譲一が縄張りにいることすら気にならなくなったようだ。
「……」
絶句する譲一に風が吹き、汗で濡れた身体を冷やした。