第一話 『雨の日に』
誤字脱字……気にしないでね。
わたしも気にしないから。
プロットが甘い?
はい、わたしもそう思います。
でももう、書き直すのに疲れちゃったんですよ。
<街の山猫>
第一話:『雨の日に』
病室のなかに心電図の音が、まるで世界にただひとつだけ残った音楽のように切なく響いていた。
――可哀想な志津花。
意識もなく、人工呼吸器や、点滴につながれた親友の姿はあまりにも憐れで、倉田典子は見ていて胸が痛かった。
典子が住む奈羅迦市では、通り魔事件が相次いでいた。数日に一回のペースで事件は起き、被害者はすでに六人にものぼった。
幼馴染みの白井志津花が、通り魔の被害にあったのは先週のことだった。
通り魔は被害者に毒物を注射する。その毒物の正体はいまだ不明で、解毒の方法すらわかっていない。被害者は意識がもどらぬまま衰弱してゆくのだ――すでに二人が死んでいた。
志津花もそうなってしまうのかと思うと、卑劣な行いをした犯人に対して激しい怒りがこみ上げる。
点滴による栄養補給しかできないため……さらに毒物の影響もあって、志津花の顔は痩せ細り、別人のようだった。
典子は志津花の頬にそっと触れた。
皮膚は厚みのあるゴムのように固く、冷たい。
志津花は、同性の典子ですら嘆息してしまうような愛らしい少女だった。だがその面影は、悲しいほどに消え失せていた。事情を知らなければ、死に瀕した老婆だと思っても不思議はない。
典子は、にじむ涙を、歯を食いしばってこらえた。
「典子ちゃん、毎日すまないわね」
志津花の母親が言った。
潤んだ目を見られないよう気をつけながら、典子は振り返る。
「全然……そんなことないですよ」
微笑んでみせたが、うまくいった自信はない。
――ひどい顔だ。
典子は率直に思った。
志津花の母親は、ろくすっぽ化粧もせず、髪の毛もおざなりに括っただけで、目の下には深い隈が浮かび、この数日で彼女は十歳以上老けた。
母一人、子一人の家族だった。姉妹のように仲睦まじい母子だった。
娘が意識不明で数日間目を覚まさず、誰しもが明確には口にしないが、ほとんど死ぬと確約されると、こんなにも人間の顔は変わるのだ。
「ねえ……お父さんから何か聞いていない? 犯人の目星がついたとか……そうでなくとも、志津花に注射された毒を、なんとかできる方法がみつかったとか」
彼女はすがるように典子を見た。
典子の父親は所轄の刑事で、この通り魔事件の担当だ――皮肉なことに。
だが典子が知っているのは、おそらく彼女が知っていることと同じ【つまり犯人も、毒の正体も不明】ということだけ。
典子は首をふった。ひどく申し訳ない気持ちで。
彼女は有罪の判決を受けたみたいに力なくうな垂れた。
胸が締めつけられる。
「じゃあ、わたし……もう行きますね」
典子が言うと、彼女は奮い起こすように顔を上げ、いまわの際みたいに力なく微笑んだ。
「じゃあ志津花、また明日ね」
典子は横たわる親友に小さく手を振った。
返事はなく、心電図の音だけが静かに響いていた。
自宅に帰った典子は、玄関で無造作に履き捨てられた革靴を見つけた。典子の父親、明俊のものだ……帰ってきているとは意外だった。
明俊は件の通り魔事件を担当していて……さらに捜査は行き詰まっている。だから、このところは家に帰ってくることの方が少なかった。帰ってきても、シャワーを浴びて、着替えて、またすぐ仕事にもどってゆく。
「ただいま、お父さん」
何の反応もなかった。
リビングダイニングを覗き込み、納得した。テーブルの上には空になったカップ麺の容器。ソファーには、倒れこむようにして寝ている父親の姿。
いまだ犯人は捕まらない――だが警察が何もしていないわけではないと、典子は知っていた。
テーブルの上には、カップ麺の容器のほかに写真が散らばっていた。十数枚ほどだろうか。
それは防犯カメラの写真のようだった。いくつもの、関係の無さそうな、様々な場所の写真。そのなかの一枚に典子は目をとめ、手にとった。
写っているのは少年の姿。典子と同年代のようだ。彼の足元には、人が倒れている。
――ひょっとして、これ……通り魔事件の現場? 典子は察した。だったら……少年は何者なのだろう。
少年は……明らかに防犯カメラに気づいていた。視線がまっすぐ防犯カメラに向いているのだ。その視線が写真を通り抜けて、自分に向かってくるような気がして、典子はドキリとした。少年の視線は妙に冷めていて、だが言葉にしがたい迫力がこもっていた。写真越しでもその目を見ていると、胸のなかで不安が波立つ。
他の写真にも、被害者の傍らにたつ少年の姿がうつっていた。おそらく、同一人物だろう。
「第一発見者……かな?」
典子はつぶやいていた。もしそうでなければ……信じがたいが……犯人だろう。少なくとも容疑者……には違いない。重要参考人……というやつかも。だが、こんな少年が残酷な通り魔事件の犯人だなどということが、ありうるのだろうか?
どの写真も共通しているのは……少年の冷たい目。その無感情さはあまりにも浮世離れしていて、自分と同年代とは、とても思えなかった。
【見てはいけないもの】のような気がした。典子は写真をテーブルにもどすと、毛布を持ってきて、父親にかけた。
その晩、典子は夢を見た。子供の頃の夢……志津花と遊んでいる夢だ。
夢には……志津花の他にも……たぶん、もうひとりいた。だれかが。
目覚めてから、ぼんやりと天井をみつめ、典子は夢に登場した【もうひとり】がだれだったのか思い出そうした。だが夢の記憶は、あまりにもおぼろげで、思い出すことができない。そして考え込んでいる間に、いつの間にか時間が経っていた。
「あー、もうこんな時間!」
典子はベッドから跳ね起きると、子供の頃から愛用しているアニメのキャラクターがプリントされたプラスチック製のカップにオレンジジュースを注ぎ、トーストを焼いて朝食をとった。それから手早く支度を整え、家を出る。
学校はいつもと変りなく、活気に溢れていた。
志津花が通り魔の被害に遭う前も後も、万事が変りなく流れている。世界にとって、志津花を襲った悲劇など、些細なことなのだろう……アリが踏まれて死ぬことと同じように。だが典子にとって、幼い頃から姉妹のように過ごしてきた志津花の存在は世界の大多数を占めていた。だから登校するたびに典子は、針で刺されるような軽い苛立ちを感じる。
「おい、倉田」
廊下を歩いていると、ぞんざいな口調で担任の島田紅音が声をかけてきた。
言葉遣いと性格の荒い、典子のクラスの担任教師だ。それさえなければ人目を惹く美人なのに、と典子はいつも思う。珍しく、今日はトレードマークのスティックキャンディーをくわえていなかった。ヘビースモーカーの紅音は、喫煙所以外では口さみしいとの理由で、いつもスティックキャンディーを咥えているのが常なのだが。そして、その傍らには見慣れぬ男子生徒が立っている。
「なんですか?」
「これ、転校生」
そう言って男子生徒のほうに顎をしゃくる。まるで物みたいな扱い方。
「こいつを連れて、これから学園長に挨拶しにいくのさ」
「だからアメなし……なんですか?」
「まあな……」紅音は喫煙を注意され、ふてくされた不良のように憮然とした表情になる。「こいつは深尾真人。こっちは倉田だ。倉田はクラス委員だから色々とお前に世話を焼いてくれる……そうだよな?」
念を押すように一言を添え、紅音はニヤリと笑う。
典子はクラス委員だった。まあ、そういうのもクラス委員の仕事には違いない。頼みかたに多少の疑問は感じるが。
転校生の深尾真人に視線をうつす。
愛想笑いのひとつもない、異邦人に向けるような冷めた表情。身長も低く、典子と同じくらいだ。なのに……それに反し尊大な態度。典子はムッとしたが、取り繕って笑顔を作る。なにせ転校生だ……きっと緊張しているのだろうから。
それに、だれかに似ているような気がした……どこかであったような。それが【いつ】とか【だれ】とかは思い出せないが。
「わたしは倉田典子。よろしくね、深尾くん」
だが真人はニコリともせず、気のせいかと思うほど小さな仕草で頷いただけだった。どうやら彼は社交辞令すら知らないらしい。
――なんなのよ、こいつ!
典子は心のなかで毒づき、遠ざかる真人の後ろ姿を、廊下を曲がるまで睨みつづけた。
「おはよう、典子ちゃん!」
典子が教室にはいると無駄に元気な声が向かってきた。伊庭七恵だ。七恵は【快活そうな】を絵に書いたようなショートカットの、猫を連想させるくりくりした目の少女だ。
「おはようございます、典子さん」
そして中条一美。今日も一美は保護者さながら七恵に寄り添っている。
言葉遣いといい、容姿といい、【THE・お嬢様】という感じの一美は、実際、鎌倉時代から続く旧家の令嬢らしい。
一美の申し訳なさそうな表情からも、七恵は挨拶など形だけで、なにか言いたいことがあるのは明らかだった。きっと転校生のことだろう。きっと……【大ニュースや!】とか言うに違いない。
「おはよう、七恵……で、なに?」
七恵は満面の笑みを浮かべる。
「んふふ……大ニュースや! 転校生が来るんやて!」
「……そう」
予想通りの展開。典子は短く返して自分の席に向かう。
七恵が慌てて追いかけてきた。
「ちょ、ちょっと、典子ちゃん! 転校生の話、興味ないんか?」
「知ってる……廊下で、島田先生と一緒にいたところに出くわしたから」
「え!? 典子ちゃん、もう転校生見たん?」
「……見た」
「そ、そんなぁ……」
先を越され、がっくりと肩を落とす七恵。今日で世界が終わりますよ……とでもいわれたような落ち込みよう。
「じゃ、じゃあ、これはどうや? 転校生はアメリカからの帰国子女なんやて」
「ふうん、そうなの……」
「そうなんよ!」
典子が知らないとみるや、七恵はガッツボーズする。世界は、やっぱり明日以降も続きますよ……といわれたみたいだ。
典子はちらりと一美を見る。一美はわが子のやんちゃに呆れる母親のように苦笑している。
そういえば周囲もそんな話題で持ち切りのようだ。七恵がネタを広めたであろうことは想像に難くない。
――ふうん、あいつ帰国子女なんだ。
無愛想な真人の顔を思い浮かべ、だったら少しだけ妥協するのもありかな、と思った。
「朝からずっとこんな調子なんですよ」
一美が優美な仕草で肩を竦めると、漆黒の髪がわずかに揺れた。日本人形のように揃った綺麗な髪。
「で、どうやった? 転校生は?」
七恵は、玩具をみつけた子猫みたいに、らんらんと目を輝かせる。
「どうって?」
「雰囲気とかどうやった? ま、率直に言えばぁ……男前やった?」
「……普通」
「いや……普通って……」七恵はおおげさに打ちのめされた演技をする。「普通っていうのは、あれやで……【朝ごはんにパンを食べる】みたいなもんで、全然、話のネタにならないんやで」
ネタ収集マシーンである七恵にとっては【当たり障りない】というのは無価値に等しいのだろう。だが頭に浮かぶのは、あの転校生の不遜な態度だけだ。「……それで?」典子は急に不愉快になり、つい口調が荒くなった。
「な、なんで典子ちゃん怒ってるん? なにかあったん?」
――なぜ……こんなにイラつくんだろう?
なにか……だ、そうとしか言えなかった。たかだか転校生の態度ごとき、どうだっていいはずなのに。
「……別に」
典子が言い放つと、七恵は怯えた子猫みたいな表情で固まってしまった。
「ところで――」
一美は神妙な表情で切り出す。
「志津花さんの御容態は?」
「……相変わらずよ」
典子が首を横に振ると、一美は辛そうに眉をひそめた。
「なに二人して、そんな辛気臭い……大丈夫やて、志津花ちゃんのことやもん、きっとよくなるに決まってるやん」
七恵が、彼女にしては珍しい、妙に静かな、諭すような口調で言った。
仲が良かった四人を除き、ほかのクラスメイトたちの間では、志津花はもう死んだ人間のように取りざたされなくなっていた。腫れ物でも触るみたいに。
――ガラ。
ぞんざいな音とともに教室の戸が開き、紅音があらわれる。すぐに教室内の騒々しさに気づいたようだった。その理由にも。
「なんだ……もう知れ渡っているのか?」
紅音はポツリと漏らし、チラッと七恵のほうに目を向ける。
「――ほら、席につけ! お目当ての転校生だ」
紅音が手招きすると深尾真人がはいってきた。
教室内がざわめく。そして値踏みするような囁きが交わされる。
「小学校の途中から渡米して、最近まで、ずっとアメリカで暮らしてたそうだ。ま、この様子じゃ周知のようだがな……帰国子女ってやつだ」
紅音がおざなりにいう。そして転校生に自分の名前を黒板に書くよう促す。真人は黒板に名前を書きはじめた。意外なほど、下手な字だった。帰国子女だから……だろうか。
「……深尾真人」
正面に向き直ると、真人はやはり仏頂面で言った。
帰国子女というのは、もっと快活なのだと典子は思っていた。それはほとんど勝手な妄想なのだが、教室内には典子と同じ感情を共有しているような、妙な落胆があった。さっきまでのざわめきは、嘘みたいに消えた。
なによりも真人の口調からは、この場に溶け込む気は気はサラサラない、そういう雰囲気が滲んでいた。少なくとも典子にはそう思えた。
紅音は真人を見て、少しだけ目を細めた。典子にはそれがどういう感情の表現かは分からなかったが。
「深尾……あそこがお前の席だ」
紅音は最後尾の空席を指差す。
隣は富田水咲だ。茶髪で長身。不良ではないのだが、近づきがたい、そして本人も他人を近づけないバリアを張っている。いつも周囲のことには我関せず、文庫本を読みふけっている……一応、メガネっ娘。ある意味、お似合いな取り合わせかもしれない。
真人は典子の脇を通り過ぎた、目も合わさず。
教卓の前の席に座る典子に、紅音は顔を寄せる。
「倉田、放課後にでも転校生に、学校のなかを案内してやってくれ。あと、その他色々、まかせるわ」
典子はため息をついた。
「はい、わかりました」
――なんとも気の進まない役目だ。
昼休み、七恵が典子のもとにやってきた。
「なあなあ、深尾くん……どこいったんやろ?」
「なんで、それをわたしに聞くの?」
不愉快に思いながら、教室のなかを見回してみる。確かに、七恵の言うとおり、真人の姿は見当たらない。だがそれがどうしたというのか。
「だって典子ちゃん、紅音ちゃんから深尾くんの世話、頼まれてたやん」
「それはそうだけど……見た感じ、世話されるの……お望みってわけじゃなさそうじゃない?」
「そうやね。休み時間とかも、話しかけてくるクラスメイトを露骨に嫌っているようやったし」
授業の合間にもクラスメイトが興味本位に言葉をかけたが、真人は必要最低限の言葉しか返さなかった。つまり、「さあね」とか「別に」だ。
「なんか露骨すぎて、見てるこっちが不愉快になったわ」
そう言いながら典子はふと、自分は真人を、どこかで見たことがあるのではないかと思った。今日、廊下で会ったよりも前だ。しかし、どうにも思い出せない。
「まあまあ、そう言わんと……帰国子女やから、きっと慣れない日本の生活に、とまどっとるだけやねん。そして担任から世話を焼くよう頼まれたクラス委員の親切さに、頑なな心を徐々に開くんや……そして典子ちゃんのコネで、うちが色々と情報を聞き出せると、そういう理屈や」
七恵はいつもどおりの気楽さで、妄想としか思えないことを言った。
「……そんなに新聞部はネタ切れなわけ?」
「い……痛いところつくなぁ、典子ちゃんは」
「はいはい、お二人とも。さあ、お昼をいただきにいきましょう」
絶妙なタイミングで割り込んできた一美が、二人の肩に手を置いた。
ホームルームが終わると、典子は気がすすまないながらも真人に声をかけることにした。気が進まないが【校内案内ツアー】を早めに済ましておきたかった。きっと日が進むうちに、さらに気が進まなくなるのは目に見えている。だが教室内を見回したが、すでに真人の姿はない。
慌てて真人の隣の席に座る富田水咲に声をかけた。
「富田さん、深尾くんは?」
水咲は頬杖をつきながら文庫本に視線を落としていた。面倒そうに顔を上げ、メガネの位置を指先で直してから、ジロリと威圧するような視線を向けた。
「ああ、彼ならもう帰ったよ」
水咲の言葉の端には同情めいたものがあった。彼女も他人とは積極的に関わろうとしないからかもしれない。
「ありがと」
短く返し、典子は教室を駆け出す。
廊下に出たが、真人の姿が見えなかったので典子は走った。角を曲がっても、階段でも真人を捕捉することはできなかった。やっと下駄箱の前で真人を見つける。
「ちょっと待って!」
とりあえず、そう言ってから乱れた呼吸を整える。
「……深尾くん。わたし島田先生から校内を案内するように言われたんだけど……今日、これから時間ある?」
真人はいぶかるような視線を典子に向け、たった一言……突き放すようにいった。「ないね」と。そして典子の反応もたしかめず、真人は歩き去った。
――は?
典子は言葉を失って立ち尽くした。しばらくすると、わなわなと怒りがこみ上げてくる。いったい自分はなんのために走ったのだろう。別に、やりたくてやったわけでもないのに……なんにしろ、もうすこし気の利いた断り方があるんじゃないだろうか。彼は……社交辞令すら知らないのだろうか? 帰国子女だからか? アメリカか!?
「なにしてんだ?」
声のほうを見ると、紅音が立っていた。
「ちょっと! 島田先生、聞いてくださいよ!」
典子は思わず紅音に詰め寄った。
「先生に言われた通り、あの転校生に校内を案内してあげようと思ったんですけどね……断られましたよ、にべもなく。なんですか、あれ? ……あの態度? 帰国子女だからって……ちょっと不遜に過ぎるんじゃあないですか?」
「……ま、気にするな」
「気にしますよ!」
紅音はいつもどおり飄々とした様子で典子の抗議を受け流した。そして、少しだけ頼み込む表情になる。
「それより……例のごとく、ちょっと手伝いしてもらっていいか?」
典子は溜息をつく。でたな……と。
典子は島田紅音のことを、総じて良い教師の部類に入ると評価している。生徒のことを、まるで考えていないように見えて、意外と気を使っているし、生徒との距離のとり方は絶妙とさえ言えるからだ。現に、クラスには彼女を言う事をきかなかったり、手をわずらわせるような生徒はいない。
ただし、いくつかの問題を抱えているのも事実だ。そのひとつは事務処理能力の低さだろう。これは能力ではなく、やる気の問題も多分にあると思うが。そんな紅音は現在、学校内の備品の管理を任されていたりする。
「はいはい、お手伝いしますよ。そのかわり……今日はいつもより高くつきますよ」
典子はあきらめて言った。
夕方、紅音の手伝いを終えた典子は学校の門をくぐった。手には紅音から手伝いの報酬として渡されたマフィンの袋が下がっていた。
学校の自慢でもある学食は、カフェテリアを思わせるちょっとした作りで、料理の美味しさに定評があった。そして昼休み以外にも、軽食を購入することができ、学食の洋菓子の類は女子生徒の人気の的だった。そのなかでもマフィンは典子がもっとも好きなメニューだ。
紙袋からマフィンをひとつ取り出して頬張る。
――やっぱ美味しいなぁ、学食のマフィンは。特にこのバナナマフィンときたら! ……ん?
雨粒の感触に気づき、空を見上げた。しばらく前から怪しいと思っていた薄暗い雲から勢い良く雨が落ちはじめた。
朝食を食べながら見たニュース番組のお天気キャスターは「午後から傘が必要になるかもしれません」と言っていた。だから準備はしてある。典子は鞄のなかから折りたたみ傘をとりだし、マフィンを口に咥えたまま傘を開く。典子は傘をさしながら、はっとした。それは転校生、深尾真人に対する既視感の正体。どこで真人を見たのか……典子は思い出した。父親が散らかしていた、あの写真の一枚。たまたま典子が手にとったそれに写っていた冷たい目つきの少年――あれは真人だった。
典子は急に寒気を感じた。
――まさか!? ……きっと、似ていただけだ。ただ……似てただけ。そう思い込もうとした。
典子は志津花の入院する病院に向かって歩いていた。
なんとも言えぬもどかしさが、死にかけの蛇みたいに典子のなかでうねる。あれは――あの防犯カメラにうつっていた少年は、やはり深尾真人だったのではないかという疑念が。
似ていただけ……と自分に言い聞かせはするものの、思い出せば思い出すほど……似ているのだ……似すぎている。たまたま、
そんなせいか十字路で、典子はピンクの雨合羽を着た女の子とぶつかってしまった。女の子は倒れて尻餅をついた。
女の子は、ひどく怯えた顔で典子を見返した。その小さな瞳には、まるで化物にでも追われているような、尋常ならざる恐怖の色が浮かんでいた。それは典子にぶつかったから、というのではなさそうだった……彼女は、もっと別の何かをおそれていた。
「大丈夫!?」
反射的に典子が手を伸ばすと、女の子はすがるように、その手をつかんだ。「変なお兄ちゃんが、ずっとわたしの後をついてくるの」女の子は、小さな瞳に恐怖を浮かばせていった。
「……変なお兄ちゃん?」
「うん」
女の子はうなずく。
なぜか、典子はざわざわした。あの写真が頭に浮かぶ。被害者の傍らで、冷たい目をして立っている少年の姿が。まさか……と思ったのだ。そのお兄ちゃんは【彼】なのではないかと。
女の子はゆっくりと路地を指さす。その示す先を典子は恐恐みた……立っていたのは、転校生、深尾真人だった。
真人は典子に気づき、忌々しそうに口元を歪めると立ち去った。
どういうことだろうか……やはり……やはり、そうなのだろうか? いや、これはもう、そうとしか考えられないのではないか?
しかし……いったいなぜ、彼は【こんなこと】をするのだろう。そんなこと、考えたところで無駄だ。彼はおかしいのだ……狂っているのかもしれない。
「お母さんとか、お父さんは一緒じゃないの?」
典子が聞くと少女は首を横に振った。
「……あなた、名前は?」
「……梨花」
梨花は少しうかがうような素振りを見せつつ、答えた。
小学校低学年――だろうか。友達の家に遊びに行った帰り道なのかもしれない。なんにしろ放っておくのは得策ではない、なにせ――この街には卑劣な通り魔がいるのだ。
「梨花ちゃん……じゃあ、お姉ちゃんが家まで送ってあげる」
「……ホント?」
「うん、危ないでしょ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
梨花の顔から、さっきまでの不安の色は消え去り、屈託のない笑みが広がった。
歩きはじめると、梨花は自然と典子の手を握った。典子はその小さな手の感触を、率直にいとおしく感じた。
梨花は楽しそうに、上手とはいえないスキップをする。
典子は梨花に手を引かれるまま歩いた。視界に鬱蒼とした木々がはいってくる。奈羅迦市立公園の木立だと察した。
「こっちだよ」
梨花はフェンスの切れ目を指差す。
「本当にここを通るの?」
「うん、近道なの」
住宅街のなかに腰を据える大きな公園であるため、典子もよく近道のため敷地内に足を踏み入れる。だが今日、鬱蒼とした木々に囲まれたそこは、雨の影響もあって、妙に不安をかきたてる。
梨花は難なくフェンスの切れ目に体を滑り込ませる。
典子は傘を閉じ、制服を引っ掛けたりしながら、なんとか通り抜けた。
足が沈み込む。腐葉土特有の、なんともいえない感触。
しばらく歩いた。予期していた通り、薄暗く、人気がない。遊歩道すら、まだ見えてこない。ここ、こんなに広かったっけ? と典子は驚いた。
何気なく振り返った梨花が、一点を見つめて固まる。まるで見てはいけないものを見てしまったみたいだった。その視線を追って典子は振り返った。
深尾真人だった――近い、もう十メートルもないだろう。おそらく腐葉土と雨音に、足音がかき消されていたのだ。
「深尾くん……あなた、いったいなにがしたいの?」
真人は、なにもかえさない。ただ足を典子たちの方へとすすめた。梨花が典子の手を、ぎゅっと握りしめた。
「とまって!」典子は叫んだ。そして周囲をみまわす……ただただ、しんしんと降る雨。声に気づいて、誰かが助けに来てくれるという気配は……みじんもない。
真人は、とまらなかった。
典子は梨花の手を引いて逃げようとした……だが恐怖からなのか、梨花がびくとも動かない。そして典子の手を握る力は……異様なほど強い。
真人はなおも近づく。獲物を見据えるような、感情を置き去りにした真人の視線に……典子は身がすくむ。殺される……そう感じた。
真人が、はじめて立ち止まった……そして痙攣。次の瞬間おきたことを、典子は理解できなかった。まるで悪夢……現実とは思えなかった。
まず、真人が身に着けていた衣服が内側からふくれあがったのだ。風船みたいに。そしてはじけた。衣服は細切れになり、散ってしまった。内側からあらわれたのは、灰褐色の肌……いいや、鱗だ。まだら模様の鱗。真人の体は、見上げるほどに大きくなっていた。
化物……そう思った。人間の面影など……微塵もない。それは巨躯の……爬虫類とも、魚類ともつかぬ……しかし二足歩行の……化物だった。
化物は咆哮した。錆びた蝶番のような……それを血の気が引くぐらい醜悪にしたような鳴き声。
典子は悲鳴をあげようとしたが……でなかった。かすれた息が、少し漏れただけ。
ピラニアのような歯が並んだ口が大きくひらかれ……巨大な芋虫のような舌が、にょろっと這いでた。舌は不気味に蠢き……先端から針のようなものが飛びだす。
突如ひびいた炸裂音。
そのあと、目の前の巨体が……揺れた。ぐらりと。
巨体が崩れ落ちた。うつ伏せに倒れた、その首の裏あたり……ウロコが砕け、血と肉の花が咲いていた。おそらくは、これが原因だろう。
宙を泳いだ視線が……人影を見つけて止まる。それは……深尾真人だった。
え? じゃあ、いま化物に変容して、ここに倒れているのは誰!?
もう一人の真人は……銃をかまえている。だとすれば彼が……これを撃ったのだろう。
なにが起きているの? 頭のなかが真っ白になる……思考の回線がショートしたみたいだ。
「……逃げろ!」
真人は叫んだ。
逃げる? いったい、なにから? 目の前で化物が死んでいる……数瞬前ならば、これから逃げるべきだったのだろう。しかし、いまはなにから逃げるというのだ。ここにいるのは典子と梨花……そして、もう一人の銃をかまえた真人だけ。危険だとすれば……銃をかまえた彼だ。しかし彼は化物を撃ったのだから……典子は混乱した。
不気味な音が、すぐ傍らできこえた。骨がきしみ、肉がよじれる音……深尾真人が化物へと変じたときにきこえた音。だが目の前の化物は――きっと、死んでいるはず。だって、ピクリとも動かないから。
痙攣のような振動……それは手をつないだ梨花のほうから伝わってくる――なぜ? 典子は梨花をみた。それは――!!
梨花――は、もういなかった。自分の腰ぐらいしかなかった身長は、いまは、見上げなければその全体が視界にはいらない。地面には、かつて梨花が身に着けていた雨合羽のピンク色が散らばっている。
化物は鳴いた。あの耳を覆いたくなる……おぞましい声で。
「逃げろ!」
真人は、また叫んだ。
――無理だ。振りほどこうとしたが、まったくびくともしない。だって化物の腕は典子の胴回りぐらいはある。
「……そうか。じゃあ……かがめ」
いたわる様子などなく、真人は無感情にいった。典子はみた、躊躇いなく引き金にかかった指が動くのを。反射的に、典子はかがむ。
炸裂音。
銃の音とはこうも甲高いのだと、典子は知った。そして重い。映画やドラマの銃声とは比べるべくもない。
典子の手を握る力が弱まった。好機と、典子は化物の手を振り払い……逃げた。だがすぐ、躓いて転んだ。体が、恐怖と混乱にうまく動いてくれないのだ。やっと立ち上がって、振り向く。化物のいた場所には……梨花がいた。裸で、血を流している。
「……お……姉ちゃん」
梨花はいった。口から血の泡がこぼれる。ひどく痛そうで、辛そう。
すがるような足取りで、梨花は典子のほうに進んだ。
「早く、そのガキから離れろ」
真人は険しい表情で真人は言う。
――だが、どうして? この子を助けなきゃ! なぜ……あなたはこの子を撃ったの?……あれ? あの化物はどこにいったのだろう……あんなに大きかったのに。見回すが……姿形もない。めまぐるしく、典子の頭のなかを思考が流れる。
いや違う……あの化物が……この子なんだ。深尾真人が変容したのと同じく、梨花はあの化物に変わった。記憶や情況証拠を積み重ねれば、そう結論せざるを得ない。しかし理性がそれを拒絶する。そんなことはありえないと。目の錯覚か……そうでなければ……これは悪夢だ!
梨花が手を伸ばす。この手を握らなくちゃ……助けなきゃ、と典子は思った。しかし残酷にも、目の前で梨花は、おぞましい化物に変じ、襲いかかった。逃げなきゃ……でも、間に合うはずなどなかった。スローモーションのようにみえるのに、からだは全然うごかない。
何かが、典子の体にぶつかった。真人だ。彼が典子を化物の醜悪な爪から救った。典子は真人と一緒に地面に倒れ込む。
礼を述べる間もなく、真人の足を化物が掴んだ。ゆっくり、真人の体が宙吊りになる。
癇癪を起こした子供が人形を振り回すように、化物は軽々と真人の体を振り回した。地面に叩きつけられるたび、真人の口からはくぐもった声が漏れる。
最後に、止めだと言わんばかりに化物は、真人の体を樹の幹に叩きつけた。体が逆向きに……くの字に曲がった。いやに無機質な音が響いた。なにかが砕ける音。きっと背骨の砕ける音だ……そう典子は直感した。
真人は動かなくなった。呻きもしない。
――雨音。そして化物の息遣い。
化物は雄叫びを上げた。勝ち誇ったように。
「深尾くん!」
典子は叫んだ。
化物の頭部が仰け反り、口が大きく裂ける。大きな獲物を飲み込む蛇さながら、それよりも遥かに邪悪な形。真人の肩まで一飲みにできそうなくらい、大きく開いた。
――銃声。
化物はよたよたと後じさり、倒れた。
真人は……銃をかまえていた。銃口から煙がのぼる。
あれだけ振り回され、叩きつけられながらも……彼は銃をはなしていなかったのだ。そして、いつのまにかかまえ、引き金をひいていた。
――雨音が、全てをかき消すように、地面をうつ。
「……死んだの?」
典子は恐恐いった。
「……ああ」
真人は答えた。苦痛を滲ませた表情で。辛そうに立ち上がり、木に寄りかかった。
「大丈夫?」
真人はぎこちなく身じろぎし、左手を背中に這わせた。そして、ひときわ鋭く顔を歪める。
「くそったれ、背骨が折れてやがる……」
「大変じゃない! 救急車呼ばなきゃ!」
携帯電話を探そうと、カバンを開けた。なかをまさぐるが、パニックになっていて、あるはずのものが見つからない。
「そんなもんは必要ない……少し待ってくれ。しばらくすりゃ……治る」
「なに言ってるのよ、そんなわけないでしょ!」
真人は人差し指を口の前におく。
「少し……黙っててくれないか……こっちは喋るのもしんどいんだ」
典子は口をつぐんだ。ほかに選択肢はなかった。
――雨の音。
典子は化物のほうを見た。梨花がこの化物に変容したことが、いまだに信じられない。木立のなかに化物の死骸がふたつ……それに二人。なんという現実離れした状況だろう。
数分がたった……真人は木の幹から背をはなす。
「治った……みたいだな」
そう言いながら右手で背中をさする。
「……本当に?」
典子は真人に歩み寄る。ありえない、と思った。だがしかし、真人の表情には、もう苦痛の色は薄い。
「いったい……あなた何者なの?」
この状況で、誰が彼をただの高校生、などと思うだろうか。典子の問いに、真人はめんどくさそうな表情で、頭を掻いた。
「きみが望むなら……おれが何者か、この化物がなんなのか、すべて話そう……聞きたいか?」
「当たり前じゃない!」
「そう? それで後もどりできなくなっても……か?」
典子はハッとした。自分は踏み入れてはいけない藪の中に足を踏み入れているのではないか、そこには猛毒の蛇が――いや、もっと危険な生き物が潜んでいるにも関わらず。だがここまできて、いまさら後もどりなど、できるはずもない。
「……聞かせて」
典子が決心して言うと、真人は地面に転がっていた折りたたみ傘を拾い、それを典子に差し出した。
雨が降っていることを……自分が濡れていることを、典子は忘れていた。あまりにも唐突な、信じがたい出来事が立て続いたせいだ。
典子は傘を受け取った。
「聞かせよう……多分、びっくりするくらい、お腹いっぱいになる」
真人は悪戯っぽく笑う。
子供みたいに自然な笑み。学校での彼とは、まるで別人だ。
「まず……この腐れサカナ野郎だが、【ザーグナー】という」
嫌悪感をあらわに、真人は死骸を一瞥する。
「ザーグナー?」
「擬態能力を持った異星生物さ」
「……擬態?」
「……つまり人間に化けることができる。大抵の場合、こいつらは攻撃対象の群れに仲間を送り込み、相手に【卵】を植え付け、仲間を増やす。ある程度個体数が増えたところで突如として攻撃を開始するのさ」
典子はおぞましさに、思わず顔をしかめた。
「こいつらは獲物に卵を植えつけるとき……正確には卵じゃあなくて、ある種のウィルスなんだけど……それを使って遺伝子レベルでの変異を促すんだよ……つまり遺伝子情報の書き換えだな。そのとき同時に獲物に毒を注入するんだ」
――獲物に毒を注入する? 典子はその言葉に反応した。
「That's right!」
真人は見透かしたように言った。
「……こいつが通り魔事件の犯人ってわけさ。毒は獲物を弱らせ、ウイルスへの抵抗力を落とす」
「友達が……入院してるの。ねえ、あの子は助かるの?」
典子はおもわず真人の体を揺さぶっていた。
「安心しな、被害者達にはもう解毒薬を投薬してある。数日でよくなるさ……投薬が間に合わなかった初期の被害者に関しては……残念としかいいようがないが」
「助かるの? 本当に!?」
「助かるとも」
「……そう、よかった」
胸のなかに溜まっていた澱が取り除かれたようだ。
「ま、ほんとに偶然ってやつだった。おれがこの街に来てなかったら、もっと被害者は増えてたろうね。なにしろ日本は、いままでザーグナーの標的になったことがない。だから医療機関にもその対応策が行きとどいていなかった。ま、厚生省とかって役所の怠慢だが」
まるで専門家とでもいった口ぶりだった。
「深尾くん……あなたは……?」
「おお、そうだな……約束だ。教えよう……おれは【ナイトワークス】」真人は神妙な顔になる。「アメリカ国防総省――つまりペンタゴン直属の特務機関だ」
「特務機関?」
「ま、簡単にいえば正義の味方ってところかな。敵は化物や悪霊、悪い魔法使いにマッドサイエンティスト……エトセトラ、エトセトラ。だがそのわりに、見合った金をもらっているとは言い難いんだが」真人はおどけてみせる。
「……さっき、ザーグナーって化物に遭遇したのは偶然って言ったわよね……だったら、なんでこの街に来たの?」
「そいつがまた複雑でね、すこし長い話になる……【サードアイ】と呼ばれる予見者がアメリカにいる。そいつの予見的中率は百パーセントなんだが……ちょっとクセがある。対象となる出来事が先であればあるほど、ビジョンが不鮮明になるんだ。んで、偉大なるサードアイが、今回予見したのは【近い将来、人類は存亡の危機に見舞われる】というものだった。だが、どこでなにが起きるのか、それがわからない。だがやっと、先月になっていくつか、発端となる場所の候補が絞り込まれた。そのひとつが【ここ】ってわけさ」
「あの……ザーグナーとかっていう化物が、人間を滅ぼすってこと?」
「……いや。もう、やつらの個体数は……少なくともこの【太陽系】じゃ、虫の息って感じだ。それくらい減ってる」
「そう……なの?」
「ああ」
「……いったい、なにが起ころうとしているのやら」真人は苦笑した。
「深尾くんは、なんでそんなところに……えーっと、ナイトワークスだっけ? そこにいるの?」
真人は眉を寄せ、少し考え込んでから喋った。
「なにしろおれには……さっき見たと思うが、ちょっとした能力があってね……つまり、【どんな傷でもあっと言う間に治しちまう】って能力がね。そして力はの人のために使うべきだろ? ……あとは成り行きってやつかな」
わかったような、わからないような話だ。少なくとも典子の常識からはあまりにも逸脱した話で、真人の言葉の内容を把握するのが精一杯……頭がパンクしそうだった。
「……でも本当に、こんなこと喋ってよかったの? それも、こんなに事細かに」
「ま、駄目だな」あっけらかんと真人はいった。「……守秘義務ってのがあるからな、厳罰だよ、バレたら」
「え? ……じゃあ、どうして?」
「だって、おれがしらを切ったら、どうにかなるって状況じゃないだろう? こんだけのものを見られてるんだ。それに、なによりきみはクラスメイトだ。誤魔化すよりは、協力者になってもらおうと思ってね」
「協力者? それってどういう意味よ?」
「おれのカモフラージュをフォローしてもらいたい。なにしろ、おれは嘘が苦手でね。喋ると絶対ボロがでる」
「……だからあんな態度を?」
典子は学校での真人の振る舞いを思い出し、溜息をついた。どっと疲れがでた。
「協力は……してもらえるのかな?」
「……断りたいところだけど、せざる得ない状況よね?」
典子は皮肉を込めて言ったが、真人は毛ほどもそれを感じてはいないような表情だ。
「よかったよ……万が一、きみがおれのことを外部に漏らすようなことがあれば、色々と面倒なことになるからね。米軍の特別な部署がきみの記憶を消したりとかしなきゃならない。おれが望むと望まないとに関わらず……規則でね」
「ちょっと、なによそれ!?」
「なにせ……うちは特務機関だし、任務は国家機密といってもいい。ちなみに、さっき言った内容は……特にサードアイの予見に関するくだりは、日本政府だって知らない」
「なんで……それをわたしにいっちゃうわけ?」
「んー……サービス?」
「……な!?」
「……とにかく、きみを信頼している」
そう言ったあと、真人は上方を仰いだ。雨が止みかけていた。
典子は気づいたことがあった。真人は、さっきから典子のことを【きみ】としか言っていない。
「ひょっとして……真人くん、わたしの名前……忘れてる?」
その指摘に、真人の目が……わかりやすいくらい、泳いだ。たしかに、嘘は苦手みたいだ。
「……? たしか【K】ではじまる名前……だったよな。K……K……? カール……アンダーソン?」
「んなわけあるか! 倉田よ、倉田典子」
「ああ、典子ね」
「……気安く呼ぶな!」
典子が思わず声を荒らげると、真人はビクッと怯えたように身を縮ませる。怯えた子猫のような仕草。
「少なくとも……学校ではわたしを下の名前を呼ばないでよね……親しいわけでもないし」
「……はい」
真人は媚びるような視線を典子に向け、小さくうなずいた。そこには、さっきの――化物を相手にしていた時の、異常なまで険しさは微塵もなかった。むしろ、どちらからというと気弱な部類にすら入るのではないだろうか。――なによ、そんなにわたしが怖いっていうの? 典子は憤慨した。
「電話がなってるぜ」
唐突に真人は典子の鞄を指さした。
着信音は聞こえない。典子は疑問に思いながら鞄を開けてみた。確かに着信はあった。携帯はマナーモードになっていた。鞄を持っている典子ですら気づかない振動音を、離れた真人が聞きつけたとでもいうのだろうか。
着信表示を見た。志津花の母親からだ。
真人のほうをうかがった。真人は「電話にでろ」と表情で言った。
「もしもし」
「の、典子ちゃん!? 志津花の……志津花の意識がもどったの!」
彼女の声は喜びと驚きに満ちていた、奇跡を目の当たりにしたように。そして典子も、そんな気持だった。いつの間にか、頬を涙が伝う。
真人は無言で、「ほら、言ったろう」という意味合いの微笑を浮かべると歩き去った。
翌日も、学校は何ひとつ変わっていなかった。
だが昨日までは、不愉快に感じられた騒がしさが、気にとまらなくなっていた。
あの後、典子は公園を出て、すぐ病院に向かった。志津花の調子は上々で、あんなにやせ細っていたのが嘘のように、肌のはりはふっくらと、ほとんど元通りといって良いくらいに回復していた。
志津花は典子に気づくと、疲労を滲ませたながら微笑んだ。
典子はベッドの側で、立ち尽くしたまま泣いていた。
数日のうちには学校に戻れるだろうと、担当医が言っていた――奇跡的な回復だとも。
だから、教室にはいった典子は目を見張った。
そこには紛れもない志津花の姿があったからだ。
柔らかくウェーブのかかった亜麻色の髪を、無造作に括っただけのポニーテール。見間違うはずなどない。
側には一美と七恵の姿もあった。そしてこともあろうに、志津花が楽しそうに話しかけている相手は……あの深尾真人だ。
真人は、複雑な表情を浮かべていた。困惑と動揺が複雑に絡み合った表情。それに引き換え、志津花は屈託なく、楽しげだ。
――どういうこと?
「志津花……もう学校に来て、大丈夫なの!?」
「典ちゃん、おはよう! お医者さんには、もう少し様子をみるように、って言われたんだけど……来ちゃった。もう全然元気だし、みんなに会いたかったし。それに来たら、すっごい素敵なことがあったんだよ!」
さも嬉しそうに、志津花は息もつかせず話した。
「ねぇ、典ちゃん……昨日、わたしたちのクラスに転校してきた真人くんって、あのマーくんなんだよ? 気づいてた?」
「マー……くん?」
典子は志津花の言葉を繰り返した。そして真人を見る。真人は苦笑を返した。さも気まずそうに。
――まさか!? しかし記憶が鮮明に蘇った。思い出したのだ、昨日見た夢で志津花と一緒に遊んでいた【だれか】のことを……それは男の子だった。泣き虫の。
典子は真人の腕をつかみ、教室の外に引っ張りだした。
「ちょっと!? どういうことなのよ!」
「んー……極めて難しいな、これは安易な言葉では説明できない」
「……しなさい」
典子は真人を睨みつけた。
「……だって典子だって忘れてただろう? おれひとり悪者にするなよ」
「確かにそうだけど……って、学校では呼び捨てにしないでって言ったでしょう!」
「おれだってびっくりしてるんだ。まさか【典ちゃん】と【志津ちゃん】に再会するとは思ってもなかったからね……これだから、日本にくるのは気が進まなかったんだ」
最後の方は、誰にともなく愚痴るような口ぶりだった。
「なにか妙なこと、喋ってないでしょうね?」
真人は少し考え、自身あり気に笑った。
「……たぶん」
だが典子は胸騒ぎがして、志津花のところに戻る。
「典ちゃん、急にどうしたの?」
志津花が不思議そうに目を丸くした。
「なんでもないわよ……どんな話をしてたの、深尾くんと?」
「えーっとね、向こうの学校の話とか、好きな食べ物の話とかだよ。マーくんって、ほとんど学校に通ってなかったんだって。こっちじゃ、ちゃんと休まないようにさせなきゃだね。それから……好きな食べ物はペンタゴンのなかにあるレストランのチーズバーガーなんだって……」
志津花はいったん言葉を切って、典子に耳打ちした。
「典ちゃん……ペンタゴンって何?」
典子は軽い目眩すら感じた。
――嘘が下手ですって? 下手どころじゃないじゃない……ほんとうに隠す気あるのかすら怪しい。
振り向くと、真人は不安そうに教室のドアから典子の方をのぞき込んでいた。
典子は足早に真人のところにもどり、腕を引っ張ってさらに教室から遠ざけた。
「わたしには、全然大丈夫じゃないように思えるんだけど」
「そう?」
「普通の人はちゃんと学校に通うし、国防総省のレストランなんかには行かないのよ」
「しょうがないじゃないか、仕事で世界中飛び回ってるんだ。ペンタゴンのレストランだって、一般人でも入れる区画にあるやつだし」
「そういう問題?」
「ち、違うの?」
「怪しまれないようにしたいんでしょ? だったら普通を装いなさい。あとペンタゴンはタブーね」
「……はい」
真人は叱られた子供のように縮こまる。
どうやら、真人に求められた協力は、典子が予想した以上に難題のようだ。一重に真人の阿呆っぷりによるもののようだが。そして暗鬱とした未来に、典子は思わず肩を落とした。