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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

奇病で魂と肉体が分離した世界で、千年後に自分の魂に殺された

作者: アポロ
掲載日:2026/04/06

朝の鐘が鳴ると、街はゆっくりと目を覚ます。

 高い壁に囲まれたこの街では、外の世界を知らない代わりに、毎日は穏やかだった。


 リオは、窓を開けて深呼吸した。

 壁の向こうから風が吹くことはない。

 それでも街の空気は澄んでいて、朝日が石畳を金色に染めていた。


「今日もいい天気だな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。

 この街では、天気はいつも良い。

 雨は決まった日にだけ降り、風は決まった時間にだけ吹く。

 それを不自然だと思う者はほとんどいない。


 リオも、つい最近まではそうだった。


 家の前の通りでは、パン屋の老夫婦が店を開けている。

 焼きたての香りが漂い、子どもたちが笑いながら走り回る。

 壁の存在など、誰も気にしていない。


「リオ、おはよう」


 声をかけてきたのは幼なじみのミナだった。

 栗色の髪を揺らしながら、パンの袋を抱えている。


「今日の朝焼き、少し焦げちゃったけど……食べる?」


「もちろん。焦げててもミナのパンはうまいよ」


 ミナは照れたように笑った。

 その笑顔を見ると、リオは胸の奥が温かくなる。

 この街は狭いけれど、彼にとっては十分だった。


 ――ただ、一つだけ気になることを除けば。


「なあ、ミナ。壁って、なんであんなに高いんだろうな」


 ミナは一瞬だけ表情を曇らせた。

 だがすぐに、いつもの笑顔に戻る。


「外は危ないって、昔から言われてるでしょ。

 だから、考えなくていいの」


「でも、誰も外を見たことないんだろ? 本当に危ないのか?」


「……リオは、変なことばかり考えるんだから」


 ミナはそう言って笑ったが、その笑顔はどこかぎこちなかった。


 リオは気づいていた。

 この街の人々は、壁の話になると急に口を閉ざす。

 まるで“触れてはいけないもの”のように。


 それでも、今日のリオは深く考えなかった。

 ミナと並んで歩き、パンを食べ、他愛のない話をする。

 そんな時間が好きだった。


 街の中央広場では、老人たちが日向ぼっこをしている。

 子どもたちは噴水の周りを走り回り、商人たちは声を張り上げる。


 ――この街には、悲しみがない。


 誰も病気にならず、誰も死なない。

 生まれる子どもは少ないが、誰もそれを不思議に思わない。


 リオはふと、壁の方へ視線を向けた。


 巨大な石壁が、空を切り裂くようにそびえ立っている。

 その向こうには何があるのか。

 なぜ誰も確かめようとしないのか。


 胸の奥に、小さな棘のような疑問が刺さる。


 だがそのとき、ミナが袖を引いた。


「ねえ、リオ。今日の夕方、また広場で会わない?」


「もちろん。行くよ」


 ミナは嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、リオは疑問を胸の奥に押し込んだ。


 ――この街が好きだ。

 ミナがいて、穏やかな日々があって。

 それで十分だと思っていた。


 このときのリオはまだ知らない。


 自分が愛していたこの街が、

 “肉体の保管庫”でしかないことを。


 そして、

 壁の外で千年もの間、自分の魂が泣き叫び続けていたことを。


夕暮れの鐘が鳴る頃、リオは広場へ向かっていた。

 昼間の喧騒が落ち着き、街は柔らかな橙色に染まっている。


 噴水のそばでは老人たちが談笑し、子どもたちは鬼ごっこをしている。

 その光景は、いつもと変わらないはずだった。


 ――なのに、今日はどこか違って見えた。


 リオは胸の奥に小さなざわつきを覚えながら、ミナを探した。


「リオ!」


 手を振るミナの姿を見つけると、胸のざわつきは少し和らいだ。

 ミナはいつも通りの笑顔で、いつも通りの声で、いつも通りの歩幅で近づいてくる。


 ――それなのに、どこかが違う。


「どうしたの? ぼーっとして」


「いや……なんでもないよ」


 言葉を濁すと、ミナは首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。


 二人は並んで噴水の縁に腰を下ろす。

 水面に映る夕日が揺れ、風がそっと頬を撫でた。


「ねえ、リオ。今日の仕事はどうだった?」


「いつも通りだよ。畑の手伝いして、荷物運んで……」


「そっか。リオは働き者だもんね」


 ミナは微笑む。

 その笑顔は優しいのに、どこか“作られたもの”のように見えた。


 リオは思わず尋ねた。


「ミナ……最近、変なことってなかった?」


「変なこと?」


「例えば……誰かが急にいなくなったとか、街の外で何か見たとか」


 ミナの表情が一瞬だけ固まった。

 その一瞬は、リオの胸に冷たいものを落とす。


「……そんなこと、あるわけないでしょ」


 ミナは笑った。

 だがその笑顔は、昼間よりもさらにぎこちなかった。


「外は危ないの。だから、考えちゃだめ」


「でも、誰も外を見たことがないんだよな?」


「リオ」


 ミナの声が低くなる。

 普段の柔らかさが消え、まるで別人のようだった。


「外のことは……話しちゃだめ」


 その言葉に、リオは息を呑んだ。


 ミナがこんな声を出すのを、初めて聞いた。


「どうして?」


「……わからない。でも、だめなの。昔からそう決まってるの」


「誰が決めたんだ?」


「……知らない」


 ミナは視線を落とした。

 その横顔は、どこか怯えているように見えた。


 リオは胸のざわつきが大きくなるのを感じた。


 ――この街には、何かがある。


 誰も病気にならず、誰も死なず、誰も外を知らない。

 壁の理由を誰も語らず、語ろうとすると怯える。


 まるで、街全体が“何かを隠している”ようだった。


「リオ」


 ミナが小さく呟いた。


「……もし、外に出たいって思っても、だめだよ。

 そんなことしたら……きっと、取り返しがつかないことになる」


「どうしてそんなこと言うんだ?」


「わからない。でも……怖いの。

 外のことを考えると、胸が苦しくなるの」


 ミナは胸元を押さえ、震える声で続けた。


「まるで……誰かに“考えるな”って言われてるみたいに」


 その言葉に、リオの背筋が凍った。


 ミナは嘘をついているようには見えない。

 むしろ、何か“見えない力”に怯えているようだった。


 リオはそっとミナの手を握った。


「大丈夫だよ。俺がいる」


 ミナは驚いたように目を見開き、そして小さく笑った。


「……うん。ありがとう、リオ」


 その笑顔は、ほんの少しだけ本物に戻っていた。


 だがリオは気づいていなかった。


 ミナの影が、夕日の中でわずかに揺れていたことに。

 まるで、別の何かが中から出ようとしているかのように。


夜の街は静かだった。

 昼間の賑わいが嘘のように消え、家々の窓から漏れる灯りだけが、闇の中に点々と浮かんでいる。


 リオは眠れずにいた。


 ベッドに横になっても、瞼を閉じても、胸のざわつきが消えない。

 ミナの怯えた表情が、何度も脳裏に浮かんでくる。


 ――外のことは話しちゃだめ。


 あの言葉は、まるで“誰かに言わされている”ようだった。


 リオは起き上がり、窓を開けた。

 夜風が頬を撫でる。

 この街の風は、いつも同じ温度で、同じ匂いがした。


 それが、逆に不気味だった。


 リオは靴を履き、家を出た。

 夜の街を歩くのは初めてではない。

 だが今日は、何かに導かれるように足が動いた。


 向かう先は――壁の門。


 街の北側にある巨大な門は、普段は固く閉ざされている。

 誰も近づかないし、近づこうともしない。


 理由は誰も知らない。

 ただ「危ないから」と言われ続けてきただけだ。


 リオは門の前に立った。


 月明かりに照らされた門は、まるで巨大な墓標のようだった。

 冷たい石の表面には、古い文字が刻まれている。

 だが風化が激しく、読むことはできない。


「……なんで、こんなに大きいんだよ」


 リオは呟いた。


 街を守るため?

 外の危険から身を守るため?


 ――本当に?


 リオは門に手を触れた。

 冷たさが指先から腕へと伝わる。


 その瞬間、

 門の向こうから“何か”が触れ返してきたような気がした。


「……っ!」


 リオは思わず手を離した。

 心臓が跳ねる。


 気のせいだ。

 そう思い込もうとしたが、胸のざわつきは強くなるばかりだった。


 そのとき――


「リオ?」


 背後から声がした。


 振り返ると、ミナが立っていた。

 薄い寝間着のまま、肩を震わせている。


「どうして……こんなところに?」


「ミナこそ。こんな時間に……」


「リオが、ここに来る気がして……胸が苦しくて……」


 ミナはリオに駆け寄り、腕を掴んだ。

 その手は冷たく、震えていた。


「お願い、帰ろう。ここにいたら……だめ」


「ミナ、どうしてそんなに怯えてるんだ?」


「わからないの……でも、怖いの。

 門のことを考えると、頭が痛くなる。

 外のことを思うと、胸が締め付けられるの」


 ミナは涙を浮かべていた。


「まるで……“外に出るな”って、誰かに言われてるみたいに」


 その言葉は、昼間と同じだった。

 だが今は、より深い恐怖が滲んでいた。


 リオはミナの肩を抱き寄せた。


「大丈夫だよ。俺がいる」


「……うん。でも……」


 ミナはリオの胸に顔を埋め、震える声で続けた。


「リオが外に出たら……私、きっと……」


 言葉が途切れた。

 ミナは何かを言おうとして、しかし言えないようだった。


 まるで“言葉そのもの”が喉で凍りついているかのように。


「ミナ?」


「……ごめん。わからないの。

 でも……リオがいなくなったら……私……」


 ミナは涙をこぼした。


 リオはその涙を拭い、優しく抱きしめた。


「どこにも行かないよ。

 ミナを置いていくわけないだろ」


 ミナは小さく頷いた。


 だがその影は――

 リオの腕の中で、わずかに揺れていた。


 まるで、別の“何か”がミナの中で蠢いているように。


 リオは気づかない。

 ミナ自身も気づいていない。


 ただ、夜風だけが知っていた。


 この街の人々は、皆“影を持たない”。

 影は外にいる。千年もの間、肉体を求めて彷徨い続けている。


 そして――

 門の向こうで、何かが集まり始めていた。


翌朝、街はいつも通りの穏やかな空気に包まれていた。

 昨日の夜の不安が嘘のように、子どもたちは笑い、商人たちは声を張り上げ、老人たちは日向ぼっこをしている。


 ――だが、リオの胸のざわつきは消えていなかった。


 ミナの怯えた表情。

 門に触れたときの“何か”の気配。

 そして、ミナの影が揺れたあの瞬間。


 すべてが、街の“優しい嘘”を覆い隠す薄膜のように思えた。


「リオ、今日も手伝いに来てくれたのかい?」


 畑の老人が声をかけてくる。

 リオは笑顔で頷いた。


「ええ、いつも通りですよ」


 老人は満足そうに笑った。

 その笑顔は優しい。

 だが――その影が、地面に落ちていない。


 リオは息を呑んだ。


 老人の足元には、影がなかった。

 光が当たっているのに、影が生まれない。


 昨日のミナの影が揺れたのも、

 “影がある”こと自体が異常だったのかもしれない。


 リオは震える声で尋ねた。


「……あの、影って……」


「影?」


 老人は首をかしげた。


「影なんて、昔からないじゃろう。どうしたんだい?」


 その言葉に、リオの背筋が凍った。


 ――影がないのが“普通”。


 街の人々は、誰一人として影を持っていない。

 それを不思議だと思う者もいない。


 リオだけが、違和感を覚えている。


 まるで、リオだけが“別の世界の記憶”を持っているかのように。


「……すみません、少し休みます」


 リオは畑を離れ、街の北へ向かった。

 胸のざわつきは、もはや痛みに近い。


 ――確かめなければならない。


 昨日触れた門。

 あの冷たさ。

 あの気配。


 あれは気のせいではない。


 リオは門の前に立った。

 朝日を浴びた門は、昨日よりも重々しく見えた。


 そして――気づいた。


 門が、わずかに開いている。


「……え?」


 誰も開けたはずがない。

 街の人々は門に近づくことすらしない。


 なのに、門は数センチだけ隙間を作っていた。


 その隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。


 街の風とは違う。

 もっと重く、もっと湿った、もっと“生きている”風。


 リオは震える手で門に触れた。


 ――その瞬間。


 ガァンッ!!


 門が、内側へと大きく開いた。


「っ……!」


 リオは後ろへ飛び退いた。

 門の向こうから、黒い霧のようなものが溢れ出す。


 いや、霧ではない。


 影だ。


 無数の影が、地を這うように街へ流れ込んでくる。

 形を持たず、声を持たず、ただ“渇き”だけを抱えた影たち。


 リオは息を呑んだ。


 影たちは街に入ると、まるで獣のように動き始めた。

 人々の姿を見つけると、一直線に襲いかかる。


「な、なんだ!?」「助けて!」「いやだ、来ないで!」


 街の穏やかな日常が、一瞬で悲鳴に変わった。


 老人が倒れ、子どもが泣き叫び、商人が逃げ惑う。

 影は人々に触れた瞬間、その身体を黒く染め、意識を奪っていく。


 リオは震えながら後ずさった。


「なんで……なんでこんな……」


 そのとき。


「リオ!!」


 ミナが駆け寄ってきた。

 顔は涙で濡れ、息は荒い。


「逃げて! 影が……影が来るの!」


「ミナ、影って……」


「わからない! でも……怖いの……胸が苦しい……!」


 ミナは胸を押さえ、苦しそうにうずくまった。


 その影が――

 ミナの足元で、激しく揺れ始めた。


 まるで、何かが“中から出ようとしている”ように。


「ミナ……?」


「リオ……助けて……私……なんか……」


 ミナの声が震える。


「影が……私の中で……暴れて……!」


 リオはミナを抱きしめた。


「大丈夫だ、ミナ! 離れない!」


 だがその瞬間――


 ミナの影が、リオの足元へ伸びた。


 そして、リオの影と重なった。


 リオは息を呑んだ。


 自分の影が、ミナの影に反応して揺れている。


 いや――違う。


 リオの影が、ミナの影に“呼ばれている”。


 そのとき、リオの頭の奥で何かが弾けた。


 視界が白く染まり、耳鳴りが響く。


 そして――


 声が聞こえた。


 喉ではなく、耳でもなく、

 頭の奥に直接響く声。


 それは、千年の渇きと絶望を抱えた声。


 ――やっと、見つけた。


 リオは震えた。


 その声は、紛れもなく――


 自分自身の声だった。


視界が白く染まり、世界が遠ざかっていく。

 リオは地面に膝をつき、頭を押さえた。


 耳鳴りが響く。

 心臓が痛いほど脈打つ。

 呼吸がうまくできない。


 その中で――

 “声”だけが鮮明だった。


 リオは震えた。

 その声は、確かに自分の声だった。

 だが、千年分の渇きと絶望を抱えた、別の“自分”の声。


「……誰だ……?」


 喉から絞り出すように呟く。


 答えはすぐに返ってきた。


 ――おまえだよ。リオ。

  いや……“リオだった肉体”。


 その言葉に、リオの背筋が凍った。


 視界がゆっくりと戻り始める。

 だが、世界はもう“いつもの街”ではなかった。


 ミナが倒れ、影が彼女の身体を包み込んでいる。

 街のあちこちで悲鳴が上がり、人々が影に飲まれていく。


 そして――

 リオの目の前に“それ”はいた。


 黒い霧のような影。

 人の形をしているようで、していない。

 輪郭は揺らぎ、目も口もない。


 だが、確かに“自分”だとわかる。


 ――千年ぶりだな。


 影が語りかけてくる。

 声は頭の奥に直接響く。


「お前……俺なのか……?」


 影は揺れた。

 それが頷きなのかどうかはわからない。

 だが、肯定の気配が伝わる。


 ――そうだ。

  おまえは千年前、病にかかって肉体と魂が分かれた。

  肉体はここに保管され……魂の俺は、外に捨てられた。


「捨てられた……?」


 影は静かに続ける。


 ――人々は俺たちを“怪物”だと思った。

   声も出せず、姿も変わり果てた俺たちを。

   肉体だけを“治療”と称して保存し……

   魂は外に追い出された。


 リオは息を呑んだ。


 影は続ける。


 ――千年だ。

   千年、俺は肉体を探し続けた。

   おまえを探し続けた。

   寒くて、苦しくて、痛くて……

   何も感じない世界で、ただ“帰りたい”だけを抱えて。


 その声は、悲しみと狂気が混ざっていた。


「……帰りたいなら……戻ればいいだろ……?」


 リオは震える声で言った。


「俺の身体に……戻れば……」


 影は揺れた。

 その揺れは、悲しみの震えだった。


 ――できない。


「……え?」


 ――魂は、もう肉体に戻れない。

   離れれば、肉体は“別の存在”になる。

   おまえはもう、俺の身体じゃない。

   ただの“千年前の肉体の残骸”だ。


 リオの胸が締め付けられた。


「じゃあ……なんで俺を探したんだ……?」


 影は静かに答えた。


 ――殺すためだ。


 リオは息を呑んだ。


 影の声は淡々としていた。


 ――肉体を見つけた魂は、肉体を殺す。

   それが“影喰い病”の最終段階。

   魂は肉体を求め続け……

   やがて、肉体を壊すことでしか終われなくなる。


「……そんな……」


 リオは後ずさった。


 影は一歩、近づく。


 ――終わらせてくれ。

   千年の渇きを……

   千年の孤独を……

   おまえを殺すことでしか、俺は終われない。


「やめろ……来るな……!」


 リオは叫んだ。

 だが影は止まらない。


 そのとき――


「リオ!!」


 ミナの声が響いた。


 影が一瞬だけ動きを止める。


 ミナは震える身体で立ち上がり、リオの前に立ちはだかった。


「リオを……殺させない……!」


 ミナの影が、激しく揺れている。


 影は静かに言った。


 ――無駄だ。

   その女も、もうすぐ“影に喰われる”。

   おまえたちは皆、千年前の肉体だ。

   魂が戻れば、壊れるしかない。


「黙れ……!」


 ミナは叫んだ。

 その声は震えていたが、確かな意志があった。


「リオは……生きてるの……!

 私たちは……生きてるの……!」


 影は揺れた。


 ――生きてなどいない。

   おまえたちは“肉体の残骸”。

   魔法で朽ちないようにされただけの……

   空っぽの器だ。


 ミナの顔が青ざめた。


 リオは震える声で言った。


「……それでも……俺たちは……」


 影がリオの言葉を遮る。


 ――終わりだ。

   リオ。

   おまえを殺して……俺も終わる。


影の腕がリオの胸に触れた瞬間、

 焼けつくような痛みが身体を貫いた。


「っ……ああああああああ!!」


 胸の奥が引き裂かれる。

 心臓が握り潰されるような痛み。

 視界が白く弾け、世界が遠ざかる。


 影――リオの魂は、静かに囁いた。


 ――抗えないんだよ、リオ。

   肉体は魂に触れられれば壊れる。

   それが“病”の本質だ。


「……やめ……ろ……」


 リオは震える手で影を押し返そうとする。

 だが指は霧を掴むようにすり抜け、何もできない。


 影は淡々と続ける。


 ――おまえは“肉体”。

   俺は“魂”。

   千年の間に、もう別の存在になった。

   肉体は魂に勝てない。

   抗うという選択肢は……最初から存在しない。


 リオの胸に黒いひびが走る。

 皮膚の下で何かが崩れ、砕けていく感覚。


「……ミナ……守るから……」


 その呟きは、誰にも届かない。


 ミナは震える身体でリオに手を伸ばした。


「リオ……いや……いやだよ……!」


 ミナの影が激しく揺れ、裂け始める。

 黒い霧が溢れ、ミナの身体を包み込む。


「ミナ!!」


 リオが叫ぶが、声は震え、力を失っていた。


 影――リオの魂は静かに言った。


 ――その女も、もうすぐ壊れる。

   魂が近づけば、肉体は壊れる。

   それは決して変わらない。


「いや……いやだ……リオ……!」


 ミナの胸に黒いひびが広がり、

 身体が光の粒となって崩れ始める。


「ミナ!! ミナぁぁぁ!!」


 リオは手を伸ばす。

 だがその手は、ミナの身体をすり抜ける。


 ミナは涙を流しながら微笑んだ。


「……リオ……ごめん……

 私……もっと……一緒に……いたかった……」


 その言葉を最後に、

 ミナは光となって消えた。


 リオの世界が、音を失った。


 影は静かに告げる。


 ――これが、千年前に起きたことだ。

   そして今も変わらない。

   魂は肉体を壊し、肉体は魂に殺される。

   それが“影喰い病”の終わり。


 リオは崩れ落ちた。

 涙が地面に落ち、震える声が漏れる。


「……ミナ……ミナ……」


 影はゆっくりとリオに近づく。


 ――さあ、リオ。

   おまえも終わりだ。

   千年の渇きを……ここで終わらせる。


 黒い腕がリオの胸に深く沈む。


 リオの身体に走る黒いひびが、

 全身へと広がっていく。


 街のあちこちで、同じ悲鳴が上がる。


「いやだ……助けて……!」「影が……影が……!」


 老人も、子どもも、商人も、

 皆、影に触れられ、黒いひびが走り、

 光の粒となって消えていく。


 街は、静かに滅びていった。


 リオの視界が白く染まる。


 最後に浮かんだのは、

 ミナの笑顔だった。


「……ミナ……」


 その名を呟いた瞬間――


 リオの身体は光となり、崩れ落ちた。


 影――リオの魂は、静かにその光を見つめた。


 ――これで……終われる……


 影はゆっくりと崩れ、霧となり、

 風に溶けるように消えていった。


 こうして、

 千年前に始まった悲劇は、

 千年後の街を巻き込み、

 完全な終焉を迎えた。

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