『ネコミミ』
町外れの旧工業地帯にある廃工場。
土曜日の放課後……典子、七恵、志津花の三人は【虫捕り】にきていた。
そして異形の虫……典子たちは、見渡す限りの【それ】に囲まれていた。
小波だつ虫。
奇怪な鳴き声に……怖気がする。
携帯は圏外。彼女たちがそこにいることを知るものは……いない。
やっと液晶画面に一本だけアンテナがたった。奇跡みたいに。
典子が電話をかけたのは警察……それとも???
――月がでていた。
月明かりに構造物が照らされていた。廃工場だ。
煙突やタンクのような構造物、絡みつくように配置されたパイプ――いびつな凹凸はどこか禍々しさすら滲ませ、さながら巨大で、異形の化物が横たわっているよう。
男が歩いていた――黒人。陽気に鼻歌を歌っている。
白のスーツに白のパナマ帽。両手の指には金やら宝石やら――とにかく豪奢な指輪がいくつもギラギラと光っていた。麻薬売買の元締めとして映画にでてきても不自然でない出で立ち。
男は、ゆっくりとした足取りで建物の周りを歩いた。そして飴玉ほどの大きさの、小石のようなものを等間隔で地面に落としてゆく。
建物をひと回りし終わると、男はなにやら唱えはじめる。聞き慣れない音節。聞く者がいれば、思わず生理的な怖気を抱くだろう言葉――おそらくは、この世のものではない言葉。
男のこめかみに血管が隆起し、珠のような汗が浮かぶ。
男が落とした小石が、淡く光りはじめる。妖しい、紫がかった光。さらに小石同士が光の線でつながり、建物を囲む。
風が吹いた――突風だ。男の帽子が飛ばされて、地面に転がった。
男は満足げに白い歯を見せて笑い、帽子を拾い上げ、慇懃にかぶりなおす。そしてまた鼻歌を歌い、歩き去った。
私立大聖学園――昼休み。
「ねぇ典ちゃん、一緒にお昼食べようと思ったのに……マーくんがいないの」
唐突にあらわれた白井志津花は困り果てた表情で言った。
七恵も志津花も、真人が教室にいないと、なぜその行方を自分にきいてくるのだろうと倉田典子は苦々しく思いながら、一応、教室内を見回してみた。昨日と同様、たしかに今日も真人の姿はない。
典子はある意味安心した。
奇遇というよりも、災難といった側面のほうが強いと思うが、深尾真人と白井志津花、そして倉田典子の三人が幼馴染みであったことがわかったのは、つい今朝のこと。だが、そうとわかっても、少なくとも真人は昨日までの態度を崩していない。つまり、なるべく他人と関わりを持たない、という態度を。
真人はアメリカ政府の特務機関に所属している。人類の存亡に関わる極秘任務を受け、この奈羅迦市にやってきた――そんな途方もない話を、典子は真人がザーグナーなる化物と戦っているところに巻き込まれたことで聞かされるはめになり、ほとんど否応なしに、真人の正体を隠す手伝いをすることとなった。
そして当の真人は、自分の正体を隠す気がないのではないかと疑いたくなるほど嘘が苦手(阿呆)で、一方、真人が幼馴染みだと知った志津花は、大喜びで旧交を温めようとしている――つまり危険極まりない状態なのだ。
「志津花……あんなの放っておきなさいよ。さ、学食に行きましょう……っていうか、志津花って、もう普通に食べられるんだっけ? 重湯とか……学食にはないわよね?」
志津花は一週間のあいだ昏睡状態だったのだ。その間は、ずっと点滴だった。
「大丈夫だよ……今朝も病院ででた朝ごはん、お代わりしちゃったぐらいだから」
「……そ、そうなの?」
「うん。なんかねぇ……前より元気になった感じ!」
「あ……そう、よかったわね」
もとから【元気】というのがトレードマークな女の子ではあったが……なにせ経緯が経緯だ。あとで真人にきいてみよう。真人が志津花につかった解毒剤とやらの副作用かもしれない。
典子と志津花は友人の七恵、一美とともに学食に向かうため一階に降りた。
「あ、島田先生や!」
七恵が、いかにも興味本位という大袈裟な声をあげた。
大量の荷物を抱え、顔が隠れていたが、服装や体型からして、確かに典子のクラスの担任教師――言葉遣いとは対照的な美貌の持ち主――島田紅音だった。
「島田先生……いかがされたんです、その大荷物?」
一美は上品な口ぶりで、眉を寄せる。
「だ、大丈夫ですかぁ?」
そして率直に驚いている様子の志津花。
「……お、この三人がいるってことは……倉田もいるってことだな」
視界を荷物で完全に塞がれたまま紅音は言った。
「……はい、いますけど」
嫌な予感がした。
「じゃあ、ここはひとつ、クラス委員の倉田に手伝ってもらおうかな」
予想通りの展開だった。ため息すらでない。
「……はいはい、手伝いますよ」
「典ちゃん……わたしも手伝おうか?」
志津花は心配そうに典子の顔をのぞきこむ。
「大丈夫よ、みんなと先にいってて」
「……うん」
純真な仕草で志津花はうなずいた。ほんとうに、なんて可愛いらしいのだろう。典子は同性ながら、おもわずクラっとしてしまう。
「じゃ、典子ちゃん、頑張ってな!」
まるで他人ごとのように軽い口調で典子の肩を叩く。
一美は無言で「お疲れ様です」と、同情する表情をつくる。
「どうすればいいんですか……半分持ちます?」
三人を見送ったあと、典子はきいた。
「一番上の箱だけでいい」
「え? ほんとうに一個だけでいいんですか?」
それでは、ほとんど荷物は減らないはずだ。
「ほら、早く」
しかし紅音は急かすようにいい、荷物を抱える位置を下げて典子がとり易いようにした。いわれるまま、典子は一番上の箱を受け取る。最上段の箱がなくなったことで、紅音の顔があらわになる。口にはスティックキャンディーを咥えている。
「お、重いっ!」
典子は声を上げた。紅音の様子から箱は軽いものだと、たかをくくっていたものだから、思わず体勢を崩しそうになった。
「ほ、ほかのもこんなに重いんですか!?」
「……まあな、中身全部コピー用紙だし」
紅音は涼しげに、スティックキャンディーを咥えたまま器用に喋る。
こんな箱をいくつも……表情さえを変えずに抱えているなんて、一体、彼女はどれだけ力持ちなのだろう。
「よく……持てますね」
「重さはそれほどじゃないんだが……先生はホラ、自立した女だから。でも前が見えないと不安でね。たまたま荷物取りに一階に降りたら、斉藤先生が重そうに荷物を運んでててさ、その荷物も引き受けたってわけだ」
斉藤先生は家政科の非常勤教師だ。もう定年していて、週に一日だけ大聖学園にやってくる、品の良いおばあちゃんだった。
「……とてもいい話だとおもいますよ。でも男の先生……生徒でもいいんですけど……に手伝ってもらうって選択肢はなかったんですか?」
「……男にものを頼むだって? あたしが? ……まさか」
口から突き出たスティックがピコッと動く。紅音はぎょっとした表情で首を振る。どうやら、そういうのはタブーらしい。彼女なりの【自立表現】なのかも知れない。
「どこに運びます?」
「二階の備品倉庫……そういや深尾はどうだ? 朝はなにやら仲よさそうに話してたじゃないか」
「別に……仲よさそうってことはないですよ。ただ……彼って子供の頃、この街に住んでいたんです。それで……わたしと志津花の子供の頃の友達だったことが分かって、それで志津花が盛り上がっちゃって」
「……そりゃあ、奇遇だな」
災難ですよ、とんでもなく。典子は心のなかで呟く。なんとも忌々しい偶然。典子は感情が穏やかでなくなる。そして、ふと思いだした。
「……にしても昼休みになると、彼、どこかに姿を消しちゃうんですよ、一体どこに行ってるのやら」
「……ふうん」
「昨日も今日も、昼休みになると、どっかに姿をくらませちゃうんです。学食にもいないし」
「……知ってるぞ」
「……え?」
「あいつの居場所なら知ってる」
「どこにいるんです?」
荷物を備品倉庫に運び終わったあと、紅音が案内したのは視聴覚室だった。校舎の端にあって、生徒の出入は少ない。昼休みともなればなおさらだ。そんな場所だった。
「ここって……この時間あいてるんですか?」
いつもは鍵がかかっているはずだった。教師が直接開けるか、典子のようなクラス委員が鍵を預かって使用前に開けておくのだ。
「ああ……特殊教室の鍵の管理って、何気にわたしの担当なんだ。だからスペアキー作って持ってる」
紅音は悪戯する子供みたいニンマリ笑った。
紅音が戸を開くと、暗幕の下ろされた暗い室内に、真人は座っていた。典子の顔を見つけ、すこし驚いた顔になる。
スクリーンには、洋画みたいな映像が映し出されている。
「深尾くん……ここにいたの?」
「……ああ」
真人は小さくうなずく。
紅音は典子の脇をすり抜け、真人の前の席に座る。真人は紅音の肩越しに、紙袋を渡す。紅音が紙袋の口をひらくと、食べ物らしい、いい匂いが立ち込めた。学食もテイクアウトできるが、学食の紙袋とはデザインが違うようだ。
「中身は?」
「なんでもいいって話だったんで……あ、【ヘルシーなやつ】でしたっけ? なんで、ソーセージマフィンと、シーザーサラダです。あと、マンゴージュース」
「マフィン……美味いのか?」
「ええ、店のおやじさんはイチ押しだって」
「ふうん。ま、この店は、なに食っても美味そうだからな」
「でもアレですよ……この店はチーズバーガーが絶品なんです。でも先生、チーズあんまり好きじゃないって言うから」
立ち尽くす典子をよそに、当たり前のように、二人は会話をつづける。
「なにしてるんだ倉田、入るなら早く入れ、ここ開けてるとこ、見られるとまずいからさ」
――そりゃそうでしょうね。 典子は呆れつつ視聴覚室の中に入り、真人の隣に座った。
「昨日もここにいたわけ?」
「まあね」
「それ、どこで買ったの? 学食……のと違うみただけど」
「これは学校の近くにあるハンバーガー屋の。夫婦でやってる小さな店。ああ、あとバイトが一人いたかな。この店、込むんだよ……だから昼休みになったら急いでいかないと間に合わないんだ」
聞く限りにおいて、どうやら真人が教室から脱兎の如く姿を消す理由は、無駄なコミュニケーションを避けるためでは……なかったようだ。
「知ってる? 授業が終わるまで無断で学校の外に出ちゃいけないって」
「そうらしいね……でも、了承済みだから……ちゃんと【リベート】もわたしてるし」
真人は紅音が頬張っているマフィンを指差す。
「……どういうことですか島田先生?」
「ん? なんふぁ、くらふぁ?(なんだ倉田?)」
「それ、賄賂だって話……あと、深尾くんが勝手に校外に出てるのを黙認してるとか」
「これは……」
紅音はマフィンに視線を落とす。あきらかに言い訳を探している風。
「日米友好の証、かな? 決して賄賂とかでは……きっと、差し入れとか……善意とかだ。そんで、外出の黙認に関しては……なんていうか……特別だろう? この子は」
「……どういう意味です?」
「倉田も知ってると思うが、深尾はアメリカ政府のエージェントなわけだし、色々と便宜をはかるよう、学園長からいわれてるからな」
典子は一瞬、わが耳を疑った。
いま、紅音はなんと言っただろうか……【アメリカ政府のエージェント】とかいわなかったか?
いや、多分聞き間違いだろう。きっと、こういったのだ【アメリカからの帰国子女】と――あれ、ぜんぜん字数が合わない。
不思議そうに紅音は典子をみた。
「だって倉田は知ってるんだろう、深尾の正体を?」
「え!?」
「……深尾からはそう聞いたけど」
「先生は深尾くんの素性……知ってるんですか?」
思わず声が裏返る。
「……そりゃあ、担任だし」
――ああ、そうか担任だし……って、どんな理屈なの!
「そうなの真人?」
憤りのあまり、思わず下の名前を、しかも呼び捨てで口走ってしまったことに、典子はいってから気づいた。しかし後の祭りだ。
「……まあ、担任だし」
――だから、なんでそういう理屈になるのよ!
「深尾くん……わたし以外にも、あなたの正体を知ってる人間が何人もいるってこと?」
「え? えーっと……学園長と先生くらいじゃないかな?」
「ほんとに?」
「……ほ、ほんとうに」
典子が念を押すと、真人は全然説得力のない口調でこたえた。しかも目が泳いでいる。
「安心しな……少なくとも学校では、あたしと学園長しか知らないよ」
「なんていうか……もっと極秘なものだと、彼からは聞かされていたもので」
「大丈夫だ、ちゃんと極秘だぞ。ちゃんと誓約書にサインさせられたし……それにそもそも、こんなやつが裏工作もなく、うちの編入試験にパスできると思うか? アメリカじゃ、ほとんど授業に出てなかったらしいが……ひどいもんだぞ」
「あ、やっぱ学力低いんですね、彼」
「ああ、壮絶に低い。今度、見せてやるよ、こいつの答案。授業に出ていないってレベルじゃないぞ。それに、なんでも深尾の上司は、深尾が日本にいた頃の友人がいるってリサーチ済みで、わざわざここに編入させたらしいからな」
「え!?」
自分の学力云々について言われている間、恥じ入ったように静かにしていた真人が、唐突に声を上げた。
「……あ、これオフレコだったわ」
紅音は「しまった」という顔をした。
「やっぱり……あのオッサン、おれをハメやがった……だからおかしいと思ってたんだよ……アメリカじゃ学校に行けなんていわなかったくせに、日本じゃ学校に通わなきゃ給料から罰金を差っ引くだなんていいだしやがって……」
真人は同情を誘うほどに肩を落とし、なにやらぶつぶつと恨み言を呟く。
「なんでも社会復帰の一環らしい。特殊な任務に明け暮れて、ろくすっぽ学校にも行ってない、一般的な社会性の欠如しているこいつを、日常生活に適応させるための」
「余計なお世話だ……」
真人は海の向こうにいるであろう上司にむかって吐き捨てた。
確かに、こんな阿呆でも……可哀想ではある。超能力を持ったがゆえ、非日常の中で生きてきたのだ。学校にも通えず、社会生活にも適応できない。典子は少しだけ同情する気になった。まだ紅音が真人の正体を知っていたのを黙っていたことを忘れたわけではないが。
――グウ。
典子のお腹がタイミング悪く鳴った。
「す、すいません……」
反射的に謝った。
「はい、これ」
真人は紙袋の中から包みをひとつ取り出し、典子に差し出した。包みからは食欲をそそる匂いが染み出している。
――そして、昔もこんなことがあったような気がした。あの時はそう……ドーナッツだったような気がする。志津花の母親が作ったドーナッツを三人で公園で食べていたときのことだ。典子は地面に自分のドーナッツを落としてしまい、呆然としていた。真人は困った顔をして、しばらく考え込んだあと、自分の分を典子に差し出したのだ。
「二つあるからさ……一個やるよ、美味いぜ」
――「志津花たちが学食で待ってるから」、そう断ろうとして、もう結構時間が経ってしまっていることに気づいた。きっと学食はすごく混んでるし、みんなは食べ終わっているかも知れない。
それに、目の前に差し出された包み紙からは、抗いがたいほどの妙なる匂いが、誘惑するがごとく立ち上っていた。
「……ありがとう」
典子は包を受け取り、開いた。目の前に現れた物体は、予想していた以上に、美味を彷彿とさせる佇まいだった。
焦げ目のついたパティと、程良く解けた色合いのいいチーズ。そして、垣間見えるレタス、オニオンの量のバランスといったらない。
口にした瞬間、溢れ出る肉汁と、もろもろの具の調和、そしてチーズの濃厚なアクセントが、口腔の中いっぱいに広がり、味覚中枢を激しく刺激する。
――美味しい!
「はいこれは、マンゴージュースね」
差し出されたカップを受け取り、典子は迷いなくストローに口をつける。
冷たく、濃厚な液体が口の中を洗い流す。
油っぽさが一気に流され、口の中がリフレッシュされる。
「どう?」
「美味しい! マンゴージュースって、こんなにハンバーガーにあうんだ」
「だろ?」
典子は夢中でチーズバーガーを頬張った。
そして、指先についたソースすら、名残り惜しくて舐めとった。
真人も味わうのを楽しむみたいに、無言で食べた。そして、さっき典子が口をつけたストローに、自分も口をつける。
「あ!」
――間接キス!
そう思い、典子は声を出してしまった。
「ん?」
真人は気づいたそぶりもなく、チューチューやっている。
典子は逆に恥ずかしくなって、真人から視線を外した。そして、ふと、あることを思いだした。
「あ、そうだ……深尾くん、志津花のこと、ほんとうにありがとう」
「ああ、別に気にするなよ。当然のことさ……当然過ぎるほどにね。それがおれの仕事だ」
こういうときの真人は妙に落ち着いていて、悔しいが大人っぽく思える。
「でも、すごい回復力。びっくりしちゃった」
「まあ、なんだ……補足すると、他の被害者たちはまだ入院してる。そりゃあ、体内の毒は中和されたけど、体力はそう簡単には回復しない」
「なにが……いいたいの?」
なにか、引っ掛かりのある言葉だった。
「……聞きたい?」
少し気まずそうな表情。
「……聞きたいわ」
「彼女の……しずちゃんの分は、解毒薬が足りなかったんだ。状況は悪かったし、追加分の到着を待つ余裕がなかった……」
「じゃあ……」
「おれの血液を輸血した……おれに怪我の回復能力があるのは昨日説明したと思うけど、それ以外にも、あらゆる病気、毒物に対する免疫があるんだ……もちろんザーグナーの毒も中和できる」
「それって、なにか……問題があるの?」
「おれの持っている能力が、輸血を受けた人間に、一時的に付与されることがあるんだ。どの程度、どれくらいの期間かは、明確じゃないけど……つまり、彼女の回復能力は、おれの能力が付与されたものなんだ」
「悪いことは……ないのよね?」
「ない……多分ね」
「【多分】って……それ、妙ないいまわしじゃない?」
「おれは常人には見えないものが見えたり、嗅ぎとれたりする……つまり五感が鋭いんだ。それがでるかもしれない。それが幸となるか不幸となるか、なんともいえない」
真人の表情は複雑だった。
学校をでて、典子は志津花といつもの場所――取り残されたみたいに時代錯誤な外観の古書店、【薄氷堂】の前で別れた。こうやって後ろ姿を見送るのも懐かしい気がする。
その姿が見えなくなるのを待って、典子はきた道を戻りはじめた。向かう先は、奈羅迦神社だ。住宅街のはずれ、小高い丘の上にある。そこで真人と待ち合わせをして、典子の家に行く予定だった。
口を開くたび、危なげな言葉を連発する真人を教育するため、頻出会話の応答をシュミレーションすることにしたのだ。
数分して神社の石段の下に辿りついたが、真人の姿はない。遠回りをしたタイムロスを考えれば、とっくについているはずの時間だ。念のため、境内に上がってみる。
遺物ともとれる、古びた石の鳥居をくぐり、境内に入る。境内の端にそそり立つ巨木の下に真人はいた。
「別にこんなところじゃなくて、石段の下でまってればいいのに」
「そうかい……待ち合わせ場所っていったら……ここじゃなかったっけ?」
真人は、さも当然だという様子だ。
典子は思いだした――確かにそうだった。子供の頃、志津花と真人と三人で遊んだときには、ここが……この樹の下が、三人の待ち合わせ場所だったのだ。
「なんか……色々と思い出すよ」
真人は感慨深げに呟く。
「典子に、木の上に玩具を隠されてさ……おれ、木登り苦手なのに登っちゃって……降りられなくなって、泣いちゃんだんだよな」
「……!?」
――そういえば、そんなこともあった。
意地悪をすると、すぐ泣いてしまうのが楽しくて、真人に対して色々と悪戯めいたことをしたことを思い出してきた……泥団子を強制的に食べさせたこともあったような。ほかにも……。
「あと、泥……」
「深尾くん! ……行きましょう、遅くなるとマズイでしょ」
「ん? ああ、まあね。門限があるってわけじゃないけど……」
典子は寸でのところで、真人の記憶の蓋がパカっと開くのを押しとどめ、なんとか誘導することに成功した。
家に着くと、典子は真人をリビングのソファーに座らせ、一応、コーヒーをだした。真人が一口啜ったのを見届けて、典子は切り出す。
「じゃあ、わたしが質問をするから、他のクラスメイトが相手だと思って、よく考えて答えるのよ」
「了解」
真人はうなずいた。とりあえずは真摯と言える表情で。
「アメリカではどこに住んでたの?」
「バージニア州のアーリントン。ま、一応、家っていえばそこかな……川を超えるとすぐペンタゴンなんだ。でも、ヨーロッパやら、南米やら、あっちこっち行ってたから、住んでいた、とは言い難いけど」
今朝もそうだったが、ペンタゴンなどという単語が出てきた時点で失格だ。そのあとに関しては……問題外。本当に、こいつは正体を隠す気があるのだろうか……ひょっとしたら、自分はからかわれてるんじゃないのか? そんな様々な考えがよぎる。だがあえて追求はしなかった。憤りを抑えながら、さらに質問をする。
「……あっちこっちに行ってたって、どうして?」
「そりゃあ仕事さ。おれはドサ回りって呼んでるけど」
典子は呆れ返った。なぜこうまで、この男はしれっといえるのだろう。予め決めた設定を忘れているか、途方もない阿呆か、どちらかに違いない。
「……自分でいったことの内容を理解してるの? 仕事で世界中を行き来している高校生なんているわけないでしょ!」
「いや、世界中ってわけじゃない、なぜかアジアには縁がなくてね。アメリカの同盟国が少ないからだと思うけど……あれ?」
「あれ? ……じゃないでしょ!」
真人は人差し指をつきだして、「ちょっと待ってくれ」のジェスチャーをし、しばらく考え込む。
「……わかった。これならどうだい? 住んでたのはバージニア州のアーリントン。どうだ? スマートだろ?」
「っていうか、それ以上のこと、最初からきいてないんだけど……」
「なるほど、ちょっとコツが分かってきたよ」
真人は満足気にいい、かたや典子はがっくりと項垂れた。いったい、彼を調教するにはどんな手を使えばいいのだろうか。諦めたい気持ちを抑えつつ、深呼吸する。
「じゃあ、続けるわよ……アメリカの学校ってどんな感じなの?」
「いやあ……なにせ、おれはほとんど学校にいってないからな。ジュニアハイスクールの途中からずっと……ん? いや……えーと……別にこっちとそんなに変わらないよ。おれがいってたところは、金属探知機をつかった持ち物検査もなかったし」
いい直した後、真人は満面の笑みを、さも「どうだ、ちょっとしたもんだろ?」とでもいいたげに浮かべた。
進歩は確かに認めよう。しかし予想を上回る阿呆であることは、もはや疑いがなさそうだ。それから一時間にわたり、典子の苦闘は続いた。
――ガチャ。
唐突に、玄関の鍵が開く音がした。
「……嘘!?」
父子家庭だ。帰ってくる人間は一人しかいない……刑事をしている父親の明俊。まだ六時にもなっていない。こんな早い時間に帰ってくるなど、まったくの予想外だった。
「典子、ただいま!」
疑うべくもない父親の声。そして訝るような声が小さくつづく。
「ん、なんだこの靴……男物?」
典子は慌てて立ち上がり、玄関のほうに向かった。
「お、おかえりなさい。えーっと……そう……と、友達が来てるの」
警戒するような表情のまま、明俊は典子の脇を通り過ぎる。
リビングに入り、ソファーに座る真人を見つける。
「えーっと、クラスメイトの深尾くん……転校生。アメリカからの帰国子女なの……だから色々と日本での生活についてアドバイスしてたのよ」
典子は慌てて説明した。
上から下まで、明俊は舐めるように真人をみた。被疑者を観察する刑事そのものだ。
「ふーん……そりゃあ……アメリカからの転校生? へえ……さすがに手が早いな、転校したばっかで、もう女子生徒の家に上がり込むなんて」
露骨に、忌々しそうに、まるで敵を威嚇する目つきで明俊はいった。
「ちょっと、お父さん……そうじゃないの!」
「大丈夫だから、お父さん、そういうことに理解あるから……」明俊は典子の肩をつかみ、言い聞かせるようささやいた。「……でも、ちゃんと避妊はしろよ?」
ああ、めんどくさい! 典子は天を仰いだ。
「だから、ただのクラスメイトよ! クラス委員だから世話を頼まれてるの! わかった!?」
典子が強い口調でいうと、しょんぼり父親は肩を落とした。
「わかってるよ……典子は怖いなぁ。ほんと、怒りかたが死んだ母さんそっくりだぞ……冗談に決まってるだろう?」
典子は溜息をつく。高校生の娘を前にして、ずいぶん品のない冗談もあったものだ。
「おじさん……お久しぶりです」真人は唐突にいった。「ぼくです、深尾真人です」
呆気にとられたが……よくよく考えてみれば真人のいうとおり、二人は初対面ではなかった。真人と志津花とは、かつて家族ぐるみの付き合いだったから。
「あ……お父さん、覚えてる? 深尾くんよ、昔近所に住んでた。わたし、よく一緒に遊んでたでしょ?」
明俊は眉を険しく引き寄せた後、口をあんぐりと開けた。
「君、ひょっとして……マーくんか? いやー、びっくりだな。そういや、お父さんの仕事の都合でアメリカに引っ越したんだっけ……それにしても大きくなったなー」
感慨深げに何度かうなずく。
「なんだ典子、それならそうと、もっと早くいえばいいのに……」
「そ、そうね……」
たしかに……しかしまだ真人が幼馴染みだったということに、どこかでしっくりいっていない。その頃の記憶があいまいなのだ。
「そうだ! どうだい真人くん、今日はうちで晩飯食ってかないか?」
「え? ええ、まあ」
「よーし、典子。寿司だ、寿司! 特上を三人前」
物事は典子の予想外の方向に流れていった。いろんな意味で。
見た目は人懐っこい中年にしかみえないが、まかりなりにも明俊は刑事だ。真人がまた妙なことを口走ったりしないか、典子は心配でならない。
「典子、とりあえずビール持ってきてくれないか。あとツマミになりそうなもの」
明俊に頼まれて、典子はダイニングに向かう。
冷蔵庫を開き、まずは買い置いてあった缶ビールを見つけた。
ツマミには、チーズと、キムチが残っていた。それから、ツナ缶。ツナに小口に切ったネギと練り辛子、醤油で和えれば、ちょっとしたツマミになる。ネギを切っていると、明俊と真人の会話の断片が耳に届いた。
「真人くん、向こうじゃ、どこに住んでたんだい?」
予想通りというか、さっきシュミレーションしたとおりの質問だ。さすがに、これなら大丈夫だろうと典子は安心し、話の流れに聞き耳を立てた。
「ああ、バージニア州のアーリントンです。川を渡るとすぐペンタゴンっていう立地なんですよ。だから、呼び出されたときにはすぐに行けるわけで、まあ便利っちゃあ便利ですよね。まあ、もっぱら仕事で留守にすることが多いんで、家っていっても、いることは少ないんですけど」
典子はじっと、まな板をみながら固まった。呆然と真人の言葉を反芻する。いったい、あいつはなにを考えているのだろう。さっきまでの苦労は、いったいなんだったのだ? ちょっと悲しくなり……そのあと激しい怒りがこみ上げた。
「はい、ビールとツマミね」
ビールとツマミをお盆に乗せて、リビングのテーブルの上に置いた。つい力が入りすぎ、お盆が音を立てた。
「典子、そんなに手荒く扱わなくても……」
明俊が抗議する。
「……ごめんなさい」
形ばかり謝ってから、典子は真人を睨みつけた。
真人は「なんで怒ってるの?」という顔。まったく自分の失言に気づいていないようだ。
「えーと……真人くんは、どうしてこっちに?」
明俊は重い雰囲気に気づき、会話を切り出した。
「えーっと、仕事です。まあ、ドサ回りってやつですよ。こっちには拒否権ってもんがないし……この前は、イギリスのデントンって町でした」
――まただ……またいってる! こいつの頭……やっぱり空っぽだ!
「深尾くん……ちょっといい?」
返事を待たず、典子は真人の襟首を掴んで立ち上がらせた。そしてダイニングへつれていく。
「さっきからきいてれば、なんでそんなに迂闊なの? 自分の秘密を守る気があるの? っていうか、あんた……言葉の露出狂?」
「……だって」
「だって、じゃないでしょ!」
典子が叱りつけると、真人の目にじんわり涙が浮かぶ。なんで、すぐ泣くのよ! ……ほんとうに、あんたは昔から!
「……おじさん、おれの正体知ってたし」
「い、いま……なんていったの?」
「えっと……だから、おじさん最初から、おれがアメリカ政府のエージェントだって知ってた」
真人は悪戯を白状させられる子供さながら、典子の表情を気にしながら喋った。
「なんでよ!?」
「……典子、ちゃんと説明するから、そんなに真人くんを怒らないでやってくれないか」
気遣う表情で、明俊がダイニングを覗き込んだ。
仕切りなおして、三人はリビングのソファーに座りなおした。
「じゃ、説明してもらおうかしら」
「な、なんか怖いぞ……典子」
「お父さん。はやく……説明して」
怒りに、言葉が少し震えた。
「えー……コホン。お父さんはなんと、外務省からの特命を受けて、真人くんの市内における活動のサポートをすることになったんだ」
――なったんだ、じゃないわよ!
明俊の場の雰囲気を和ませようとするおどけた口調は、典子の怒りを逆なでしただけだった。
「……ふうん。じゃあ、わたしだけ知らなかったわけね」
まるで、ひとりだけ道化を演じさせられたような気分だった。典子は父親の顔を一睨みし、それから真人の方を向く。
「わたしに自分の正体を隠す手伝いをしろ、って頼んでおきながら、いったいどれだけの人が、あなたの正体を知ってるのかしら?」
「……す、すいません。でも……たぶん……もう学校にはいないとおもうよ」
「本当でしょうね?」
「……う、うん」
典子の詰問に真人は、ガックンガックンと勢いよくうなずく。それから明俊に向き直る。
「お父さんの方は?」
「え、えーっと、署長は知ってる。外務省の一部と外務大臣……それに総理大臣……ぐらいだと思うけど」
なにやら、すごい名前がズラッとでた。しかしどこかまだ、現実味が薄く感じられる。典子を取り巻く人間たちの言動の軽さ故……だろうか。溜息をつく……まあ、二人とも悪気はないのだ。ひとりだけピエロになった気はしたが。
「深尾くん……引き続き、わたしはあなたのフォローをする必要があるのかしら?」
「……お、お願いします」
怯えた小動物のように真人は身をすくませる。典子は少し子供の頃の彼を思い出した。 気が弱くて、泣き虫……なにかにつけ、すぐ泣いていた。困った顔がうっとおしくて……でも可愛くて、よく泣き虫を治すためといっては、いじめのようなことをしていた。いまも……驚異的な治癒能力をもち、アメリカ政府の特務機関に所属しているにもかかわらず、なぜかその面影が残っている。
真人は久しぶりに食べたという本場の寿司に目を白黒させ、しきりに「美味しい」を連呼した。そんな屈託ない真人の様子をみていて、典子の気分も多少はましになった。
明俊は昔話ばかりをした。話をきいているうち、典子も色々なことを思いだした。なぜ真人の存在を忘れてしまったのだろうかと驚くほどだ。
真人を送り出した後、食事の後片付けをするため、流しに向かおうとした典子を明俊は妙に改まった表情で呼び止め、ソファーに座らせた。
「……どうしたの?」
「頼みがある……」
「なによ?」
なにか……父親の顔に決意みたいなものが読み取れて、典子は嫌な気分だった。
「マーくん……真人くんのことについてだ。お父さんは、彼の任務をフォローするよう外務省から頼まれたが、当の外務省も彼の任務について詳細を知らないんだ。アメリカ政府いわく、【世界平和に関係する任務】とのことらしい。だが日本政府はそれを鵜呑みにしているわけじゃない」
昨日……真人は、わりと阿呆みたいにペラペラ喋った――アメリカ政府の抱える予見者とやらが人類の危機を幻視し、自分はその予兆を探るべく、この街に派遣されたと。
ひょっとしたら、自分のほうが真人の任務について、父親や日本政府より詳しく知らされているのではないだろうか。典子はそんな気がした。
「彼の行動により、連続通り魔事件は解決したと、外務省経由で連絡があったんだよ。でも犯人が何者だったとか、そういった説明は一切なかった。事実、アメリカ政府が用意した解毒薬によって被害を受けた人たちは快方に向かっているのだけれど……本当に、彼のことは謎ばかりだ」
どうやら父親は、ザーグナーのことを知らないらしい。ひょっとしたら外務省もだ……典子は急に緊張感に襲われた。真人は本当に、わたしを信頼している。
明俊は、仕切り直すように深く息をした。
「彼の行動を観察して欲しい。そして彼がなにを行なおうとしているのか、父さんに教えて欲しい。こんなことを典子に頼むのは本当に気がひけるけど……」
なんと答えればいいのだろうか。父親の悲壮感のある表情を目の当たりにして、急に自分の背中にのしかかる重いものの存在を再確認した。やはり、彼は……深尾真人は特別な世界の住人なのだ……そのわりに学校での真人は、自分の身分を隠す気が無いように感じられるが。
――やっぱり阿呆なのかな?
「あと、そうだ……」
「なに?」
「くれぐれも……なんだけど……彼のことを好きになったりしちゃ、駄目だぞ?」
「はぁ? ……お父さん、なにいってるの?」
いかにも唐突な物言い。自分が真人に恋愛感情を抱くなど……まったくもって、ありえない。
「なんだ……その……彼は普通の人間じゃない。まともな生き方も、まともな死に方もしない……そういう人間だってことだ」
父親の言葉には言い知れぬ悲壮感があった。さっきまで和気あいあいと食卓を囲んでいたのに、父親がそんなふうに真人をみていたことに典子は驚いた。
「……そんなこと、あるわけないでしょう!?」
「そうか……だったらいいんだけど」
明俊は安堵の表情を浮かべ、缶ビールをあおった。
深尾真人は満ち足りた気分で路地を歩いていた。特別、アメリカにいたときは寿司を好んで食べようとは思わなかった。チーズバーガーにピザがあれば食事には事足りたからだ。治癒能力の影響か、偏った栄養摂取をしていても健康に問題はなかった。一回、アメリカで寿司を食べた。たしか……ナイトワークスの実質上の責任者、そして真人のアメリカにおける身元引受人でもあるマッギネス中将に「たまには日本食でも食べないか」といわれ、ペンタゴンから程近い寿司バーにいったのだ。
カリフォルニアロールとか、フィラデルフィアロールとか、そういった珍妙なものばかり食べさせられて、辟易したのを思い出す。あれ……寿司ってこんな食べ物だったっけ? と思い、困惑した。だが本場の寿司はやっぱり違う。久しぶりに食べた生魚の乗った寿司は最高に美味しかった。やっと、日本に帰ってきてよかった、と思えた。
――夕飯……寿司……美味しかった?
なにか忘れているような気がした――大切な……なにかだ……なんだ?
真人は携帯電話を取り出す。無意識の行動だ。
メールが着信している――五件。
発信者――エレナ。
『今日の夕御飯はミートローフとクラムチャウダーよ』
発信者――エレナ。
『何時に帰ってくるの?』
発信者――エレナ。
『夕御飯は要らないのかしら?』
発信者――エレナ。
『要らないなら要らないで、連絡が欲しいわ』
発信者――エレナ。
『……ふうん、連絡もなし? いい身分ね』
真人は忘れていた。今日からパートナーであるエレナ・スキロワが食事を用意してくれることになっていたのだ。
いつもファーストフードばかりを食べている真人を見かねて、恩を売るような口調で、彼女が「ほんとに、いつもそんな物ばっかり食べて……しょうがないわね、こっちにいるうちは、わたしがあなたの食事を作ってあげるわ」とかいい出したのだ。
――まずい!
エレナ・スキロワは真人より一つ年下の超能力者で、妥協のない理論家。そう……真人とはおよそ正反対の性格。幾度となくパートナーの変更を申し出ているのだが、かれこれ二年も、というかナイトワークスに所属してからずっと、コンビを組まされ続けている。
とにかく口うるさく……いつも不機嫌なのだ。この二年間、ただの一度さえ、彼女の笑ったところを見たことがない。
そんなエレナとの約束を反故にしたとあっては、どんな叱責を受けるか――というか、もうメールで十分なぐらい叱責された気になったが――想像するだけで恐ろしい。
「食べりゃあ、文句ないだろ……きっと」
真人は腹をさすった。ミートローフとクラムチャウダーぐらいなら、まだ余裕だ。気合を入れて消化にとりかかる。消化能力も、真人の能力の一端だった。
足早に路地を歩く。言い訳は……しないほうがいいだろう。自分がそういうことを下手なのは知ってるし、なにせ相手はエレナだ。寿司をご馳走になった、というところだけ、伏せておけば……!?
背筋に【ある感覚】が走った。人間が本来持つ【生理的嫌悪】のようなもの。
――人間の敵がいる……『妖物』が。
真人は匂いを嗅いだ。腐った泥のような臭いがギンギンと鼻をつく。
「……近いな」
ヒップホルスターから拳銃【スキュラ】を引きぬく。やや大振りなマグナムで、状況に応じて弾丸をセレクトすることができる。真人は素早くポーチから予備の弾丸をとりだし、【退魔弾】を装填する。
――退魔弾の弾頭は人工水晶で、ナイトワークスに所属の魔法使いにより魔力を注入してある。中級下位までの妖物なら効果てきめんという便利な代物だ。
真人は駆け出した。
路地を抜け、木立が並ぶ遊歩道のようなところに出た。人通りはなく、目撃者の心配は少なそうだ――あとは一発で仕留められるかどうか。
敵との遭遇地点を推測し、頭の中で秒読みをはじめる。
ちょうどそれがゼロになったところで、黒いものが飛び出してきた。
犬のようだが、体は人間の倍ほどある。まるで燃えているように毛が逆だち、口からは陽炎の如き瘴気を吐き出している――まさしく妖物。
そいつはわなないた、真人を獲物とみとめて。
獰猛さを具現した隙のない跳躍で真人に踊りかかった。獲物を捉えるべく開け放たれた口にはワニのような鋭い牙が並ぶ。
――その口に、弾丸が吸い込まれる。
妖物は空中で青い炎に包まれた。
そしてドサリと音を立てて地面に落ちたのは……小型犬だった。どのような経緯か、これに妖物が宿り、あの巨体に変異していたのだろう。
――見られている?
真人は感じた。それは微かだったが、絶対的な感覚だった。自分でも信じられないくらいに相手に接近を許していたのだ。
真人は振り返った。背後に少女が立っていた。五メートルもない。硬い表情。だが妖物を目撃したという恐怖によるものではない……まっすぐ真人を見ていた。いや、見据えていた。視線に込められるのは……射抜くような敵愾心。真人は反射的に身をすくめた。
「……深尾……くん?」
訝る口調で少女はいった。
真人もようやく気づいた。少女が知り合いであることに――中条一美。確かクラスメイトで……白井志津花と倉田典子の友達。
気づかなかったのには理由がある。彼女の表情が、学校で見たものはあまりにも違っていたからだ。学校で顔を合せたときは、淑やかで落ち着いた雰囲気だったが、いまはピリピリとした、肌を棘の先で引っ掻くような緊張感を放っていた。
また……知り合いに【仕事】をみられた。ツイてないときは、とことんツイてないものだ。典子の目の前で戦わざる得なかったこともそうだが、今回は信じがたいことに、まったく気配が読めなかった。
そんなに気を抜いていたのか、と自問して、いや違うな……と結論づけた。相手のほうが気配を絶っていたのだ、この少女――中条一美のほうが。
確かに独特の雰囲気がある。武術の達人のそれに近い。
「あなたが……【仕留めた】のですか?」
一美は探るような視線を真人に向けた。
「まあね」
「あなた……まさか、【鴉】?」
妙なことを、一美はいった――【からす】と。
鳥の烏のことではないだろう。とっくに日は暮れている。だとすればなにか――頭の隅にこびりついた記憶の小片みたいなものに、このシチュエーションに適した解釈が書き込まれているのを思い出し、真人は頭のなかをまさぐった。
「中条一美……だっけ? あんた……ひょっとして【追難】か?」
【追難】――それは日本に古来より存在し、退魔を生業とする者達の呼び名。そして追難は自分たち以外の、モグリの退魔者を【鴉】と呼ぶ。確かそのはずだ。
「それは銃……ですよね? 深尾くん……あなたは確か、アメリカ帰りでしたっけ……もしかしたら米軍の筋のかたかしら?」
一美はスキュラに視線を注ぎつついった。勘、というだけではないのだろう。そういう道具が開発されていることを知っている口調だ。
「まあね」
「……あら」
ようやく一美の顔から険しさが引く。米軍なら商売敵ではない、ということなのだろう。
「お互い、秘密を抱えているようですね」
「……みたいだな」
「でも……わたしの獲物でしたのに」
一美の視線に射るような光が戻った。
――この女……怖い。感情をあらわにする女も怖いが、感情を隠し、目で殺すタイプも苦手だ。
「アクシデントだ、あんたの獲物をとる気はなかった」
「結果は結果……この仕事の成功報酬はあなたが受け取ることができるよう手配いたします」
「……とんでもない、貰えないよ」
「……でも追難は、人のおこぼれを頂いたりはしませんから。受け取りを拒否なされるなら、慈善団体にでも寄付いたしますわ」
「そ、そう……じゃあ、それでお願いします」
まったくもって、背筋の寒くなる女だった。口調が丁寧なだけ、それが余計に際立っている。学校での楚々とした印象からは、まったく別人だ。
だがハンターの縄張りを荒らして咎められるのは、真人も今回が初めてではない。ドイツでも一回、たまたま鉢合わせしたカーシーを撃ち殺したことがあったのだが、そのときは、熊みたいな髭モジャの大男にこっぴどくどやされた。国は違えど、ハンターは縄張り意識が強い。性分としては、女に嫌味ったらしくいわれるより、そっちのほうがまだましだが。
「じゃ、もういいかな?」
「そうですわね……では、また明日、学校でお会いしましょう」
含みを持たせた妙ないいかただと感じながらも、真人はさっさと別れるのが得策だと考え、振り返らずに、足早に自宅に向かった。
――翌日、大聖学園。
朝、教室で唐突に七恵が切り出した。
「なあ、典子ちゃん、今日、学校終わったら虫採りに行かへん?」
「は?」
いつもながらの唐突さ……おもわず典子は聞き返した。確かに今日は土曜日で、授業が午前中で終わるとはいえ、なぜ高校生……しかも女子が【虫取り】なのか。聞き間違いであってほしかった。しかし傍らに静かにたつ保護者役の一美が肩をすくめ、苦笑を浮かべているところを見ると……聞き間違いではなさそうだ。
「だから……【虫捕り】や!」
「なに虫を……とるのよ?」
七恵は含み笑いを浮かべた。「よくぞ聞いてくれました!」という感じで。携帯電話を取り出し、操作する。
「これや」
液晶画面を典子につきつけた。
そこに映っているのは、見るからにおぞましい……虫と呼べるのかも疑わしい生き物だった。概ねは甲虫らしいが、異常に長い……毛むくじゃらの足が十本ばかり生えている。典子は昆虫に詳しくはないが、こんな形のものは、お目にかかったことがない。
「うわっ、なによ、これ?」
してやったり! 七恵はそんな表情をする。
「んふっ、どうや? これはきっと新種の虫やねん!」
――まさか、この虫を捕まえて校内新聞のネタにしようとでもいいだすんじゃないでしょうね?
「捕まえたら、絶賛ネタ切れ中の校内新聞のいいネタになると思わへん?」
――やっぱりか……相変わらず、なんて分かりやすい奴。
「しかも、もう志津花ちゃんは、いくことに決定済みやねん」
七恵はニヤリと笑った。
「……ほんとなの、志津花?」
「うん。面白そうだねぇ、虫取り。小学校の時以来じゃないかなぁ? 昔はよく、マーくんも一緒に、三人で虫取りしたよね?」
「……まあ、そうかも?」
志津花の言葉が引き金となり……記憶が淡くよみがえる。確かそう、あれは……カナブンを大量に捕まえて、典子は真人の服の中に詰め込んだのだ。無論、真人は大泣き。あとは……カマキリやカミキリムシなどを持って、嫌がる真人を追い掛け回して泣かせたりとか。
当時は、よく虫をとっていた……真人に悪戯をするために。典子の脳裏に、つぎつぎと苦い思い出が蘇った。子供の頃とはいえ、なんて酷いことをしたのだろう。真人が……おぼえてないことを切に願った。
「【虫取りチャンピオン】の典ちゃんは、もちろん参加でしょ? あと、マーくんも誘おうと思うの!」
虫取りチャンピオンか……言い得て妙な称号だ。きっと【あのこと】を指しているに違いない。皮肉を皮肉とも思わず、屈託なくいうところはさすがは志津花、幼馴染みだ。
「いや……それはやめたほうがいいんじゃない……色々な意味で」
真人に……あんなことや、こんなことを思い出されてはたまらない。
「でも、まだマーくん学校に来てないね?」
教室内をみまわし、黄昏時みたいな表情で志津花がいった。
昨日、典子の家で行われたミーティングで、クラスメイトへの秘密保持対策として……特に真人に対して好意的に振舞うが故に、現在、一番危険な存在になりつつある志津花への対策として、ギリギリにきて、素早く帰る……なるべくだれとも喋ら……というのを提案したのだ。どうやら、それが実践されているらしい。
「ところで、一美はどうするの?」
「わたくし……今日は、ちょっと事情がありまして……申し訳ありません」
一美は重い表情であやまる。
「一美ちゃん、【今日は】じゃなくて……【今日も】やろ? ……付き合い悪いわ―」
七恵は腕組みして嫌味ったらしく非難する。一美は、さらに申し訳なさそうに肩をすくめた。長い黒髪が楚々と揺れる。
「七恵さん……ごめんなさい」
「ジョーダンやって、一美ちゃん! また、今度な!」
一転して笑みを浮かべ、七恵はポンポンと一美の肩を叩く。一美が忙しいのはいつものことで、七恵だって、そのことは承知しているし、いちいちそれで怒ったりする小さな人間ではない。こんなやりとりは、いつものこと……だった。
多くを語ることはないが……一美は放課後に用事があって別行動……ということが多かった。古い家柄だけに、特殊な事情があるのかもしれない。
学食で昼食をとった後、中条一美は【虫をとりに行く】という三人を校門の前で見送り、数ブロック先の路地へ向かった。場違いな黄色いスポーツカーが停車している。脇にはモデル風の華奢な人物がたっている。髪型はウェーブのかかったショートボブ。黒いパンツスーツにサングラスで黒尽くめだった。
黒尽くめの人物――卜部恭狐は(うらべ きょうこ)は一美のために、後部座席のドアをひらいた。
「お帰りなさい……一美」
【お帰りなさい】に込められた意味はひとつではない。女子高生の中条一美でいられるのは学校の中だけ。今は違う……そういう意味も含んでいる。
中条一美は――【追難】だった。平安の昔から特殊な技術を受け継ぎ、闇と対峙する特殊技能者集団【追難】。それが一美のあるべき姿だった。中条家は追難のなかでも特別古い家柄だ。
運転席に座ると、バックミラー越しに恭狐はいった。
「残念ぇ……【虫捕り】。楽しそうじゃないの」
虫捕りのことを報告したわけではない……だが恭狐は知っていた。当然のように。それが恭狐の能力だった。嫌味に言葉をかえす気になれず、一美はきりだす。
「どうでした?」
「はい、これが調査結果よ。昨日の夜の頼まれたにしちゃ、迅速でしょ?」
恭狐は追難のなかで【廻り衆】(まわりしゅう)と呼ばれる存在である。管理職である【八人衆】から仕事を拝命し、しかるべき追難に仕事を割り振るのだ。
補足すれば、中性的な容貌と言葉遣い、名前で間違えられることが多いが、れっきとした男だ。
恭狐はファイルを一美に手渡した。
情報収集――それも廻り衆の仕事である。その能力は、特別なコネクション……そして技術を駆使するため、各国の諜報機関すら凌駕する。
しかし、その割にファイルは薄い。妙に思いながら、一美はファイルを開いた。
――名前:深尾真人 通称、リンクス
――国籍:アメリカ/日本
――年齢:17歳
――身長:165センチメートル
――体重:57キログラム
――所属:アメリカ国防総省直属、特務機関【ナイトワークス】
――趣味:ビンテージコミックの収集
書かれているのは、それだけ。
「なんでしょうか……これは。時間が足りなかったということでしょうか?」
「いいえ……これだけしか分からなかったの」
それほど申し訳なさそうでもなく、恭狐はいった。
「本当にびっくりするわよ、異常なほどプロテクトが硬いの」
「ナイトワークス……というの、いったいどういう機関なのですか?」
「【対超常特務機関】……らしいわ。アメリカ国内はもとより、世界各国――ま、もっぱらアメリカの同盟国にだけど――に派遣されてる。そしてアメリカ政府は派遣先の国からマージンをもらうってシステム。追難に似てるわね」
追難に似ているですって? なんて軽々しいのでしょう……一美は苛立った。追難とは伝統と栄誉の蓄積があまりにも違いすぎる……天と地ほどに。そんなものを一緒くたにするなど、冒涜以外の何物でもない。
恭狐は生まれついての追難ではない。その実力には感嘆するが、特殊な事情で追難の列に加えられた新参者にすぎないのだ。だから、そんな言葉が口をついて出る。
「……あの国らしいですね。深尾くんは子供の頃、こっち……つまり日本に住んでいたらしいんです。この奈羅迦市に。一体、どうやって、その彼がアメリカの特務機関に所属することになったんです?」
「それが、まーったくわからないの。本人に直接聞いてみれば? クラスメイトなんだし」
「それができれば……わざわざこんなことを頼みません」
「……まあ、そうでしょうね。でも、これだけはいえる……特に彼のプロテクトだけが固いの。ナイトワークスって機関の存在だってトップシークレットだろうけど、彼の情報に関するプロテクトはそれ以上に固い。まるで彼自体がアメリカの最高機密って感じよ」
一美はファイルの短い文字列をみつめた。それだけ機密だらけなら、なぜこの【趣味:コミックの収集】というのだけ具体的なのだろうかと首をかしげた。
――深尾真人……面白い男だ。
自分を追難だと一発で見破ったというだけでも興味深いのに、追難の情報網を以てしても、その正体が掴めない相手が存在するなど、あまりにも面白いではないか。
「ここなの?」
「そう、ここや」
「……でも、ここって、勝手に入っていいのかなぁ?」
典子たちは廃工場の前に立っていた。壁面の塗料は剥げかかけながらも、うっすら【鳥羽重工】と読めた。
奈羅迦市の西部、三上地区と呼ばれる旧工業地帯である。今では、ほとんどの工場が、その機能を海外に移してしまったため、廃工場が方々に点在している――ここはその一つだ。志津花の言葉は正しい。廃工場だが、私有地には違いない。
「ダメでしょ」
「……いまさら、そんな固いこといわんと。大丈夫やて……うちら以外だれもおらへんやん。なあ、志津花ちゃん?」
「そうだよ、典ちゃんだって子供の頃、私有地に率先して入っていって枇杷食べたり、柿食べたりしてたじゃない」
また、痛いところをほじくりかえす……これだから幼馴染というやつは、侮れない。
「そ、それは子供の頃の話であって……」
「大丈夫、いまも未成年やし!」
七恵は典子の動揺を見透かしたように笑みを浮かべ、ポンと肩を叩く。そして既成事実を作ろうと、さっさと足をすすめる。
【立ち入り禁止】とはかかれているが、そうかかれた当のフェンスは半ば倒壊し、出入に十分な間隙を作っていた。それに、すでにその【立ち入り禁止】が形骸化しているのは、不法投棄された電化製品などからも明らかだった。
「あー、廃墟ってええなぁ。この雰囲気、ホントたまらんわ」
意気揚々と先頭を切り、七恵が歩く。
「あの写真って、七恵が撮ったの?」
「あれはうちの弟が撮ってきたんや」
七恵には小学校高学年の弟がいた。話を聞く限りでは、七恵に似て厄介な……活発なお子様らしい、
不法投棄されたものは電化製品にとどまらず、自動車やバイクまである。確かに子供が秘密の遊び場にするには最適な場所だろう。しかし、かなり危なげな場所にも思えた。
「やめさせたほうがいいんじゃない?」
「もちろんや、こっぴどく叱っておいたわ」
「で、お姉ちゃんは、来るわけね」
七恵は心外だと首を横に振る。
「うちは、遊びに来たんやない、校内新聞の記事を書くためにやなあ……」
「……似たようなもんよ」
典子がいうと、七恵はバツが悪そうに閉口した。
志津花が遅れていることに気づき、振り向くと、彼女は数メートル後ろで立ち止まっていた。
「どうしたの?」
「典ちゃん……あれ、なんだろう?」
「あれって?」
志津花は地面を指さした。
「あの石……光ってる」
典子は、そんなバカな……と思いながら、志津花のいう、光る石とやらをさがした。当然、そんなものは見つからない。
「見間違いじゃない?」
「そんなことないよぉ」
志津花は不服そうに口を尖らせる。
「一個だけじゃなくてね、点々と、ずーっと続いてるの」
ならば、なおのこと見つかりそうなものだ。石は沢山ある、至る所に。だが光ってなどいない。きっと、ガラスかそれに類するものが落ちていて、光の加減で志津花の立っている場所からだけ、その反射が見える……そんなところだろう。
七恵はもう建物のなかに入ろうとしていた。
「錯覚よ、錯覚。さ、行きましょう、七恵に置いていかれるわよ」
「なんで典ちゃんには見えないのかなぁ?」
小首を傾げる志津花の手を引いて典子は建物の方に向かった。
かつては壁面に掲げられていた【安全第一】という看板が、物悲しく斜めに垂れ下がっていた。その脇から内部に入った。
カビ臭さと、埃臭さで中は噎せ返るようだった。
がらんどうの建物内部は採光のため横一列にならんだ窓のお陰で思ったより明るく、それが唯一の救いだった。
方々に積み重ねられた廃材……そしてなにか機械の一部だったもの……極めつけは壁面に侵入者によって描かれた落書き。
英字のロゴなど、まだカワイイものだ。臍の緒の付いた胎児の絵が、数メートルという巨大さで描かれていた。決して上手い絵ではないだが、妙な生々しさがあって、典子は寒気がした。
一方、七恵は大喜びで、持ってきたデジタル一眼レフカメラに写真を撮りまくっている。去年、海の家でバイトをして得たお金で買ったものだ。
「へぇ、おっきな絵だねぇ……きっとハシゴを使って描いたんだね」
志津花は率直に感心していた……というか、そこに感心するの?
「なに感心してるのよ! 気持ち悪いとか思わないの?」
「んー、気持ち悪いとは思うけど……描いた人も大変だったろうなって……」
典子はため息をついた――親友ながら、どうも視点の置きどころが常人とは別のところにあるらしい。
「犯罪なのよ、これは。建造物損壊っていうの」
「でも、わたしたちは私有地への不法侵入だよね」
屈託なく志津花はいい、典子は返す言葉を失った。天然キャラのわりに、鋭いことをいう。
そのとき、典子は視界の端に、なにか動くものを見つけた。
【それ】は典子の視線から逃れるように、瓦礫の下に頭だけを突っ込んだ。さほどスペースがなかったらしく、あくまで隠れたのは頭だけだったが。
五センチばかりの大きさで、芋虫みたいな体から、いくつもコオロギの後ろ足みたいな足が生えている。しかも、どれも大きさがバラバラだった。
七恵が持っていた画像の虫とは違う。それにしても……生で見る、この異形さには心底怖気がした。自然の作り出す造形にはときおり驚かされるが……流石にこれは、それを逸脱しているように思えなくもない。
「七恵! いたわよ虫。とりにきたのは写真、それとも虫?」
本来の目的を見失いがちな七恵を呼び止める。
「ホンマ!? どこ!」
壁の落書きを写真に収めていた七恵が駆け戻ってきた。
「ほら、あそこ」
「ほんとや、けったいやな……はい、これ」
七恵は途中の文房具屋で買ってきた虫取り網を典子に差し出した。
「なによ、これは?」
「とりあえず、虫とりチャンピオンのお点前拝見かと」
「これは……あなたの虫とりでしょ?」
「あ、やっぱり?」
「ほら、早くしないと逃げちゃうわよ」
「えーっと、虫……もう逃げちゃってるんだけど」
志津花がポツリという。
言葉どおり、虫は別の瓦礫の奥深くに潜り込み、捕まえることができなかった。でも、
「弟の話やとな、虫はこっちのほうにも沢山いるらしいんや」と七恵は自信あり気に笑みを浮かべた。
七恵に先導され、工場の奥に進む。いったん中庭のような場所に出たあと、別の棟に入った。体育館ほどありそうな、大きな建物。体育館と違い、巨大な柱が何本もそそり立ち、天井を支えている。
入ってすぐ、正面の柱に蠢くものを見つけた。コガネムシの体と、毒グモのような毛むくじゃらの足をもった虫。例の画像の奴だ。それも何匹も。
「いたー!」
七恵は歓喜の声を上げ、虫網と虫籠を手に突貫した。最初のうちは虫の異形な外見に、いくばくか躊躇がみられたが、しばらくすると慣れたようだった。見てくれは悪いが所詮は虫……という結論にいたったらしい。次々と虫を捕獲し、籠の中に放り込んでゆく。
虫を捕獲しながら、どんどん建物の奥まった方に進撃する七恵……これで彼女の気も済むだろう。用事さえ済めば、こんな場所からはさっさと引き上げたい……子供の頃はともかく、いまは虫など別に触りたくもない。特に、この薄気味の悪い虫は。典子がそう思った矢先、志津花が「きゃあ!」と悲鳴を上げた。
「典子ちゃん、虫がいっぱいでてきたよ!」
「なによ、これ!?」
志津花の言葉のとおり――いや、それ以上だ。
虫は波濤のように。今さっき典子たちが入ってきた入り口から押し寄せてきた。反射的に典子は志津花の手を引いて建物の中央に移動する。
信じがたいことに、虫の大きさはどれも人の握り拳ほどの大きさがあった。
尋常でない忌々しさ……畏怖をかきたてる背徳的な造形の生き物の群れは大挙してあらわれ、まるで建物の壁の色を灰色から褐色に塗り替えるようだった。
「七恵!」
典子は叫んだ。
「な、なんやこれ!?」
瓦礫の山の向こうから、七恵の声が聞こえた。恐怖の張り付いた表情で七恵が駆けてくる。
「……うわ、こっちもや」
壁をうごめく異形の虫の群れを見て、七恵は絶望に声を上げた。
「ねぇ、ここから出たほうが……いいよね?」
志津花は心配そうに呟く。
「当たり前でしょ!」
当然だ、こんなところ……もう一分でもいたくはない。だが入ってきた場所は虫たちによって塞がれてしまっている。とてもではないが、通れそうもない。小さな虫ならば踏みつぶして進むことも出来るだろうが、そんな大きさではないのだ。指ぐらい、ひと齧りでもっていかれそうな大きさだ。
典子は別の出口を探そうと周囲を見回した。
「あ、こっちなら行けそうかも!」
七恵はそういって駆け出し、典子も志津花の手を引いて続いた。
建物の奥に、錆びかけた鉄扉があった。その周辺には、少なくともあの巨大な虫たちはいないようだ。ドアノブのまわりを這う、小さな虫を虫網の柄で払い落とすと、七恵はドアノブを掴んだ。
ドアは開いた。だが五センチも開かないうちに、途中で止まってしまう。
「錆びてるみたいや……典子ちゃん手伝って!」
典子は七恵と一緒になってドアノブを引っ張った。だが予想した以上に固い。
七重の顔は必死で、真っ赤だった。多分、自分も同じだろうと典子は思った。虫たちの這いまわる乾いた音が、耳鳴りみたいに頭蓋の内側に響き、気が気でない。
典子は渾身の力を込め、そして祈った。
そのお陰か、ギリギリと音を立てながら、少しずつドアは間隙を広げていった。
もう少しでひらききる、ということろで急につっかえが外れたみたいに、ドアが勢いよくひらく。七恵と典子は尻餅をついた。
「痛ったぁー!」
七恵が声を上げる。
典子も痛む臀部をさすりながら立ち上がった。そして絶望的なものを見た。開け放たれたドアから虫が這い出してきたのだ。おぞましい虫の群れ。しかも、どれもあの巨大な奴ばかりだった。
「なんで、こんなでっかい虫がおんねん! おかしいやろ!」
七恵は側に落ちていた鉄パイプを拾い、それで虫を追い払おうと試みた。何匹かは、それで【退かす】事ができたが、効果は微々たるものだ。押し寄せる虫の数が尋常でないのだ。挙句、鉄パイプを、ナナフシみたいな体の、毛むくじゃらの奴が這いあがってきた。
「うわぁ!」
七恵は悲鳴をあげ、鉄パイプを放り投げた。地面に落ちた鉄パイプは瞬く間に虫に覆われて、見えなくなった。
典子たちは仕方なく、建物の中央に後退した。
「そ、そうや、携帯電話! お巡りさん呼べばいいんや!」
七恵は鞄をまさぐった。携帯電話の画面を見て、落胆した声を上げる。
「だめや、アンテナ……一本も立ってへん」
「わたしのも駄目だよぉ」
志津花も首を横に振った。
典子の携帯電話も同じだ。電波の受信状況を表すアンテナは一本も立っていない。地下というわけでもなく、そんなに電波の受信状況が悪いとは思えないのに。
周囲を蠢く大量の虫に囲まれていた。ガサガサと……乾いた、気味の悪い音が悪夢のように鳴り続けた。虫たち徐々に数を増し、自らの領域を広げてゆく。
「ごめんなぁ……ふたりとも、こんなことになってしまって」
七恵は許しを乞うように俯いた。こんなに気を落として喋るのを、典子は初めて見た。
「でもまだ、食べられちゃうって決まったわけじゃないよ。虫さんだって、人間が好きとは限らないでしょ」
志津花は彼女らしい視点から意見を述べた。
「うちら……食べられちゃうんかなぁ?」
七恵は怯えた様子で呟く。
――わたしたちが……食べられる?
そんなこと直接的には考えていなかった。ただ……外に出られない、と思っていただけだ。こいつらは、人間を食べるのだろうか? 典子は波立つようにうねる虫の群れを見回した。様々な虫が群れを構成している。こいつらは、はたして肉食なのか……草食なのか。考えるだけで寒気がした。すがるような気持ちで、もう一度、携帯電話を見る……一瞬、見間違いかと思った……だが今度は一本だけアンテナが立っていた。
「あぁ……アンテナが……たってる」
「ほんと、典ちゃん!?」
「やった、ここからでられるんや!」
二人の顔に安堵がひろがる。
だが典子は考えた。警察になんというのだ……巨大な虫の群れに囲まれていると、そんな話、信じてもらえるだろうか? 貴重なチャンスだ、無駄にすることはできない。
典子は携帯電話を操作し、アドレス帳を呼び出した。アンテナが消えないことを祈りながら。画面に【深尾真人】の名前が表示される。昨日、電話番号とメールアドレスを交換していたのだ。
――コール音。
息を潜め、二人は典子の方をうかがっている。
――コール音。
まだでない。
早く出て! 典子はすがるような気持ちで携帯電話を耳に押し付ける。
「真人だ……どうした?」
真人の声をきけて、こんなに嬉しい気持ちになることがあるとは、正直、思わなかった。典子はまず深呼吸した。電波の状態は良くないらしく、雑音が紛れている。なるべく簡潔に状況を伝えようと言葉を選ぶ。
「いま、三上地区にある鳥羽重工の工場跡にいるの。それでね……大きな虫がいっぱい出てきて、囲まれちゃったの、出られないのよ! お願い、助けに来て!」
志津花と七恵に内容が聞こえぬよう、小声で、しかし真摯に訴える。しばらくの沈黙があった。
「は……虫!? なんで、そんなことでわざわざ電話してくるんだよ。おれを害虫駆除業者かなにかだとでも思ってるのか?」
「ほんとに大きな虫なの、それに何万匹も、何十万匹もいるのよ! お願い、早くきて!」
「……一人か?」
「七恵と志津花もいるわ」
「仮に巨大な虫が……そうだな、【ユダの血統】みたいのがいたとする。でも二人がいるのに、おれがそこに助けにいったら、おれの正体バレバレだろう?」
確かに真人のいうとおりだ。【助けに来てくれ】という典子の要望は、真人が典子にした【真人の正体を偽装する手伝いをしてほしい】という頼みと相反する。
「でも本当に危険なの、なんとかして! 警察じゃ駄目なの! 警察じゃあ、こんな話、信じてくれないわ」
「しかしなあ……やっぱ警察を呼ぶべきだぜ……適当な嘘でもついて」
「そんな!」
だが真人の返事はなかった。典子はハッとして携帯電話の液晶を見た。アンテナが消えていた。電波が切れたのだ。
彼にだって立場というものがある。前回のように、たまたま事件の現場に居合わせたのならまだしも、うかつに人前で立ちまわるとは考えづらい。
「なあ、お巡りさんに電話したんやろ?」
やりとりを聞いていた七恵が不思議そうにのぞきこむ。どうやら真人に電話したことは気づかれていないらしい。
「う、うん……でも途中で電波が切れちゃった」
「そうか……でも、あれやろ? 逆探知……とかしてくれるんちゃうかな……」
警察には電話していない、とはいえなかった。今一度、アンテナが立たないものかと液晶を見つめる。非常にも……液晶の表示は【圏外】の表示のままだ。
「そ、そうね……」
場所は伝えた……あとは真人だのみだ。果たして、彼はきてくれるだろうか? いや、あのやりとりだと、きっと真人は警察に電話したはず、と思っているだろう……とすれば、救助に来る可能性は……低い。緊張で汗が吹き出した。
志津花が唐突に歩きだした。
「ちょっと志津花、どこいくのよ」
「あれ、なんだろう……」
志津花は地面を指さす。
典子と七恵は顔を見合わせたあと、志津花のほうに歩く。
「あれ……」
志津花が指さした先は、地面に広がった亀裂だった。縦一メートル、横二十センチ、というところだろうか。
「……ただの亀裂でしょ」
なんのことはない、コンクリートが劣化して亀裂が入ったのだろう。確かにちょっと大きいが。
七恵が亀裂の方に歩み寄った。
「いや、典子ちゃん……これはちょっと雰囲気違うで」
やけに神妙な口調。
胸騒ぎを感じながら、典子も亀裂を覗き込む。
亀裂のなかには妙な空間が広がっていた――あり得ないことだが、そうとしか形容できなかったのだ。床の建材とか、下の階層とかでは、絶対になかった。それは闇よりも黒く、どこか得体のしれない世界に落ち込んでいる。そんな気がした。
さらに、なかの空間は歪んで、生き物みたいに脈動しているように、なぜか感じられた。
突然、穴から虫が這い出してきた。一匹ではない、何匹も――あの、拳大の奴だ。
典子は悲鳴を上げ、思わず後ずさった。他の二人も同じだ。
なにか……こう、忌々しさのようなものが込み上げてくるのだ、この穴を前にすると。きっと人間の本能が、そう感じさせるのだろう。
この穴こそが、異形の虫たちの侵入路だと直感した。論理ではない、完全に感情の産物だ。しかし、そうに違いないと思った。
穴は、汚物でも吐き出すみたいに、断続的に異形の虫をこの世に現出させ続けた。
周囲を埋め尽くす虫の群れは、穴から吐き出される新しい虫たちと合流し、典子たちの周囲を、ほぼ埋め尽くした。
典子たちは身を寄せ合った。それだけしか、彼女たちに許される安全圏はなくなっていたのだ。半径一メートルにみたないような空間しか。
志津花も七恵も血の引いた青い顔をしている。
七恵は虫網の柄の部分で虫の進出から、三人のささやかな安全圏を守ろうと虫たちに立ち向かった――時折、くぐもった声をあげながら。きっと責任を感じているのだろう。もはや軽口すらでてこない。
だが、その小さな自衛の道具さえ、虫に奪われた。
芋虫の体をしていながら、尻尾の先に鋏をそなえた虫が、柄の先端を挟んだのだ。そして、無数の虫たちが、奇妙な、そしておぞましい――板を釘で引っ掻くような音を立てながら柄を登ってきた。
「う、うわあ!」
七恵は悲鳴をあげ、虫網をはなした。
虫たちは群れのなかにそそり立った異物に群がり、まるで野菜スティックを頬張るような、バリバリという音をたてて、さほど時間もかけず粉砕した。
典子は、すがるような気持ちで携帯電話の液晶をみた。だがアンテナは立たない。
「どうなるんやろか……うちら」
七恵が力なくつぶやいた。
「典ちゃん、大丈夫……だよねぇ?」
志津花は、典子を不安気にのぞきこむ。典子の口から確約が得られれば、まだ頑張れるという口調だった。
「だ、大丈夫に決まってるでしょ、相手はたかだか虫よ」
そういったが、ぜんぜん大丈夫な気がしなかった。あの虫網が、いい例だ。
突如、つんざくような爆発音がして壁の一部が腐ったウエハースみたいに崩れ去った。 虫たちが壁の倒壊から逃れるように波うつ。
穿たれた壁の向こうに立っていたのは、黒いコスチュームに身を包んだ人影。猫を思わせる耳状の突起のあるマスクで顔を隠している。
「knock,knock」(コン、コン)
男はいった。マスクは口元だけが露出するつくりだ。口がニヤリと笑った。
「……ひょっとして、お困りかな?」
声色を変えてあるが、黒いコスチュームの男の正体が真人だと、典子には、すぐにわかった。心底、嬉しかった。これで助かる――そう確信した。しかし――なによ、その【格好】は? 典子は二人に気づかれないよう、口で言葉の形を作る。
――【変装】だよ!
真人の口が言葉の形で返した。
【変装】ではなく【変態】の間違いではないのかと典子は思った。よりによってなんというセンスだろうか――まるで一昔前のヒーローみたいだ。
「だ……誰?」
七恵が目を丸くする。
「あー、耳だ! 典ちゃん、あれ耳だよね? ネコミミだぁ……可愛い」
志津花は【耳】に興味深々らしい。
「ま、通りすがりの正義の味方ってところかな?」
典子は、自分でそう名乗ってしまうところに、げんなりした。どうやらアメリカのヒーローには、奥ゆかしさが欠けているらしい。
真人は虫の群れを一瞥しただけで、おどろく素振りもなく、壁の倒壊によってできた間隙を、典子たちの方に向かって歩いた。さながらモーゼみたいに。
そして亀裂に目を止め、立ち止まった。
「ほう……【穴】じゃないか……こりゃ、大きい」
意味ありげに使った【穴】という言葉――どうやら真人には、既知の出来事らしい。
「これは……なんなの?」
典子は尋ねる。
「空間の歪みに穿たれた穴さ……つながる先は異界」
「じゃあ、この気色の悪い虫は……別の世界から来たってことやろか?」
「ま、そんなとこだな」
「そんな……」
この前は地球外生命体で、今度は異世界の生物だなんて、いったい世の中はどうなってしまったのだろう。それとも、これが世界の【本来の姿】だとでもいうのか?
「Do you see? ……信じがたくとも、みえるものが全てだ」
真人は平然と断じた。その言葉には、浮世離れした説得力があった。
「まずは、この穴を塞ごう」
真人はベストのポケットから、なにかを取り出す。それは丸い、ちょうどガチャガチャのカプセルみたいな大きさだった。
「こいつは、【バランサー】……異常な重力や磁場の中和装置でね」
真人が球体を地面に転がす。球体は展開し、小型のパラボナアンテナのようになった。
「……大抵、この手の【穴】の発生原因は重力とか磁場の異常だ。極めて微妙なバランスで穴は維持されている。だから、この程度の装置でも十分に異常を中和できるって寸法さ」
――音とか、振動とか、そういったものは、一切なかった。
【穴】にも変化はない。いまだ虫を吐き出し続けている。
「……で、穴は閉じたんですか?」
志津花がしびれを切らしたようにたずねた。
「……あれ?」
真人は首をかしげる。
「なによ……【あれ?】って?」
「うーん……なんでだろう? ……おかしいな。ま、とりあえず君らを脱出させるか……穴のことはそれから考えよう」
「なんか場当たり的ね」
「臨機応変といってくれ」
真人は不満そうに抗議する。
その時だった……虫の群れに変化が現れたのは。
虫たちの褐色のうねりが隆起したのだ。虫たちは体を、脚を絡ませあいながら、さながら一個の生き物のような、巨大な塊と化した。群体というやつだ。ひどくおぞましく、ひどく巨大な。
「ちょ、ちょっと……これは、まずいんやない?」
七恵がうわずった声をだす。
「ああ、ちょっとまずいな」
さほどまずそうでもなく、真人はいった。
「走れ! ……なるべくここから離れろ!」
真人は自らが作った壁の穴を視線で示した。それから思い出したように七恵の虫籠を指差す。
「……あと、それは没収だ」
「ええ!? そんなぁ……」
七恵は全財産を没収されでもするような、失意の表情になる。
「七恵……置いてきなさい」
典子は追い打つ。七恵はがっくりとうなだれた。
「……はい」
そうこたえて、しぶしぶ虫が詰まった虫籠を地面に置く。
「ほら、行きましょう!」
典子は志津花と七恵の手を引いて走りだした。
銃声がきこえ、典子が振り返ると、虫の群体が猛然と真人に向かって襲いかかっていた。
炸裂をともなった銃撃は、群体を部分的にえぐりとったが、その巨大さと比べれば微々たるもの。穿たれた部分は、すぐに穴から無尽蔵に湧きだす虫で修復されていく。
そして群体は真人の体に覆いかぶさった。真人の体は褐色の雪崩に埋もれ、みえなくなってしまった。
三人は、その光景を呆気にとられたようにみていた。
「大丈夫よ、早く!」
なかば自分にいいきかせるように典子はいい、再び二人を急かした。真人なら、絶対に大丈夫だ。なにせ、ただの人間ではない。超人的な回復能力の持ち主なのだ。折れた背骨すら数分で治してしまうほどの。こんなところで立ち止まっていても、彼の足手まといにしかならない。
無我夢中で走り、建物が見えなくなったあたりで、ようやくスピードをおとした。
ひどく呼吸が乱れ、心臓がはげしく脈打つ。こんなに全力で走ったのは、いつぐらいぶりだろう。
「あ、あの人……だ……大丈夫なんかなぁ?」
「だ、大丈夫よ……大丈夫」
一方、典子たちにくらべ、見掛けによらず運動が得意な志津花は、呼吸すら乱れていない。涼しげな顔で躊躇いがちに口を開く。
「ねぇ、典ちゃん……わたしがみた光る石。あれって、まるで建物を取り囲むみたいに並んでたの。あの石って……虫がでてくる穴と関係あるのかな?」
「……え?」
典子は思い出した。真人はいっていた……真人の血液を輸血された志津花には、一時的に真人の持つ能力が発現するかもしれないと。志津花がみたという、典子にはみえなかった光る石。それは真人の能力が発現した結果なのではないだろうか。
「二人とも……先にいってて、わたし……あそこに忘れ物したみたい」
「ど、どうしたんや典子ちゃん!? いまさらあんなところに戻るなんて……」
七恵は目を丸くする。当然だろう、たったいま、あの悪夢のような場所から逃げてきたのだから。
志津花も、うかがうような表情で典子をみていた。そして小さくうなづくと七恵の腕を引っ張る。
「七恵ちゃん、いこう!」
「え? 志津花ちゃん、ちょっと……」
志津花がグイグイと七恵を引っ張って遠ざかってゆく。
典子は廃工場に引き返した。フェンスをくぐり、廃工場の敷地にはいると、ひどい異臭が鼻をついた。なんともいえない……嫌な匂い。
典子はハンカチで口元を覆い、真人が作った壁の穴の方に向かった。
最後にみた、あの映像を思いだす。褐色の波に飲み込まれた真人の姿を。真人が常人でないとは知っているが、心配でないといえば……嘘だ。
建物のなかにはいると、黒いネコミミのコスチュームがみえた。みたところ、なんの怪我もなさそうで、典子は安心した。
「真人!」
いつのまにか名前で呼んでいた。だが妙に懐かしい口触りで、違和感がまるでない。ふと典子は思い出した。子供の頃、志津花は真人のことを【マーくん】と呼んでいたが、典子はそのまま下の名前を呼んでいた。【真人】と。だからこんなに口に慣れた感じがあるのだ。
「なんだ、典子……もどってきたのか?」
「大丈夫?」
「……とりあえず燃やしてみたんだけど、無尽蔵にでてくるんだよねー、この虫……どうしよう? 臭いし」
なんか、ずいぶんとゆるい雰囲気で、典子は拍子抜けした。心配していたことが、バカらしくなる。
「そのことなんだけど……」
典子は志津花がみたという【光る石】の話をした。
「……一応、伝えておこうと思って」
真人はきき終わると、ちょこんと首をかしげる。
地鳴りのようなものが聞こえた――いや、それは建物が崩壊する音だった。天井が崩れ、褐色の塊が隆起したのだ――炎を纏いながら。この悪臭の正体は、あれが燃える匂いだった。
見上げるような大きさは、さっきの比ではない。典子はその巨大さと恐ろしさにすくみあがった。真人は、まったく動じる様子なく、動きの取れなくなった典子を抱きかかえて避難する。
「……その話が本当だとすると、こいつは人為的に明けられた穴ってことになるな」真人は不機嫌そうに、ふんっと鼻を鳴らした。「……それにしたって、建物全体を覆う魔法陣なんて、洒落たことをするじゃないか。いい目眩ましだ」
真人は忌々しげに口元を歪めた。その背後で、轟音と共に崩壊する建物。そして今にも雪崩落ちてきそうな巨大な群体。真人はそれを横目で一瞥する。ありふれたものでも見るように。
何気ない仕草で、ベルトにマウントされたポーチからリップスティックみたいなものをとりだし、そそり立つ群体に向けて放り投げた。
カプセルは群体に当たると、信じられない勢いで広範囲に燃えはじめ、群体は溶けるがごとく崩れていった。
「ペンタゴンが開発した【ハイパー・ナパーム】だ。数は多いが、あんなもんは所詮虫さ……出口さえ閉じられりゃ、どうってこたあない。その石ってのは、どのへんにあったんだ?」
「たしか……」
典子は志津花が立ち止まった場所を思いだそうとした。たしか、積み上がった古タイヤの近くだったはずだ。
「こっち!」
典子は走った。あとに真人も続く。
古タイヤを見つけ、志津花がたっていた場所を思い出そうとした。
「志津花はこのへんにたってて……そうだ! あのあたりを指さしてた」
真人は典子の指差す先に近づく……そして立ち止まった。一点を見ている。やはり典子には、なにもみえない……だが真人には志津花同様に、みえているようだった。
「ふうん、こいつか……なるほど、たしかに光ってやがる……たあ!」
掛け声とともに真人は蹴り上げる動作をした。小石が――典子には、ただの小石にしか見えなかった――が飛んでいった。
真人は額に手をかざし、小石の飛んでいった方向を満足気に見ている。
「……終わった……の?」
典子はあまりにも呆気ない幕切れに少々驚いた。
「ん? 終わりゃしないよ……これから後始末がいろいろとある。まずは、あの虫たちを駆除して、それから虫が逃げてないかのチェックもしないと……このあたり一帯をくまなく調査しないと……大忙しだな」
しかし、口調はいつもどおり軽い。
「まるで他人事ね」
「そりゃそうさ……おれはやらないからな」
真人はニヤリと笑う。口元だけしか露出していないのだが、その得意げな様子がありありと典子にはわかった。
「こちら【リンクス】。ゲートを発見し、その破壊に成功した。ただし周辺には汚染のおそれあり、処理部隊の出動を要請する」
突然、真人はしゃべりだした。
「なにそれ……ひとり芝居?」
典子が冷ややかにいうと、真人は不愉快そうに口元を歪める。
「このマスクには通信装置が内蔵されてるんだよ……奈羅迦市には在日米軍の基地があるだろ?」
真人の立場を考えると、あり得ない話ではないのだろうが、なぜかあまりリアリティーを感じない。それに気になる言葉があった。
「なによ……【リンクス】って?」
「リンクスは、おれのコードネームでね」
「コードネーム?」
「そう、あるだろう? 【ウルヴァリン】とか【デッドプール】とか」
――狼のような人? ――死の賭け? 典子には、なんのことやらわからなかった。
「でも、ほんとに間に合ってよかった。たまたま、この近くを巡回中でね」
「……だったらなんで、『わかった、すぐに行く!』っていわなかったの? 最初から、助けに来るつもりだったってことよね?」
「……ん? サプライズかな」
悪びれる様子もなく真人がいったので、典子は少し……いや、かなりカチンときた。助けてもらったことは別として、皮肉のひとつでもぶつけてやりたい心境になった。
「それにしても、そのコスチューム……ダサすぎない?」
さらりというと、真人は「え? そんなことないよ……」とかえした。しかし明らかに不安顔。毛づくろいをするハムスターのような仕草で自分のコスチュームをチェックしはじめた。
パラパラと、ヘリコプターの羽音が近づいてくる。それは通り過ぎることなく、どんどん近づいてくる。二人が立つ頭上に。
生まれてはじめて、典子はヘリコプターが至近距離に着陸するのをみた。ものすごい風だ。
「ちょ、なんなの? これ!?」
呆然と、ことの次第を見守っていると……ヘリコプターから数人の兵隊が降り立った。軍服には【US ARMY】の文字がおどる。兵隊たちは、こともあろうに真人に対して敬礼した。真人と兵隊のひとりが英語でなにやら会話をはじめる。真人は……帰国子女なのだから当然だが……流暢な英語を話した。
普段の、阿呆全開の真人とのギャップに面食らっていると、じっと自分のことを見つめる青い瞳があることに気づいた。燃えるような赤毛のベリーショート。鉄のような意志を感じさせる強い目つき……眠気も飛ぶような美少女だ。モデルとか、女優だといわれても……それも超一流の……といわれても、まったく違和感がない。
少女はあきらかに典子のことを見ていた……というより観察に近い視線。
あれ? どこからきたんだろう……この人。ヘリから降りてきたことは間違いないはず……だがそれすら疑ってしまうような場違いさがあった。なにせ、ヘリから降りてきたのは屈強な兵隊たちばかりなのだから。
えーっと、話しかけたほうがいいのかな……だとしたら、やっぱり英語だろうな……発音……大丈夫かな? などと典子が逡巡していると、少女のほうが口を開いた。
「はじめまして……わたしはエレナ・スキロワ」
日本語だった。非の打ち所のないイントネーション。声だけならネイティブだといっても遜色ない。
「あ……えー……わたしは……あの」
英語で話してくるとおもった相手から予想外に日本語をむけられ、典子のほうがしどろもどろになってしまった。うわー、はずかしー! 顔から火が出そうだ。
「知ってるわ……倉田典子さん、でしょ?」ニコリともせず、少女――エレナはいった。「あの阿呆が色々とご迷惑をお掛けしてごめんなさいね」言葉とは裏腹に、謝罪の感情めいたものは、あまりなかった。【あの阿呆】が意味するのは……真人だろう。日頃、阿呆とは思っていても、初対面の人間に幼馴染(ずっと忘れていたけど)のことを阿呆呼ばわりされると、少しモヤモヤする。彼女はいったい何者なのだろう。
「わたし、真人のパートナーなの」
エレナは典子の疑問を代弁するように告げた。
パートナー? ……まさか、彼女ってことだろうか? いや、それはさすがにないだろう……などと典子が思っていると、真人がやってきた。
「彼女もナイトワークスのエージェントだ。いちおう、【ちょーのーりょくしゃ】でね。接触発動型のテレパスさ……つまり、人に触ると相手の考えていることがわかる」
「……そ、そうなんだ」
とはいったものの、真人のいったことの半分も理解できていない。触ると……相手の考えていることがわかる? 典子はエレナの手をみた。エレナはカーキ色の手袋をしていた……たぶん本皮の。
エレナはそっと真人の顔をさわった。まるで恋人同士のような仕草に、典子はドキッとする。
「……センス悪いわね。なにこれ?」
冷たい批判の言葉に真人は口元を歪める。
「……そうかな……そんなにひどいか?」
「真人……あなたにわかりやすく説明すると……テレビドラマ版のバットマンぐらいひどいわ」
真人の顔がひきつった。
「あ……そりゃあ……ま、あれはあれで味だけどな。わかったよ、ちょっと修正する」
子供の行動に手を焼く母親のように、エレナはため息をひとつつく。「真人……わたしにデザインさせなさい。あなたもジェイソンも……美的感覚に欠ける思考の持ち主だから信用できないわ……こことか、こことか……ああ、ここもだめね!」
エレナは真人のコスチュームのあっちこちを引っ張ったり、指差したりする。
そんなやりとりをしていると、数台のトラックが米兵を満載してやってきた。防護服をきた人々も。そのすべてが真人に対して敬礼をし、指示を仰ぐ。真人は的確にそれに応える。なんか、それが一番信じられない光景だった。典子の知らない真人の姿……たぶん、本当の彼の姿。そこにはもう、泣き虫の彼の面影は微塵もない。
「典子、どうする? 誰かに送らせようか?」
「え? あー、大丈夫よ……自分で帰れる」
米軍の車両で家まで送られるなんて……もし近所の人に見られたら大事だ。評判になってしまう。
はたして……これは父親に報告すべきことなのだろうか……典子は考えながら帰路についた。
一週間ぐらいかけてリライトした。
でも、誤字脱字はご愛嬌です。
まだ第二話。いったい、これ……第何話まであるんでしょう???